ひつじねいり細田祥平の生い立ち|浦和高校の初漫才、慶應O-Keisから芸人になるまで

人物プロフィール

本名
細田祥平
生年月日
1991年11月30日
身長
178cm
血液型
A型
出身地
埼玉県 さいたま市
コンビ・グループ名
ひつじねいり
相方・メンバー
松村祥維
結成年
2019年
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
2014年
養成所・スクール
ワタナベコメディスクール

ひつじねいりの細田祥平さんは、東の落ち着いた口調と相方・松村祥維さんの濃い関西弁がぶつかる漫才で、ライブシーンを中心に存在感を高めてきました。

2024年にはM-1グランプリで初めて準決勝へ進み、2025年も2年連続で準決勝に進出しています。

現在は漫才だけでなく、YouTubeや小説、アパレルモデルにも活動を広げていますが、細田さんが人前で初めて漫才をしたのはプロ入り後ではなく、埼玉県立浦和高校の文化祭でした。

高校時代にはすでに友人をNSCへ誘うほど芸人への気持ちが強く、慶應義塾大学へ進んでからも学生お笑いを続け、そのままプロの世界へ入っています。

ただ、現在のひつじねいりへたどり着くまでには、学生コンビ、プロ入り後の二つのコンビ、活動が止まった時期もありました。

細田祥平の生い立ちと家族|さいたま市で育った少年時代

細田祥平さんは1991年11月30日生まれで、マセキ芸能社の公式プロフィールでは埼玉県さいたま市出身とされています。

芸人として舞台に立つようになってからは自身の家族について文章やテレビで触れる機会もあり、子ども時代の家庭の雰囲気が分かるエピソードも残しています。

両親と姉の4人家族|本人が振り返る穏やかな家庭

細田さんは自身のnoteで、両親と姉がいる4人家族で育ったことを書いています。

大人になってからも母親の提案で家族が食事に集まることがあり、全員の予定を合わせて会うような関係が続いていました。

「我が家庭環境は健全すぎるぐらい健全」

ひつじねいり 細田 note

2026年5月にはテレビ番組で父親についても語り、共同通信で役員や関連会社の社長を務めていた人物だと明かしています。

さらに父親が山手線などの車内モニターへニュースを流す仕組みに関わっていたことも本人の口から語られました。

家族旅行のデジカメ事件と、穏やかだった家庭の記憶

子どものころの家族旅行では、細田さんがデジタルカメラを操作しているうちに、保存されていた写真をすべて消してしまったことがありました。

父親はそのとき少し怒ったそうですが、細田さんが後年「家族史上最大のもめ事」として思い出したのがこの出来事でした。

本人がそれほど小さな出来事を家庭最大級のトラブルとして挙げているところにも、子ども時代の家の空気が表れています。

M-1をきっかけにお笑いへ興味を持つ

そんな少年時代から少しずつ細田さんの中で大きくなっていったのが、お笑いへの興味でした。

本人は後年のインタビューで、お笑いを好きになった入口としてM-1グランプリを挙げています。

「お笑い好きになったのは、多分M-1がきっかけです」

ワラパー

当時の細田さんは、友人を笑わせることにも積極的でした。

一方で後年には、子どものころの自分のお笑いについて、相手を傷つけていたこともあったかもしれないと振り返っており、現在の感覚とは違う部分も含めて昔の自分を語っています。

浦和高校時代|文化祭の教室で人生初の漫才

中学卒業後、細田さんは埼玉県立浦和高校へ進みました。

同級生には、のちにストレッチーズを結成する高木貫太さんと福島敏貴さんもいました。

ここで細田さんは、テレビの向こう側で見ていた漫才を自分で演じる側へ回ります。

「U-1グランプリ」に出場、もう1組は後のストレッチーズ

細田さんが人生で初めて漫才を披露したのは、浦和高校の文化祭で行われた「U-1グランプリ」という企画でした。

会場は学校の教室で、出場したのはわずか2組。

そのもう1組には、のちにストレッチーズとなる高校の同級生たちがいました。

客席は10人ほどで、これが細田さんにとって最初の漫才の舞台になりました。

「観てる人も10人くらいなんで、緊張することもなく」

logirl

大きな劇場でも大会でもない、高校の教室から細田さんの漫才歴は始まりました。

高木貫太をNSCへ誘うほど芸人への気持ちが固まっていた

高校卒業が近づくころには、細田さんにとって芸人は単なる憧れではなく、実際の進路候補になっていました。

高木貫太さんは後年、細田さんが高校時代から「お笑い芸人になる」と決めていて、自分をNSCへ誘ったと証言しています。

一方の高木さんには、当時すぐにプロの世界へ飛び込むだけの気持ちはまだなく、NSCではなく大学のお笑いサークルへ細田さんを誘いました。

「高校を出たら養成所」という道まで考えていた細田さんは、ここでいったん大学へ進み、学生お笑いを続ける道を選びます。

慶應義塾大学へ|NSCではなくO-Keisで学生お笑いを選ぶ

浦和高校卒業後、細田さんは慶應義塾大学へ進学しました。

そこで入ったのが、慶應のお笑いサークル「お笑い道場O-Keis」です。

大学生活になじめない学生たちに親近感を覚えO-Keisへ

当初はNSCを考えていた細田さんでしたが、大学にお笑いサークルがあることを知り、まずO-Keisへ入ることになりました。

本人は、いかにも大学生活を満喫しているような雰囲気とは少し違うメンバーたちを見て親近感を覚えたことも、サークルへ入った理由として語っています。

O-Keisでは漫才に取り組むだけでなく、のちに代表も務めました。

その理由については、当時男性メンバーが7人ほどしかおらず「消去法だった」という細田さんらしい説明も残っています。

高木貫太との学生コンビと、川北茂澄・ストレッチーズらとの大学芸会

大学に入ると、細田さんは高校の同級生だった高木貫太さんとコンビを組んで活動しました。

O-Keisの記録には、細田さんが「ロメロ」「安全ナイフ」「ラブ化身」など複数の組み合わせで活動していたことが残っています。

高木さんとの「安全ナイフ」も、その学生お笑い時代に生まれたコンビのひとつでした。

その後、高木さんは福島敏貴さんとストレッチーズを結成し、細田さんとは別々のコンビで活動するようになります。

同じ大学お笑いの周囲には、のちに真空ジェシカを結成する川北茂澄さんらもいました。

細田さんが大学時代でもっとも印象に残っている出来事として挙げているのが、川北さんやストレッチーズらと一緒に挑んだ大学芸会での優勝です。

現在それぞれ別のコンビで活動する芸人たちが、まだ大学生として同じお笑いの場に立っていた時期でした。

三田祭の200〜300人ライブで客席の点数に一喜一憂

O-Keisでの活動は、少人数のサークル内だけで完結するものではありませんでした。

慶應の三田祭では、200〜300人ほど入る教室を使ってライブを開催していました。

観客には5点満点でネタを採点してもらうアンケートがあり、細田さんはその数字に一喜一憂していたと話しています。

高校文化祭では10人ほどだった客席が、大学では数百人規模になり、ネタがどう受け取られたのかを数字でも突きつけられるようになっていました。

仲間のプロ入りを見て、在学中にマセキを受験

大学生活が進むにつれ、学生お笑いで一緒だった仲間たちがプロの世界へ入り始めます。

真空ジェシカの川北さんがプロダクション人力舎へ入り、身近な存在が次々と芸人になっていく状況の中で、細田さん自身もプロへの進路を具体的に動かし始めました。

当時のライブシーンでは三四郎、ルシファー吉岡、モグライダーらマセキ芸能社の芸人が存在感を見せており、細田さんは大学在学中にマセキのオーディションを受けています。

高校時代に考えていたNSCではなく、学生お笑いを経てマセキ芸能社からプロになる道を選びました。

「大学在学中にマセキを受けて、卒業とともに預かりになりました」

logirl

プロ入り後の元コンビ時代|新宿Fu-の初舞台から二度の解散へ

大学卒業とともにマセキの預かりとなった細田さんは、学生芸人からプロの芸人へ立場を変えました。

ただし、ここからすぐ現在のひつじねいりが始まったわけではありません。

大学卒業と同時にマセキ預かり、プロ初舞台の帰りに缶ビール

プロとしての最初の舞台は新宿Fu-でした。

すでに大学お笑いで舞台経験を重ねていたため、初めてプロのライブへ出た日も、まったく何もできずに終わったわけではなく、手応えを感じられる内容だったといいます。

その帰り道、細田さんは缶ビールを飲みながら家へ向かいました。

ちょうど又吉直樹さんの小説『火花』が話題になっていた時期でもあり、自分も芸人になったという高揚感を味わっていたそうです。

最初のコンビは約1年で解散

ところが、プロとして最初に組んだコンビは約1年で終わりました。

ネタについて真剣に話し合うほど関係がうまくいかなくなり、細田さんは後年、ライブ会場へ向かう途中で相方がずっとイヤホンをしていたことを覚えていると話しています。

新宿駅から会場まで10分ほど一緒に歩いていても会話がなく、その状況を当時の寂しかった記憶として残していました。

まぐろとバーニーズを結成、活動停止から空白の4か月へ

最初のコンビが終わったあと、細田さんは現在「モシモシ」で活動するまぐろさんとバーニーズを結成しました。

この時期には「細田官房長官」という芸名を使って活動していたこともあります。

しかしバーニーズでの活動も終わり、細田さんは2019年2月の結成報告で、2018年10月21日から「何もしていないに等しい状況」になっていたと書いています。

「2018年の10月21日から何もしていないに等しい状況になり」

ひつじねいり 細田 note

舞台で漫才をする仲間たちを横から見ながら、自分ならこんなネタをするのに、と考える日が続きました。

そこから約4か月後、次の相方として声をかけたのが松村祥維さんでした。

松村祥維との出会い|朝6時の珈琲西武でひつじねいり結成へ

松村祥維さんは大阪府出身で、以前はいい塩梅というコンビで活動していました。

細田さんと松村さんは、それぞれ別のコンビだったころからライブで顔を合わせる関係でした。

K-PROで知り合い、「木場はん」の一言から相方候補に

2人が知り合った場所について、松村さんはK-PROのライブだったと思うと話しています。

当時はまだ別々のコンビでしたが、その後松村さんが細田さんの住んでいたシェアハウスへ遊びに来る機会がありました。

そこで松村さんは同居人の木場さんを、濃い関西弁で「木場はん」と呼びました。

細田さんはその響きに「西の商人」のような面白さを感じ、松村さんと組んでみたいと思うようになります。

履歴書のような条件から選んだのではなく、普段のしゃべり方を間近で聞いた小さな場面が、現在の相方を意識するきっかけになりました。

朝8時のアルバイト前に「組もう」と話した2人

実際にコンビの話をするため、2人が待ち合わせたのは新宿の珈琲西武でした。

しかも時間は朝6時。

細田さんも松村さんもその日は朝8時からアルバイトがあり、仕事へ行く前の早朝に喫茶店へ集まって今後を話しました。

売れて仕事がなくならないように組んだのではなく、2人ともアルバイトへ向かう若手芸人だった時期に、ひつじねいりの話が動き始めました。

「M-1決勝へ」の熱量とネタ作りへの期待が一致

松村さんはいい塩梅の解散後、30歳になるタイミングでNSCへ入り直すことまで考えていました。

そんな時期に細田さんから声をかけられます。

松村さんには、次に組むなら自分とは違ってゼロからネタの発想を作れる人と組みたいという考えがありました。

細田さんは「ネタ無限に書けます」とアピールし、さらにM-1決勝を目指したいという気持ちも伝えています。

ネタを書く細田さんと、その素材を会話として整えられる松村さん、そしてM-1を目指す熱量が重なりました。

細田さん自身も、この時期について「漫才がしたかった」と話しています。

「ほんと漫才がしたくて」

慶應塾生新聞

「祥」の字から生まれたコンビ名「ひつじねいり」

細田祥平さんと松村祥維さんには、名前に同じ「祥」の字があります。

2人はコンビ名を考えているとき、その共通点に注目しました。

「祥」には「羊」が入り、羊から睡眠、睡眠から「たぬき寝入り」を連想し、さらに字の中に「ネ」と見える部分もあることから、言葉を組み合わせて「ひつじねいり」にたどり着きます。

2019年2月14日、細田祥平さんと松村祥維さんの「ひつじねいり」が結成されました。

ひつじねいり初期|K-PROの初舞台からライブ漬けの日々

それぞれが別のコンビで舞台経験を積んでいたため、ひつじねいりは完全な新人同士のコンビではありませんでした。

ただ、経験者同士だから最初から現在の漫才が完成していたわけでもありません。

期待された初舞台でも、すぐに完成形にはならなかった

ひつじねいりとしての最初期の舞台はK-PROのライブだったと2人は振り返っています。

細田さんはバーニーズ、松村さんはいい塩梅としてすでにライブシーンに出ていたため、新しい2人が組むことを知っている観客もいました。

初舞台では笑いも取れたものの、そこから一気にライブシーンを席巻したわけではありません。

2人はライブへ出ながら、どうすればこの組み合わせならではの漫才になるのかを探していきました。

細田の発想と松村の編集から、対照的な2人を生かす漫才へ

ネタ作りでは、基本的に細田さんが0から1の発想を作って台本を持ってくるところから始まります。

松村さんはそれを読み、実際の会話として不自然な部分や言葉のリズムを調整していきます。

結成したばかりのころは、細田さんの発想に松村さんがシンプルにツッコむ形が中心でした。

しかし、それだけでは賞レースで戦うには弱いと考えるようになり、東と西、落ち着いた細田さんと濃い関西弁の松村さんという、2人の違い自体を漫才へ乗せる形へ変わっていきました。

「お互いの違いを乗せたかたちになってきた」

logirl

月約30本のライブ、それでもテレビへ抜けきれなかった時期

ひつじねいりは結成後、ライブへの出演を重ねました。

2022年のインタビューでは、月に約30本のお笑いライブへ出演していると話しています。

舞台では笑いが取れるようになっていましたが、その一方でメディアの仕事は思うように増えず、オーディションでも落選が続いていました。

ライブへこれだけ出ているのに次の段階へ抜けられないという感覚を、当時の2人は率直に語っています。

高校の教室から漫才を始めた細田さんにとって、プロになったあとも「舞台に立てばそのまま売れる」という一本道ではありませんでした。

2023年から仕事が広がる|賞レースとラジオで転機

長くライブへ出続けていたひつじねいりに、テレビや賞レースの結果が重なり始めたのが2023年でした。

ひとつの大会だけで突然状況が変わったのではなく、複数の場所で名前が見える一年になります。

「おもしろ荘」出演からツギクル芸人グランプリ準優勝へ

2023年の年始、ひつじねいりは日本テレビ系「ぐるナイ おもしろ荘」に出演しました。

細田さんは放送後、番組収録から生まれた「フェイスプレッシャー」というくだりについて自身のXでも触れています。

同年7月にはツギクル芸人グランプリ2023で準優勝。

ライブで笑いを積み重ねてきた2人が、全国放送と賞レースでも結果を残し始めました。

「決戦!お笑い有楽城」優勝でオールナイトニッポン0へ

さらに2023年9月、ニッポン放送と日本音楽事業者協会による「決戦!お笑い有楽城」で優勝します。

この大会ではネタだけでなくラジオ形式でのトーク力も競われ、優勝者には「オールナイトニッポン0」の単発パーソナリティ権が与えられました。

優勝したひつじねいりは同年11月、「ひつじねいりのオールナイトニッポン0(ZERO)」を担当しています。

2023年は「おもしろ荘」、ツギクル準優勝、お笑い有楽城優勝と、それまでライブ中心だった活動の外側へ仕事が広がった一年になりました。

M-1準決勝へ|高校文化祭から続いてきた漫才の現在地

ひつじねいりを結成するとき、細田さんと松村さんの間にはM-1の決勝へ行きたいという共通の目標がありました。

結成から5年以上を経て、その目標に大きく近づいたのが2024年です。

2024年に初の準決勝、2025年も再び準決勝へ

2024年、ひつじねいりはM-1グランプリで初めて準決勝へ進出しました。

決勝進出は逃したものの敗者復活戦にも出場し、Cブロック最後に登場してインディアンスと対決。

観客投票はインディアンス51%、ひつじねいり49%という僅差でした。

翌2025年も準決勝へ進み、マセキ芸能社の公式プロフィールには2024年・2025年の2年連続準決勝進出が記録されています。

一方で細田さんたちは、準決勝まで進んだことだけで満足していたわけではなく、ネタの設定や切り口にまだ足りない部分があると考えていました。

「ネタの切り口、設定のところがまだ弱いのかなと」

logirl

敗者復活で3連勝するも決勝には届かず

2025年の敗者復活戦では、ひつじねいりはBブロックに登場しました。

最初のセンチネル戦を勝ち抜くと、続くドーナツ・ピーナツ、フランツにも勝利します。

3組を連続で破って勝ち残りましたが、4組目の例えば炎に敗れ、M-1決勝進出には届きませんでした。

大会後、細田さんは自身のnoteで、決勝へ届かなかった悔しさを率直に書いています。

「勿論決勝に行けなくて悔しい気持ちはある」

ひつじねいり 細田 note

高校生のころからM-1を見てお笑いを好きになり、自らNSCを進路として考え、現在の相方ともM-1決勝を目標に組んだ細田さんにとって、この大会は結成後に突然現れた目標ではありません。

漫才を軸にYouTube・執筆・モデルへ活動を広げる現在

2026年現在も、ひつじねいりはマセキライブをはじめとする舞台で漫才を続けています。

細田さん個人では、YouTube「細田の趣味探し」で無趣味だという自身がさまざまな体験に挑み、Webでは小説「細田祥平のふつふつと」を連載しています。

さらにマセキ芸能社の公式プロフィールには、「RE:IWAROMAN」オフィシャルアパレルLOOKSモデルとしての活動も掲載されています。

活動の種類は増えても、ひつじねいりとしての中心には現在も漫才があります。

浦和高校の文化祭で10人ほどの前に立った最初の漫才から、慶應O-Keis、プロ入り後の二つのコンビを経て、細田さんは松村祥維さんとひつじねいりを結成しました。

朝6時の喫茶店で話した2人は、その後ライブへ出続け、2024年と2025年にはM-1準決勝まで進んでいます。

高校時代から選び続けてきた漫才は、仕事の幅が広がった現在も細田祥平さんの活動の真ん中にあります。

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