見取り図・盛山晋太郎の昔|堺の鍵っ子少年がNSCでリリーと出会い、M-1へ進むまで

人物プロフィール

本名
盛山晋太郎
生年月日
1986年1月9日
身長
180cm
血液型
O型
出身地
大阪府 堺市
コンビ・グループ名
見取り図
相方・メンバー
リリー
結成年
2007年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2005年
養成所・スクール
NSC大阪校 29期

見取り図の盛山晋太郎さんといえば、太い声のツッコミと大きな体、テレビで次々と言葉を返していく姿が印象的です。

現在は見取り図として冠番組やラジオを持ち、テレビのMCやバラエティでも活躍していますが、芸人になるまでをたどると、最初から一直線にお笑いの世界へ入ったわけではありません。

大阪府堺市で育った盛山さんは、一人っ子の鍵っ子として子ども時代を過ごし、小学生のころから学校で漫才をしていました。

高校では文化祭へ出るためだけに軽音楽部へ入り、ホームルームの時間まで使って一人でネタを披露する一方、卒業後に選んだのは警察官や消防士などを目指す専門学校でした。

そこからNSC大阪校へ入り、隣のクラスにいたリリーさんへ自分から声をかけて見取り図を結成しますが、初舞台の大ウケとは裏腹に、長い若手時代が待っていました。

学校で笑いを取ろうとしていた少年が、いったん警察官という進路を選び、もう一度お笑いへ戻ってからM-1の決勝へたどり着くまでを、昔の本人の言葉とともに順番にたどります。

盛山晋太郎の生い立ちと家族|堺で育った一人っ子の鍵っ子時代

盛山晋太郎さんは1986年1月9日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは大阪府堺市出身とされています。

のちに36歳で東京へ移るまで大阪で生活しており、本人も「大阪生まれ大阪育ち」という感覚を強く持っていました。

一人っ子の鍵っ子として過ごした子ども時代

子どものころの家庭での様子について、盛山さん自身が明かしているのが「一人っ子の鍵っ子」だったという話です。

家に帰ると母親が用意してくれた食事があり、それを食べながら海外ドラマ「フルハウス」を見ていたことも、自身のXで振り返っています。

「僕、ひとりっ子の鍵っ子だったんで」

QJWeb

盛山さんはこの話を、現在の自分が人といることを好む理由の話題の中で出しています。

小学生のころ、知らない男性に声をかけられて車へ乗り、40~50分ほど一緒にいたという驚くような思い出まで語っており、子どものころから人見知りが強いタイプではなかったようです。

小さいころからNGKへ通い、劇場で漫才を見ていた

大阪で育った盛山さんにとって、お笑いはテレビの中だけにあるものでもありませんでした。

本人は後年のエッセイで、子どものころからなんばグランド花月へよく連れて行ってもらっていたと書いています。

「小さい頃からNGKによく連れていってもらっていて」

幻冬舎plus

お金を払って劇場へ行き、生で漫才を見ることが身近な環境だったという点は、その後の盛山さんの学生生活にもつながっていきます。

見るだけだった漫才を、自分でもやり始めたのは小学生のころでした。

小学2年生ごろまで「盛山晋作」と書いていた

幼少期には、名前についても少し変わった思い出があります。

祖父が高杉晋作を好きだったことから「晋作」という名前が考えられたものの、母親は「晋」の字を残した「晋太郎」を選んだと本人がテレビで明かしました。

ところが盛山さん自身は、小学2年生ごろまで「盛山晋作」と書いていたといいます。

「小2まで盛山晋作って書いてたんですよ」

スポニチアネックス

親戚からは大人になってからも「晋作」と呼ばれることがあるとも語っています。

小・中・高校時代|文化祭や教室で人前に立ち続けた学生生活

家庭では鍵っ子として過ごしていた盛山さんですが、学校へ行くと人前に出る側へ回っていました。

現在の漫才師としての姿を考えるうえで興味深いのは、芸人になる何年も前から学校の中で実際にネタを演じ続けていたことです。

小学校から漫才を始め、小・中・高校の文化祭にも出演

盛山さんは学生時代を振り返り、小学校から漫才をし、小学校・中学校・高校の文化祭でも漫才や吉本新喜劇のような出し物をしていたと話しています。

「小学校から漫才したり、小・中・高の文化祭で漫才とか新喜劇みたいなことをしていました」

ウォーカープラス

本人は当時の自分を「目立ちたがり屋」だったとも表現しています。

エッセイでは、思春期から「面白くなればモテる」と考え、文化祭で漫才やコントをしたほか、わざとふざけた格好で教室へ入ったり、テスト中に変な鼻歌を歌ったりして友人を笑わせようとしていたことも書いています。

「芸人になってから人を笑わせ始めた」のではなく、学生生活の中ですでに笑いを取ろうとする行動を繰り返していました。

高校では文化祭のために軽音楽部へ入り、終わると辞めていた

高校時代の目立ちたがりぶりがよく分かるのが、文化祭と軽音楽部の話です。

文化祭の音楽ライブへ出演したかった盛山さんは、文化祭の約1か月前になると軽音楽部へ入り、文化祭が終わると辞めるということを3年間繰り返したといいます。

部活動そのものを続けることより、舞台へ出る機会をつかむことに関心が向いていました。

このころは漫才だけでなく音楽にも関心があり、後年には高校時代にKREVAさんと同じ髪型にしていたことも明かしています。

ホームルームを5分もらって一人でネタを披露

文化祭だけでは足りなかったのか、盛山さんは普段の教室でもネタを披露していました。

先生に頼み、ホームルームの時間を5分だけもらって一人でネタをすることもあったそうです。

「先生に頼んでホームルームで5分もらって、一人でネタをやってた」

デイリースポーツ

ただし本人によれば、そのネタは一度もウケなかったといいます。

それでも盛山さんは、人前へ出ることをやめませんでした。

本人は学生時代にお笑いを始めた理由を「モテないから」と話しており、現在から振り返れば少し笑える動機ですが、文化祭だけでなく日常の教室までネタを持ち込んでいたことを見ると、お笑いへ使っていた時間はかなり多かったことが分かります。

高校卒業後は警察官を目指す進路へ|専門学校からNSCを選ぶまで

学校でこれだけ漫才をしていた盛山さんですが、高校卒業後にすぐ芸人一本へ進んだわけではありません。

ここで一度、お笑いとは違う現実的な進路が入ります。

警察官や消防士などを目指す専門学校へ

高校卒業後、盛山さんは警察官や消防士などを目指すための専門学校へ進みました。

後年のラジオでは、自分がNSCへ入る前に「警察官になるための専門学校」に通っていたと説明し、警察や消防など公安系を目指す学校だったと話しています。

母親についても、当初は警察の道へ進むことを勧められていたのかと聞かれ、盛山さんは「最初はそうです」と答えています。

小学生から人前で漫才をしていた一方、高校卒業後はいったん警察官などを目指す進路へ進んでいたのです。

公務員の道からお笑いへ向かい、2006年にNSC大阪校29期へ

その後、盛山さんは公務員の道ではなく、お笑いの世界へ進みます。

吉本興業の公式プロフィールでは、2006年にNSC大阪校29期へ入ったことが確認できます。

2026年に「見取り図じゃん」でNSC入学時の願書が公開された際には、20歳ごろの盛山さんが趣味に「人間観察」と書いていたことも明らかになりました。

さらに自己PRには、何をしていても笑いに置き換えて考えるほど頭の中がお笑いでいっぱいだという内容を書いていました。

警察官を目指す学校を経たあと、20歳の盛山さんは自分でNSCの門をたたきました。

ここから、学生時代に学校の友人と行っていた笑いが、職業としてのお笑いへ変わっていきます。

NSCでリリーと出会い、見取り図結成へ

NSC大阪校29期には盛山さんだけでなく、のちの相方となるリリーさんも在籍していました。

二人は幼なじみでも学生時代の同級生でもなく、NSCへ入ってから初めて出会っています。

盛山から隣のクラスにいたリリーへ声をかけた

相方を探していた盛山さんは、自分とは見た目が違う相手を探していました。

本人によれば、自分が大柄であることなどを考え、相方には細身で「シュッとした」人物がいいと思っていたそうです。

そこで目に入ったのが、隣のクラスにいたリリーさんでした。

「私です。盛山です」

TBSラジオ/radiko news

「どちらから声をかけたのか」と聞かれた盛山さんは、自分からだったとはっきり答えています。

リリーさんも一人でNSCへ入り、ちょうど相方を探しているところでした。

見取り図は、盛山さんがリリーさんを見つけて声をかけたことから始まっています。

六甲山へドライブし、友人期間なしで相方になった二人

二人の結成話でたびたび登場するのが、六甲山へのドライブです。

盛山さんは当時、実家の車でリリーさんをドライブへ誘い、六甲山の夜景へ連れて行きました。

リリーさんは後年、この場で盛山さんが格好いいセリフを言ってコンビに誘ったという話を披露していますが、盛山さんはそのセリフについては「だいぶ盛られてます」と否定しています。

ただし、六甲山の夜景へ二人で行ったこと自体は盛山さんも認めています。

さらに二人は、知り合ってしばらく友達として遊んでから組んだわけではありません。

盛山さんは20歳でリリーさんと出会い、NSCへ入ってかなり早い時期に組んだため、「友達時代を経験していない」と話しています。

友人から相方になったのではなく、出会ってすぐ「相方」として関係が始まりました。

コンビ名を何度も変えた末、「見取り図」が残った

結成当初から「見取り図」という名前を大切に温めていたわけでもありません。

NSC時代の二人は、提出するたびにコンビ名を適当に変えていたといいます。

「床」など別の名前を使ったこともあり、ついには先生から「コロコロ変えるな」と注意されました。

そのとき最後に書いていた名前が「見取り図」で、リリーさんによれば深い意味があったわけではなく、響きで書いた名前だったそうです。

盛山さんは、もし先生に怒られる日が一日早ければ別の珍しいコンビ名で固定されていたと笑っています。

同期・石井と「ギター」を組んだ時期もあった

NSC29期のころには、現在の見取り図だけでなく、コンビの組み替えも経験しています。

盛山さんは、のちにコマンダンテで活動した石井輝明さんと「ギター」というコンビを組んでいたことがあります。

BSよしもとや吉本興業の番組案内でも、二人がNSC29期の同期で、かつて「ギター」を組んでいたことが紹介されています。

コンビ名は、若手芸人が出演していた「baseよしもと」の「base」に必要なものとして「ギター」という発想から付けられたと石井さんが明かしています。

NSC時代は最初から現在の形が完成していたのではなく、相方探しや短期間のコンビ活動を重ねる中で、盛山さんとリリーさんの見取り図が残っていきました。

吉本興業の公式プロフィールでは、見取り図の結成年月は2007年5月とされています。

初舞台の大ウケから劇場最下層へ|見取り図の若手・下積み時代

見取り図のスタートは、意外なほど順調でした。

ところが、その最初の手応えがそのまま売れることにはつながりませんでした。

初舞台で大ウケし、「1年目で売れる」と思った

二人が後年ラジオで初舞台を振り返った際、リリーさんは「たまたま初舞台はめっちゃウケました」と話しています。

盛山さんの記憶では、それ以上でした。

「会場割れるぐらいウケたんですよね」

TBSラジオ/radiko news

舞台を終えたリリーさんは「1年目で売れる」と思い、盛山さんもキングコングやオリエンタルラジオのように早い段階で売れていくコースへ乗った感覚があったそうです。

初舞台で成功した二人は、ここから長い下積みになるとは考えていませんでした。

順調なスタートから劇場の一番下まで落ちていった

若手時代には、同期のガスマスクガールとNGKでイベントを行い、DVDも出すなど、早い時期に注目されたこともありました。

しかし、その後は劇場内のランクを落としていきます。

盛山さんは劇場の仕組みを1軍・2軍・3軍のような「ピラミッド」と表現し、DVDを出したあとに一番下まで転げ落ちたと振り返っています。

東京では同世代のジャングルポケットや渡辺直美さんが先へ進み、その後には霜降り明星やコロコロチキチキペッパーズなど年下の芸人も目立つようになりました。

霜降り明星のせいやさんとは一緒に暮らしていた時期もあったと盛山さんは話しており、身近な後輩が次々に売れていく状況を見ていました。

舞台が月4回ほどになり、盛山は「休ませてほしい」と連絡

仕事が少なくなった時期について、リリーさんはかなり具体的に覚えています。

週に1回ほどの舞台と、月に1日のネタ見せ。

1か月にすると舞台4回ほどとネタ見せ1回という時期に、盛山さんから連絡が来たといいます。

「もう限界や」

TBSラジオ/radiko news

盛山さん自身は2023年のラジオで、このとき「1か月ぐらい」休んだと話しています。

一方、2021年のABCテレビの番組紹介では約1年と紹介されたこともあり、休んだ期間については資料によって表現に差があります。

本人が後年ラジオで具体的に答えた「1か月ぐらい」という発言を基準にすると、少なくとも一度活動から離れていた時期があったことは確認できます。

大阪府警への再挑戦まで考えた

芸人を休んでいたころ、頭に浮かんだのはNSCへ入る前に目指していた仕事でした。

盛山さんは警察官や消防士などを目指す専門学校に通っていたため、大阪府警をもう一度受けようかと考えた時期があったと明かしています。

芸人になる前だけでなく、芸人になったあとにも「警察官」という別の人生がもう一度現れました。

結局、大阪府警へ進むことはなく、盛山さんは再び見取り図として舞台へ戻ります。

売れない若手時代の生活は余裕があるものではなく、2022年に大阪の劇場を卒業した際には、家賃を払えず家を出たときに劇場で過ごしたことや、劇場事務所のケータリングに助けられたことまで本人が振り返っています。

大阪の劇場は仕事をする場所だけではなく、生活が苦しかった時期にも長い時間を過ごした場所になっていました。

若手時代のテレビで強いツッコミを何度も直された

劇場で漫才を続ける一方、若手時代にはテレビでネタを披露する機会も少しずつ入ってきました。

盛山さんがエッセイで振り返っているのが、NHKのネタ番組へ出演したときの出来事です。

当時は「首ちぎったろか!」という強いツッコミを劇場で使っていましたが、テレビのリハーサルでは表現が過激だとして変更を求められました。

何度も言葉を柔らかくしていき、最終的には最初とはかなり違うかわいらしいツッコミになったといいます。

劇場でウケている漫才をそのままテレビへ持っていくのではなく、媒体に合わせて言葉を変える経験も、売れる前から積んでいました。

2016年M-1準々決勝で漫才の方向性が見え始める

長い劇場生活のあと、見取り図の名前が全国へ広がっていく大きな入口となったのがM-1グランプリでした。

ただし、本人たちが転機として挙げているのは、最初に決勝へ進んだ2018年より少し前です。

「M-1しかない」と臨んだ2016年準々決勝

2016年、見取り図はM-1の準々決勝へ進みました。

ABCテレビの番組で過去を振り返った際、リリーさんはこの準々決勝で得た「手応え」を重要なターニングポイントに挙げています。

「あれがなければ、ここにいなかったかも」

デイリースポーツ

二人は「自分たちにはM-1しかない」という気持ちで大会へ臨み、このときに先の方向が見えてきたと振り返っています。

決勝進出より2年前の準々決勝で、見取り図は自分たちの漫才に手応えをつかんでいました。

2018年、結成11年目でM-1初決勝へ

2018年、見取り図はついにM-1グランプリ決勝へ初進出します。

M-1公式記録では、この年の見取り図は606点で9位でした。

順位だけを見れば最終決戦には届いていませんが、2007年の結成から11年を経て初めて全国放送の決勝舞台へ立った年です。

さらに同じ2018年には「オールザッツ漫才」で優勝し、翌2019年には上方漫才協会大賞の大賞も受賞しました。

長く大阪の劇場で活動していた二人の仕事が変わり始めた時期が、M-1初決勝の前後と重なります。

2019年は5位、2020年には最終決戦へ進んで3位

翌2019年も見取り図はM-1決勝へ進み、649点で5位となりました。

そして3年連続の決勝となった2020年、ファーストラウンドで648点を獲得して3組の最終決戦へ進出します。

最終決戦ではマヂカルラブリー、おいでやすこがと争い、結果は3位でした。

2018年の初決勝から3年連続でファイナリストとなり、2020年には初めて最後の3組まで残りました。

この結果を受け、二人は以前から考えていた東京進出を、より具体的に話し合うことになります。

M-1終了後には公式YouTube「見取り図ディスカバリーチャンネル」で、二人が夜道を歩きながら大会当日を振り返っています。

大阪と東京を往復した2021年を経て、2022年に東京へ

M-1で結果が出たからといって、見取り図は翌日から東京の芸人になったわけではありません。

大阪の劇場に立ちながら東京の仕事が増え、しばらくは二つの都市を往復する生活が続きました。

2020年M-1の3位を受け、東京進出を話し合う

盛山さんによると、東京進出そのものは以前から二人の中にありました。

理想はM-1で優勝してから上京することでしたが、2020年に3位となり、最終決戦まで進んだことで「ここから上京しよう」という方向へ進みます。

2021年1月ごろにはマネージャーを交えて話し合い、すぐ2021年4月に移るのか、それとももう1年大阪で力をためるのかを検討しました。

最終的に選んだのは2022年4月でした。

5日連続で始発に乗って東京へ向かった2021年

東京へ移る時期を一年後に決めたことで、2021年は大阪を拠点にしたまま東京の仕事をこなす年になりました。

盛山さんはこの一年を、後年「あの年よりしんどい年は一生来ないだろう」と思うほどだったと振り返っています。

移動が続き、5日連続で始発に乗って東京へ向かったこともありました。

慣れないテレビ収録とM-1への重圧が重なり、深夜にホテルへ戻ってから翌日もロケ、スタジオ収録、別のロケをこなし、終電で大阪へ戻るような日程もあったといいます。

大阪の劇場で積み上げてきた生活を続けながら、仕事だけが先に全国区へ広がっていった一年でした。

2022年3月、大阪の漫才劇場を卒業

2022年3月31日、見取り図はよしもと漫才劇場を卒業しました。

NSC大阪校29期として活動を始めたあと、baseよしもと、5upよしもと、よしもと漫才劇場と、大阪の若手芸人が立つ劇場を渡ってきた二人にとって大きな区切りでした。

卒業公演では、特に苦しかった5up時代にオーディションメンバーまでランクを落としたころも振り返っています。

盛山さんは卒業発表時、家賃を払えなかった時期に劇場で過ごしたことまで持ち出して、長く世話になった大阪の劇場への感謝をコメントしました。

2022年4月、36歳になった盛山さんは初めて長く暮らした大阪を離れ、東京を本格的な活動拠点にしました。

テレビの仕事が増えても、盛山が残したいのは漫才と劇場

東京へ移ってからは冠番組やMCを含めテレビで目にする機会が増え、ラジオなど活動の幅も広がりました。

それでも、盛山さん自身が繰り返し口にしているのは劇場に立ち続けたいということです。

「死ぬまで劇場に立っていたい」

幻冬舎plus

子どものころ、NGKへ連れて行ってもらい、漫才を生で見ることが当たり前だった盛山さんは、自分が芸人になってからbaseよしもと、5upよしもと、よしもと漫才劇場で長い時間を過ごしました。

テレビで知られるようになった現在も、漫才をする場所として劇場を特別に考えている点は変わっていません。

一人っ子の鍵っ子だった少年は、小学生になると学校で漫才を始め、高校では教室や文化祭の舞台へ何度も立ちました。

高校卒業後には警察官という別の進路を選びながらNSCへ入り、リリーさんへ声をかけて見取り図を結成し、売れない時期には再び大阪府警を考えるほど迷ったあとも舞台へ戻っています。

その先に2016年のM-1で得た手応え、3年連続の決勝、東京進出があり、現在も盛山さんは漫才師として劇場に立っています。

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