見取り図リリーの生い立ちと家族|美術短大の学祭で芸人を決意、盛山との出会いからM-1まで

人物プロフィール

本名
清水将企
生年月日
1984年6月2日
身長
177cm
血液型
O型
出身地
岡山県 和気町
コンビ・グループ名
見取り図
相方・メンバー
盛山晋太郎
結成年
2007年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2007年
養成所・スクール
NSC大阪校 29期

見取り図のリリーさんといえば、盛山晋太郎さんの横で飄々とボケる姿や、絵やデザインのうまさでも知られています。

現在はテレビやラジオに加え、絵本を出版したり、アート番組の案内役を務めたりと、お笑いと美術の両方を仕事にする芸人になりました。

ところが、岡山県和気町で育った子どものころから芸人だけを目指していたわけではなく、サッカー選手や漫画家に憧れ、高校から短大へ進んで本格的に美術を学んでいます。

その進路が大きく変わったのは、大分の美術短大で、頼まれて学園祭のMCを担当したことでした。

そこから大阪のNSCへ入り、同期の盛山晋太郎さんと出会い、長い大阪の劇場生活を経てM-1の決勝へ進むまでには、テレビで知られるようになる前の時間が長く続いています。

見取り図リリーの生い立ちと家族|岡山・和気町で兄と妹と育った

リリーさんの本名は清水将企(しみず・まさき)で、1984年6月2日に岡山県和気郡で生まれました。

本人が書いた「月刊芸人」のコラムによると、生まれ育ったのは岡山県和気郡和気町で、家族には2歳上の兄と妹がいます。

山と川に囲まれた和気町で、泥だんごとドラゴンボールの絵に夢中

子どものころのリリーさんは、大勢で騒ぐことよりも一人で遊ぶ時間が好きでした。

泥だんごをきれいに磨いたり、チラシの裏へ絵を描いたりしながら過ごし、頭の中では『ドラゴンボール』の世界に入り込んでフリーザと戦うような想像もしていたと、自身のコラムで書いています。

小学校では『ドラゴンボール』のキャラクターを描くのが得意で、休み時間になると友達から「描いて」と頼まれることもありました。

学校の美術の授業そのものが好きだったわけではなく、自分では鉛筆画の状態で完成だと思っていた作品に先生から色を塗るよう言われ、嫌で泣いてしまったこともあったそうです。

「絵を描くこと」と「決められた通りに描くこと」は、子どものころから少し違っていたようです。

小学5年で父を事故で亡くし、母・兄・妹との暮らしへ

家庭に大きな変化が起きたのは、小学5年生のときでした。

父親が事故で亡くなり、その後は母親が子どもたちを育てました。

リリーさんは後年、父親が亡くなったときに初めて母親が泣く姿を見たと話しており、その日から母を大切にしなければという気持ちを持つようになったと語っています。

「母と兄妹と4人で暮らす生活は、大変ではありますが、その環境はそんなに辛くなかったんです」

Domani

生活に余裕があったわけではなく、中学校を卒業したら働こうと考えた時期もありましたが、母親からは高校へ行くよう勧められました。

父親との記憶は大人になってからも残っており、2020年には本人の公式Xで父親の形見について投稿しています。

和気中学校から岡山工業高校へ|サッカーと絵を続けた学生時代

小学校を終えると、リリーさんは地元の和気中学校へ進みます。

このころも最初から美術一本だったわけではなく、スポーツと絵の間を行き来しながら将来を考えていました。

荒れていた和気中で「不良でも優等生でもない」位置にいた

本人の回想では、当時の和気中学校はかなり荒れており、学校内には目立つ不良グループもいました。

2歳上の兄が先に同じ中学校へ通っていたこともあり、リリーさんは学校内の空気をある程度知った状態で入学しています。

本人自身は不良グループに完全に入るわけでも、成績上位の真面目なグループだけにいるわけでもありませんでした。

「ヤンキーでもなく真面目でもなくちょうど間」

月刊芸人「見取り図リリーのコラム」

普段は5〜6人ほどの友人と過ごしながら、不良側とも勉強のできる生徒とも付き合っていたといいます。

後に大勢の芸人が集まる劇場でも、楽屋の中心で騒ぐ盛山さんの横で本を読んでいることがあったリリーさんですが、学生時代にも特定の一つのグループだけへ入り込まない過ごし方をしていました。

サッカー選手の夢を諦め、漫画と美術へ関心が移る

中学生ごろまでは、将来はサッカー選手になりたいと思っていました。

地元では自分がかなりうまいと思っていたものの、県レベルの選手と一緒にプレーしたことで実力差を感じ、プロを目指すことを諦めています。

すると、子どものころから続けていた絵のほうへ気持ちが動きました。

漫画家になろうと考え、Gペンなどの道具をそろえ、『ろくでなしBLUES』など好きだった漫画を参考にしながら約1年間、自分でも漫画を描いています。

ただ、漫画家を目指すことも途中でやめ、次はより広く美術を学ぶ進路へ向かいました。

岡山工業高校へ通い、高校時代も絵を描き続けた

高校は岡山県立岡山工業高等学校へ進学しており、後年、OHK岡山放送の地元ロケでは当時の通学路だった奉還町商店街を訪れています。

そのロケでは高校時代に最も仲が良かった同級生とも再会しており、岡山を離れる前の学生生活が確認できる貴重な場面になりました。

高校時代にも絵は続けており、2015年には実家で見つけた当時のデッサンを本人が公式Xで公開しています。

高校卒業が近づくころには、中学時代に考えていた就職ではなく、さらに美術を学ぶ選択肢が現れました。

大分の美術短大へ|親元を離れた2年間で芸人という進路が生まれる

高校卒業後、リリーさんは岡山を離れて大分県立芸術文化短期大学へ進みます。

岡山から大分へ向かった背景には、本人の美術への興味だけでなく、家計を支える母親との現実的な相談もありました。

母の条件は「国公立・できれば短大」、岡山を離れて大分へ

母親は美術へ進みたいという息子の希望を認める一方で、進学先について国公立で、できれば短大という条件を出しました。

リリーさんが条件に合う学校を調べると候補は大分と秋田にあり、その中から大分の短大へ進学しました。

それまで暮らしていた和気町を離れ、初めて一人暮らしを経験したことで、食事や家事を含めて生活そのものにお金と手間がかかることも知ったと後年話しています。

大分には2年間暮らし、美術を専攻しました。

2023年に仕事で大分を再訪した際には、本人のnoteで短大時代以来の大分への思いも綴っています。

美術を学びながら「絵で食べる難しさ」を知る

短大では、好きだった絵を趣味ではなく専門分野として学ぶことになりました。

そこでリリーさんが実感したのが、絵を描くことが好きでも、絵だけで生活していくのは簡単ではないという現実でした。

本人は後年、この時期に「絵は趣味でいい」と考えるようになったと話しています。

20歳ごろには大分でボクシングジムにも約10カ月通っており、サッカーや水泳の経験があったため体力には自信があったものの、長くボクシングを続けている年下の少年との実力差を目の当たりにしたことも自身のnoteに残しています。

美術だけでなく、興味を持ったものへ実際に飛び込んでいた短大生活の中で、卒業後の進路を変える出来事が起きました。

短大の学祭MCで大ウケし、芸人になると決める

学園祭でMCをする人が見つからず、リリーさんは頼まれて司会を担当することになりました。

本人も最初から乗り気だったわけではありませんでしたが、実際に人前へ立つと会場から大きな笑いが起きました。

美術を学ぶために大分へ来たリリーさんが、芸人を仕事として考えた直接のきっかけが、この短大の学園祭でした。

「学祭でMCしてめっちゃ楽しくて、こんなのが仕事になったらいいなと思って」

月刊芸人

このエピソードは「高校の学祭」と紹介されることもありますが、本人はインタビューで「いや、短大です」とはっきり訂正しています。

後年『見取り図じゃん』で振り返った際にも、あの学祭MCがなければ芸人を志していなかったかもしれないという趣旨の話をしています。

短大卒業後にNSC大阪29期へ|母には「舞台美術」と伝えていた

学園祭で芸人という進路が浮かんでも、卒業後すぐ迷いなく大阪へ向かったわけではありません。

養成所へ入れば費用がかかり、その先に仕事がある保証もないため、願書を出す直前まで迷い続けました。

「やりたい51%、やめたい49%」でNSCへ願書を出す

リリーさんは当時の迷いを、ほぼ半々だったと振り返っています。

「やりたい気持ちが51%、辞めようと思う気持ちが49%くらい」

HugKum

わずかに「やりたい」が上回ったことで願書を提出し、2006年にNSC大阪校29期へ入りました。

吉本興業の公式プロフィールにも、リリーさんは2006年・NSC大阪校29期と記載されています。

2006年にNSC大阪校へ入り、学祭とは違うプロの笑いを知る

短大の学祭では大きくウケたものの、大阪へ出ると同じようにはいきませんでした。

NSCへ入った後、小規模なライブで再びMCをしたところ、短大の学園祭ほど笑いが起きず、学祭では知人が多い空気にも助けられていたことに気づいたと話しています。

母親には芸人を目指していることを伝えておらず、卒業後は舞台美術の仕事をしていると説明していました。

電話では「吉本新喜劇の大道具を作った」などと話していたものの、その後テレビに出演した姿を母親に見つけられ、NSCへ通って吉本興業に入ったことを打ち明けています。

リリー・フランキーに似ていると言われ「リリー」が芸名になる

NSC時代のリリーさんは現在とは髪型や雰囲気も違い、長めの髪に帽子をかぶることがありました。

その姿を見た同期からリリー・フランキーさんに似ていると言われ、「リリー」と呼ばれるようになります。

もともとの本名は清水将企ですが、同期の間で定着した呼び名がそのまま現在まで続く芸名になりました。

盛山晋太郎との出会いと見取り図結成|六甲の夜景から2007年5月へ

大阪NSC29期でリリーさんと同期だった一人が、後の相方になる盛山晋太郎さんです。

二人とも同じ養成所に入ったことが出会いですが、最初から自然にコンビになったわけではありませんでした。

盛山がリリーを相方候補に選び、二人でドライブを重ねる

盛山さんは当時、背丈が自分と近い相方を探しており、見た目にも清潔感があったリリーさんへ目をつけました。

「NSCに入って1ヶ月ぐらいの時に僕から声を掛けたんです」

DOMOぱど 芸人インタビュー

リリーさん側には、同期の間で「盛山がリリーを狙っている」という話が先に広まっていたため、実際に声をかけられたときには少し身構えたという笑い話も残っています。

二人はコンビになる前からドライブへ出かけるようになり、六甲山へ夜景を見に行ったことも後年、本人たちが結成時の思い出として語っています。

六甲山の夜景を見に行き、コンビ結成へ

盛山さんがリリーさんを誘い、二人で組む流れができたあと、2007年5月に見取り図を結成しました。

結成年月は吉本興業だけでなく、M-1グランプリの公式コンビ情報でも「2007年5月」と確認できます。

短大の学園祭で芸人を考え始めてから、NSC大阪29期へ入り、そこで盛山さんと出会ったことで現在まで続く見取り図が形になりました。

最初の漫才ではリリーさんがネタを持ってきたため、その台本の中でリリーさんがボケ、盛山さんがツッコミをする形になり、現在知られる役割の出発点になっています。

コンビ名を変え続けて注意され、「見取り図」で定着

現在ではすっかり定着している「見取り図」という名前も、最初から強い思いを込めて考え抜いた名前ではありませんでした。

NSC時代の二人はコンビ名を何度も変え、「床」「エテ公」「リアル乳首ファイターズ」など、さまざまな候補を使っていました。

あまりにも頻繁に名前を変更するため先生から注意され、その時点で最後に書いていた名前が「見取り図」でした。

リリーさんが出した「見取り図」は、何かの出来事を表した名前ではなく、本人たちによれば響きから出てきた言葉だったといいます。

base・5up・漫才劇場へ|劇場に通い続けた若手・下積み時代

見取り図を結成したあと、二人の芸人人生の中心になったのはテレビではなく大阪の劇場でした。

リリーさん自身の振り返りでは、芸歴2〜3年目ごろに劇場へ入り、その後baseよしもと、5upよしもと、よしもと漫才劇場と三つの大阪の若手劇場を経験しています。

芸歴2〜3年目でbaseよしもとへ、先輩ばかりの楽屋で過ごす

baseよしもとへ入った当時、見取り図は劇場の中でも後輩側でした。

同じ時期の劇場にはジャルジャル、銀シャリ、スーパーマラドーナ、かまいたち、和牛、天竺鼠らがおり、リリーさんは後に「運良く1年程baseよしもとに所属できました」と書いています。

当時の吉本の楽屋は上下関係が今より強く、先輩へ気軽に話しかけられるような雰囲気でもありませんでした。

リリーさんと盛山さんは、入ることさえためらう楽屋があったと振り返っており、若手だった盛山さんは劇場の喫煙所へ行けず外へ出ることもあったといいます。

劇場メンバーから落ち、約1年間オーディションを受け直す

劇場へ入ったことでそのまま順調に上へ進んだわけでもありません。

一度は劇場のオーディション組から落ち、一般参加者と一緒に約1年間オーディションを受け直した時期がありました。

その間にも一緒に仕事をしていた芸人たちが次々と先へ進み、見取り図は関西の若手賞レースでもなかなか結果を残せない時間を過ごします。

盛山さんは精神的に苦しくなり、リリーさんへ休むことを伝えて約1年間活動を休んだ時期もあったと、ABCテレビ『やすとものいたって真剣です』で明かしています。

テレビで見取り図を知った人には見えにくい部分ですが、劇場へ入ることと、劇場に残り続けることの両方を経験した若手時代でした。

一度の解散と再結成、盛山の遅刻でリリーが相方を叱った日

若手時代には、見取り図が一度解散したこともあります。

解散中、リリーさんは別の相手とコンビを組んでツッコミを担当し、盛山さんも別の相手と組んでボケを経験しました。

ところが互いに別の役割で組んでみるとうまくいかず、再び元の二人で漫才をすることになりました。

別の時期には、盛山さんが営業の仕事へ大幅に遅刻し、営業担当者からリリーさんへ「相方から注意してほしい」と頼まれたこともありました。

普段は盛山さんが細かなことを気にしてリリーさんが受け流すような関係ですが、このときはリリーさんが相方を叱っています。

5upから漫才劇場へ、休みの日も卓球をしに劇場へ通う

baseよしもとが閉館した後は、2011年から5upよしもとへ移り、2014年12月によしもと漫才劇場が開場すると、そこでも舞台へ立ち続けました。

このころになると、劇場は単にネタを披露する仕事場ではなくなっていました。

「この漫才劇場を中心に僕らの生活はあるんです」

よしもと漫才劇場

仕事が終わった後も劇場へ戻って楽屋で話し、休みの日には卓球をするためだけに劇場へ行った日まであったとリリーさんは振り返っています。

夜遅くまでネタ合わせをする芸人や、仕事のない日にやってくる芸人もおり、リリーさん自身も劇場へ何度泊まったか分からないほどでした。

テレビで知られる前の見取り図にとって、大阪の劇場は舞台であると同時に一日の多くを過ごす場所でした。

親子丼店などのアルバイトを続けながら漫才を続ける

劇場へ立てるようになっても、それだけで生活できる時期がすぐに来たわけではありません。

二人は芸歴10年目ごろまでアルバイトを続けていたと話しており、リリーさんには親子丼店の厨房で働いていた時期がありました。

厨房へ入って2日目にきれいな親子丼を作ることができ、店長から褒められた出来事を、結成15年の中で印象に残っていることとして挙げています。

売れてから当時を振り返った際には、生活が変わっても金銭感覚は簡単には変わらないと話していました。

「貧乏が長すぎましたね。抜けないです」

マイナビニュース

2016年M-1準々決勝で手応え|2018年から3年連続決勝へ

長い劇場生活の中でも、見取り図がすぐに全国区のコンビになったわけではありません。

大きく流れが変わり始めたのは、M-1で初めて決勝へ進んだ2018年より前でした。

賞レースで結果が出ない時期、昔のネタを作り直して流れが変わる

関西の若手賞レースで結果を残せず、自分たちの漫才に自信を持てない時期、二人は先輩芸人からの助言も受けながらネタを見直しました。

そして2016年のM-1グランプリでは、以前から持っていたネタを作り直して準々決勝へ挑みます。

その舞台で、それまでとは違うほど大きな笑いが起きました。

見取り図にとって重要だったのは「賞レースで優勝した瞬間」ではなく、2016年のM-1準々決勝で自分たちの漫才に手応えを得たことでした。

「あれがなければ、ここにいなかったかも」

ABCテレビ「やすとものいたって真剣です」

2016年の手応えによって、二人の中でM-1へ向かう漫才の方向がはっきりしていきました。

2018年に初のM-1決勝、2019年もファイナリストへ

その2年後の2018年、見取り図は初めてM-1グランプリ決勝へ進出しました。

M-1公式記録では2018年は9位でしたが、翌2019年にも再び決勝へ進み、今度は5位まで順位を上げています。

2019年には大阪のよしもと漫才劇場メンバーを対象にした第4回上方漫才協会大賞の大賞も受賞しました。

長く立ってきた大阪の劇場で「劇場番長」と呼ばれるようになりながら、東京のテレビへ呼ばれる機会も徐々に増えていきます。

2020年M-1で3位、東京での仕事量が一気に増える

2020年には3年連続でM-1決勝へ進みました。

ファーストラウンドを3位で通過して初めて最終決戦へ進み、最終順位も3位となりました。

優勝したのはマヂカルラブリーでしたが、見取り図にとっては、この大会の後に仕事の場所が大きく変わります。

盛山さんは2022年のインタビューで、2020年M-1後に最も変わったこととして東京での稼働が大幅に増えたことを挙げています。

大阪の劇場を中心に長く活動してきた二人が、大阪から新幹線で東京へ通う日々へ入っていきました。

2022年に東京へ|子どものころ好きだった「絵」が仕事に戻ってくる

M-1決勝を3年続けた後も、すぐに大阪との関係を切って東京だけで活動したわけではありませんでした。

2021年は大阪を拠点にしたまま東京の仕事へ通い続け、移動だけでもそれまでとはまったく違う生活になりました。

2021年は東京200泊・大阪東京180往復、2022年4月に拠点を移す

盛山さんによると、2021年だけで東京のホテルに約200泊し、新幹線では東京と大阪を180往復以上しました。

1年の半分以上を東京のホテルで過ごすほど仕事の重心が変わった末、2022年春から本格的に東京で活動することになります。

同年3月末には、長くホームにしてきたよしもと漫才劇場を卒業しました。

baseよしもと、5upよしもと、漫才劇場と続いた大阪の若手劇場生活がここで一区切りとなり、テレビやラジオを含めた仕事の範囲が全国へ広がっていきました。

2023年に絵本を出版、母との記憶が作品の題材になる

東京での活動が増えた後、子どものころから続けてきたもう一つのものが仕事として戻ってきます。

2023年、リリーさんは自身初の絵本『ももからうまれたおにたろう』をサンマーク出版から刊行しました。

短大時代には「絵は趣味でいい」と考えていましたが、芸人として活動を続けた十数年後、自分で物語と絵を作る仕事へたどり着いています。

作品には、桃太郎の桃を鬼が拾い、鬼がおにたろうを育てるという物語が描かれています。

その親子の関係についてリリーさんは、小学5年生で父親を亡くした後、母親と兄妹で暮らした自分自身の記憶も背景にあると話しました。

和気町でチラシの裏に絵を描いていた少年時代と、父を亡くした後に母と暮らした記憶が、2023年になって一冊の絵本という形で仕事になりました。

同作は第16回MOE絵本屋さん大賞2023の新人賞5位にも選ばれています。

漫才・テレビ・ラジオとアートを並行する現在

現在も見取り図として漫才やテレビ出演を続けながら、リリーさん個人ではラジオやアートの仕事が広がっています。

2026年にはTOKYO FMの『リリー・嶋佐のソプラノC』でニューヨークの嶋佐和也さんとパーソナリティを務め、BSよしもとでは『リリーとアートなストリート』のメインMCとして街中のアートを紹介しています。

美術短大で専門的に学びながら一度は「絵は趣味でいい」と考えた経験が、芸人として活動した後に再び現在の仕事の一つになっています。

そして2026年4月、見取り図は結成20年目へ入り、2027年3月まで1年間をかけて全国で寄席や単独ライブなどを行う「見取り図20年目イヤー」が始まりました。

「20年目です!人生でこんなに長く続いたことはありません!!」

吉本興業「見取り図20年目イヤー」

岡山・和気町で泥だんごを磨き、チラシの裏へ絵を描いていた少年は、大分の短大で偶然任された学園祭MCをきっかけに大阪のNSCへ向かいました。

そこで盛山さんと出会い、アルバイトをしながら大阪の劇場へ通い続け、2016年のM-1で手応えをつかんだ後、3年連続の決勝進出を経て活動の場所を全国へ広げました。

芸人になる前に学んでいた美術も今では絵本やアート番組として仕事に戻り、漫才と絵の両方を続けながら、見取り図20年目の時間を迎えています。

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