山内健司の生い立ち|教員免許を取った奈良教育大時代、芸人になったきっかけと濱家との出会い

人物プロフィール

生年月日
1981年1月17日
身長
168cm
血液型
B型
出身地
島根県 松江市
コンビ・グループ名
かまいたち
相方・メンバー
濱家隆一
結成年
2004年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2004年
養成所・スクール
NSC大阪校 26期

テレビやYouTubeで幅広く活躍する、お笑いコンビ「かまいたち」の山内健司さん。

コントでも漫才でも独特なボケを繰り出し、かまいたちのネタ作りを長く担ってきました。

現在の姿からは意外ですが、大学は奈良教育大学へ進み、中学校の社会と高校の地理歴史に関する教員免許を取得し、教育実習まで経験しています。

高校卒業時にはすでに芸人という進路も頭にありながら、すぐにはお笑いの世界へ進まず、いったん教師を目指せる道を選んでいました。

そこから大学卒業後にNSCへ入り、最後まで最下位のCクラスで過ごし、卒業後に濱家隆一さんから一本の電話を受けてコンビを組むことになります。

島根・中海のそばで育った少年が、どのように笑いを意識し、教師ではなく芸人になることを選び、現在のかまいたちへたどり着いたのかを順番に見ていきます。

山内健司の生い立ちと家族|島根・中海のそばで育った少年時代

山内健司さんは1981年1月17日、島根県生まれで、松江市周辺で育ちました。

子どものころの記憶をたどると、まず出てくるのが、島根県と鳥取県にまたがる中海です。

中海でハゼを釣り、学校の水槽で飼っていた子ども時代

山内さんは島根県のインタビューで、故郷について次のように話しています。

「僕の古里は島根・鳥取の県境にある湖、中海のほとり。」

島根県「シマネスク」

中学校も中海のすぐそばにあり、休み時間になると釣り竿を仕掛け、授業が終わってから引き上げることがあったそうです。

狙っていたのはハゼで、釣った魚を学校の水槽へ入れて飼うこともあり、家へ持ち帰ったときには煮付けにして食べていました。

テレビの中のお笑いとは離れた場所で、釣り竿を持って中海へ向かう生活が、山内さんの子ども時代の日常でした。

教員だった父、母、6歳下の弟と育った家庭

山内さんは両親と弟のいる家庭で育ち、弟の山内剛さんは6歳下です。

父親は教育の仕事に長く携わり、のちに小学校の校長を務め、退職後には地域の公民館長も務めています。

山内さんが後に教育大学へ進んだ背景には、身近に教師という仕事があったことが大きく関わっていました。

一方で家庭の中には、後のバラエティ番組で語れるような出来事もありました。

山内さんは後年、子どものころに両親の言い争いを聞き、母親が家を出るような話になった際、自分は連れて行かれないと知って驚いたという思い出を笑い話として披露しています。

家族の存在は、その後の進学や「教師になるか、芸人になるか」という選択の場面でも再び登場することになります。

中学・高校時代|「自分は面白い」と意識し始めるまで

山内さんがお笑いを仕事として選ぶのはまだ先ですが、中学生になると「自分は人を笑わせられる」と意識するきっかけが現れます。

その相手は、芸人でもテレビ番組でもなく、3年間担任だった古田真一朗先生でした。

中学担任との交換日記にボケを書き、「面白い」と言われた

山内さんは中学時代、古田先生と毎日交換日記をしていたと振り返っています。

普通に出来事を書くだけでなく、その日記の中へボケを書き込んでいたそうです。

山内さんの回想では、それを古田先生から「面白い」と評価されたことで、自分自身を「面白い人間」と意識するようになりました。

まだ芸人になる方法すら具体的に見えていない中学生のころに、誰かを笑わせることへの手応えを得ていました。

古田先生自身は後年、交換日記の細部までは覚えていないとしながらも、当時の山内さんについてはかなり具体的に記憶していました。

「明るくて学級で一番目立つ」

日刊ゲンダイDIGITAL

先生の記憶では、自分だけが前へ出るのではなく、おとなしい生徒も巻き込み、友人の面白いところや長所を周囲へ伝える生徒だったそうです。

生徒会長と野球部副キャプテンを経験した中学生活

中学では生徒会長を務め、野球部では副キャプテンとキャッチャーを担当していました。

交換日記のボケだけでなく、生徒会や部活動でも人の前に出る機会が多い学生でした。

その後、高校へ進んでも、この時点で芸人になるための具体的な活動を始めたわけではありません。

ただ、高校卒業が近づいたころには、進路の中にすでに「芸人」という選択肢が浮かんでいました。

高校卒業時には芸人も考えたが、すぐお笑いの世界には進まなかった

高校卒業後、そのままNSCへ入ることも山内さんの頭にはありました。

しかし、島根で育った山内さんにとって、高校を卒業してそのままお笑い芸人になるという選択は、かなり現実から離れたものに感じられたと後年語っています。

父親が教育の仕事をしていたこともあり、もう一方にあったのが教師になる道でした。

ここで芸人一本には絞らず、山内さんは関西にある教育大学への進学を選びます。

奈良教育大学へ|教員免許を取りながら残り続けた芸人への思い

山内さんが進学したのは奈良教育大学です。

教師になるための進路として選んだ一方で、関西なら島根にいるよりお笑いに触れられるのではないか、という考えもあったと本人が明かしています。

教員だった父の影響と「お笑いに近い関西」で選んだ奈良教育大学

高校卒業時にお笑いの道も考えていた山内さんですが、家族からは教員という進路も勧められていました。

そこで選んだ奈良教育大学には、教師を目指せることに加え、大阪のお笑い文化へ近づけるという側面もありました。

芸人か教師かを完全に決め切らないまま、まずは大学生として奈良で生活することになります。

大学では必要な単位を取り、資格も着実に取得していきました。

中学社会・高校地理歴史の教員免許を取得し、教育実習も経験

山内さんは奈良教育大学で学び、中学校の社会と高校の地理歴史に関する教員免許を取得しています。

大学に籍を置いただけではなく、教育実習にも参加しました。

教壇へ立ってみたことで、教師という仕事が自分に合うかどうかを実際に確かめるところまで進んでいます。

ところが大学生活の後半になると、山内さんの中で別の問題が大きくなっていきます。

以前からお笑いをやりたいと思っていたはずなのに、振り返れば、芸人になるための行動をほとんど起こしていませんでした。

就職説明会へ行かず、退路を断ってNSCへ

大学卒業が近づけば、周囲は就職活動を始めます。

山内さんは、企業から内定をもらえば安心してその会社へ就職してしまう可能性があると考えました。

そこで選んだのは、一般企業と芸人を並行して受けてから決める方法ではありませんでした。

「そこでマジで就活せずに退路を断ちました」

東洋経済オンライン

教員免許を取得しながら一般企業の就職活動もせず、大学卒業後にお笑いの養成所へ進むことを決めました。

両親も頭ごなしに反対したわけではなく、山内さんは後年、数年やって駄目なら撤退するというような話を家族としていたことも明かしています。

こうして2003年、大学を卒業した山内さんは奈良から大阪へ移り、NSC大阪校26期へ入ります。

NSC大阪26期時代|全授業に出ても最後までCクラス

NSC大阪校26期には、のちに活躍する天竺鼠、藤崎マーケット、アインシュタイン河井ゆずるさんらもいました。

大学まで進み、教員免許も取った山内さんでしたが、お笑いの養成所へ入った途端に順調なスタートを切ったわけではありません。

2003年にNSCへ入り、ピン芸人としてネタを披露

当時のNSCでは実力などに応じてクラスが分けられ、山内さんがいたのは下のCクラスでした。

発声やダンスを含めて授業には真面目に出席し、ネタ見せにも参加していました。

あるネタ見せでは、講師から「下ネタ、CMネタ、身内ネタ、時事ネタ、パクリネタは駄目」と説明された際、それを逆に「全部やれというフリ」だと思い、5つすべてを盛り込んだネタを作ったこともあります。

講師には強く叱られましたが、当時から指示をそのまま受け取らず、一度ひっくり返して笑いにしようとする姿がありました。

一度だけ組んだ「いなりずし」と、相方を探せなかった時期

NSCでは基本的にピンでネタをしていた山内さんですが、一度だけ誘われてコンビを組んだことがあります。

相手は日本人とインドネシア人のハーフの同期で、コンビ名は「いなりずし」でした。

ただ、長くは続かず解散し、再び一人で活動します。

山内さん自身はコンビを組みたい気持ちを持っていましたが、自分から周囲へ話しかけることが苦手で、相方候補を広く探せるタイプではありませんでした。

この時期、後に相方になる濱家隆一さんも同じNSC26期にいましたが、まだコンビを組む関係ではありません。

最後までCクラスでも、R-1では一回戦を突破

NSCでの山内さんは、一年間授業へ出続けても上のクラスには上がれませんでした。

「全授業出ていたんですけど、1回も昇格なかったですね。」

お笑いナタリー

卒業公演ではAクラスが3分、Bクラスが2分、Cクラスが1分というように持ち時間にも差がありました。

山内さんは真面目に通い続けながら、最後まで一度もCクラスから昇格できませんでした。

それでも本人の中では「自分のネタは面白い」という感覚が消えておらず、在学中にはピン芸の大会R-1で一回戦を突破しています。

養成所内の評価と、自分が客前で感じる手応えが一致しないまま、NSC卒業の時期を迎えました。

濱家隆一との出会い|ピンの舞台を見た一本の電話からかまいたち結成へ

山内さんと濱家隆一さんは、最初から互いを相方候補として見ていたわけではありません。

むしろNSC時代の濱家さんは別の相方と組んでは解散することを繰り返し、山内さんは一人でネタを続けていました。

NSCで濱家に連絡先を聞いた意外な理由

濱家さんは交友関係が広く、同期の中にも多くの知り合いがいました。

同じクラスになったときに濱家さんから話しかけられた山内さんは、濱家さんの人脈が自分の相方探しにも役立つかもしれないと考え、連絡先を聞いたと自身の著書で振り返っています。

この時点では「濱家と組みたい」から番号を交換したわけではありませんでした。

一方の濱家さんも、NSC入学時から山内さんのネタ自体は面白いと思っていたものの、当時は見た目のいい相方と組みたいという考えがあり、コンビ候補にはしていなかったと話しています。

卒業後のオーディションを見た濱家から「コンビ組まへん?」

状況が変わったのはNSC卒業後でした。

それまでに何度もコンビ結成と解散を経験していた濱家さんが、新しい相方を探すためオーディションライブを見に行きます。

そこにピンで出演していたのが山内さんでした。

「山内がめっちゃウケているのを見て、すぐ電話をして誘いました。」

ananweb

山内さん自身はそのオーディションには受からなかったものの、客席で見ていた濱家さんには強く残りました。

その日のうちに濱家さんから電話が入り、「コンビ組まへん?」と誘われます。

山内さんもコンビを組みたいのに相方を見つけられていなかったため、この誘いを受けました。

2004年5月「鎌鼬」結成と、山内がネタを書く形になるまで

2人は2004年5月にコンビを結成し、当初は漢字で「鎌鼬」と名乗りました。

コンビ名についてはNSC講師から「鎌鼬」という案が出され、山内さん自身は「いなりずし」など別の候補も考えていたことを後年明かしています。

結成直後には、どちらがネタを書くかもまだ決まっていませんでした。

最初のオーディションでは濱家さんが書いたネタを披露して落選し、次に山内さんが作ったネタで挑むと客席で受けました。

「客に受けるほうを選ぶ」という判断から、以後は山内さんがネタ作りの中心を担う形になりました。

NSCで最後までCクラスだった山内さんが、ここから濱家さんと2人で舞台へ立つようになります。

若手時代|同期との生活、月給7000円、早い受賞のあとも続いた下積み

コンビを組んだことで、山内さんの人間関係も変わっていきました。

NSCではCクラスだったためほとんど接点のなかった同期とも、顔の広い濱家さんを通して行動を共にするようになります。

濱家と組んでから入ったNSC26期の輪と「天竺ハウス」

天竺鼠の川原克己さんと瀬下豊さんが暮らしていた部屋には同期が頻繁に集まり、後に「天竺ハウス」と呼ばれる場所になりました。

ゲームをしたり食事をしたり、家で生まれたやり取りが舞台のユニットコントにつながったこともあったと、26期のメンバーが後年語っています。

山内さんは濱家さんと組んだ後、この同期の輪に入っていきました。

若手時代には漫画喫茶でアルバイトもしており、芸人の仕事だけで生活できる状態ではありませんでした。

2007年のABC最優秀新人賞後にバイトを辞めるも、給料は5万円で止まった

大きな結果が出たのは結成から約3年後の2007年です。

第28回ABCお笑い新人グランプリで最優秀新人賞を受賞しました。

山内さんによると、それまで吉本興業から受け取る月の給料は約7,000円でした。

受賞翌月に約1万5,000円、その後約3万円へ増えたため、芸人の仕事だけでいけると考えてアルバイトを辞めます。

「『これはバイトを辞めてもいいわ』と思って辞めたんです。けど5万円で止まりました。」

週プレNEWS

収入が足りない時期には借り入れをしながら生活し、約2年後に月15万円ほどまで上がって、ようやく借りずに暮らせるようになったと話しています。

若手向けの大きな賞を取っても、その翌日から生活が一変したわけではありませんでした。

2009年の東京でのチャンスが半年足らずで終了し「鎌鼬」から「かまいたち」へ

2009年には東京で新しい機会が訪れます。

フジテレビの若手芸人番組『ふくらむスクラム!!』のレギュラーメンバーに選ばれ、周囲からも「売れた」と言われるようになりました。

ところが番組は2009年4月から9月までで終了します。

「このとき“絶対”はないんや……と思い知りました。」

日刊SPA!

この時期には、テレビ関係者から漢字のコンビ名は読み書きしにくいという趣旨の助言も受け、それまでの「鎌鼬」から「かまいたち」へ表記を変更しました。

一度は東京の番組へレギュラー出演したものの、そのまま全国区へ定着することはなく、活動の中心は再び関西へ戻っていきます。

早い受賞だけでは売れなかったかまいたちが、賞レースで結果を重ねるまで

2007年に若手賞を取り、2009年には東京のレギュラー番組にも出演したかまいたちですが、まだ全国で広く知られるコンビにはなっていませんでした。

その後も関西の舞台や番組で活動しながら、漫才とコントの両方を続けます。

最初のABC受賞から5年、再びABCの頂点へ

転機の一つが2012年1月29日に行われた第33回ABCお笑いグランプリでした。

大会形式が刷新されたこの年、かまいたちは決勝で優勝しています。

大会公式記録によると、最終ステージで458点を獲得し、さらば青春の光を4点差で上回りました。

2007年に新人賞を取った経験がある2人にとって、同じABCの舞台で再び結果を出した形です。

当時の山内さんは、最初の受賞が早い時期だったため、お笑いの難しさを十分に理解する前だったという趣旨の振り返りもしています。

一度目の受賞から数年を経て、ネタを続けた先で改めてタイトルを取ることになりました。

漫才とコントの両方を続けながら大きな大会へ

かまいたちは一つのジャンルへ絞らず、漫才とコントの両方を続けていました。

山内さんはネタの核を考え、濱家さんと舞台で試しながら形を整えていきます。

2016年にはキングオブコント決勝へ初めて進みましたが、結果は3位でした。

翌年にはその結果を受け、単独ライブでも大会で勝つことを意識したネタ作りを進めています。

山内さんは、一本のネタで一番見せたいボケを軸に置き、そのボケが最も面白く見える状況を作って膨らませるというネタ作りの考え方も後にNSCの後輩へ説明しています。

2017年、コントと漫才の両方で決勝の舞台へ

2017年は、かまいたちの賞レース歴の中でも大きな年になりました。

秋にキングオブコントへ挑み、その後にはM-1グランプリでも初めて決勝へ進みます。

コントで結果を出したから漫才をやめるのではなく、同じ年に両方の大舞台へ立ちました。

このうち、先に大きな変化を生んだのがキングオブコントでした。

キングオブコント2017優勝から東京進出へ

2017年10月1日、かまいたちはキングオブコント2017の決勝へ出場しました。

前年の3位からもう一度決勝へ戻り、今度は優勝を争います。

結成13年目でキングオブコント王者に

ファーストステージを通過したかまいたちはファイナルステージでも得点を重ね、大会公式記録で10代目キングとなりました。

2004年の結成から13年、キングオブコント2017で初めてコント日本一のタイトルを獲得しました。

決勝で披露したネタについて、山内さんは当時「ネタは100対0で僕が書いてる」と冗談を交えながら話し、長く続けてきたネタ作りが大会でも結果につながりました。

優勝直後には、すでに大阪だけでなく全国で活動したいという意志を示しています。

「このチャンスを生かして全国区になりたいと思います」

マイナビニュース

優勝を受けて東京進出を決断し、関西の仕事を半年かけて整理

キングオブコント優勝後、かまいたちはすぐ大阪の仕事をすべて手放して東京へ移ったわけではありません。

当時すでに関西で複数のレギュラーを持っていたため、番組を卒業するための期間が必要でした。

山内さんは2018年のインタビューで、東京進出が決まった理由について明確に答えています。

「17年の『キングオブコント』で優勝したことで決定しました。」

マイナビニュース

半年ほどの猶予をもらって関西のレギュラーを整理し、2018年4月、本格的に東京へ進出しました。

東京へ向かう山内さんには、長く世話になっていた千鳥のノブさんから「一年は潜るぞ」と、すぐには東京のテレビへ定着できない可能性も伝えられたそうです。

2009年にも一度東京の番組へ出演して短期間で終了した経験があり、今回は関西で積み上げた仕事を持った状態から改めて東京へ向かいました。

M-1グランプリ2019準優勝までタイトルを追い続けた

東京進出後も、かまいたちは賞レースへの挑戦を続けました。

M-1グランプリでは2017年、2018年と決勝へ進み、結成15年目の2019年が出場資格上のラストイヤーでした。

当初、山内さんは前年を最後のつもりで全力を注いだため、2019年大会へ出場するか迷っていました。

それでも濱家さんは、前年の自分の漫才に納得できない部分があり、もう一度出たいと山内さんへ伝えます。

2人はラストイヤーのM-1へ出場し、2019年12月22日の決勝で準優勝しました。

M-1グランプリ公式記録では、ファーストラウンドで660点を獲得して2位通過し、最終決戦でミルクボーイに次ぐ2位となっています。

山内さんは大会前、2017年にキングオブコントを取ったうえでM-1まで勝てば「2冠」になることを目標にしていました。

優勝には届かなかったものの、この2019年大会の後、2人にはそれまで東京では任されにくかったMCやメインの仕事が増えたと本人たちは振り返っています。

ネタを書く山内健司と現在のかまいたち

キングオブコントとM-1を経た後も、山内さんと濱家さんは漫才やコントを完全に離れたわけではありません。

結成直後に決まった「山内さんがネタを作る」という形も、その後のかまいたちに長く残っています。

山内がネタの土台を作り、2人で何度も直していくスタイル

濱家さんは後年、山内さんが一つのネタを作ると、そこから2人で話し合いながら何度も書き直すと明かしています。

一つのネタが100稿ほどに達することもあるという話からは、最初のオーディションで山内さんのネタを選んだ後も、舞台で試しながら作り続けてきた様子が分かります。

2017年のキングオブコントでは山内さんがネタを「100対0」で書いていると話していましたが、実際の舞台では濱家さんと間や動きを合わせ、客前で形にしていきます。

またM-1へ挑んでいたころには、賞レースだけで受ける漫才ではなく、どこで演じても受けるしゃべくり漫才を意識するようになったとも語っています。

NSC時代に一人でネタを作っていた山内さんのスタイルは、濱家さんという相方を得て、長い年月をかけてかまいたちの漫才とコントへ広がっていきました。

若手時代に挑んだ賞レースで、現在は審査する側へ

山内さんの現在地を示す出来事の一つが、お笑い賞レースでの審査です。

2026年7月に行われた第47回ABCお笑いグランプリでも、山内さんは陣内智則さん、ダイアンのユースケさん、マヂカルラブリーの野田クリスタルさんらとともに審査員を務めました。

ABCの大会は、山内さん自身が若手時代の2007年に最優秀新人賞を取り、2012年にも優勝した舞台です。

月給約7,000円だった時代に挑戦していた大会で、現在は若手芸人のネタを見る側に立っています。

島根の中海でハゼを釣り、中学では交換日記へボケを書いていた山内健司さんは、奈良教育大学で教員免許を取得したあと、就職活動をせずNSCへ進みました。

NSCでは最後までCクラスのままでしたが、卒業後にピンの舞台を見ていた濱家隆一さんから電話を受け、2004年にかまいたちを結成しました。

若手時代の受賞と伸び悩み、キングオブコント優勝、東京進出、M-1ラストイヤーを経て、今もその2人で舞台とテレビの仕事を続けています。

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