人物プロフィール
オレンジ色の衣装と高い声のツッコミで知られる、カナメストーンの零士さん。
本名は東峰零士(とうみね・れいじ)で、相方の山口誠さんとは中学生のころからの付き合いです。
2025年には結成15年目のラストイヤーで「M-1グランプリ」初の準決勝へ進み、敗者復活戦を勝ち上がって決勝の舞台に立ちました。
現在まで続く二人の関係をたどると、その始まりは養成所でもお笑いライブでもなく、茨城県鹿嶋市の中学校で過ごした何気ない時間と、中学3年の文化祭までさかのぼります。
しかも零士さんは高校卒業時には芸人になると決めていたにもかかわらず、山口さんが大学でサッカーを続けたため、自分も大学へ進学して4年間待つという道を選びました。
なぜ、そこまで山口さんと一緒に芸人になりたかったのでしょうか。
零士の生い立ちと家族|鹿嶋で育った5人兄弟の4番目
零士さんは1986年12月19日生まれ、茨城県鹿嶋市出身です。
本人のnoteによると、きょうだいは5人で、零士さんはその4番目の次男として育ちました。
5人兄弟の4番目の次男として茨城県鹿嶋市で育つ
現在の所属事務所であるマセキ芸能社の公式プロフィールでも、出身地は茨城県鹿嶋市とされています。
幼いころの家庭について、父親や5人きょうだいそれぞれの詳しいプロフィールは多く公表されていませんが、母親との思い出については本人が具体的に語っています。
その記憶で繰り返し登場するのが、家で囲んでいた食卓です。
母の料理を囲み、家族全員で食卓についた子ども時代
松屋フーズ公式noteの取材で、零士さんは実家について、家は広くなく、小さなテーブルに母親が作った料理を並べ、家族みんなで食べていたと話しています。
「母ちゃんの飯がとにかくうまかったですね!」
松屋フーズ公式note
その母親の料理が好きだったため、中学生になって友人たちとファミリーレストランへ行くようになっても、零士さんと山口さんはそこで満腹になるまで食べませんでした。
サッカー部の仲間が食事をしている横でサラダ程度にしておき、夕食の時間になると家へ帰って、それぞれの家庭で夕飯を食べていたそうです。
友人との外食より家の夕飯を残しておきたいほど、母親の料理が身近な楽しみだったことが分かるエピソードです。
もちろん、中学生らしい反抗期もありました。
中学2年ごろには、家の唐揚げにレモンが付いていなかったことに腹を立て、母親へ強く文句を言ったこともあったと笑いながら明かしています。
小中学校ではサッカーに夢中だった「ロン毛のゴールキーパー」
学校生活で長く続けていたのはサッカーでした。
本人のnoteには「小中はサッカー部、高校はボクシング部」とあり、中学ではゴールキーパーを務めています。
後に相方になる山口さんは、小学生のころから別のサッカー少年団にいた零士さんの存在を知っており、当時の姿を「ロン毛のゴールキーパー」として覚えていました。
ただし、この時点ではまだ親友ではありません。
鹿島中で山口誠と出会い、「粉吹いてんのかよ!」から親友へ
零士さんと山口さんが本格的に同じ時間を過ごすようになったのは、鹿嶋市立鹿島中学校へ進学してからでした。
二人ともサッカー部に入ったものの、出会った瞬間から気が合ったわけではありません。
別の小学校から同じサッカー部へ|最初は互いに嫌っていた
零士さんは自身のnoteで、入学当初の山口さんを学校で一番嫌いだったと言ってもいいほど苦手だったと振り返っています。
理由は「なんとなく生意気そう」というもので、家に帰って母親へ「嫌いなやつがいる」と相談したほどでした。
しかも後になって聞くと、山口さんも零士さんを嫌っていたそうです。
同じサッカー部に所属しながら、二人がまともに話すようになるまでには2年近くかかりました。
中学2年の冬、その関係を変えたのは、当時人気だった音楽デュオ19(ジューク)でした。
山口さんが19の歌詞を思い出せず友人と話していたところ、歌詞を知っている零士さんへ質問し、零士さんが答えると山口さんは素直に「ありがとう」と返しました。
それまで抱いていた印象がそこで崩れ、二人は急速に一緒にいるようになります。
中2の冬、「粉吹いてんのかよ!」を境に距離が縮まる
仲良くなったあとには、山口さんが給食用のスプーンを零士さんから借りて、わざと食べ物を付けたまま返したり、零士さんの買ったばかりの靴へ勝手にサインを書いたりするような関係になりました。
そして零士さんが、山口さんへ初めてしたツッコミも覚えています。
真冬、乾燥していた山口さんの顔を見た零士さんが放ったのが、「なにそれ粉ふいてんじゃん!」という言葉でした。
山口さんは後年のインタビューで、零士さんが遠慮せず自分へ言ってきたことがうれしかったと振り返っています。
サッカーの試合中にも、山口さんはほかの選手がボールを追っている隙に、ゴールキーパーの零士さんだけへ見えるように変な走り方をすることがありました。
零士さんはゴール前からそれを見つけ、「怒られるからやめろ」と小声で止めていたそうです。
後のカナメストーンにも見られる、山口さんが妙なことを始め、零士さんがすぐ反応するという二人のやり取りは、このころにはすでに日常の中にありました。
中3文化祭で「14」を結成|全校生徒の前で笑いを取った
中学3年になると、二人は同じサッカー部のもう一人を加え、文化祭でショートコントを披露しました。
トリオ名は「14(ジューシ)」です。
好きだった「19」が当時19歳だったことになぞらえ、自分たちが14歳だったため「14」と名付けました。
全校生徒の前で披露したショートコントでは、山口さんの言葉へ零士さんがツッコむ形もすでにありました。
そして予想以上に客席から笑いが起きます。
「山口とお笑いをやることしか考えられなくなる」
カナメストーン 零士 公式note
零士さんが「山口と芸人になる」という進路を意識した原点は、中学3年の文化祭でした。
ただし、二人がそのまま卒業後すぐコンビを組んだわけではありません。
高校ではサッカーからボクシングへ|木更津で始まった寮生活
中学まで続けていたサッカーから離れ、高校では零士さんの生活の中心がボクシングへ変わります。
しかも、競技を始めたきっかけはかなり偶然でした。
『HEY!HEY!HEY!』の「ジム」を勘違いしてボクシングを始める
ボクシングを始めたのは中学2年の冬です。
冬は日没が早く、サッカー部の練習が早めに終わってしまうため、零士さんは物足りなさを感じていました。
そんな時期にテレビ番組『HEY!HEY!HEY!』を見ていると、浜田雅功さんが「ジムへ通っている」と話していました。
零士さんは、その「ジム」をボクシングジムのことだと勘違いします。
すぐに両親へ頼み、サッカー部の練習後にボクシングジムへ通わせてもらうことになりました。
本人も後になって、浜田さんが言っていたのはスポーツジムだったと気付いていますが、その勘違いから本当にボクシングへ夢中になりました。
茨城を離れて木更津へ|高校2年で千葉県大会優勝
高校ではボクシング部へ入ると決め、地元の茨城県を離れて千葉県木更津市の高校へ進学し、寮生活を始めました。
マセキ芸能社の公式プロフィールには、高校2年時にボクシング総合体育大会新人戦の千葉県大会で優勝した経歴が掲載されています。
高校時代の本人noteには、1学年上のタメイケ先輩との思い出も残っています。
それまで試合に勝てていなかった先輩が、最後の大会でも慣れ親しんだ激戦区のフェザー級を選び、強豪相手へ挑む姿を零士さんはリングサイドで見ていました。
試合は敗戦に終わりましたが、最後まで倒れまいとする先輩を見て、零士さんは大泣きしたと書いています。
高校時代は、ボクシングで結果を残すだけでなく、地元を離れて寮で暮らす生活を送っていました。
高校卒業時には「芸人になる」と決めていた
高校ではボクシングに打ち込んでいた一方、お笑いへの気持ちが消えたわけではありませんでした。
テレビ朝日「logirl」のインタビューで、零士さんは高校卒業時には芸人になることを決めていたと明かしています。
芸人になりたいだけなら、卒業後すぐ養成所へ進むこともできました。
ところが零士さんにとっては、誰かと芸人になることではなく、山口さんと一緒に芸人になることが重要でした。
拓殖大学の4年間は「山口待ち」|2週間に1度静岡へ
高校卒業が近づいたころ、零士さんは養成所へ進むつもりでいました。
しかし山口さんは、大学でもサッカーを続ける道を選びます。
養成所へ行く予定から一転、山口に合わせて大学進学
山口さんから大学へ進学すると電話で聞かされた零士さんは、自分も急きょ進学へ方針を変更しました。
進学先は現在のマセキ芸能社公式プロフィールにも掲載されている拓殖大学商学部経営学科です。
両親には、進路を変えたいことを改めて頼み、4年間で必ず卒業すると約束したといいます。
「完全に待ちの4年間です」
テレビ朝日 logirl
大学進学そのものが、山口さんがサッカーを終えるのを待つための選択でした。
大学では自分の学生生活を送りながらも、卒業後に山口さんと芸人になるという考えは変わりませんでした。
東京から静岡へ通い、節目ごとに山口を芸人へ誘う
山口さんは静岡県の大学へ進み、サッカーを続けていました。
二人は別々の場所で大学生活を送ることになりますが、零士さんは約2週間に1度のペースで静岡まで山口さんに会いに行ったといいます。
高校卒業、大学入学といった節目になるたびに芸人へ誘い続け、山口さんがお笑いへの興味を失わないようにしていました。
もっとも、零士さん自身は単に説得だけを目的にしていたわけではなく、大学生になっても山口さんと一緒に遊ぶ時間そのものが楽しかったとも語っています。
このころ山口さんは、お笑いについてほとんど詳しくありませんでした。
零士さんは2005年の「M-1グランプリ」で優勝したブラックマヨネーズの漫才を見るよう勧めましたが、山口さんは小杉竜一さんをボケだと思っていたほどでした。
零士さんは逆に、その既存のお笑いの型を知らない感覚を面白がり、芸人になることが決まってからも山口さんへ「そのまんまでいい」と伝えています。
サッカーのプロテスト不合格を待ち、NSCの願書を差し出した
大学卒業が近づくころ、山口さんはサッカー選手を目指してプロテストを受けました。
零士さんはその結果を待ちながら、心の中では「落ちろ」と願っていたと率直に明かしています。
そして山口さんがプロテストに合格できなかったことを知ると、零士さんはすでに取り寄せていたNSCの願書を示しました。
山口さんもそこでサッカーをやり切ったと区切りをつけ、お笑いの道へ進むことを決めます。
中学3年の文化祭から約7年を経て、零士さんが待ち続けていた二人での芸人人生がようやく動き始めました。
NSC東京15期へ|カナメストーン結成と共同生活の始まり
2009年、二人はそろってNSC東京校15期へ入学しました。
零士さん本人のnoteには、養成所へ入ったばかりのころの二人の姿が細かく残されています。
2009年に2人でNSCへ入り、ネタ見せ中心の日々へ
零士さんの記憶では、入学当初には約700人がおり、多くの若者が自分こそ面白いと思いながら集まっていました。
二人の衣装は古着のジーンズとTシャツで、髪型はパーマモヒカンとおかっぱという組み合わせでした。
NSCの入学費40万円についても一括ではなく、零士さんは2年、山口さんは3年の分割払いにしていたと本人が書いています。
授業の中心は、作家や同期の前でネタを披露して意見を受けるネタ見せでした。
東京校と大阪校の対抗戦メンバーを決める重要なネタ見せの前日には、二人でバリカンを使って互いの髪を刈り、山口さんは限界まで短くして本番へ臨みました。
二人は選抜メンバーに入ることができましたが、対抗戦本番ではほとんど笑いが起こらず、零士さんは後に「0笑い」だったと書いています。
笹塚の初舞台から始まった「ウケない」若手時代
初めて一般のお客さんの前でネタを披露したのもNSC時代でした。
ネタ見せで評価され、「外のライブへ出てみよう」と声をかけられ、笹塚の劇場へ出演します。
舞台へ二人で出た瞬間には客席から少し反応があったため、「これはウケる」と感じたそうです。
ところが、話し始めると客席は静かになりました。
「なんなら5年間ぐらい1回もウケてない」
テレビ朝日 logirl
最初のころには、ジョン・レノンとリンゴ・スターが憑依するという設定のネタなど、自分たちが面白いと思う発想をそのまま舞台へ持ち込んでいました。
養成所内では評価されてライブへ出られても、一般客の前では笑いにつながらない状態が4〜5年ほど続きます。
それでも二人は、自分たちが面白くないのではなく、面白さがまだ客席へ伝わっていないと考えていました。
母が出した「要石」の案からカナメストーンという名前へ
二人は2010年4月にカナメストーンを結成しました。
コンビ名のもとになったのは、地元・鹿嶋市にある鹿島神宮の要石(かなめいし)です。
名前を考えるなかで零士さんの母親から要石を使う案が出たことがきっかけとなり、「カナメストーン」という名前につながりました。
幼いころの食卓だけでなく、芸人として使い続けるコンビ名にも地元と家族が残ることになりました。
零士から山口を誘い、芸人生活と同時に二人暮らしを始める
NSCへ入った2009年から、二人は同居生活も始めています。
大学時代から東京に住んでいた零士さんが、静岡から上京する山口さんへ「広い部屋を探しておく」と声をかけたことが始まりでした。
零士さんは、お笑いへ誘った理由についても、中学時代に山口さんと過ごした時間があまりにも楽しく、それをもう一度味わいたかったからだと話しています。
一緒に住めば、その時間をさらに長くできるという考えでした。
後に二人が暮らした一軒家では、山口さんが1階、零士さんが2階に自室を持ち、別の6畳ほどの部屋をネタ作りのために使っていました。
芸人としての活動と、相方との共同生活がほぼ同時に始まったことになります。
吉本時代の下積み|「バスク」の衝撃で外へ出る決断
NSC卒業後も二人は吉本興業で活動しましたが、すぐに劇場の中心へ入れたわけではありませんでした。
最初の数年間は、舞台へ出ても思うように笑いを取れない時間が続きます。
約5年間、思うように笑いが取れない時期が続く
山口さんは当時について、吉本の劇場にもほとんど出られなかったと話しています。
それでも4〜5年が過ぎるころには、少しずつ客席から笑いが起こるようになっていました。
二人が考えていたのは、「自分たちの発想は面白いが、それを伝える技術がまだ足りない」ということでした。
そのため、辞める方向へは進まず、どうすれば山口さんの発想を客席へ届けられるのかを試し続けていました。
ライブ「バスク」で街裏ぴんくたちを見て衝撃を受ける
その考えが大きく揺れたのが、ライブ「バスク」への出演でした。
「バスク」には、街裏ぴんくさん、モグライダー、ななまがり、メイプル超合金、錦鯉、虹の黄昏ら、強烈なスタイルを持つ芸人たちが出演していました。
とりわけ零士さんが衝撃を受けたのが、街裏ぴんくさんです。
自分たちと同じように一見すると分かりにくい、奇妙な発想のネタをしているのに、街裏ぴんくさんの舞台では客席が大きく沸いていました。
「『お客さんに伝わってないだけ』っていう言い訳ができなくなった」
テレビ朝日 logirl
自分たちの出番の前に街裏ぴんくさんが大きな笑いを取ったあと、カナメストーンは萎縮し、ほとんど笑いを取れなかったこともありました。
「技術さえ付けばいつか追いつける」というそれまでの考えが、このライブで崩れました。
以降は「バスク」に集まる芸人たちへ勝ちたいという意識でネタを作り続け、少しずつ同じ場所でも笑いを取れるようになります。
2015年に吉本を離れ、マセキのオーディションへ
カナメストーンは2015年に吉本興業を退所しました。
零士さんは、吉本を離れた時点で仕事の安定を優先していたわけではなく、「バスク」にいる芸人たちへ勝つことを先に考えていたと語っています。
吉本を出た二人はライブシーンで活動を続けながら、次の所属先を探していきました。
零士さん本人のnoteにも、現在のマセキ芸能社には養成所からではなく、オーディションを受けて所属したと記されています。
マセキ加入後も続いたライブ中心の日々
吉本を離れたからといって、すぐテレビ出演が増えたわけではありません。
二人はライブへ出演しながらネタを磨き、マセキ芸能社への所属を目指しました。
2017年にマセキ芸能社所属へ|オーディションを経て新たな環境へ
カナメストーンは2017年からマセキ芸能社に所属しています。
マセキにはナイツ、三四郎、モグライダーらが所属し、二人は事務所ライブにも出演するようになりました。
ただ、事務所が変わったことで、それまでの生活が一気に別物になったわけではありません。
若手時代と同じように、山口さんとの共同生活とライブ出演を続けながら漫才を作っていきました。
アルバイトと共同生活を続けながら漫才を磨く
仕事だけで生活できない時期にはアルバイトをしながら芸人活動を続けました。
それでも二人が別々に暮らすことはなく、家へ戻れば同じ生活がありました。
松屋フーズの取材では、いいネタができると二人で買い物へ出かけ、家で鍋を囲むことがちょっとしたご褒美になっていたことも紹介されています。
山口さんが料理を作り、零士さんが食べて大きく反応し、相方の料理が友人たちに褒められると零士さんも喜ぶという食卓でした。
中学生のころにそれぞれ実家の夕飯を楽しみに帰っていた二人は、大人になると同じ家で食卓を囲むようになっていました。
山口のボケを零士が「翻訳」する現在の漫才へ
カナメストーンのネタは、どちらか一人が完成した台本を書いて持ってくる形ではありません。
現在も二人で一緒にいるときにネタを作るのが基本です。
かつてはネタ帳へ書いていたものの、文字にすると発想が固定されるため、現在は二人で試したやり取りを動画で残す形へ変わりました。
山口さんは、お笑いの定石をほとんど知らないまま芸人になった人物です。
零士さんは中学生のころから、山口さんが突然見せる変な行動を見つけて反応してきました。
山口さんの独特な発想を、零士さんの言葉と反応によって客席へ伝えるという現在の漫才は、二人の日常の延長で作られています。
初期のころに苦戦した「自分たちの面白さをどう伝えるか」という問題にも、長いライブ活動のなかで二人なりの形が生まれていきました。
ライブでは評価されても賞レースで結果が出ない10年間
ライブシーンで存在感を高めても、賞レースではなかなか大きな結果に届きませんでした。
2015年に吉本を離れてから2025年まで、M-1をはじめとする大きな大会の決勝には進めない時間が続きます。
普段のライブでは出せる「遊び」の部分を、M-1になると勝ちたい気持ちから固めすぎてしまうこともあったと二人は振り返っています。
2024年のM-1準々決勝後には、零士さんが自分のミスを悔しがってPodcastで泣いたこともありました。
それでも、芸人を辞めようという話は二人の間で一度も出なかったといいます。
「『辞めたい』は一回もないね」
テレビ朝日 logirl
最初の4〜5年間、ほとんど笑いが起きない時期でも続けてきた二人にとって、ライブで笑ってくれる人がいる状況は、むしろ続ける理由になっていました。
M-1ラストイヤーで初の決勝へ|15年目に変わった景色
そして結成15年目の2025年、カナメストーンはM-1のラストイヤーを迎えました。
それまで準々決勝の壁を越えられなかった二人は、この年初めて準決勝へ進みます。
2025年に初の準決勝進出、直接決勝を逃して零士が涙
ラストイヤーを前にした零士さんは、金属バット、ツートライブ、ランジャタイ、トム・ブラウンら、先にM-1のラストイヤーを経験した芸人たちから話を聞きました。
そこで伝えられたのは、大会の型へ合わせることより、自分たちが面白いと思うことをやり、最後のM-1を楽しむという考えでした。
二人はそれまで「M-1向きではない」と避けていた、自分たちが純粋に好きなネタを選びました。
その結果、2025年11月の準々決勝を突破し、結成15年目にして初めてM-1準決勝へ進出します。
準決勝でも周囲から手応えを伝えられ、オズワルドの畠中悠さんや野澤輸出さんから「行った」と言われるほどでした。
しかし決勝進出者9組の中に、カナメストーンの名前はありませんでした。
発表が終わったあと、零士さんと山口さんは握手を交わします。
初めて準決勝まで来られたこと、自分たちなりにいい漫才ができたことへの感謝を込めた握手でした。
それでも零士さんは、その日の漫才で負けたことが悔しく、舞台裏で涙を流しました。
仲間と敗者復活戦の作戦を練り、最後の1枠をつかむ
準決勝で敗れた直後、大鶴肥満さんから「敗者復活がある」と声をかけられ、零士さんは次の舞台を意識します。
帰り道では、最寄り駅が同じだったカベポスターの浜田順平さんから一緒に飲もうと誘われました。
そこへ畠中悠さん、野澤輸出さん、鶴亀の古賀充泰さんらも加わり、自然と敗者復活戦の作戦会議が始まります。
「このネタで行こう」「最後のくだりはこちらにしよう」と具体的に話し合い、その夜のうちに敗者復活戦でやる内容が固まりました。
2025年12月21日の敗者復活戦ではBブロックを勝ち上がり、最終決戦でミキとの投票を制して、決勝最後の1枠をカナメストーンが獲得しました。
勝ち上がった直後、芸人仲間からハイタッチで送り出された二人はテレビ朝日の決勝会場へ向かいました。
何か一言を求められた零士さんの口から出たのは、考え抜いた言葉ではなく「行ってきまーす」でした。
会場へ着くと、長く一緒にライブを続けてきた真空ジェシカとママタルトも楽屋へ駆けつけ、決勝進出を祝いました。
それまで真空ジェシカ、続いてママタルトがM-1決勝へ進み、カナメストーンだけが届かない時期を経て、3組が同じ年の決勝へそろうことになりました。
M-1決勝7位・830点|仕事が増え始めたカナメストーン
敗者復活から決勝会場へ移動した二人には、決勝用のリハーサルを十分に行う時間もありませんでした。
零士さんは舞台へ出て山口さんのほうを向いた瞬間、目の前に並ぶ審査員の多さを初めて強く意識し、ネタが飛びそうになったと振り返っています。
それでも二人は「ダーツの旅」をモチーフにした漫才を最後まで披露しました。
M-1公式記録によると、得点は830点で10組中7位でした。
優勝には届かなかったものの、二人は敗者復活戦と決勝の両方で自分たちなりのベストを出せたと受け止めています。
15年間届かなかった大きな大会の決勝へ、最後の挑戦で初めてたどり着きました。
M-1後には仕事の量も変わり、二人が長く続けてきた生活にも変化が生まれました。
17年目の共同生活と「第2ステージ」に入った現在
2026年の「ほぼ日」の取材時点でも、零士さんと山口さんは大学卒業後から17年間にわたって同居を続けています。
寝る部屋だけは別ですが、それ以外の時間は家で映画やYouTubeを見たり、食事をしたり、ネタを作ったりして過ごしてきました。
M-1決勝後は仕事が増え、それまでのようにライブ後に酒を飲みながら朝4時ごろまでドラマを見ることは難しくなりました。
「カナメストーンの第2ステージ始まったか」
ほぼ日「カナメストーンの、覚悟と心。」
2026年には全国ライブのタイトルに、中学時代の最初のツッコミだった「粉吹いてんのかよ」が使われています。
中学2年の冬、山口さんの乾燥した顔へ何気なく放った一言が、40歳を迎えるころには二人の全国ライブの名前になりました。
鹿嶋市の中学校で山口さんと笑っていた時間から始まり、零士さんは高校を卒業しても4年間待ち、二人でNSCへ入り、客席が静かな舞台にも立ち続けてきました。
その山口さんと15年目のM-1決勝に立ったあとも、二人は同じ家で暮らしながら漫才を作っています。
零士さんが中学3年の文化祭で思い描いた「山口とお笑いをやる」という時間は、現在も続いています。












コメントを残す