人物プロフィール
マヂカルラブリーの村上さんといえば、2020年のM-1グランプリを制したコンビで、野田クリスタルさんの大きな動きに言葉を重ねるツッコミでも知られています。
「村上」という名字は芸名で、本名は鈴木崇裕(すずき・たかひろ)です。
生まれ育ったのは愛知県新城市で、両親は公務員という家庭から、東京の法政大学へ進みました。
ただ、大学へ入った時点で芸人になると決めていたわけではなく、文学部日本文学科で学びながら国語教師という進路も考えていました。
芸人人生を大きく動かしたのは、法政大学のお笑いサークル「HOS」と、そこでつながった野田クリスタルさんとの出会いでした。
高校でお笑いに夢中になった少年が、なぜ教師や就職ではなく芸人を選び、自分から野田さんを誘ってマヂカルラブリーを結成したのか、若手時代からM-1優勝後までを時間順にたどります。
村上の生い立ちと家族|愛知県新城市の公務員家庭で育つ
村上さんは1984年10月15日、愛知県新城市に生まれました。
現在のテレビで見せる姿から時間を戻すと、最初にあるのは山や川が身近な新城での暮らしです。
両親は公務員、姉のいる家庭で過ごした子ども時代
本人のインタビューによると、父親と母親はともに公務員で、家族には姉がいます。
父親は日常的に腕時計を着ける人で、村上さんは小学生のころから「男の人は時計を着けるもの」という感覚を持ち、近所の雑貨店で数千円ほどの腕時計を買った記憶も後年語っています。
新城では川も遊び場で、子どものころには友人と「どこまで川を流れていけるか」を競うような遊びをしたことも、市の企画で思い出として挙げています。
一方、家庭ではテレビを自由に見続ける環境ではなく、本人は両親を「堅い」と表現し、小さいころはお笑い番組をあまり見せてもらえなかったと話しています。
鳳来中から新城東高校へ|地元で過ごした学生時代
新城市の公式資料では、村上さんは鳳来中学校から新城東高等学校へ進学したことが確認できます。
新城東高等学校は現在の新城有教館高等学校につながる学校で、高校卒業まで地元・新城で過ごしました。
この高校時代になって、幼いころには十分に見られなかったお笑い番組を自分から追いかけるようになります。
新城東高校でお笑いに熱中|『爆笑オンエアバトル』を繰り返し見た青春時代
村上さんがお笑いを本格的に好きになったのは、本人の記憶では高校生くらいからでした。
ここから、見るだけだったお笑いが少しずつ自分の進路にも近づいていきます。
子どものころに見られなかったテレビを高校で一気に見る
高校へ入ると、それまでの反動もあってテレビにかじりつくようにお笑い番組を見始めました。
中でも強く惹かれたのが、NHKで放送されていた『爆笑オンエアバトル』です。
毎週の放送を録画し、同じビデオテープが擦り切れるほど繰り返して見たと、法政大学の広報誌で振り返っています。
テレビに出る芸人を何となく眺めるのではなく、同じネタを何度も見るほど深く入り込んでいた時期でした。
高校では人を笑わせていたが、まだ芸人は現実的な進路ではなかった
2026年のインタビューでは、高校時代にも自分でお笑いをやっていたことを明かしています。
身近な人の前ではかなり笑いを取れたという感覚があり、その経験を持ったまま大学へ進みました。
ただし、高校卒業時点で「芸人一本」と決めていたわけではなく、進学先ではむしろ国語教師という現実的な進路を考えていました。
法政大学でHOSへ|国語教師を考えながら学生お笑いを始める
高校卒業後、村上さんは上京して法政大学文学部日本文学科へ進みます。
ここで出会ったお笑いサークルHOSが、テレビ好きだった大学生を舞台へ立つ側に変えていきました。
姉が通う東京へ|法政大学文学部日本文学科に進学
東京へ出ることを考えた背景には、先に姉が東京の大学へ通っていたことがありました。
大学選びでは、ナインティナインの岡村隆史さんが有名私大出身だと知り、「お笑い芸人なのに勉強もできる」という意外さに衝撃を受け、自分も広く知られた大学を目指したと語っています。
当時の希望職種は国語教師だったため、日本語や文学を学べる日本文学科を選び、大学では教職課程にも進みました。
女性の先輩から誘われHOSへ|最初の舞台では笑いが取れなかった
入学時には大学にお笑いサークルがあることすら知らなかったものの、新歓の時期に女性の先輩たちから声をかけられたことがHOSへの入口になりました。
本人は「この人たちと仲良くなれるかも」という気持ちもあって入ったと笑いながら話していますが、加入後は同じ熱量でお笑いの話ができる環境にすぐ入り込みました。
ところが、身内ではない観客を前にした大学での初舞台ではネタがほとんどウケず、高校時代との落差を初めて味わいます。
同じ舞台に出ていたプロ芸人はきちんと客を笑わせており、自分たちの「面白い」とプロが舞台で作る笑いの間に差があることも、このころ実感しました。
HOS5期生として学生お笑いに熱中|当時はボケとして舞台に立つ
村上さんはHOSの5期生で、当時はサークル全体でも20人いるかどうか、演者は5人ほどという小さな集まりでした。
大学内の空き部屋でネタ作りや練習を重ね、ライブへ出る生活が続き、マヂカルラブリー結成前には複数のユニットやコンビでボケを担当していました。
HOSは2005年、2006年の「大学お笑い日本一決定戦」で連覇し、村上さんも団体の一員として舞台に立っています。
現在はツッコミとして知られる村上さんにも、学生時代にはボケ側でネタを作っていた時期がありました。
大学祭へ呼んだピン芸人・野田クリスタルは大苦戦していた
HOSでは大学祭にプロ芸人を招く企画もあり、その出演者の一人に、まだピン芸人だった野田クリスタルさんがいました。
後に相方となる人物をすでに学生時代に見ていたことになりますが、その日の野田さんは村上さんの記憶ではかなり苦戦し、サークル内で「誰が呼んだんだ」と言われるほどでした。
この時点ではコンビ結成には至らず、村上さんはHOSで学生お笑いを続けながら、教師や就職を含めた卒業後の進路を考えていきます。
教師・就職から芸人へ|野田クリスタルを出待ちしてマヂカルラブリー結成
大学生活の後半に入っても、村上さんの中で「お笑いが好き」と「自分がプロになる」は同じ意味ではありませんでした。
教職課程、就職活動、学生お笑いを経て、卒業が近づくにつれて芸人という選択肢が現実のものになります。
20歳では「芸人にはなれない」と考え、教職課程を進む
20歳ごろには芸人への憧れ自体はありましたが、自分が職業にできるとは考えていませんでした。
「20歳の頃は“芸人になれるわけがない”と思ってました。」
マイナビニュース
そのため教職課程を取り、日本文学科で4年間学んだ末に国語の教員免許も取得しています。
一方で、当時は地下のお笑いライブにも足を運び、一般的なテレビの笑いよりも尖った表現に面白さを感じるほど、お笑いを見る目は深く入り込んでいました。
就職活動を経て、HOSで続けてきたお笑いを仕事に選ぶ
卒業が近づくと就職活動も経験し、本人は後年、就職しようとして30社ほど落ちたと振り返っています。
ただ、芸人になった理由を就職活動の結果だけで説明すると、大学で積み重ねた時間が抜け落ちます。
HOSでは何年も舞台に立ち、ネタを作り、学生大会にも出場し、すでにお笑いを生活の中心に置く時間が続いていました。
教員免許を取得し就職活動もしたうえで、最終的には就職ではなく、HOSで続けてきたお笑いを仕事にする道を選びました。
「ガムテープ男の物語」を見て野田クリスタルに声をかける
相方を探す段階になると、村上さんは共通の先輩芸人を通して、ピンで活動していた野田さんも相方を探していることを知ります。
そこで実際に野田さんのライブへ足を運び、体にガムテープを貼った人物を演じるピンネタ「ガムテープ男の物語」を見ました。
「僕は『これだ!』みたいになってました」
ニッポン放送 NEWS ONLINE
大学祭で大苦戦していたころとは違い、そのライブでは野田さん独特のネタに強く惹かれました。
村上さんはライブ会場の中野twlで野田さんを出待ちし、事前に先輩を通して「コンビを組みたがっている人がいる」と伝えてもらったうえで、本人へ直接声をかけます。
「僕と組みませんか」と声をかけたのは村上さん側で、野田さんがその申し出を受けたことから現在のコンビが始まりました。
2007年2月に結成|本名・芸名「村上」とコンビ名の由来
M-1グランプリ公式のコンビ情報では、マヂカルラブリーの結成年は2007年2月と記録されています。
ただし、2人は後年のラジオで正確な結成日をはっきり覚えていないことも話しているため、日にちまでは断定できません。
村上さんの本名は鈴木崇裕で、「村上」は漫画・ドラマ『東京大学物語』の主人公・村上直樹から取った芸名です。
コンビ名について野田さんは後年、2人が「かわいい」と思う言葉を出し合って生まれたと説明しており、「マヂカル」と「ラブリー」を組み合わせた名前が長く続くことになりました。
結成直後の若手時代|ボケ経験者から“国語教師風”ツッコミへ
マヂカルラブリーを組んだ後、HOSでボケをしていた村上さんは、野田さんと並ぶことで現在につながる立ち位置へ変わっていきます。
その違いはネタの役割だけでなく、衣装にも早い段階から表れていました。
ピンクのカーディガンで野田クリスタルとの役割を分ける
村上さんの代名詞になったピンクのカーディガンは、売れてから作った衣装ではなく、コンビ結成1年目から着ています。
当時の野田さんが白いタンクトップにジーパンという強い見た目だったため、自分はきちんとしていて柔らかい雰囲気を出そうと考えました。
村上さんが衣装のイメージとして選んだのは、大学時代に目指していた「国語の先生」のような人物像でした。
学生時代にはボケだった人物が、野田さんの動きを受け止める側へ移ったことで、現在の2人の見た目と役割が少しずつ形になっていきます。
結成翌年にはM-1準決勝へ|早くからネタで結果を残す
結成した2007年のM-1グランプリでは3回戦まで進み、翌2008年には初めて準決勝へ進出しました。
結成したばかりの2人について、両者を知る先輩芸人のモダンタイムス・としみつさんは、最初のネタから手応えを感じたと証言しています。
2010年にもM-1準決勝まで進みましたが、テレビで広く知られるまでには、ここからさらに長い時間がかかります。
家賃3万8000円の部屋と桃売りのアルバイト
若手時代の村上さんは、高円寺や阿佐ヶ谷の駅前でリヤカーを引き、桃を売るアルバイトもしていました。
大学時代から実家の援助を受け、卒業後も仕送りが続いていたため、本人は「お金の苦労をした」という感覚は強くなかったと話しています。
住んでいたのは家賃3万8000円ほどの部屋で、生活に必要なのは月15万円ほどという感覚でした。
仕事が少ない時期にも、安い部屋で暮らしながらアルバイトと芸人活動を続け、マヂカルラブリーとして舞台に立ち続けました。
大宮セブン時代|“都落ち”と感じた大宮が重要な活動拠点に
結成から7年が経った2014年、マヂカルラブリーは大宮ラクーンよしもと劇場を拠点とする大宮セブンの初期メンバーになります。
今では大宮との結びつきが強いコンビですが、参加した当初から前向きだったわけではありません。
2014年に大宮へ|ルミネから離れることへの不安
新宿のルミネtheよしもとを中心とした流れから離れ、大宮へ定期的に通うことになったとき、村上さんには「自分たちはもう新宿の劇場に必要とされていないのではないか」という感覚がありました。
「メインロードから外れた『都落ち』のような感覚でした。」
埼玉新聞
野田さんも当時の大宮ではネタがなかなかウケなかったと振り返っており、2人にとって最初から居心地のよい場所ではありませんでした。
地域イベントやライブを重ね、大宮で芸人仲間と過ごす
大宮へ通うようになると、劇場ライブだけでなく、地域の餅つき大会など、それまで経験してこなかった仕事も増えました。
村上さんはそこで、芸人の仕事にはテレビや大きな劇場以外にも幅広い形があることを改めて知ったと話しています。
売れていない時期にも清水園やスーパーオートバックス大宮バイパス店など地元の人たちから仕事へ呼んでもらい、後には名前を挙げて「恩返しをしたい」と語る関係になりました。
当初は抜け出したい場所だった大宮が、何年も舞台に立つうちに「戻ってくる場所」へ変わっていきました。
売れていなくても「辞めよう」とは思わなかった若手生活
長い若手時代には、給料が2万円ほどだった時期や、売れていないことで周囲の態度が冷たく感じられた経験もありました。
それでも村上さんは、芸人を辞めようと思ったことはないと2026年のインタビューでも答えています。
「ずっと楽しかったです」
法政大学 広報誌「HOSEI」
つらかった出来事も後から人へ話せばネタになるという感覚があり、売れていない年月そのものを一括して「苦しい下積み」とは捉えていませんでした。
2017年M-1初決勝で仕事が変わる|最下位でも収入は大きく増加
結成10年目の2017年、マヂカルラブリーは初めてM-1グランプリ決勝へ進みます。
大会では最下位でしたが、村上さんの生活を時間順に見ると、ここが最初の大きな仕事上の転機になっています。
初めてM-1決勝へ進んだ瞬間が「一番楽しかった」
2017年のM-1は4,094組が出場し、マヂカルラブリーは初の決勝進出9組の一角に入りました。
村上さんが強く覚えているのは決勝の結果よりも、ファイナリストに決まった直後です。
「最初の2日ぐらいが一番楽しかったですね。」
マイナビニュース
現場へ行くたびに「おめでとう」と言われ、まだ優勝できる可能性も残っていた数日間は、結果が出る前だからこその高揚感がありました。
決勝最下位でも出演と収入が増え、生活が変わり始める
決勝では「野田ミュージカル」を披露しましたが、M-1公式リポートの記録では10組中最下位に終わりました。
それでも決勝進出後はテレビなどの出演機会が増え、村上さんは月の収入が50万〜60万円ほどになることもあったと後年明かしています。
引っ越しはせず、移動だけがタクシーになり、仕事を終えると家賃3万8000円の部屋へ帰る生活が続きました。
2017年は「M-1最下位」の年であると同時に、芸人の収入だけで暮らせるようになった時期でもありました。
2018年キングオブコント決勝へ
翌2018年には、漫才だけでなくキングオブコント決勝にも進出し、公式プロフィールでは決勝7位と記録されています。
2017年のM-1だけで一気に全国区になったわけではありませんが、漫才とコントの両方で大きな大会の決勝へ進み、仕事の入口はそれまでより増えていきました。
2020年M-1優勝へ|野田クリスタルのR-1優勝から全国区になるまで
2017年の初決勝から3年後、マヂカルラブリーは再びM-1の決勝へ戻ります。
その2020年には、コンビの外側でも大きな変化が先に起きていました。
野田クリスタルのR-1優勝でテレビ露出が増加
2020年3月、野田クリスタルさんがR-1ぐらんぷり2020で優勝します。
村上さんは後年、M-1へ向けて漫才を根本から作り替えたわけではないと説明し、野田さんのR-1優勝でテレビ出演が増え、視聴者が2人の芸風を見慣れたことも流れを変えたのではないかと振り返っています。
2020年のM-1だけを切り取るのではなく、その前に野田さんのピンでの優勝とコンビの露出増加がありました。
2020年M-1優勝で仕事量が一変する
2020年12月20日のM-1グランプリで、マヂカルラブリーは3年ぶりに決勝へ進出しました。
最終決戦では見取り図、おいでやすこがと争い、審査員7人の投票は3対2対2に分かれる接戦となり、マヂカルラブリーが第16代王者になりました。
2017年に最下位だったコンビが、同じM-1の舞台で2020年に優勝しました。
優勝が決まると、野田さんは2017年の結果に触れながらカメラへこう呼びかけました。
「最下位を取っても優勝できるので、皆さん諦めないでください」
M-1グランプリ公式サイト
優勝直後は呼ばれた仕事へ次々に向かうほど忙しくなり、その後はテレビ、ラジオ、舞台などの中から2人に合う仕事が残っていきました。
M-1優勝後の現在|結婚・家族、法政大学と新城市への“恩返し”
M-1優勝後の村上さんは、仕事だけでなく私生活にも大きな変化がありました。
一方で、大学で学んだことや新城で育った時間が、売れた後の仕事にも再び現れています。
2022年にいとくとらと結婚、2026年には双子の父に
2022年7月、村上さんは踊り手・タレントとして活動するいとくとら(いくら)さんとの結婚を発表しました。
2人は高円寺で出会い、村上さんが長く暮らした街で多くの時間を過ごした後、結婚へ進んでいます。
2026年4月には男女の双子が誕生し、4月30日深夜の『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)』で村上さん自身が報告しました。
同年7月には妻のいとくとらさんが、長男・長女と愛犬を含む家族写真を公開しており、若手時代に高円寺で一人暮らしをしていたころとは生活の風景も大きく変わっています。
国語教師を目指して学んだ日本語が現在の仕事にも生きる
法政大学で取得した国語の教員免許は、結果として学校の教壇で使うことにはなりませんでした。
ただ、村上さん自身は、日本文学科で学んだ文法や語彙が「正しく伝わる言葉」を使う助けになり、言葉を扱う芸人の仕事でも強みになっていると話しています。
「てにをは」を含む文法や語彙を学んだ経験は、相手の言葉を受けて返すツッコミでも直接使えるものになりました。
芸人になる前に考えていた「国語教師」と、マヂカルラブリーで担うツッコミが、売れた後の本人の中で意外な形で並んでいます。
2024年に新城市観光大使へ|地元の思い出の場所を紹介
2024年4月1日、村上さんは新城市観光大使に就任しました。
「芸人をやり始めた頃から観光大使は夢でした。」
新城市「広報しんしろ」2024年6月号
就任時には、川底まで見える板敷川や百間滝など、新城の山や川の風景が好きだと挙げ、父親も喜んでいると思うと話しました。
2025年には新城市公式チャンネルで、村上さん自身が地元の思い出の場所を巡りながら魅力を紹介する動画も公開されています。
高校まで過ごした新城市は、芸人になって17年後、仕事として再び関わる場所になりました。
新城市でお笑い番組に夢中になった高校生は、法政大学HOSで初めて知らない客の前に立ち、教師や就職も考えた末に自分から野田クリスタルさんへ声をかけました。
家賃3万8000円の部屋や大宮の舞台を経て、2017年に初めてM-1決勝へ進み、2020年には同じ大会で優勝しています。
現在は家族との生活を送りながら、大学で学んだ言葉を仕事に使い、故郷・新城市では観光大使として地元を紹介しています。












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