人物プロフィール
お笑いトリオ「ハナコ」でコントのネタ作りを担い、舞台では相手の奇妙な言動に戸惑うような独特のリアクションを見せる秋山寛貴さん。
2018年にはハナコとして「キングオブコント」を制し、その後はコントだけでなく、脚本やエッセイ、イラストなどにも活動を広げてきました。
ところが子どものころの秋山さんは、人前で話すことが苦手で、店番をしても「いらっしゃいませ」の一言をなかなか口にできない少年でした。
高校でも将来の中心にあったのは美術で、大学受験では実際に美大から合格通知を受け取っています。
それでも高校時代に始めた漫才を3年間続け、卒業を目前にして美大進学より先に、お笑いの世界を一度確かめてみる道を選びました。
岡山の参道で過ごした子ども時代から、M-1甲子園、養成所、ハナコ結成、築地市場で働いた若手時代までを順番にたどると、現在の秋山さんへ続くいくつもの場面が見えてきます。
秋山寛貴の生い立ちと家族|最上稲荷の参道で育った人前が苦手な少年
秋山寛貴さんは1991年9月20日、岡山県岡山市で生まれました。
小学生のころによく過ごしたのは、自宅だけではなく、父方の祖父母が暮らしていた高松最上稲荷の参道でした。
共働きの両親と祖父母、参道で「長栄堂のひろくん」と呼ばれた小学生時代
両親が共働きだったため、小学生だった秋山さんは最上稲荷にある祖父母の家へ預けられることが多く、参道そのものが遊び場になっていました。
父親は参道で、煎餅やだるま、正月用の干支の土産などを扱う店を営んでいます。
参道には同じ学校に通う子どもや年齢の近い子もいて、それぞれが店の名前と結びついた呼び方をされ、秋山さんは「長栄堂のひろくん」として周囲の大人たちに知られていました。
近くには親戚が営むたい焼き店「ふくちゃん」もあり、秋山さんが「たいばあ」と呼んでいた店のおばちゃんは、商売をしながら子どもの秋山さんを見守り、たい焼きを食べさせてくれたそうです。
家族だけで完結する生活ではなく、参道の店を行き来しながら多くの大人に顔を覚えられて育つ環境でした。
一方で、家ではお金のことを意識する子どもでもあり、外食するときには値段を見て安いメニューを選ぶことがあったと後年に振り返っています。
祖母に少し高い菓子をねだったところ全種類買ってくれた際にも、喜ぶより先に金額を心配したという話が残っています。
4歳下の弟と『笑う犬』を真似し、『Mr.ビーン』を繰り返し見た日々
秋山さんには4歳下の弟がいて、家では兄弟でテレビのお笑いを楽しんでいました。
特に好きだったのがフジテレビ系の『笑う犬』シリーズで、弟と一緒に「テリーとドリー」の真似をして遊び、その様子はホームビデオにも残っています。
もう一つ夢中になったのが、父親がVHSへ録画していた『Mr.ビーン』でした。
何度も再生するだけでなく、遊びに来た友人にも見せるほど好きだったものの、このころは漫才やコントの違いを意識して分析していたわけではありません。
ずっと後になってハナコでコントをするようになってから、奇妙な行動をするMr.ビーンそのものより、その周囲で困った顔をしたり距離を取ったりする人々の反応が、自分の芝居に近いと気づいたといいます。
幼いころ何度も見たコントの中で、秋山さんは「変な人を見る側」の面白さも繰り返し目にしていました。
正月は家族で店を手伝う一方、人前で声を出すのは苦手だった
最上稲荷の参道にとって、もっとも忙しい季節が正月でした。
大みそかの夜から店で待機し、年が明けて参拝を終えた人たちが参道へ下りてくると、家族総出で朝まで接客することもありました。
店の上で休んでいても、参道では各店の呼び込みの声が飛び交い、その音を聞きながら眠った記憶があると秋山さんは語っています。
にぎやかな店に立つこと自体は好きだった一方、内気だった秋山さんにとって、自分から客へ声を掛けることは別の話でした。
「声を発しなければいけない瞬間すべてが苦手でした。」
WEBザテレビジョン
学校でも日直のあいさつや授業中の発表が苦手で、小学生時代のスピーチでは半泣きになるほどだったといいます。
参道の店でも「いらっしゃいませ」と言うことを恥ずかしがっていた少年が、数年後には観客の前で漫才をすることになります。
中学・高校時代|美術の道を目指しながらM-1甲子園へ
中学、高校へ進んでも秋山さんのお笑い好きは続きましたが、プロの芸人になることを現実の進路として考えていたわけではありませんでした。
むしろ学校生活の中で周囲から評価されていたのは、子どものころから好きだった絵や工作でした。
絵やものづくりが好きで、総社南高校の美術工芸コースへ
秋山さんが進学したのは岡山県立総社南高等学校で、美術工芸コースで本格的に美術を学びました。
小中学生のころは「絵が上手い子」として褒められることが多かったものの、高校へ入ると周囲には自分より絵の上手い生徒が大勢いました。
作品のテーマや技術を強く意識するようになり、「もっとうまく描かなければ」と考えるほど、以前のように気楽に描く感覚から離れていった時期でもありました。
それでも授業やデッサンには真面目に取り組み、学校が休みの日にも描きに行くほど、美術大学への進学を現実的な目標にしていました。
デッサンでは、リンゴを「赤くて丸い物」と思い込まず、茶色や黄色の部分、わずかな形の違いまで実物を見て描くことを学びます。
秋山さん自身、そこで身についた「先入観を捨てて観察する」感覚は、後のコント作りにも生きていると話しています。
高校1年、幼なじみに誘われたM-1甲子園で声が出せず失敗
美術を学んでいた高校1年のとき、秋山さんの日常へ突然「舞台に立つ」という出来事が入ってきました。
幼なじみの友人から誘われ、高校生のお笑い大会「M-1甲子園」へ出場することになったのです。
家でお笑いを見ることは好きでも、自分が大勢の前で漫才をする経験は別物で、本番が近づくほど恥ずかしさが強くなりました。
実際の舞台では声が十分に出ず、客席へ言葉を届けることすら難しい状態で、思うような結果にはなりませんでした。
ところが、一度失敗したことで終わりにはなりませんでした。
時間がたつにつれて残ったのは「やっぱり自分には向いていない」という安心感より、うまくできなかったことへの悔しさでした。
祖母を亡くした直後も父に送られて再挑戦、高校3年で予選優勝
高校2年になると、秋山さんは別の友人と再びM-1甲子園へ出場します。
大会の2日前には、自分の漫才挑戦を驚きながらも喜んでくれていた父方の祖母が亡くなりました。
県外の会場まで父親に送ってもらう予定だったため、出場は難しいと半ば諦めたものの、お笑い好きだった父親は予定通り車を出しました。
2度目の舞台では高校1年時より声が出るようになり、客席から笑いが返ってくる感覚も得られました。
その経験から「もう一度やれば、さらにできるかもしれない」と考え、高校3年でも同級生と出場します。
3度目の挑戦では、中国・四国予選で優勝し、秋山さんにとって人生で初めての「1等賞」になりました。
高校1年では声も十分に出せなかった舞台へ、高校2年、高校3年と戻り続けたことで、お笑いが「見るもの」だけではなくなっていきました。
美大合格後も迷った進路|18歳でワタナベコメディスクールへ
M-1甲子園で結果を出しても、秋山さんがすぐ芸人一本に進路を決めたわけではありません。
高校卒業が迫るなか、美術とお笑いという二つの進路を最後まで並行して確かめています。
高校3年12月にWCSオーディションへ合格、美大にも複数合格
高校3年の12月、秋山さんはワタナベコメディスクール(WCS)の高校生向けオーディションを受け、合格しました。
しかし、その時点でも美術の道を捨てたわけではなく、予定していた美術大学の受験も続け、複数校から合格通知を受け取っています。
つまり「美大に落ちたから芸人になった」のではなく、美大へ進める状態で、養成所も選べる状態になってから悩むことになりました。
秋山さんが考えたのは、どちらが成功しやすいかだけではなく、家族にかかる費用のことでした。
美大の入学金や学費を払ってもらったあとで「やっぱり東京で芸人を試したい」と言えば、親へさらに負担を掛けることになります。
そこで、先にお笑いへ挑戦し、もし自分には無理だと分かったら岡山へ戻って美術に関係する仕事を探すという順番を考えました。
「大した支援はできないけれど、好きにしなさい」
WEBげんき
両親はもともとお笑い好きで、息子が漫才へ挑戦することも面白がっていたため、進路を聞いて反対することはありませんでした。
美術教師に止められながら「一度お笑いを試す」と決断
家族より驚いたのが、高校で長く秋山さんのデッサンを見てきた美術教師でした。
学校が休みの日まで黙々と絵を描き、美大受験へ向けて準備する姿を見ていた教師にとって、卒業直前の進路変更は予想外でした。
秋山さんが養成所へ行くつもりだと伝えると、「あれだけデッサンを頑張っていたじゃないか」と考え直すよう説得されたといいます。
本人の中でも「芸人としてやっていける」という自信ができたから決めたわけではありませんでした。
「むしろ、踏み出すことで諦めたかったんですよね。」
FREENANCE MAG
美術を選んだあとで「お笑いを一度見ておけばよかった」と引きずるより、実際に飛び込み、無理ならそこで諦めて次へ進むという考えでした。
18歳の秋山さんは、美大へ進学せず、東京のワタナベコメディスクールを選びました。
2010年、WCS12期で岡部大・菊田竜大と出会う
2010年4月、秋山さんは岡山を離れて上京し、ワタナベコメディスクール12期へ入学しました。
同じ12期には、のちにハナコのメンバーになる岡部大さんと菊田竜大さんもいました。
ただし、3人が入学直後から仲の良いグループとして行動し、そのままハナコになったわけではありません。
秋山さんにとってまず新鮮だったのは、養成所に集まった生徒たちと好きなお笑いの話を遠慮なくできることでした。
それまで友人とは『エンタの神様』のような有名番組の話はできても、『爆笑オンエアバトル』まで深く語り合う機会は少なかったといい、養成所ではお笑い好き同士で細かな話まで通じることを楽しんでいました。
「自分は売れそうだ」と感じていたわけではない一方、お笑いについて学ぶ時間そのものは面白かったというのが、養成所時代の秋山さんでした。
菊田竜大とウエストミンスター結成|所属できない時期をライブで過ごす
WCSで同期だった3人は、卒業後に別々のコンビで芸人生活を始めます。
秋山さんが最初に組んだ相手が菊田竜大さんでした。
2011年に菊田とコンビを組み、シュールなコントを作る
2011年、秋山さんと菊田さんは「ウエストミンスター」を結成しました。
岡部さんは高校時代の同級生と「エガラモガラ」を組んでおり、同じ養成所出身でも、この時点ではそれぞれ別のコンビで活動していました。
ウエストミンスターでは秋山さんがネタを考え、飄々としたボケと大人しそうなツッコミを組み合わせた、ややシュールなコントに取り組みます。
岡部さんも事務所ライブでウエストミンスターを見る機会があり、「設定は面白いのに、なぜもっとウケないのだろう」と感じていたそうです。
のちに同じトリオでネタを考える相手になる岡部さんは、このころすでに秋山さんが作るコントの設定を客席側から見ていました。
養成所卒業時は所属できず、「STEP!STEP!STEP!ライブ」へ
WCSを卒業したからといって、ウエストミンスターがそのままワタナベエンターテインメント所属になれたわけではありません。
2人は事務所所属を目指す若手が出演する「STEP!STEP!STEP!ライブ」へ出続けることになります。
秋山さんによると、所属までには約2年かかりました。
養成所の中でネタを見せる段階から、実際の客席へ笑いを届ける段階へ移り、ライブでは「客席まで伝える」という基本を繰り返し求められました。
高校時代には声そのものが客席へ届かなかった秋山さんが、今度はプロを目指すライブで「伝わるネタ」に直す時間を過ごしていたことになります。
中野の小劇場へ通い、コントの面白さを掘り下げた若手時代
養成所の寮を出たあと、秋山さんは若手芸人のライブ会場が多かった東京・中野で初めての一人暮らしを始めました。
住んだのは中野ブロードウェイを抜けた先にある六畳一間で、家賃は4万8000円でした。
収納はなく、夏にはロフトがひどく暑くなる部屋でしたが、近所には中野Vスタジオ、中野Studio twl、なかの芸能小劇場などがありました。
舞台用の衣装や小道具が必要になれば家へ戻ることができ、他の芸人のライブも開演直前に思い立って見に行ける距離でした。
安いパスタで腹を満たし、近くのカフェでネタを考えることもあったといいます。
21歳か22歳のころには、なかの芸能小劇場で好きな先輩芸人のコントを見に行きました。
そこで演じられたのは、一組の男女の新婚時代から晩年までを一本のコントの中で見せ、笑いながら最後には客席の感情まで動かすような作品でした。
「コントでこんな気持ちにまでさせられるのか」と感じた舞台を見たことで、秋山さんはコントへの興味をさらに深めていきました。
岡部大からの一本の電話|2014年にハナコ結成
ウエストミンスターとして数年間活動する一方、岡部大さんのコンビ「エガラモガラ」は解散します。
ここから、養成所では別々に動いていた3人が一つのトリオへ変わっていきます。
エガラモガラ解散後、岡部がウエストミンスター加入を希望
エガラモガラの解散後、岡部さんはしばらくコンビを組まずに活動していました。
そんな時期に菊田さんから食事へ誘われ、「誰と組みたいのか」と聞かれた岡部さんが名前を出したのがウエストミンスターでした。
岡部さんは以前から2人のネタを見ており、自分のように存在感の強い人物が加わる余地があるとも感じていたといいます。
ところが、その話を最初に聞いた菊田さんは、3人で活動することに乗り気ではありませんでした。
ウエストミンスターはすでに数年間続いていましたが、秋山さんが一人でネタを書き続け、結果が出ない状況に苦しんでいた時期でもありました。
菊田は拒否、秋山は即答――「2人か3人か」が揺れた結成直前
菊田さんから良い返事をもらえなかった岡部さんは、その場から秋山さんへ電話をかけました。
岡部さんが「一緒にやりたい」と伝えると、秋山さんはすぐに受け入れます。
しかも秋山さんが確認したのは「菊田も含めた3人なのか、それとも岡部と2人なのか」という点でした。
菊田さんにとっては、自分だけが外れる可能性まで突然浮上したことになります。
結果的には岡部さんが希望していた3人体制で試すことになり、ウエストミンスターに新しい一人が加わりました。
「完全体になったな」
お笑いナタリー/ロッチ・コカドケンタロウの言葉を秋山寛貴が回想
以前からウエストミンスターを気に掛けていたロッチのコカドケンタロウさんは、岡部さん加入後の3人を見てそう声を掛けたと秋山さんは覚えています。
この加入によって、現在のハナコにつながる3人が初めて同じ組で動き始めました。
約1カ月の試用期間とバトルライブを経て、3人でハナコへ
3人は最初から正式なトリオと決め切らず、まず約1カ月ほど一緒に活動する期間を設けました。
岡部さんが入るとライブでの反応が良くなり、秋山さんには、それまで一人で背負っていたネタ作りを相談できる相手もできます。
岡部さんもエガラモガラでネタを書いていたため、2人で案を出し合い、お互いの発想を残しながらコントを形にできるようになりました。
小さなバトルライブでは3人体制になって早い段階で優勝し、最初は慎重だった菊田さんも手応えを感じるようになります。
こうして3人の活動が定着し、公式プロフィールでは2014年10月にハナコ結成となっています。
秋山さん一人でネタを書くコンビから、秋山さんと岡部さんが相談しながら作れるトリオへ変わったことも、結成直後の大きな変化でした。
築地・武蔵小山で続いた下積み|日常の違和感をコントへ
3人体制になったことでライブの手応えは変わりましたが、すぐに芸人の仕事だけで生活できるようになったわけではありません。
秋山さんはアルバイトを続けながら舞台へ立ち、ネタを書き、結果が出るのを待つ生活を続けました。
築地市場の塩店で朝6時から働き、周囲の店から応援された日々
2016年ごろからキングオブコントで優勝するまでの約2年間、秋山さんが働いていたのが築地市場の場内にあった塩を扱う店でした。
出勤は朝6時ごろで、配達に出る仕事も多く、同じ築地市場では岡部さんも別の店でアルバイトをしていました。
市場には若手芸人を面白がって応援する雰囲気があり、築地駅から店へ向かって歩いていると、得意先の人から前日のテレビや仕事について大声で声を掛けられることもありました。
ライブでうまくいかなかった翌朝には、その明るさがつらく、得意先の人に会わないよう裏道を通ったこともあったそうです。
魚卵専門店「田所食品」の人からは、まだほとんど結果を残していなかったころに「サインを書いて」と頼まれました。
秋山さんにとって人生で最初期のぎこちないサインは、売れたあとも店で大切に残されていました。
テレビにほとんど出ていないころから「芸人の秋山」として扱ってくれる人が築地にはいました。
売れない正月は岡山へ帰り、実家の小さなテレビでネタ番組を見る
若手時代の正月には東京から岡山へ戻り、子どものころと同じように最上稲荷の父親の店を手伝っていました。
芸人としての収入が少なかった時期には、父親が店の手伝いへの「バイト代」として少し多めにお金を渡してくれることもありました。
しかし正月はテレビのお笑い番組が増え、芸人にとっても仕事の多い時期です。
店番の合間、奥に置かれた小さなテレビで元日の生放送のネタ番組を見ながら、秋山さんは自分が岡山でそれを見ている状況に焦りを感じていました。
子どものころは参道の店に立つことそのものが正月の楽しみでしたが、芸人になったあとは、「正月に帰れている自分」が仕事の少なさを感じさせる時間にもなっていました。
岡部の近くへ引っ越し、武蔵小山の街を歩きながらネタを練る
中野、祐天寺と住む場所を変えた秋山さんは、その後武蔵小山へ引っ越しました。
理由の一つは、西小山付近に住んでいた岡部さんと自転車で行き来し、いつでもネタ合わせができる距離にするためでした。
2人がコントを考える材料は、特別な事件ばかりではありません。
中野で使っていた妙に細長いコインランドリーから「狭すぎておじいちゃんが通れない」という発想が生まれ、武蔵小山では、棚に靴がほとんど残っていない個人店の光景から「終わる靴屋」というコントを作りました。
商店街を歩いていたときには、「おかしのまちおか」へ来た少年が口にした、店が小さいことと喜びが同居した一言が気になり、そのままスマートフォンへメモしています。
大事件を探すのではなく、街で少しだけ引っ掛かった光景や言葉を残しておくことが、秋山さんのネタ作りの日常になっていきました。
辞め時を何度も設定しながら、そのたび次の結果を待った
美大ではなくお笑いを選んだときから、秋山さんは「絶対に芸人で成功する」と決めていたわけではありません。
本人は芸人生活の中で何度も、自分の中に「ここまでに結果が出なければ辞める」という潮時を置いていました。
ところが、その時期が近づくたびにライブで結果が出たり、次につながる出来事が起きたりして、「もう少しできるかもしれない」と続ける時間が伸びていきます。
人前に出ること自体への苦手意識が消えたから続いたのではなく、ネタを考え、試し、客席で反応を確かめる作業の中には続けたい部分が残っていました。
そして2018年、その「もう少し」が大きな結果へ変わります。
2018年、賞レースで結果が続きキングオブコント優勝
2018年のハナコは、一つの大会だけ突然勝ったのではなく、年間を通して賞レースで結果が続きました。
築地での早朝アルバイトを続けていた秋山さんの生活も、この年を境に変わっていきます。
ワタナベお笑いNo.1・ハーベスト大賞で優勝し、KOCへ
2018年2月、ハナコは所属事務所の大会「ワタナベお笑いNo.1決定戦」で優勝しました。
それ以前にも決勝へ進むことはありましたが、大きな大会の最後で勝ち切る結果はなかなか得られていませんでした。
7月には第9回お笑いハーベスト大賞でも優勝し、賞レースで名前を残す機会が続きます。
この流れの先にあったのが、秋に開催されるコント日本一決定戦「キングオブコント」でした。
ウエストミンスター時代から何年もコントを書き続け、岡部さん加入後は2人でネタを練るようになり、武蔵小山で作っていたコントを持って大会へ進んでいきます。
キングオブコント2018優勝でテレビ出演が急増
2018年9月22日、ハナコは「キングオブコント2018」の決勝へ初進出しました。
ファーストステージで464点を獲得して上位3組に残り、ファイナルステージでは472点を獲得します。
2本の合計は936点となり、わらふぢなるお、チョコレートプラネットを上回りました。
ハナコはエントリー2490組の頂点に立ち、11代目キングに決定しました。
高校1年のM-1甲子園では声が届かなかった秋山さんが、約10年後にはコントの全国大会で優勝する側に立っていました。
優勝後はテレビ出演が一気に増え、それまで続けていたアルバイトにも区切りをつけることになります。
築地の最後の勤務日、売れる前から知る人たちに見送られる
キングオブコント優勝後、秋山さんは築地のアルバイトを辞めました。
最後の出勤日には、配達で世話になった得意先を一軒ずつ回ってあいさつをしています。
「テレビ見てたぞ。おめでとう!」
SUUMOタウン
行く先々で海苔やお茶などを餞別にもらい、大きな段ボールいっぱいになった品を原付へ縛り付けて帰ったそうです。
売れる前に最初のサインを求めてくれた田所食品には、キングオブコント優勝後に改めてサインを書きました。
後年に店を訪れると、売れる前のぎこちないサインと優勝後のサインが2枚とも残されていました。
築地で朝6時から働く生活は、キングオブコント優勝によって終わりました。
美術少年の経験が再び表へ|コント・脚本・絵へ広がった現在
テレビの仕事が増えたあとも、秋山さんはハナコでコントを書き、岡部さんとネタを考える時間を続けています。
そこから脚本、文章、イラストへと、学生時代や若手時代に続けてきた作業が別の仕事にも広がっていきました。
街で拾った小さな違和感を、今もコントのメモに残す
秋山さんは現在も、街中やテレビ、周囲の会話から気になった言葉や現象を見つけるとスマートフォンへ残しています。
ネタを考えるとき、派手な事件よりも「食べ物を落としたはずなのに、どこにも見つからない」といった日常の小さな違和感から発想が始まることもあります。
コントの動きや現象は思い浮かぶ一方、会話のセリフを作ることには苦手意識があるため、街で聞いた生の言葉をそのままメモするようにもなりました。
高校のデッサンで学んだ「思い込みで描かずに対象を見る」という習慣についても、秋山さん自身が現在のコント作りとの共通点を語っています。
高校でリンゴの色や形を疑いながら観察したように、街の日常にも「あれ?」と目を止めることが、現在まで続くネタ作りの一部になっています。
ネタ作りから脚本・エッセイへ活動を広げる
ハナコでは秋山さんと岡部さんが主にネタを考え、秋山さんはコント以外の脚本にも仕事を広げました。
日本テレビ系『でっけぇ風呂場で待ってます』やNHK『お笑いインスパイアドラマ ラフな生活のススメ』などで脚本を担当し、2025年にはPrime Video『ワロタ!』の一編で脚本・演出も担当しています。
文章では『小説 野性時代』での連載を経て、2024年7月に初エッセイ『人前に立つのは苦手だけど』を刊行しました。
もともと出版社から持ち掛けられたのは小説でしたが、実際に書いてみると苦戦し、エッセイへ企画を変更したことも本人が明かしています。
その執筆では、コント用にスマートフォンへ残していた昔のメモを見返し、築地のアルバイト仲間の表情や当時の空気を思い出すこともありました。
ネタのために拾い続けてきた小さな記憶が、文章を書く材料にもなっています。
美大へ進まなかった絵が『#秋山動物園』と2026年初個展へ
芸人になってから、美術は再び秋山さんにとって気楽に楽しめるものになっていきました。
高校時代には作品のテーマや技術を考えすぎて、少しずつ描くことが苦しくなっていましたが、仕事として美術へ進まなかったことで、絵を趣味として描ける時間が戻ります。
Instagramで続けていた動物のイラストは一冊にまとまり、2023年には初のイラスト作品集『#秋山動物園』が発売されました。
そして2026年5月9日と10日には、東京・OMOTESANDO GALLERY FELESで初の単独個展「大きくは描けない」を開催しています。
高校卒業時には美大へ進まず一度手放した「絵を仕事にする道」でしたが、芸人生活を続けた先で、イラスト集や個展という別の形で再び人に見せる活動になりました。
最上稲荷の店先で「いらっしゃいませ」を言うことにも照れていた少年は、高校で漫才の舞台へ上がり、美大と養成所の間で迷った末に東京へ向かいました。
菊田竜大さん、岡部大さんとの出会い、中野の小劇場、築地市場での早朝アルバイト、武蔵小山でのネタ作りを経て、2018年にはハナコとしてキングオブコントを制しています。
現在もコントを書きながら脚本や文章、絵を手掛ける秋山さんの仕事には、子どものころに夢中で見たコントと、高校時代に続けた美術の両方が残っています。












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