森田哲矢の生い立ちと家族|高校留年・借金200万円から芸人へ、東ブクロとの出会いまで

人物プロフィール

本名
森田哲矢
生年月日
1981年8月23日
血液型
B型
出身地
大阪府 堺市
コンビ・グループ名
さらば青春の光
相方・メンバー
東ブクロ
結成年
2008年
所属事務所
ザ・森東
芸人活動開始年
2006年
養成所・スクール
松竹芸能養成所

「さらば青春の光」のネタ作りを担い、テレビやラジオ、YouTubeへ出演しながら、自分たちの事務所「株式会社ザ・森東」の代表も務めている森田哲矢さん。

現在の姿だけを見ると早くからお笑い一本で進んできたようにも見えますが、森田さんが松竹芸能の養成所へ入ったのは25歳になる年でした。

高校は4年間かけて卒業し、その後はフリーターとして過ごしながらパチンコなどで約200万円の借金を抱え、24歳ごろまで返済する生活が続いています。

借金を返し終えたときに残った20万円から、森田さんの芸人人生が動き始めました。

ただし、お笑いとの接点そのものはもっと古く、小学生のころには友人たちとコントを披露した記憶も残っています。

大阪・堺の団地で育った少年が、なぜすぐには芸人を目指さず、24歳になってからお笑いを仕事に選び、東ブクロさんと「さらば青春の光」を組むことになったのかを、昔から順番にたどっていきます。

森田哲矢の生い立ちと家族|堺の団地で育った少年時代

森田哲矢さんは大阪府堺市で育ちました。

本人が昔の街を振り返ったインタビューには、現在のテレビで見せる姿とは少し違う、団地で友人たちと過ごしていたころの様子が残っています。

大阪府堺市の団地で育った「団地の少年」

森田さんが育った地域は、本人の記憶では校区内のほとんどが団地という環境でした。

大阪の中心部から少し離れた堺で、近所の子どもたちと過ごす生活を送っていたといいます。

「まさしく団地の少年って感じでのびのび育ちました」

Wellchill「街と芸人」

後に舞台やテレビで大阪弁をそのまま使う森田さんですが、子ども時代の生活圏はこの堺の団地が中心でした。

志村けん、高田純次、ダウンタウンを見て育つ

家のテレビでお笑いを見ることは早くから好きで、幼いころは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などを通して志村けんさんを見ていました。

少し成長すると『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の高田純次さんに惹かれ、思春期にはダウンタウンの番組を見るようになります。

なかでも『ダウンタウンのごっつええ感じ』はよく見ており、松本人志さんの著書『遺書』『松本』も読んでいました。

ただ、この時点で「将来は芸人になる」と進路を決めていたわけではありません。

お笑いが好きだった少年時代と、実際に芸人を仕事として選ぶ24歳ごろの決断には、長い間があります。

小学校の授業参観でコントを披露して笑いを取る

それでも、人前で笑いを取った記憶は小学生のころから残っています。

森田さんは小学校の授業参観で、クラスのみんなが何かを披露する機会に友人たちとコントをしました。

どんな内容だったかは本人も覚えていませんが、客席の反応についてははっきり記憶しています。

「ウケました。それだけは憶えてます。」

ほぼ日刊イトイ新聞

しかし、その後に自分で漫才やコントを書き始めたわけではなく、24歳ごろまで本格的なネタ作りの経験はなかったと本人が話しています。

家族でアメ村へ行った思い出と、家で映画を見ていた父

森田さんが後に大きな趣味となる古着へ近づいた背景にも、子どものころの家族との外出がありました。

小学5年生ごろ、家族で大阪・アメリカ村へ行った記憶があり、中学生になると友人たちだけで電車に乗ってアメ村へ出かけるようになります。

父親については、昔から家でよく映画を見ていた人物だったとも語っています。

森田さんには弟がおり、成人後も本人がテレビなどで弟とのやり取りを話すことがありますが、幼少期の細かな兄弟関係については多くを公表していません。

父親とのエピソードは森田さんが芸人になった後にも登場しますが、その話は実際に父親がそば店を始めた時期まで時間を進めてから触れます。

中学・高校時代|古着に夢中になり、高校2年で留年

中学生になると、森田さんの興味はテレビだけでなく古着やスニーカーにも広がっていきました。

その一方で高校では、学校へは通っているのに進級できないという出来事が起きます。

中学生で古着に目覚め、アメ村へ足を運ぶ

中学2~3年生ごろにはファッション誌『Boon』を読み、古着への興味を深めていました。

お年玉をためて手に入れたものの一つが、約2万7000円だったリーバイスのジーンズです。

自分なりの古着らしさを出そうと、汚したりアイロンを使ったりハサミを入れたりしたものの、本人によれば仕上がりは失敗だったそうです。

学校へは白いナイキのスニーカーを履いていったこともあり、白なら校則上大丈夫だと思っていたところ先生から注意されています。

友人5~6人で堺から電車に乗ってアメ村へ向かうこと自体が、中学生だった森田さんたちにとってちょっとした遠出でした。

後年には、中学時代の同級生が組んでいたバンド「チュロス」の曲『TAKE IT EASY』を森田さん自身が歌い、25年ほどたってから配信するという出来事もありました。

学校は好きだったのに「ほぼ皆勤」で高校留年

高校は大阪府立東百舌鳥高校へ進みました。

本人によれば学校生活そのものは楽しく、出席も「ほぼ皆勤」だった一方、勉強が苦手で高校2年生のときに進級できませんでした。

「僕、その高校始まって以来らしいんですけど、ほぼ皆勤で留年したんですよ」

スポニチアネックス

別の番組では、進級のための追加課題を提出しても単位が足りず、担任から学校を辞める選択肢まで示されたことを明かしています。

そこで逆に「卒業する」と決め、同じ学年をもう一度やり直すことになりました。

学校へほぼ毎日通っていたのに、高校2年生をもう一度経験することになったのです。

森田さん本人の公式Xでも、東百舌鳥高校で留年したときに一学年下の生徒と同級生になったことを振り返っています。

1学年下のクラスで『罪と罰』を読み続け、19歳で卒業

留年すると、それまで一学年下だった生徒たちと同じ教室で過ごすことになりました。

そのころ森田さんがまねしたのが、漫画『ろくでなしBLUES』に登場する川島という人物です。

作中の川島がドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる姿を格好いいと思い、森田さんも古本屋で同じ本を買って、休み時間になると読み続けました。

ところが3学期になっても同じ本を読んでいたため、一学年下のクラスメートからは「あいつ、いつ読み終わるねん」と思われていたそうです。

新しいクラスメートからは「森田くん」と呼ばれながら半敬語で話しかけられるような、少し変わった高校生活を過ごし、4年間かけて19歳で高校を卒業しました。

高校卒業後のフリーター生活|約200万円の借金を返すまで

高校を卒業した森田さんは、そのまま大学へ進学したり会社員として就職したりする道を選びませんでした。

ここからおよそ5年間、芸人になる前のフリーター生活が続きます。

大学進学や就職ではなく、19歳からフリーター生活へ

高校卒業後の森田さんは、アルバイトをしながら生活し、パチンコへ通う日々を送っていました。

本人は後年、この19歳から24歳ごろまでを振り返り、将来へ向けて何か一つの仕事を積み上げていた時期ではなかったと話しています。

当時はまだ、子どものころから好きだったお笑いを職業にするためにネタを書いていたわけでもありません。

生活の中心にあったものの一つがパチンコで、その結果として借金が膨らんでいきました。

パチンコで借金を抱え、検体搬送など複数のアルバイトを掛け持ち

借金は多いときで約200万円まで増えました。

返済するために働いた仕事の一つがパチンコ店で、そこには高校時代の同級生も働いていました。

もう一つ経験したのが、血液などの検体を車で運ぶ仕事です。

一人で車を運転しながら音楽を聞けるところは森田さんに合っていたようで、決まった場所に一日中いる働き方とは違うところを気に入っていたと話しています。

朝から晩まで二つの仕事を掛け持ちし、給料を借金の返済へ回していきました。

芸人になるための資金をためていたのではなく、最初にやっていたのは約200万円まで増えた借金をなくすことでした。

24歳で約200万円を完済、手元に20万円が残った

アルバイトを続けた結果、森田さんは24歳ごろまでに借金を返し終えました。

長く続いた返済が終わったとき、手元には20万円ほどが残っていました。

借金がなくなり、ここで初めて「この先をどうするか」を考える段階へ進みます。

そのときに出てきた選択肢の一つが、それまで見る側だったお笑いの世界でした。

森田哲矢が芸人になったきっかけ|残った20万円で松竹芸能養成所へ

子どものころからテレビのお笑いは好きだったものの、森田さんが芸人という仕事を具体的に選んだのは24歳ごろです。

そこには「好きだから一度挑戦したい」というだけではない、森田さんらしい仕事の選び方がありました。

「億を稼ぐ可能性」を考えて、お笑いという仕事を選ぶ

借金を返した森田さんは、自分がこれから何の仕事をすれば大きく稼ぐ可能性があるのかを考えました。

資格や専門的な経歴があるわけではなく、それまで続けてきたアルバイトの延長だけでは自分が考える金額には届きにくい。

そこで頭に浮かんだのがお笑いでした。

「億を稼ぐ可能性がある仕事を考えた時に、『これしか、もうないやろうな』」

マーキャリMEDIA

24歳ごろになって初めて、お笑いを「見るもの」から「自分の仕事にするもの」へ変えました。

芸人と構成作家の道で迷い、25歳で養成所入り

お笑いの世界へ入ろうと考えた森田さんは、芸人だけでなく構成作家という道も検討しています。

構成作家・かわら長介さんの学校と、松竹芸能の養成所のどちらへ進むか迷っていました。

そこで目に入ったのが松竹芸能の養成所です。

入所に必要だった費用は、借金を返したあとに手元へ残っていた金額と同じ20万円でした。

森田さんはその資金を使い、2006年4月、25歳になる年に松竹芸能の養成所へ入りました。

親や友人にも養成所へ通っていることを隠していた

養成所へ入ったからといって、周囲へすぐ「芸人になる」と宣言したわけではありませんでした。

本人は当時、親や友人に養成所へ通っていることを隠していたと明かしています。

25歳から芸人を目指すことに照れがあり、周囲へ知られるのが恥ずかしかったという理由でした。

養成所へ入るまで漫才やコントをほとんど作った経験がなかった森田さんは、ここから毎週ネタを書く生活へ入っていきます。

松竹芸能養成所とカサブランカ時代|週1本の新ネタを作る日々

松竹芸能の養成所では、講義を受けて知識を覚えること以上に、自分でネタを作り、人前で見せて指摘を受け、また作ることが中心でした。

この時期に森田さんは、後の相方となる東ブクロさんより先に芸人としての活動を始めます。

2006年4月入所、ライブデビューは同期より遅い8~9月ごろ

森田さんが養成所へ入ったのは2006年4月です。

ネタ見せは週1回あり、そのたびに一本の新ネタを用意する生活が始まりました。

同期の中には早くからライブへ出る人もいましたが、森田さんが実際の舞台へ出られるようになったのは8~9月ごろだったと本人が振り返っています。

養成所へ入った瞬間から順調に仕事が始まったわけではなく、まずはネタを作って見せる時間が数か月続きました。

カサブランカで漫才|現在とは違う若手時代の森田哲矢

森田さんはその後、大串寛さんと「カサブランカ」というコンビで活動しました。

現在のさらば青春の光ではコントの印象が強いものの、このころは漫才をしています。

テレビ朝日の企画では、2008年までカサブランカで一緒に活動していた元相方の大串さんも登場し、当時の森田さんについて振り返っています。

このカサブランカ時代のネタが、後に東ブクロさんからコンビ結成を持ちかけられる一つの理由になりました。

東ブクロや放送作家が覚えていた「ネタに光る」森田哲矢

養成所時代の森田さんを近くで見ていた東ブクロさんによると、現在のように周囲とにぎやかに話す雰囲気ではなかったそうです。

「ずーっと黒Tシャツにジーパンで、斜め下向きながらボケるみたいな感じ」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

松本人志さんへの憧れが分かりやすく出ており、養成所では人とワイワイ過ごすタイプでもなかったと東ブクロさんは話しています。

もう一人、カサブランカ時代の森田さんを覚えていたのが、後にさらば青春の光と仕事をする放送作家の渡辺佑欣さんでした。

「こんなおもしろい人がおんのや」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

渡辺さんは森田さんの漫才を初めて見たあと、東ブクロさんへ「カサブランカの全身黒いほうが面白かった」という話を何度もしていました。

当時まだ別のコンビで動いていた二人の間で、森田さんの名前だけは少しずつ大きくなっていました。

東ブクロとの出会いと「さらば青春の光」結成

現在の相方・東ブクロさんと知り合った場所も、松竹芸能の養成所でした。

ただ、出会ってすぐに二人でコンビを組んだわけではありません。

なんばの養成所で半年後輩の東ブクロと知り合う

森田さんが2006年4月に養成所へ入ったのに対し、東ブクロさんは同年10月に入所しています。

そのため養成所では、森田さんが半年先輩という関係でした。

東ブクロさんはカサブランカのネタを見て森田さんを面白いと感じ、徐々に話すようになり、一緒に食事へ行く関係になっていきます。

それでも二人はそれぞれ別の相方と活動しており、この時点ではまだ「さらば青春の光」は存在していませんでした。

カサブランカ解散後も、東ブクロからの誘いを断り続ける

やがて東ブクロさんのコンビが解散し、続いて森田さんのカサブランカも解散します。

東ブクロさんは「次に組むなら森田さん」と考え、コンビ結成を持ちかけました。

ところが森田さんはすぐには応じませんでした。

東ブクロさんが短い期間で別のコンビを組んだ経緯もあり、「またすぐ別の相手へ行くのではないか」という不信感があったからです。

誘われてもかわし続ける森田さんに、東ブクロさんは最後に長いメールを送りました。

長文メールとキングオブコント開始がコンビ結成の決め手に

メールには、森田さんのネタや言葉を自分ならもっと生かせるという思いが書かれていました。

「僕なら森田さんを輝かせられます」

マーキャリMEDIA

さらに、断られるなら芸人を辞めるほどの覚悟も伝えられました。

ちょうど同じ2008年に、コント日本一を決める「キングオブコント」が始まります。

「それなら一度二人で出てみよう」という流れが生まれ、森田哲矢さんと東ブクロさんは2008年に「さらば青春の光」を結成しました。

東ブクロさんからの長文メールと、キングオブコントという新しい大会の誕生が同じ時期に重なったことが、二人で動き出す直接のきっかけでした。

みなみかわが付けた「さらば青春の光」というコンビ名

新しいコンビの名前を付けたのは、松竹芸能で先輩だったみなみかわさんです。

みなみかわさんは自身のブログで、当時見た映画から「さらば青春の光」と「復讐するは我にあり」という二つの案を出したことを明かしています。

二人が選んだのが「さらば青春の光」でした。

森田さんとみなみかわさんはカサブランカ時代から交流があり、地元も近かったことなどから仲を深めていました。

初舞台は2008年KOC1回戦|敗退後にコンビ継続の手応え

さらば青春の光として最初に立った舞台は、2008年のキングオブコント1回戦でした。

最初のボケでは大きな笑いが起きたものの、その後はうまくいかず、初挑戦は1回戦敗退に終わります。

それでも二人はそのまま活動を続け、事務所ライブで結果を出し、結成から間もない時期にNHK上方漫才コンテストの本選へ進みました。

最初はキングオブコントへ出るために試した組み合わせでしたが、舞台で結果が出始めたことでコンビを続けることになります。

大阪の下積み時代|客7~8人の劇場で新ネタを量産

コンビを続けると決めても、すぐにテレビの仕事だけで生活できるようになったわけではありません。

大阪での活動は、少ない客の前で舞台に立ち、アルバイトをしながら次の新ネタを作る日々でした。

200円ほどのコーヒー1杯で5~6時間ネタ作り

松竹芸能の劇場がなんばにあったころ、ライブが終わると森田さんと東ブクロさんは近くのイタリアントマトへ向かっていました。

そこで当時200円ほどだったアイスコーヒーを一杯だけ頼み、水も飲みながら5~6時間ネタを考えていたといいます。

ライブへ出るたびに新しいネタが必要だったため、一つ完成すれば終わりではありません。

養成所で始まった「作って見せる」という生活が、そのまま若手芸人になった後も続いていました。

新世界の劇場、チケットノルマ、月1~2万円ほどの芸人収入

松竹芸能の劇場がなんばから新世界へ移った時期には、客席に来る人数が平均で7~8人ほどだったと森田さんは振り返っています。

20人ほど入ると「今日は多い」と感じる程度でした。

出演者にはチケットの販売ノルマもあり、路上で声をかけたり友人へ買ってもらったりし、売れなければ自分たちで負担することもありました。

芸人としての収入は、良い月でも1~2万円ほどだったといいます。

そのころも生活費を得るためのアルバイトは続き、森田さんは競馬新聞の配達、ボウリング場、サウナ施設内の居酒屋など、時期によって複数の仕事を経験しています。

月6~7本の新ネタを作り、2011年の新人グランプリ最終決戦へ

大阪時代のさらば青春の光は、ライブごとに新ネタを下ろし、多いときには月6~7本ほど作っていました。

2011年1月には「第32回ABCお笑い新人グランプリ」で最終決戦へ進み、少しずつ大きな舞台に名前が出るようになります。

森田さんは漫才を始めたころ、笑い飯やブラックマヨネーズの漫才を見て「この人たちを漫才で超えるのは難しい」と感じたことを後に明かしており、さらば青春の光ではコントに軸足を置くようになりました。

初舞台になったキングオブコントにも挑戦を続け、結成4年目の2012年、初めて決勝へ進みます。

2012年キングオブコント準優勝でもすぐには状況が変わらなかった

2012年のキングオブコントでは、バイきんぐが優勝し、さらば青春の光は準優勝となりました。

テレビで全国へ放送され、森田さん自身も好きだったダウンタウンと同じ番組へ出演する大きな機会になりました。

ところが、準優勝した翌月から仕事と収入が一気に増えたわけではありません。

「次の月の給料8000円だったんです」

スポニチアネックス

KOC準優勝は知名度が上がる出来事にはなりましたが、森田さんたちにとって「翌日から売れっ子」という転機ではありませんでした。

むしろ、期待していたほど状況が変わらなかったことが、その後の所属環境を考え直す流れへ入っていきます。

松竹退社と上京|2013年にザ・森東を立ち上げる

キングオブコント準優勝の翌年、さらば青春の光は長く所属していた松竹芸能を離れます。

ここから活動拠点も仕事の受け方も大きく変わりました。

KOC準優勝後に松竹を離れる決断

森田さんは後年、当時の退社について、若かった自分たちの判断もあったと振り返っています。

賞レースで準優勝したのに思うように仕事や収入が増えないという不満があり、自分たちなら外へ出てもやっていけるという考えが強くなっていました。

2013年に松竹芸能を退所し、二人はそれまで所属事務所が担っていた部分も自分たちで引き受けることになります。

賞レースで名前が知られ始めた時期に、あえて所属環境そのものを変えることになりました。

2013年に東京へ移り、五反田を拠点に活動を再スタート

松竹を離れた2013年、さらば青春の光は活動の拠点を大阪から東京へ移しました。

森田さんは五反田で暮らし始め、以後この街が仕事と生活の拠点になっていきます。

上京直後にはTOKYO MXで『さらば青春の光ふぁいなる』も始まり、森田さんの自宅で撮影することもありました。

東京へ移ってからもライブ出演は多く、月10本ほど舞台へ立つ時期があり、単独ライブ前には五反田のファミリーレストランで長時間ネタを考えていました。

大阪で200円ほどのコーヒー一杯を前にネタを作っていたころから、場所が東京へ変わっても、舞台へ向けてネタを書く時間は続いていました。

2013年10月に株式会社ザ・森東を設立

同年10月には、森田さんたちの活動を支える株式会社ザ・森東が設立されました。

森田さんは代表となり、芸人として舞台へ立つだけでなく、自分たちの仕事を受ける会社を持つ立場になります。

高校卒業後にアルバイトを続けていた森田さんは、32歳になる年に自分たちの芸能事務所の社長になりました。

ザ・森東という会社を持ったことは、後のテレビ、ライブ、YouTubeなど複数の活動を自分たちで展開していく土台になりました。

独立後の時期に父が地元・堺でそば店を開業

森田さんが東京へ移って活動を立て直していたころ、地元・堺では父親にも新しい動きがありました。

2014年12月、父親が堺市の新金岡で手打ちそば店「唐変木」を開業しています。

後年、森田さんが主演した映画『大阪古着日和』では、その実家のそば店が撮影場所にもなり、父親本人も作品へ登場しました。

子どものころ家でよく映画を見ていたという父親と、映画の撮影現場で一緒になる機会が生まれたことになります。

賞レース常連から現在へ|ネタ、YouTube、会社経営へ活動が広がる

独立したあとも、さらば青春の光が舞台のネタから離れたわけではありません。

キングオブコントへの挑戦を続けながら、漫才でも再び大きな賞レースの舞台へ進みました。

キングオブコント決勝常連となり、2016年にはM-1決勝へ

2012年の準優勝後も、さらば青春の光はキングオブコントの決勝へ複数回進出しました。

さらに2016年には、漫才日本一を決めるM-1グランプリの決勝にも進出しています。

養成所からカサブランカ時代に漫才を経験し、さらば青春の光ではコントに軸足を置いた森田さんが、コンビ結成から8年ほどたって漫才でも全国大会の決勝へ戻ってきた形でした。

その一方で、賞レースの結果だけを追う活動にはせず、コンビの単独ライブを継続していきます。

賞レースを離れても単独ライブでコントを作り続ける

森田さんは単独ライブを、さらば青春の光の活動の中でも重要な仕事として位置づけています。

若手時代のように少人数の客席へ向けて新ネタを作っていたころから規模は大きく変わり、2025年の単独ライブ「八百長」は全国で約4万席規模へ広がりました。

2026年5~8月には単独ライブ「九官鳥」で東京、大阪、愛知、福岡、広島、愛媛、千葉、宮城、石川、熊本、新潟、北海道を巡る全国ツアーを開催しています。

テレビの仕事が増えた後も、さらば青春の光は全国を回る単独ライブで新しいコントを作り続けています。

YouTubeとザ・森東の経営まで担う現在の森田哲矢

現在はテレビやライブに加え、「さらば青春の光Official Youtube Channel」も大きな活動の一つになっています。

YouTubeでは二人の企画を自分たちの会社から継続して発信し、ザ・森東の社員も制作や告知に関わっています。

森田さん自身は芸人としてネタを作り、出演者として表へ出ながら、会社では代表を務めています。

舞台に立つ芸人、ネタを作る側、YouTubeの出演者、そして芸能事務所の社長という役割を同時に担う形へ活動が広がりました。

大阪・堺の団地でテレビのお笑いを見ていた森田さんは、小学生で一度コントを披露しながらも、すぐに芸人の道を選んだわけではありませんでした。

高校卒業後のフリーター生活と借金返済を経て、24歳ごろに初めてお笑いを仕事として選び、松竹芸能の養成所で東ブクロさんと出会いました。

客が数人の劇場で新ネタを作っていた時期から年月がたち、現在もさらば青春の光としてコントを作りながら、ザ・森東から自分たちの仕事を発信しています。

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