人物プロフィール
NHK『あさイチ』では博多大吉さんと並び、朝の生放送を穏やかな空気で進めている博多華丸さん。
児玉清さんや川平慈英さんのものまね、博多弁を生かした漫才でも知られていますが、全国で名前が広く知られるようになったのは、芸歴をかなり重ねてからでした。
華丸さんは福岡で約15年間活動したあと、35歳だった2005年に活動拠点を東京へ移しています。
しかも若いころから芸人だけを目指していたわけではなく、高校卒業後に進んだのは福岡大学工学部土木科でした。
そこで落語研究会に入り、後に30年以上隣に立ち続けることになる博多大吉さんと出会い、大学生活の途中でお笑いの世界へ足を踏み入れることになります。
大学の落研で出会った2人が、なぜ福岡吉本1期生となり、15年後に東京へ向かったのかを、華丸さんの家族や学生時代から順番にたどっていきます。
博多華丸の生い立ちと家族|福岡で育ち、父の家業を意識した少年時代
博多華丸さんは1970年4月8日、福岡県福岡市に生まれました。
現在の芸名からも福岡の印象が強い人物ですが、それは芸人になってから作られたイメージだけではなく、幼少期から学生時代、若手時代まで長く福岡で過ごしてきた人生そのものと重なっています。
本名は岡崎光輝|福岡で育った幼少期
華丸さんの本名は岡崎光輝(おかざき・みつてる)です。
吉本興業の公式プロフィールでは福岡市早良区出身とされ、母校の福岡大学附属大濠高校同窓会による人物紹介では、福岡市立高宮中学校から大濠高校へ進んだ経歴が紹介されています。
家庭では父・和海さん、母・博子さんらと暮らし、弟がいる長男として育ちました。
華丸さんの家族をたどると、父方と母方ではかなり異なる色合いが見えてきます。
父は土木工事会社を経営|長男として見えていた進路
父の和海さんは大学を卒業した後、土木工事会社を起こして経営していました。
華丸さん自身も高校卒業後には福岡大学の工学部土木科へ進んでおり、父の仕事と同じ「土木」が学生時代の進路に入ってきます。
後に華丸さんがお笑いの道へ進んだことで、家業は弟が継ぐことになりました。
芸人になる直前の華丸さんには、父の会社につながる現実的な進路がすでに見えていたことになります。
その一方、母方には後の華丸さんを思わせるような、話すことや人を楽しませることにまつわる人物がいました。
母方の曽祖母は「博多にわか」|明るかった祖母との記憶
2023年にNHK『ファミリーヒストリー』で家族の歴史がたどられた際、母方の曽祖母・ソノさんが「博多にわか」を演じていたことが紹介されました。
博多にわかは、博多弁を使いながら風刺やオチを織り込む郷土芸能で、ソノさんは頭の回転が速く、とんちの利く人物として周囲から親しまれていたそうです。
その娘にあたる祖母・スガさんも非常に話好きで、子どものころには映画の弁士に憧れていました。
家へ泥棒が入った際には、通帳を持っていた相手へ普通に話しかけ、食べ物まで勧めながら会話し、最後には通帳を取り戻したというエピソードまで残っています。
華丸さん自身も、この祖母について明確に影響を口にしています。
「おばあちゃんの影響は絶対にあると思いますね」
日刊スポーツ
テレビで見せる華丸さんの話し方を家系だけで説明することはできませんが、少なくとも子どものころ身近にいた祖母が、よくしゃべり、場を明るくする人物だったことは本人の記憶にも強く残っていました。
大濠高校時代|軟式野球部と7段ピラミッドの思い出
中学校を卒業した華丸さんは、福岡大学附属大濠高校へ進学しました。
高校時代のエピソードには、テレビで見せるような軽妙な語り口になる前の、部活動や学校行事に参加する一人の高校生としての姿が残っています。
軟式ならできると思って野球部へ入り、すぐ壁にぶつかる
大濠高校には甲子園出場経験を持つ硬式野球部がありますが、華丸さんが選んだのは軟式野球部でした。
本人は後年、硬式は自分には難しそうでも、軟式なら何とかなるだろうという感覚で入部したことを明かしています。
ところが実際に入ってみると決して簡単ではなく、考えていたよりも厳しい部活動だったことを知りました。
野球好きはその後も続き、プロ野球、特に福岡の球団を追い続ける現在の趣味にもつながっていますが、高校時代はまず自分でグラウンドに立つ側でした。
体育祭で完成した7段ピラミッド、歓声は別の野球部へ
大濠高校時代の思い出として、華丸さんが母校の企画で語っているのが体育祭の7段ピラミッドです。
仲間たちと練習を重ね、本番でようやく大きな人間ピラミッドが完成した瞬間、女子生徒たちから大きな歓声が上がりました。
ところがその歓声はピラミッドへ送られたものではなく、ちょうど会場へ姿を見せた福岡第一高校野球部の選手たちへ向けられたものだったといいます。
達成感いっぱいで完成させた7段ピラミッドが、ほとんど注目されないまま崩れていったという出来事を、華丸さんは後年も笑い話として覚えていました。
1989年に福岡大学工学部土木科へ進学
1989年、高校を卒業した華丸さんは福岡大学工学部土木科へ進学します。
ここまでの進路だけを見れば、土木会社を経営する父と大きく離れた道ではありませんでした。
しかし大学で華丸さんが探したのは、土木とは別の場所にある「お笑いをできる場所」でした。
この選択から、学生生活は急速に芸人への道へ近づいていきます。
福岡大学の落研で博多大吉と出会う
福岡大学へ入った華丸さんは、お笑いをやれるサークルを探しました。
しかし当時の大学には現在のようなお笑いサークルがなく、選択肢として見つかったのが落語研究会でした。
お笑いサークルがなく落語研究会へ|鞄持ちから始まった大学生活
華丸さんは落語家を志していたから落研へ入ったわけではなく、あくまで人前でお笑いをやりたいという気持ちから入部しています。
ところが入ってみると、そこには想像していた以上に厳しい上下関係がありました。
新入生はくじ引きで上級生の弟子となり、先輩の鞄を持つなど、昔ながらの師弟関係に近い習慣まであったといいます。
楽しそうなお笑いの場を探して入った華丸さんにとって、最初に待っていたのは自由にネタを試す生活ではありませんでした。
大吉と落研への不満を言い合い、同学年で最も近い友人に
同じころ落研へ入ってきたのが、後の博多大吉さん、本名吉岡廣憲さんです。
2人は兄弟でも幼なじみでもなく、福岡大学の落語研究会で初めて出会った同級生でした。
第一印象では、華丸さんは大吉さんのえくぼが目に入り、大吉さんは華丸さんの大きな目が印象に残ったと、後に2人の公式ヒストリーで紹介されています。
親しくなるきっかけになったのは、厳しい落研で同じ一年生として過ごしたことでした。
先輩への不満などを話しているうちに距離が縮まり、同学年の中でも特に行動を共にする2人になっていきます。
高座名「福々亭さろん」|新作落語をやって先輩から叱られた
落研で華丸さんに付けられた高座名は「福々亭さろん」でした。
当時の髪型がヘアサロンのポスターに出てくるモデルのようだったことが名前の理由で、大吉さんには「福々亭こまんど」という高座名が付けられています。
華丸さんは古典落語より、桂三枝さん、現在の六代桂文枝さんによる新作落語のほうに面白さを感じていました。
そこで新作落語を稽古しようとすると、先輩たちから一年生には早いと叱られ、大学構内の芝生で正座させられたことまであったそうです。
大吉さんも、2人は一年生の中で目立つ存在だったため、次第に先輩たちを見返したいという気持ちを持つようになったと語っています。
タウン誌を見たヒグチ興業からスカウトされ「ヨッチャンオカチャン」に
まだ大学生だった2人に、思いがけない方向から芸能界への話が入ってきます。
落研が地元の情報誌に紹介されたことをきっかけに、華丸さんと大吉さんへ芸能プロダクションから声が掛かりました。
その会社はヒグチ興業といい、2人が指定された事務所へ行くと、マンションの一室で写真を撮影されます。
次に訪れたときには本人たちの写真を使ったプロフィールがすでに作られ、さらに岡崎と吉岡という本名から「ヨッチャンオカチャン」というコンビ名まで付けられていました。
話は本人たちの想像以上の速さで進み、東京から来た社長との面接では、翌月から東京へ来るよう持ち掛けられます。
華丸さんは後年、このとき自分たちは一度も明確に了承していないのに、次々と話が決まっていったと振り返っています。
2人がどう断ろうかと考えていたちょうどそのころ、福岡に吉本興業の事務所が新しくできるという話が入ってきました。
博多華丸が芸人になったきっかけ|オーディション4位から福岡吉本1期生へ
福岡に吉本興業の拠点ができることは、東京行きに戸惑っていた2人にとって大きな選択肢になりました。
ここから華丸さんの学生生活は、一気にプロのお笑いへ近づいていきます。
「岡崎君と吉岡君」で吉本のオーディションへ
吉本興業は福岡事務所の立ち上げにあたり、テレビ西日本と組んでオーディション番組『激辛!?お笑いめんたい子』を実施しました。
落語研究会にも出場の話が届き、華丸さんと大吉さんは本名をそのまま使った「岡崎君と吉岡君」として参加します。
出場した8組のうち、吉本に所属できる予定だったのは上位2組でした。
優勝したのは、現在のカンニング竹山さんと田中健二さんによる「ター坊ケン坊」で、華丸さんと大吉さんの結果は4位でした。
本来は不合格だった2人に「明日からおいで」と連絡
4位だった2人は、その時点では吉本所属の枠から外れていました。
ところが福岡事務所の旗揚げ公演を準備する段階になり、上位の出演者だけでは人数が足りないことが分かります。
そこで吉本側から華丸さんと大吉さんへ改めて声が掛かり、やる気があるなら翌日から来るよう伝えられました。
オーディション4位で一度は所属圏外だった2人が、旗揚げ公演の出演者不足によって呼び戻されたのです。
こうして1990年5月、2人は福岡吉本1期生として活動を始めました。
大学との両立を断念し、1990年に芸人の道を選ぶ
最初は大学生活と両立するつもりだった華丸さんですが、旗揚げ公演へ向けた活動は学生サークルの延長ではありませんでした。
すでに複数人で演じるコントの台本が用意され、大学の授業を理由に練習から抜けようとすると、事務所から厳しく止められます。
華丸さんが後年語った当時の状況は、非常にシンプルでした。
「もう、お笑い続けるか大学辞めるかの2択しかなかった。」
婦人公論.jp
華丸さんは福岡大学を中退し、お笑いを続ける側を選びました。
NSCへ入ったわけでも、特定の師匠へ弟子入りしたわけでもなく、大学の落研から新設された福岡吉本のオーディションへ進んだことが、華丸さんの芸人への入口でした。
「華丸・大吉」から「鶴屋華丸・亀屋大吉」へ
吉本入りにあたって提示されたコンビ名には、怪獣名を組み合わせた「ゴモラとガメラ」と「華丸・大吉」がありました。
2人は迷わず後者を選び、しばらくして「めでたい名前」という考えから鶴屋華丸・亀屋大吉へ改名します。
この時点ではまだ「博多」の屋号はなく、現在の名前になるのはさらに14年後のことでした。
福岡で始まった若手時代|テレビには出ても月数万円
福岡吉本1期生となった華丸さんたちは、仕事がないまま何年も舞台だけに立ち続けたわけではありません。
むしろテレビへの入口は驚くほど早く、その一方で収入や芸人としての環境は東京・大阪とは大きく異なっていました。
デビュー1年足らずでレギュラー番組と冠番組を獲得
1991年には『どっちもどっち博多っ子倶楽部』『若っ人ランド』『夜はとことん』『とことんサンデー』など、複数のローカル番組へ出演するようになります。
さらに『華丸・大吉の鉄腕ももち』という冠番組も持ち、芸人デビューから1年ほどで福岡のテレビに継続して顔を出す存在になりました。
同じ福岡吉本1期生にはカンニング竹山さんがおり、当初は竹山さんのコンビ「ター坊ケン坊」が中心的な存在でしたが、その後活動環境が変化したことで華丸・大吉にも多くの仕事が回るようになります。
2日拘束で5000円、アルバイトも禁止された生活
テレビへ出ていたからといって、若手時代から十分な収入があったわけではありません。
華丸さんは2026年に若手時代のギャラを振り返り、スタジオ収録とロケで2日間拘束されても5000円だった番組があったと明かしています。
週に2本レギュラーがあっても、単純計算で月4万円ほどという時期がありました。
テレビのレギュラーを持つ芸人でありながら、生活面では月数万円という時代があったのです。
当時の福岡吉本では原則としてアルバイトをしない方針もあったと2人は語っていますが、華丸さんは後年、短期間だけ深夜まで営業するラーメン店で働いたことも明かしています。
料理や焼き鳥を出す店で働いた経験があり、テレビだけを見れば順調に映る一方、若手時代の日常は決してテレビ出演だけで完結していませんでした。
先輩芸人がほぼいない福岡吉本1期生として現場で覚える
大阪や東京の吉本とは違い、新しくできた福岡事務所には身近な先輩芸人がほとんどいませんでした。
大吉さんは、同期の竹山さんたちと稽古やイベントを重ねながら、当時の所長から芸人としての基礎を一から教え込まれたと振り返っています。
華丸さんも後年、大阪の師匠たちから掛けられた言葉の中で、特に残ったものを挙げています。
「やめるな、続けろ」
ORICON NEWS
福岡で仕事を続けるうち、2人は漫才だけでなくロケや司会、リポートなど、地方テレビで求められるさまざまな仕事を経験していきます。
1994年ごろ「漫才をやめろ」と言われ、タレント路線へ
地元で仕事が増えていた1994年ごろ、福岡吉本の所長が交代し、2人を取り巻く環境が変わります。
新しい方針では漫才よりテレビタレントとしての活動が求められ、本人たちは後に当時の言葉をこう紹介しています。
「おまえらは漫才をやめろ。タレントになれ」
読売テレビ「黄金列伝」
漫才をする機会が減る一方、華丸さんたちは福岡のテレビでMCやロケを担う時間を増やしていきました。
後に全国放送で見せる「ひな壇芸人」とは違う、少人数で番組を進めたり街へ出たりする仕事を若いうちから数多く経験することになります。
1996年から2001年|母との別れ、大吉の休業、幻のM-1
20代半ばを迎えた華丸さんの周囲では、仕事だけでなく家族やコンビにも大きな出来事が続きました。
それまで2人で進んできた活動の形も、1990年代後半に一度大きく揺れることになります。
1996年、母を48歳で亡くす
1996年、華丸さんは母の博子さんを48歳で亡くしました。
博子さんは化粧品関係の仕事をしており、博多に店を持つほど仕事に力を入れていた人物でした。
亡くなったのは不慮の事故によるもので、華丸さんはまだ20代半ばでした。
この出来事は後年『ファミリーヒストリー』でも扱われ、華丸さん自身が母を失った当時について語っていますが、芸人としての活動はそのまま福岡で続いていきました。
1997年に大吉が約1年間休業し、華丸は1人で仕事を続ける
翌1997年には、今度はコンビそのものに大きな変化が起きます。
大吉さんが出演番組内でアメリカ留学企画を発表したものの、その企画が事務所へ十分に共有されていなかったことでテレビ局と事務所の間に問題が生じ、大吉さんは仕事を休むことになりました。
大吉さんの休業は約1年間に及び、その間、華丸さんは一人でレギュラーの仕事を続けました。
現在のように常に2人がセットで出演するイメージから見ると意外ですが、華丸さんには20代で一度、相方が表舞台からいなくなった状態で仕事を続けた時期があります。
大吉の復帰後、ネタ作りの形も変化
休業していた大吉さんは、自宅で過ごす時間が増えたことをきっかけに、お笑いやネタについて以前より深く考えるようになります。
復帰後は大吉さんがネタ作りを担う形が次第にはっきりし、大吉さんが骨格を作り、華丸さんが演じるという現在にも続く役割が形づくられていきました。
華丸さんはボケやものまね、大吉さんはツッコミとネタ作りを主に担うようになり、2人で同じことをするのではなく、それぞれの役割を持つコンビへ変わっていきます。
吉本111劇場で大阪の若手芸人と同じ舞台に立つ
1999年には福岡に常設劇場「吉本111劇場」がオープンしました。
それまでは福岡のテレビを中心に活動していた華丸・大吉の前へ、大阪や東京で人気を集めていた若手芸人が次々とやって来ます。
中川家、海原やすよ ともこ、DonDokoDonなどと同じ現場に立ち、大吉さんは打ち上げの席ですら礼二さんや山口智充さんが即興でミニコントを始める姿を見て、その実力差に驚いたと振り返っています。
華丸さんも、その場では悔しさより見とれてしまうほどだったと話しています。
福岡ではすでにテレビへ出ていた2人が、全国の若手芸人ブームを身近で見る側になった時期でした。
2001年M-1は準決勝まで進むも「結成11年」で失格
2001年に第1回M-1グランプリが始まります。
当時の出場資格は結成10年以内で、1990年結成の華丸・大吉はすでに11年目に入っていたため、本来なら出場対象ではありませんでした。
それでも吉本社員から勧められて大会へ出場すると勝ち進み、準決勝では翌年の日韓ワールドカップを題材にした時事ネタを急きょ作って披露します。
ネタは大きく受け、決勝進出を期待する声も上がったものの、大会側が改めて資格を協議した結果、結成11年目は対象外と判断されました。
華丸・大吉の最初で最後のM-1は、準決勝まで進んだところで失格という珍しい形で終わっています。
そのため華丸・大吉に「M-1優勝」の経歴はなく、後にコンビで頂点に立つ大会はTHE MANZAIでした。
「博多華丸・大吉」への改名から35歳の東京進出へ
2000年代に入っても2人は福岡で多くの仕事を抱えていましたが、全国のお笑い番組や若手芸人の存在が身近になるにつれ、地元だけで活動を続ける環境にも変化が生まれていました。
そんな時期に、まず現在まで続くコンビ名が生まれます。
2004年、事務所スタッフの助言で現在のコンビ名へ
2004年まで2人は鶴屋華丸・亀屋大吉として活動していました。
転機になったのは、福岡吉本で働いていた姓名判断に詳しい女性スタッフが退職するときに残した助言でした。
「名前が悪すぎる、このままでは売れない」
「華大どんたく」公式ヒストリー
スタッフは「博多華丸・大吉」への改名を勧め、さらに改名後は東へ向かったほうがよいという話もしたといいます。
2004年、2人は地元の名前を真正面から掲げた「博多華丸・大吉」に改名しました。
福岡で15年活動した末、35歳で東京行きを決める
翌2005年、2人は福岡で積み上げてきた活動拠点を東京へ移すことを決めます。
当時、華丸さんは35歳で、若手芸人が東京へ挑戦する年齢としては遅いと言われることもありました。
華丸さんは福岡のお笑いブームの中で地元の観客の目が厳しくなってきた感覚があり、さらに同じ福岡吉本にいたカンニング竹山さんやヒロシさんが全国でブレイクしていく姿も見ていました。
ヒロシさんが東京で売れたあと福岡へ凱旋し、以前とはまるで違う大きな笑いを取る様子を見たことで、「一度東京の全国番組へ出てから福岡へ戻る」という考えも具体的になっていきます。
華丸さんの子どもの学校の時期もあり、先延ばしにするより今しかないという判断も重なりました。
福岡で約15年仕事を続けた華丸さんは、35歳で東京へ向かいました。
目標だった『エンタの神様』のオーディションには落選
東京進出の際、2人が具体的な目標にしていた番組の一つが日本テレビ系『エンタの神様』でした。
福岡在住のままではオーディションを受けにくかったため、まず東京へ住所を移し、番組に何度か出て全国で認められたら福岡へ戻るというイメージを持っていたそうです。
しかし実際に受けた『エンタの神様』のオーディションには落選しました。
ほかのネタ番組のオーディションにもなかなか通らず、M-1はすでにキャリア制限を超えています。
福岡では長年テレビに出ていた芸人が、東京ではもう一度オーディションを受ける立場から始めることになりました。
児玉清のものまねが「細かすぎて伝わらない」で突破口に
そんな中、芸歴に関係なく参加できたのが『とんねるずのみなさんのおかげでした』の人気企画「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」でした。
華丸さんは『パネルクイズ アタック25』で司会を務めていた児玉清さんの細かな仕草や言い回しをものまねし、同企画で優勝します。
東京へ移って約半年、長い福岡時代にはなかった児玉清さんのものまねが全国放送で大きく注目されました。
コンビで東京へ来た華丸さんが、最初に全国で大きな突破口を作ったのはピンのものまねでした。
2006年R-1優勝|決勝ネタをめぐって大吉と大ゲンカ
児玉清さんのものまねで知名度が上がった翌2006年、華丸さんはR-1ぐらんぷりへ出場しました。
ここでも児玉さんのものまねが決勝進出につながりましたが、本番直前になって華丸さんと大吉さんの意見が真っ二つに分かれます。
「博多のおじさん」をやりたい華丸と止める大吉
華丸さんは決勝で、児玉さんのものまねではなく、ゴルフコンペの受付を間違えた博多のおじさんを演じる博多弁のコントをやりたいと考えていました。
準決勝を見た大吉さんは児玉清ネタなら優勝の可能性があると感じており、変更に強く反対します。
華丸さんには、せっかく全国ネットの決勝へ出るなら地元の言葉を残したいという思いがありました。
「博多弁を出さんと福岡の人が喜ばんやろ!」
週プレNEWS
話は「東京に染まったのか」というところまで広がり、2人が後に「最大のケンカ」と呼ぶほど激しい言い合いになりました。
児玉清のものまねでR-1を制し全国区へ
最終的には華丸さんが折れ、準決勝までと同じく児玉清さんのものまねを軸にしたネタで決勝へ臨みました。
結果はR-1ぐらんぷり2006優勝でした。
コンビで活動する芸人として初めてR-1王者となり、東京進出の翌年に全国区のタイトルを手にしました。
華丸さんは後年、あのとき大吉さんが止めてくれてよかったと話しており、全国へ博多弁を見せたい華丸さんと、勝てるネタを選ぼうとした大吉さんの役割がはっきり表れた出来事でもありました。
東京進出から約1年でR-1優勝まで進んだ一方、その直前にはコンビ最大級の言い争いがあったというのが、この転機の実際の流れです。
東京のひな壇では出遅れた2人の“静かさ”が個性になる
R-1優勝後、華丸・大吉は全国放送のバラエティ番組へ出る機会を増やしていきます。
ただし東京のスタジオで最初から器用に振る舞えたわけではありません。
華丸さんは、周囲の芸人が一斉に立ち上がってリアクションする場面でも反応が遅れ、ふと横を見ると大吉さんもまだ座っていたという若手ならぬ“東京新人”時代を振り返っています。
福岡では大人数の芸人が並ぶひな壇文化そのものに触れる機会が少なく、東京式の動きに慣れていなかったのです。
ところが『アメトーーク!』などでは、その落ち着いた立ち姿そのものが周囲との違いとして面白がられるようになります。
2009年『華丸・大吉のなんしようと?』が始まる
東京で仕事を増やしても、2人は福岡での活動を手放しませんでした。
2009年4月にはテレビ西日本で『華丸・大吉のなんしようと?』がスタートします。
福岡の街を歩き、そこで暮らす人々と会話する番組で、東京進出後も長く続く冠番組になりました。
若手時代に福岡のローカル番組で何度も経験してきた街ロケや一般の人とのやり取りを、全国区になった後も地元で続けることになります。
THE MANZAIと『めんたいぴりり』|漫才と福岡を再び前面へ
R-1以降はテレビ出演が増えましたが、2人は漫才をやめたわけではありませんでした。
2010年代に入ると、福岡時代から続けてきた漫才と、華丸さん自身の地元色がそれぞれ別の大きな仕事へつながっていきます。
2011年THE MANZAI出場とビートたけしからの言葉
2011年、年齢や結成年数に関係なく参加できる漫才大会『THE MANZAI』が始まり、華丸・大吉も出場します。
この年は決勝の最初のラウンドで敗退しましたが、大会最高顧問だったビートたけしさんから漫才を直接評価されました。
翌2012年には「ビートたけしのエンターテインメント賞」で日本芸能賞を受賞し、たけしさんは2人が作る漫才の雰囲気について好意的な言葉を送っています。
福岡時代に事務所から漫才をやめるよう言われた時期を経験した2人が、20年以上たって漫才そのもので評価されるようになっていました。
2013年『めんたいぴりり』主演|演技経験の少なさから一度は断る
2013年、華丸さんには福岡を舞台にした別の大仕事が入ります。
テレビ西日本創立55周年記念ドラマ『めんたいぴりり』で、明太子メーカー「ふくや」の創業者をモデルにした主人公を演じることになりました。
当時の華丸さんは俳優としての経験が多かったわけではなく、主演の話を一度は断っています。
それでも監督から強く求められて出演を決め、大吉さんからセリフ覚えの訓練も受けて撮影へ入りました。
大吉さんによれば、普段の漫才でも華丸さんへ台本を本番直前に渡すことがあり、その状況で覚えて舞台へ上がってきた経験がドラマにも生きたそうです。
福岡で身につけた漫才のやり方が、40代になって初めて挑む本格的な主演ドラマでも使われました。
『めんたいぴりり』はその後、続編、舞台、映画へと展開し、華丸さんの俳優活動を代表する作品になります。
2014年THE MANZAI決勝、本番直前に大吉がネタを変更
2014年、華丸・大吉は3年ぶりにTHE MANZAIへ出場しました。
きっかけの一つになったのは、ビートたけしさんから「なぜ出ないのか」と声を掛けられたことでした。
大会を勝ち進んで迎えた最終決戦では、さらに華丸さんを慌てさせる出来事が起きます。
事前に披露するネタを決めていたにもかかわらず、会場の空気を見た大吉さんが、本番直前になって別の漫才へ変更したのです。
華丸さんは変更後のネタを十分に確認する時間がなく焦りましたが、酔っぱらった人物という設定を生かしながら舞台を進めました。
結成24年目でTHE MANZAI優勝
急きょ変更した漫才を演じ切った2人は、THE MANZAI 2014で優勝しました。
1990年の結成から24年目、福岡大学の落研で出会った2人が漫才の大会で頂点に立ちました。
ただし、この優勝を華丸・大吉の最初のブレイクと考えると実際の歩みとはずれます。
大吉さん自身も、THE MANZAI優勝後に「ようやくチャンスをつかんだ」と言われることへ違和感を示しており、福岡時代から仕事が長期間まったくないような状態ではなかったと振り返っています。
R-1や『アメトーーク!』などで全国の仕事を増やした後、コンビの本業である漫才でも大きなタイトルを獲得したという位置づけのほうが、2人の時間軸には合っています。
『あさイチ』へ|20代からのドラマ好きが生きた現在
THE MANZAI優勝後も、華丸さんは漫才、福岡の番組、俳優業、全国放送のバラエティを並行していきます。
そして2018年、コンビにとってそれまでとは違う時間帯の大仕事が始まりました。
2018年、博多華丸・大吉が『あさイチ』2代目キャスターに
2018年4月、博多華丸・大吉はNHK『あさイチ』の2代目キャスターに就任しました。
若手時代のローカル番組から何度も司会やロケを経験してきた2人が、平日の朝に全国へ生放送される番組を担当することになります。
番組では情報を紹介するだけでなく、直前に放送された連続テレビ小説について率直に感想を交わす「朝ドラ受け」も定着しました。
福岡の若手テレビ芸人として始まった司会経験が、約30年後にはNHKの朝の生放送まで続きました。
若手時代から見続けたドラマが俳優とのトークで武器になる
『あさイチ』で意外な形で生きたのが、華丸さんが20代から続けていたテレビドラマ好きでした。
大吉さんによると、福岡時代に自分が漫才の骨格を考えている横で、華丸さんがドラマに夢中になり、ネタ作りの相談をしてもなかなか話を聞いてくれないことがあったそうです。
「華丸さんドラマに夢中で全然話を聞いてくれなくて。」
週プレNEWS
当時は大吉さんを困らせていたその時間が、『あさイチ』では俳優をゲストに迎えたときの会話に使われるようになりました。
作品の細かな場面まで覚えている華丸さんが具体的に話を広げられるため、ドラマをあまり見てこなかった大吉さんは、その部分を華丸さんへ任せていると話しています。
ネタ作りの横でテレビを見ていた20代の習慣が、50代の朝番組でそのまま仕事になるとは、当時の2人にも想像できなかったはずです。
漫才・福岡・司会・俳優を行き来する現在地
現在も華丸さんは『あさイチ』だけに活動を絞らず、博多華丸・大吉として漫才を続けています。
2024年にMBS『情熱大陸』が2人を追った際にも、本人たちは自分たちの本業を漫才と位置づけ、毎年新しい漫才を作り続けている姿が紹介されました。
福岡では『華丸・大吉のなんしようと?』を続け、『めんたいぴりり』ではドラマから舞台、映画へと主演を重ねています。
父の和海さんも現在の『あさイチ』をよく見ており、番組中のワイプでは大吉さんのほうが多く映っているのではないかと息子へ細かな指摘をすることがあると、2023年の『ファミリーヒストリー』で明かされました。
土木科へ進み、福岡大学の落研で大吉さんと出会った岡崎光輝さんは、オーディション4位から偶然のように福岡吉本1期生へ入りました。
福岡で15年活動したあと35歳で東京へ移り、ものまね、R-1、漫才、俳優、司会と仕事の幅を広げても、名前には今も「博多」が残っています。
大学で出会った大吉さんと続けてきた漫才と、若いころから積み重ねた福岡でのテレビ経験の両方を持ったまま、華丸さんは現在も舞台とテレビを行き来しています。












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