人物プロフィール
宮下草薙の草薙航基さんといえば、不安が膨らんでいく独特の語り口や、感情がそのまま表に出るようなやり取りで知られています。
現在の姿からさかのぼると、学生時代は学校でほとんど人と話さず、高校も入学直後に中退していました。
その後は警備員やごみ収集、宅配などの仕事を経験しますが長くは続かず、20歳前後になって「大好きだったお笑いをやってみよう」と芸人の世界へ向かいます。
ところが、最初に受けた吉本興業のNSCには不合格となり、その後に入った太田プロの養成所でも、最初から現在の宮下草薙として活動していたわけではありません。
別の相方とのコンビを経験し、芸人を辞めようとした時期を経て、養成所で出会っていた宮下兼史鷹さんと組むことになります。
草薙航基の生い立ちと家族|名古屋市出身、ほとんど話さなかった子ども時代
太田プロダクションの公式プロフィールでは、草薙さんの出身地は愛知県名古屋市とされています。
出生した市町村については公的・公式な情報で確認できる範囲が限られるため、ここでは本人の幼少期や家庭について語られている内容を追っていきます。
「普通の家」で育ち、できのいい弟を意識していた
草薙さん自身は、子どものころの家庭を特別な環境だったとは語っていません。
2019年のbizSPA!のインタビューでは、家庭について話題が及んだ際、弟の存在にも触れています。
「僕の家は本当に普通で。しいて言えば、弟のデキがよくて卑屈になったのかな……」
bizSPA!
弟は勉強などがよくできた一方、自分については勉強も運動も得意ではなかったと話しており、兄弟を比べて自分のほうを低く見ていた時期があったようです。
父親や母親の職業など、家族について細かな情報まで公表されているわけではありませんが、後に高校を辞めようとした際には、母親が学校へ戻るよう説得したことを本人が明かしています。
勉強も運動も苦手で、学校ではほとんど人と話さなかった
子どものころから学校で中心になって周囲を笑わせていた、というタイプではありませんでした。
本人は小学校から中学校にかけて、ほとんど誰とも話さなかったと振り返っています。
現在は人前に立って自分の不安や考えを言葉にする草薙さんですが、学生時代には人と話すこと自体が少ない生活を送っていました。
ただ、お笑いとの接点がなかったわけではありません。
後に芸人を目指す際、大きな名前として出てくるのが、当時テレビで人気だったはんにゃ・金田哲さんでした。
中学校から高校へ|入学直後の身体測定をきっかけに中退
中学校を卒業した草薙さんは高校へ進学しましたが、高校生活はほとんど始まらないまま終わることになります。
本人が後年テレビで語った内容によると、学校へ行ったのは入学後の身体測定が行われるころまででした。
高校へ進学するも「胸板が厚い」といじられる
当時は現在より体重があり、身体測定の際に同級生から体格についていじられました。
一度のやり取りだけでなく、この先も同じように学校でいじられていくのではないかという不安が強くなり、学校へ行きたくなくなったといいます。
「すごい嫌で2日目ぐらいで」
スポニチアネックス
正確に授業を受けた日数を数えているというより、本人の記憶では入学から2日目ほどという非常に早い段階で高校を辞めています。
母親に説得されても高校へ戻らなかった
高校を辞めたいと考えた草薙さんに対し、母親はそのまま受け入れたわけではありませんでした。
学校へ戻るよう説得されたものの、本人の気持ちは変わらず、高校生活を続けることはありませんでした。
このため大学へ進学するという流れにも進まず、10代半ばから学校ではなく仕事をする生活へ移っていきます。
16歳から仕事を転々|警備員・ごみ収集・宅配を経験
高校を離れたあと、草薙さんは16歳ごろから働き始めました。
ここから芸人になるまで一直線にお笑いを目指していたわけではなく、いくつもの仕事を経験しています。
高校を辞めて働き始めるも、多くの仕事が約2か月で終わった
本人が具体的に挙げている仕事には、警備員、ごみ収集、宅配などがあります。
どれか一つの仕事を何年も続けていたのではなく、本人によれば多くは2か月ほどで辞めていました。
2026年に『大悟の芸人領収書』へ出演した際にも、16歳ごろから働き始めたものの、職場へ行っては辞めることを繰り返していたと話しています。
学校を辞めたあとすぐ芸能界へ進んだという経歴ではなく、一般の仕事がうまく続かない数年間が間にありました。
ごみ収集では職場の共同入浴が苦手だった
転々とした仕事について、単に「人間関係が苦手だった」と説明しているだけではありません。
ごみ収集の仕事では午前中の回収が終わると、職場へ戻ってみんなで風呂へ入る習慣がありました。
草薙さんは自分の裸を人に見られることが恥ずかしく、その時間も仕事を続けにくかった理由の一つとして挙げています。
仕事の内容そのものだけでなく、職場でほかの人と一緒に過ごす時間にも強い苦手意識があったことが伝わるエピソードです。
はんにゃ金田哲への憧れと、一人でしていた「ズクダン」
仕事を転々としていた時期より前から、草薙さんにとってお笑いは好きなものの一つでした。
特に影響を受けた人物として本人が名前を挙げているのが、はんにゃの金田哲さんです。
「はんにゃの金田さんをずっと子供の頃に観ていたのが芸人になろうと思ったきっかけです」
お笑いナタリー
はんにゃがテレビで披露していた「ズクダンズンブングンゲーム」が好きで、自分の部屋に鍵をかけ、一人でまねしていたことも明かしています。
学校ではほとんど誰とも話さなかった時期に、人前ではなく自分の部屋でテレビのお笑いをまねしていました。
20歳前後で芸人を決意|NSC不合格から太田プロ養成所へ
10代で高校を辞め、複数の仕事を経験したあと、草薙さんの中でお笑いが「見るもの」から自分の進路へ変わっていきます。
その決断をしたころについては、売れた後になってから何度も本人自身が振り返っています。
仕事が続かない中で「大好きだったお笑い」をやろうと考えた
2025年のTOKYO FM『川島明 そもそもの話』では、芸人を選んだ理由について、失敗しても笑いに変えられる世界なら「気持ちが楽になりそうだった」という趣旨の話をしています。
さらに2026年には、20歳前後になったころ将来への希望を持てないほど思い詰め、その中でお笑いへ向かったことを語りました。
「最後にお笑いをやってみよう、大好きだったお笑いを」
デイリースポーツ
仕事を転々とした先で、好きだったお笑いを自分でやってみることを選んだ時期が、草薙さんの進路を大きく変えました。
最初に受けたNSCでは自己アピールに失敗
芸人になるために草薙さんが最初に向かったのは、現在所属している太田プロではありませんでした。
先に受験したのは、吉本興業の養成所であるNSCです。
2020年の『あちこちオードリー』では、履歴書にかなり切迫した言葉を書いて受験したものの不合格だったことを明かしています。
2025年のTOKYO FMでも、NSCの面接で自己アピールがうまくいかなかったことが紹介されており、最初の養成所受験で一度、お笑いの入口から外れることになりました。
募集が残っていた太田プロの養成所5期へ
NSCに入れなかったあと、草薙さんが見つけたのが太田プロエンタテイメント学院でした。
本人によれば、最後まで募集していたことも太田プロの養成所へ進んだ理由の一つでした。
太田プロ公式プロフィールでは、草薙さんと宮下兼史鷹さんはいずれも東京校芸人コース5期生で、2014年3月卒業とされています。
この養成所で、後に長くコンビを組むことになる宮下さんと初めて同じ場所に立ちます。
養成所時代|宮下兼史鷹との出会いと、初ライブ1位
養成所へ入った時点で、草薙さんと宮下さんがすぐコンビになったわけではありません。
宮下さんはピンで漫談をしており、草薙さんは別の相方とコンビを組んでいました。
最初の自己紹介は緊張して途中退場
養成所で最初に行われた自己紹介から、草薙さんは順調だったわけではありません。
太田プロエンターテインメントカレッジの公式パンフレットで、当時を知る講師の菊原共基さんが二人と一緒に養成所時代を振り返っています。
緊張した草薙さんは酒を飲んで養成所へ行き、自己紹介の途中で耐えられなくなって退場してしまいました。
菊原さんはその姿を見て心配したといいますが、その印象は最初の合同ライブで変わります。
別の相方と出た最初の合同ライブでは1位
自己紹介では途中退場した一方、ネタを披露する場では結果を出しました。
草薙さんは当時の相方と出場した第1回の合同ライブで1位になり、第2回では2位。
その第2回で1位になったのが宮下さんでした。
「僕がはじめて悔しいと感じた芸人が今の相方なんですよね」
太田プロエンターテインメントカレッジ公式パンフレット
宮下さんは当時、自分がクラスで一番面白いと思っていたものの、第1回ライブで草薙さんが大きな笑いを取る姿を見て初めて悔しさを感じたと話しています。
草薙さんにとっても、後に「入学した世代が違ったら絶対に組んでいなかった」と語る出会いになりました。
宮下はライバルだった|当時はまだネガティブ漫才ではなかった
現在の宮下草薙といえば、草薙さんの心配やネガティブな想像が次々と広がる漫才が代表的ですが、養成所へ入った当初から完成していた芸風ではありませんでした。
菊原さんによれば、当時は現在のようなネガティブ漫才はまだ確立しておらず、別の題材でネタを作っていました。
変化のきっかけの一つになったのが、草薙さんへ同窓会の誘いが届いた出来事でした。
まだコンビを組んでいなかった宮下さんに「どう思う?」と相談し、学校にほとんど行っていないのに誘われるのはおかしいのではないかと話したところ、宮下さんがその話を面白がりました。
そこから同窓会を題材にネタを作り、草薙さんの心配性そのものを漫才へ入れる方向が少しずつ形になっていきます。
現在知られる芸風は、草薙さんの性格だけで自然に完成したのではなく、養成所でネタを試し、宮下さんと話す中で形を変えていきました。
2度のコンビ解散から宮下草薙結成へ
養成所で宮下さんと出会ってからも、草薙さんはすぐ現在の相方を選んだわけではありません。
宮下草薙以前に別の相方と活動し、そのコンビが終わる経験を重ねています。
以前の2組が解散し、草薙は芸人を辞めようとしていた
文化放送『宮下草薙の15分』で、草薙さんは宮下草薙を組む前に2組のコンビを経験したと話しています。
本人の説明では、最初の相方、次の相方とも相手側から関係を終わらせる形になりました。
2組目の相方は宮下さんとも話す関係で、草薙さんとのコンビについて宮下さんへ相談していたこともあったそうです。
そのコンビが解散したころには、草薙さん自身もこのまま別の相方を探すのではなく、芸人そのものを辞めるつもりになっていました。
宮下の「もう少し続けてみろ」で芸人生活を継続
そこで草薙さんへ声をかけたのが、養成所時代から近くで見ていた宮下さんでした。
文化放送のインタビューで草薙さんは、宮下さんから芸人をもう少し続けるよう言われた当時について話しています。
「その一言がなかったら僕は芸人を続けてなかった」
文化放送
一度は辞めるつもりだった草薙さんが芸人を続け、その先で現在の相方と組むことになった場面です。
どちらから誘った?本人たちも「諸説ある」コンビ結成
現在の二人は2016年1月に宮下草薙を結成していますが、「どちらが先にコンビを組もうと言ったのか」については証言が一致していません。
宮下さんの記憶では、草薙さんから電話で助けを求められたことがきっかけ。
ところが草薙さんはそれを否定し、宮下さんのほうから「俺と組んだら売れる」と言われたという記憶を持っています。
二人で話しても決着はつかず、現在はコンビ結成のきっかけを本人たち自身が「諸説ある」としている状態です。
どちらが最初の一言を発したにせよ、養成所で互いのネタを見ていた二人が、草薙さんのコンビ解散を経て同じコンビで活動する方向へ進みました。
宮下が草薙と組むため所属を離れ、二人で事務所を探した
コンビを組むことが決まっても、すぐ太田プロ所属の宮下草薙として順調に活動できたわけではありません。
養成所卒業後、宮下さんは太田プロへ所属できた一方、草薙さんは所属できなかったと本人たちが後年明かしています。
所属者と非所属者ではコンビを組めないとされる中、宮下さんが選んだのは自分だけ所属に残ることではありませんでした。
「宮下が、僕と組むために事務所を辞めてくれたんですよ」
ニッポン放送 NEWS ONLINE
宮下さんは一度所属を離れ、二人でほかの芸能事務所のオーディションを受けるようになります。
宮下さんによれば、その状態で約2年間さまよい、最終的には太田プロへ戻りました。
宮下さんが自分の所属を手放してまで草薙さんとのコンビを選んだ時期は、二人の結成を「養成所で知り合ったから」の一言では説明できない出来事です。
4時間考えて決まった「宮下草薙」と、間違った「草薙」の漢字
現在ではそのまま二人の名字を並べた名前として知られる「宮下草薙」ですが、最初から名字でいこうと決めていたわけではありません。
二人はカフェに集まりコンビ名を考えたものの、互いに名前を提案しないまま約4時間が経過。
次のライブが迫っていたため、とりあえず二人の名字を並べた「宮下草薙」にしました。
しかも現在の芸名に使われている「草薙」は、本名の漢字そのままではありません。
本人によれば本来の「なぎ」は草彅剛さんと同じ字ですが、宮下さんがパソコンなどで変換した際に「草薙」が出てきました。
当時はまだ宮下さんを怖いと感じていた草薙さんが訂正できないまま、その表記が芸名として定着しています。
名字を並べただけに見えるコンビ名にも、4時間決まらなかったことと、草薙さんが漢字の間違いを言い出せなかったことが重なっていました。
若手時代|ネガティブ漫才が形になり『おもしろ荘』へ
宮下草薙として活動を始めた二人は、草薙さんの心配性やネガティブな想像をネタの中心へ置くようになります。
養成所時代に芽が出ていたスタイルが、コンビ活動の中で現在知られる形へ近づいていきました。
養成所時代とは違う「心配性」を生かした漫才へ
草薙さんが不安を次々に口にし、宮下さんがその話を受けていく漫才は、二人が別々に養成所へ入ったころにはまだ完成していませんでした。
養成所講師の菊原さんは、草薙さんの心配性を伸ばす方向を考えていたところ、徐々にネガティブ漫才のスタイルが出来上がっていったと振り返っています。
宮下さんも草薙さんの相談を面白いと捉え、ネタへ変える段階から関わっていました。
学校や仕事では本人を動きにくくさせていた不安や心配が、舞台上では具体的な言葉になっていきます。
2018年『おもしろ荘』3位で全国放送へ
宮下草薙が全国放送で広く見られる機会の一つになったのが、日本テレビ系『ぐるナイ おもしろ荘』でした。
太田プロの公式プロフィールでは、2017年12月31日深夜に放送された新春企画へ出演し、3位に入賞したことが記録されています。
この出演後、ネタ番組やバラエティで二人を見る機会が増えていきますが、舞台での活動も同時に続いていました。
太田プロライブ「月笑」で3連勝
テレビ出演だけを見ると『おもしろ荘』から突然ブレイクしたようにも見えますが、2018年には太田プロの事務所ライブ「月笑」でも順位を上げていました。
2018年9月に月笑で初優勝すると、10月にも優勝し、11月には3か月連続優勝を記録しています。
太田プロの当時のライブレポートでも、シーズン途中から宮下草薙が頭角を現したことが記されています。
テレビへ出始めた時期に、事務所ライブでも客前のネタで結果を残していたことになります。
2019年前後からテレビ出演が増加|賞レース一発ではなかったブレイク
2019年に入ると、宮下草薙はテレビで「若手の注目コンビ」として扱われる機会が増えていきます。
同時期の月笑では、前年以上の結果を残しました。
「月笑」年間6勝、4か月連続Vの記録を残す
2019年の月笑では2月、3月、6月、7月、9月、10月に優勝し、年間6勝を記録。
6月から途中の開催月を挟みながら4回連続で優勝し、当時の年間最多勝記録も更新しました。
レギュラーシーズンの年間ポイントは146ポイントで2位となり、12月のクライマックスシリーズへ進出。
最終決戦ではさすらいラビーに敗れ年間王者には届きませんでしたが、2019年はテレビ出演が増える一方、事務所ライブでも年間6度の優勝を重ねた年でした。
テレビでは草薙の不安や感情そのものが笑いになる
漫才で使っていた草薙さんの心配性は、バラエティ番組でもそのまま大きな特徴になっていきました。
用意された一発ギャグや強い決めぜりふではなく、共演者との会話の中で不安になったり、言われたことへ強く反応したりする様子が番組内の笑いになります。
2019年8月のチバテレ『白黒アンジャッシュ』でも「人気急上昇中の若手コンビ」と紹介され、同年12月にはフジテレビ『宮下草薙のポジティブ学』で初MCを担当しました。
漫才師として舞台に立つ仕事から、草薙さん本人の考え方や反応を見せるテレビの仕事へ活動範囲が広がっていきます。
本人たちも「なぜ売れたのか」と話していたブレイク期
仕事が増えたあとも、草薙さん自身はブレイクを当然のものとして受け止めていたわけではありません。
2020年の文化放送『宮下草薙の15分』では、自分たちの人気について宮下さんと話しているうち、なぜ仕事が増えたのかという話題になりました。
「最近、俺たちはなんで売れたんだろうなってすげぇ思う」
文化放送
『おもしろ荘』への出演、ネタ番組、月笑での連勝、バラエティで草薙さん自身のキャラクターが知られていった時期が重なっており、どれか一つだけをブレイクの瞬間として切り取るのは難しい経過でした。
賞レースの優勝一発で状況が変わったのではなく、舞台でのネタとテレビでの草薙さんの反応が同じ時期に知られていきました。
現在の宮下草薙|二人だから続いてきた芸人人生
テレビ出演が増えたあとも、草薙さんが宮下さんと別れて一人のタレントとして活動する方向へ進んだわけではありません。
二人の関係そのものを見せる仕事も増え、2020年には文化放送で冠番組『宮下草薙の15分』が始まりました。
草薙が一人ではなく「宮下草薙」を優先してきた理由
ブレイク後は草薙さん一人でテレビに出演する機会もありましたが、本人にとって宮下さんは単に現在の相方というだけではありません。
以前のコンビが解散し、芸人を辞めようとしていた時期に続けるよう声をかけた相手であり、その後は宮下さん自身が所属を離れてまで一緒にコンビ活動を始めています。
2020年の文化放送のインタビューで宮下さんも、草薙さんが一人で活動するより「宮下草薙」として二人で活動することを優先していると語っていました。
養成所では別々の相方・ピン芸人として始まった二人が、コンビ結成後もそれぞれの得意な部分を持ったまま活動を続けています。
『宮下草薙の30分』など、二人の会話そのものが仕事へ
文化放送の冠ラジオは『宮下草薙の15分』から放送時間を拡大し、2026年現在は『宮下草薙の30分』として毎週金曜日深夜に放送されています。
番組では用意されたネタだけでなく、二人が日常で起きたことを話し、草薙さんの疑問や不安に宮下さんが返していく会話そのものが中心です。
2026年8月には番組イベント第3弾「宮下草薙の56分」も開催され、番組開始から数年がたったあとも二人でのラジオ活動が続いています。
学校ではほとんど人と話さず、高校を離れてからはいくつもの仕事を経験した草薙航基さんは、20歳前後で好きだったお笑いの世界へ進みました。
NSC不合格や別のコンビの解散を経て芸人を辞めようとした時期に宮下兼史鷹さんと組み、養成所時代にはまだ完成していなかったネガティブ漫才を二人で形にしていきました。
『おもしろ荘』や月笑で知られるようになったあとも、漫才、テレビ、ラジオと活動の場所を広げながら、現在まで宮下草薙として二人で活動を続けています。












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