南原清隆の生い立ちと家族|高松一高の落研、俳優志望から内村光良と芸人になるまで

人物プロフィール

本名
南原清隆
生年月日
1965年2月13日
身長
174cm
血液型
AB型
出身地
香川県 高松市
コンビ・グループ名
ウッチャンナンチャン
相方・メンバー
内村光良
結成年
1985年
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
1983年
師匠
内海好江

『ヒルナンデス!』のMCとして長く昼のテレビに立ち、スポーツ、狂言、ダンスなど幅広い分野でも活動している南原清隆さん。

現在の姿から振り返ると意外ですが、若い頃から一直線にお笑い芸人を目指していたわけではありません。

香川県高松市で育った南原さんは高校時代に落語へ熱中し、高校卒業後は俳優を目指して横浜放送映画専門学院へ進学しました。

そこで同級生だった内村光良さんと漫才の授業で組み、役者になるために入った学校での一つの授業から、ウッチャンナンチャンにつながる道が始まります。

高松でどんな子ども時代を送り、なぜ上京し、内村さんとどのように芸人への道へ進んだのかを、若手時代から現在まで順番にたどります。

南原清隆の生い立ちと家族|香川県高松市で育った子ども時代

南原清隆さんは1965年2月13日、香川県高松市生まれで、地元で子ども時代を過ごしました。

2026年2月放送の『A-Studio+』では、笑福亭鶴瓶さんが高松市の実家まで足を運び、現在の南原さんにつながる家族や幼少期の風景が紹介されています。

父の詩吟や尺八が身近にあった高松の家庭

番組で取材を受けた父親は多趣味で、詩吟や尺八では師範になるほど打ち込んできた人物として紹介されました。

いろいろなことに興味を持ちながら、一つのことを長く続ける父の姿について、南原さんは自分との共通点にも触れています。

「自分もコツコツやるのが好きなタイプ」

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同じ取材では、幼い頃に遊んだ近所の公園や、幼なじみが営むうどん店にも足を運んでおり、南原さんの少年時代は現在まで高松の街と結びついています。

ミュージカル俳優やアイドルに憧れた少年時代

子どもの頃に興味を持っていたのは、お笑い芸人だけではありませんでした。

2026年の『A-Studio+』では、ミュージカル俳優やアイドルに憧れていた少年時代も紹介されています。

人前で何かをすること自体は好きだった一方、この時点では「将来は漫才師になる」と進路を決めていたわけではなく、後に選んだ学校も演技を学ぶための学校でした。

高松第一高校の落研時代|落語に夢中だった若い頃

中学を経て進んだのが、地元の高松第一高等学校です。

ここで南原さんの若い頃を考えるうえで欠かせない存在となるのが、落語と古典芸能でした。

毎日のように落語を聴き、落研で「羊羹芸」

南原さんは当時の学校生活について、勉強に力を入れて大学進学を目指すというより、好きな落語を聴いて過ごしていたと後年に振り返っています。

高校では古典芸能部、通称落語研究会(落研)に所属しました。

2026年の『A-Studio+』では、落研時代から評判だったという「羊羹芸」を南原さん自身がスタジオで披露しており、高校生の頃から人前で笑いを取る機会がありました。

ただし、落研にいたことと、すでにプロの芸人を目指していたことは別です。

高校卒業を控えた南原さんが考えていたのは、大学でもお笑い養成所でもなく、役者へ近づくための進路でした。

後輩・小西マサテルが覚えている高校時代

南原さんの高校時代を知る人物の一人が、1学年下だった小西マサテルさんです。

高松一高の同窓会「桜紫会」によると、小西さんは南原さんの落語に惹かれたことがきっかけで落研に入部したといいます。

後年、小西さんは放送作家や作家として活動し、南原さんと地元RNCのラジオ番組でも共演するようになりました。

高校時代に先輩と後輩だった二人の関係は、卒業から40年以上が過ぎた現在にも続いています。

大学ではなく専門学校を選んだ卒業前の進路

高校卒業後の進路を決めた方法は、かなり偶然に近いものでした。

南原さんは教室の隅に置かれていた専門学校案内を見つけ、そこから後の横浜放送映画専門学院を選んでいます。

「答えは、カンです。」

日本映画大学 公式ブログ

役者としてうまくいけば続け、だめなら高松へ戻るという程度の気持ちで、高校卒業後に地元を離れて上京することになります。

俳優を目指して上京|横浜放送映画専門学院での学生生活

高松を離れた南原さんが入ったのは、現在の日本映画大学につながる横浜放送映画専門学院の演劇科でした。

後の芸人生活だけを見れば内村光良さんとの出会いに目が向きますが、その前には一人暮らしと、映画や舞台に時間を使った学生生活がありました。

武蔵中原の家賃1万8000円・風呂なし六畳間

南原さんが自分で決めた住まいは、川崎市の武蔵中原にある六畳一間のアパートでした。

風呂はなく、トイレはくみ取り式の共同トイレで、家賃は1万8000円だったと本人が記しています。

学生時代はアルバイトをできるだけ増やさず、夏休みに高松へ帰った際にまとめて働き、学期中は生活費を切り詰めていました。

後にテレビで知られる南原さんの若い頃には、限られたお金で一人暮らしをしながら、自分の興味があるものへ時間を回していた時期があります。

映画・小劇場・ジャズダンスへ時間を使った日々

アルバイト以外の時間に南原さんが向かったのは、映画館や小劇場でした。

さらにジャズダンスも習い、演技だけに絞らず、自分が面白いと感じたものへ次々に手を伸ばしていました。

この頃のダンスについて、南原さんは後年、社交ダンスやコントの「はっぱ隊」で大いに役立ったと自ら振り返っています。

公式Instagramでも学生時代を振り返り、出川哲朗さんと横浜・関内のディスコでよく踊ったことを明かしています。

内村光良や出川哲朗と出会った専門学校時代

同じ学校には、後に相方となる内村光良さん、そして俳優を目指していた出川哲朗さんもいました。

出川さんは後年のインタビューで、内村さんは学生時代にはあまり目立たず、一方の南原さんについてはダンスやものまねで目立っていたと証言しています。

ただ、南原さん自身は演技の授業で順調だったとは考えていなかったようで、発表会ではセリフの少ない役を担当し、自分の進む方向に漠然とした違和感を抱いていました。

2025年には映画学校時代の同級生たちから還暦を祝われた様子も公式Instagramで公開しており、学生時代にできた関係は卒業後も続いています。

漫才の授業が転機|内村光良とコンビを組む

役者を目指して始まった学校生活が、お笑いへ向きを変えたのは2年生になった頃でした。

演劇科の授業の中で漫才が始まり、そこで南原さんと内村さんがペアになります。

演技では目立たなかった二人が漫才の授業でペアに

南原さん本人の回顧によれば、漫才の授業が始まったのは2年生の初夏でした。

演技の授業では南原さん自身も目立つ役ではなく、内村さんも同じように目立っていなかった中で、二人が組むことになります。

2026年の『A-Studio+』でも、二人は専門学校で「余った者同士」のような形からコンビになった当時を振り返っています。

最初から互いを相方に選んで芸人を目指して入学したわけではなく、学校の漫才授業で組まされたことが二人のスタートでした。

教師と内海好江の勧めで『お笑いスター誕生!!』へ

漫才を始めた二人に進路を変える言葉をかけたのが、学校の教師や漫才師の内海好江さんでした。

教師から漫才の道を勧められ、さらに内海さんからも背中を押されたことで、日本テレビ系『お笑いスター誕生!!』のオーディションを受けます。

俳優になるつもりで高松から出てきた南原さんにとって、漫才の授業で内村さんと組み、周囲からお笑いを勧められたことが、芸人になる直接のきっかけでした。

1985年、「ウッチャンナンチャン」として舞台へ

オーディション後、二人は1985年に『お笑いスター誕生!!』へ出演します。

この頃から「ウッチャンナンチャン」の名前で活動するようになり、南原さんは俳優志望の学生から漫才コンビの一員へと立場を変えていきました。

学校を卒業した1985年は、南原さんにとって学生生活の終わりと芸人生活の始まりが重なった年になります。

デビュー直後の若手時代|アルバイトと渋谷見番寄席

『お笑いスター誕生!!』に出たからといって、すぐにテレビだけで生活できるようになったわけではありませんでした。

南原さんの公式Instagramには、デビュー直後の二人や若手時代の仕事を振り返る投稿が残っています。

内村と皿洗いのアルバイト、初舞台は渋谷見番寄席

若手時代には、内村さんと一緒に皿洗いのアルバイトをしたことや、日払いの仕事を経験したことを南原さん自身が公式Instagramの企画で振り返っています。

また、ウンナンの初舞台として語っているのが渋谷見番寄席です。

上の公式投稿にはデビューして間もない頃の渋谷見番寄席での写真があり、テレビで全国に知られる以前の二人の姿を見ることができます。

『お笑いスター誕生!!』準優勝でテレビの仕事が増える

1985年の『お笑いスター誕生!!』第5回シリーズでは、ウッチャンナンチャンが準優勝しました。

この結果をきっかけに『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』などテレビの仕事が入るようになり、学生コンビだった二人の環境が変わり始めます。

ところが、用意したネタを演じる場面とは違い、テレビのトークやその場のやり取りでは思うように力を出せず、得た仕事は次第に減っていきました。

最初の賞レースで注目されたものの、そのままブレイクしたわけではありません。

レギュラーを失い、「次で勝てなければ」と再挑戦

二人は『お笑いスター誕生!!』へ再び挑みますが、次のシリーズでは4位でした。

そして1986年、第7回オープントーナメントサバイバルシリーズに挑む際、コンビを続けるかどうかにまで話が及びます。

「優勝しなかったら辞めようか」

デイリースポーツ

内村さんが後年明かしたこの話し合いのあと、二人は1986年のシリーズで優勝しました。

デビュー2年目で一度だけ訪れた解散の可能性は、賞レース優勝によって消えることになります。

コントで存在感を広げたウッチャンナンチャン

賞レースで優勝した後も、仕事が途切れず続いたわけではありません。

二人は漫才だけにとどまらず、舞台やショートコントへ活動の幅を広げていきます。

『お笑いスター誕生!!』優勝後、コントへ比重を広げる

専門学校時代からの仲間だった出川哲朗さんらとは、1987年に劇団SHA・LA・LAを旗揚げしました。

出川さんによれば、『お笑いスター誕生!!』で優勝した後にも仕事が少ない時期があり、その中でウンナンがショートコントへ変えると客席の反応が大きくなったといいます。

「彼らはスターになるなと確信しました。」

関東弁護士会連合会「関弁連がゆく」出川哲朗インタビュー

学生時代から二人を知る出川さんが、売れる前の舞台で変化を感じていた時期でした。

『夢で逢えたら』で全国区へ

1987年にはフジテレビの『冗談画報』などへ出演し、翌1988年には『夢で逢えたら』が始まります。

ダウンタウン、清水ミチコさん、野沢直子さんらと共演しながらコントを見せる番組で、ウッチャンナンチャンの名前が全国へ広がっていきました。

漫才の授業から始まった二人でしたが、この頃にはショートコントを武器にテレビで存在感を高めるコンビへ変わっていました。

冠番組へ進み、90年代のテレビで存在感を高める

1990年4月にはフジテレビで『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』がスタートします。

同年秋には『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』へつながり、自分たちの名前を冠した番組でコントや企画を展開するようになりました。

その後も『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』などへ活動が広がり、南原さん自身のダンスやスポーツへの興味が番組企画の中で前面に出る場面も増えていきます。

若い頃の興味が仕事へ|ダンス・スポーツ・狂言への広がり

テレビで知られるようになった後の南原さんには、コンビのコント以外にも複数の活動軸が生まれます。

その中には、芸人になってから突然始めたものではなく、高松や映画学校時代にすでに触れていたものがあります。

学生時代のジャズダンスが社交ダンスとはっぱ隊へ

映画学校時代、生活費を切り詰めながら通っていたジャズダンスは、芸人になって十数年後にテレビの中で再び大きな意味を持ちました。

『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』では社交ダンス企画に取り組み、『笑う犬』シリーズでは「はっぱ隊」に参加します。

南原さん本人も学生時代のダンスについて、後の社交ダンスやはっぱ隊に役立ったと書いており、武蔵中原で暮らしていた学生時代に自分の興味で始めたものが、そのままテレビの仕事へ持ち込まれました。

高校時代の古典芸能から「現代狂言」へ

もう一つ、さらに昔までさかのぼれるのが狂言です。

南原さんは野村万蔵さんとのインタビューで、狂言を初めて見た時期について明確に語っています。

「初めて見たのは高校生の時だったんです。」

エンタステージ

高松一高の古典芸能部にいた頃に見た狂言を、南原さんは後年「原風景」と表現しています。

芸人になった後、野村万之丞さんと出会って番組で狂言に挑戦し、その後は現代のコメディアンと古典狂言を組み合わせる「現代狂言」へ参加しました。

2006年から続く取り組みでは出演だけでなく台本や演出にも携わり、2026年現在もマセキ芸能社の公式プロフィールに狂言が活動の一つとして記載されています。

スポーツ番組などコンビ以外の仕事も広がる

ダンスや狂言と並び、長く続く仕事になったのがスポーツです。

テレビ朝日『GET SPORTS』は1998年にスタートし、南原さんは当初、不定期のナビゲーターとして参加した後、2002年からレギュラー出演しています。

選手とスタジオで話すだけでなく、自ら取材や対談に出る回も重ね、2026年にも番組ナビゲーターとして出演が続いています。

『ヒルナンデス!』MCと現在|高松と内村光良との縁も続く

コント、ダンス、スポーツ、狂言と仕事の幅を広げた南原さんは、40代半ばで平日昼の帯番組という新しい場所へ進みます。

一方で、高松一高や内村さんなど、若い頃から続く人や場所との接点も残っています。

2011年、昼の帯番組MCという新しい仕事へ

2011年3月28日、日本テレビ系で『ヒルナンデス!』が始まり、南原さんがメインMCに就任しました。

初回放送後の会見では、昼の番組をどのような時間にしたいかについて次のように語っています。

「このひとときでも気がゆるんで、前向きになれる番組が作れれば」

ORICON NEWS

若手時代のショートコントとはまったく違う平日昼のMCという役割でしたが、番組は長寿番組となり、2026年現在も南原さんが司会を続けています。

漫才の授業から始まった芸人人生は、約四半世紀を経て毎日生放送を進行する仕事まで広がりました。

母校のロゴと地元ラジオで高松へ戻る

全国で仕事をするようになった後も、故郷の高松との関係は途切れていません。

母校の高松一高では、南原さんの発案から学校ロゴを生徒や卒業生と考えるプロジェクトが始まりました。

2023年12月には母校を訪れ、プロジェクトに参加した生徒たちと交流し、同じ落研の1学年後輩だった小西マサテルさんも同行しています。

2025年からはRNCラジオで『南原清隆、いまナンしょん。』も始まり、小西さんと高松一高時代の落語や地元の思い出を話す機会が生まれました。

高校時代に落研で過ごした土地が、還暦を迎える頃にはラジオのレギュラー番組を持つ場所にもなっています。

コンビ40年以上を経た内村光良との現在

映画学校の漫才の授業で組んだ内村さんとの関係も、40年以上が過ぎました。

二人はそれぞれ単独の仕事が増え、常に一緒に行動するコンビではありませんが、ウッチャンナンチャンが解散したわけでもありません。

2026年の『A-Studio+』で南原さんは、テレビ局でたまに顔を合わせる程度という現在の距離感を話し、相方の連絡先について意外な事実も明かしました。

「連絡先知らないです」

日刊スポーツ

仕事の将来について二人で話し合うこともほとんどなく、南原さんは「流れるまま」に続けてきた関係だと語っています。

2026年には、かつて1990年代に放送された『ウンナンの気分は上々。』も特番として復活し、8月1日にはTBS系で『ウンナンの気分は上々。夏』が放送されました。

高校卒業後、俳優になろうと入った映画学校で偶然組んだ二人は、40年以上を経た現在もウッチャンナンチャンとして並ぶ機会を持っています。

高松で落語を聴いていた高校生は、俳優を目指して上京し、漫才の授業で内村光良さんと組んだことで芸人の道へ入りました。

若手時代には仕事が減ってコンビの進退を考えた時期もありましたが、『お笑いスター誕生!!』への再挑戦、舞台でのショートコント、テレビ番組へと活動の場所を広げていきました。

そして現在は、昼番組のMCを続けながら、学生時代から好きだったダンスや高校時代に触れた古典芸能、故郷の高松、内村さんとのコンビという長く続いてきたものも活動の中に残っています。

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