人物プロフィール
扇子を広げ、小鼓を鳴らしながら古風な言葉で笑いを作るすゑひろがりず・三島達矢さんは、現在の姿だけを見ると、かなり早い段階から独特の芸風を固めていたようにも見えます。
しかし、芸人になる前の三島さんは、高校で友人関係になじめず、小説を読んで一人で過ごすことが多かった時期もありました。
高校卒業後もすぐに芸人になったわけではなく、しばらくアルバイトなどをしながら過ごし、中学時代の同級生との約束をきっかけにお笑いの道が具体的になっていきます。
22歳でNSC大阪校へ入り、在学中には「バルチック艦隊」でM-1グランプリ準決勝まで進出しましたが、その後はコンビ解散や長い劇場オーディション生活を経験しました。
南條庄助さんとの活動も最初から順調だったわけではなく、トリオ時代を経て2人になり、解散を考えた時期に試したネタから、現在につながる伝統芸能風のスタイルが生まれています。
三島達矢の生い立ちと家族|大阪で育ち漫画に夢中だった子ども時代
三島達矢さんは1982年10月2日、大阪府大阪市生まれで、子どものころから漫画やテレビに親しんで育ちました。
後年のインタビューをたどると、現在の落ち着いた話し方とは少し違う、漫画を描いたり友人グループの中で過ごしたりしていた少年時代が見えてきます。
親から昔から「能天気」と言われていた少年時代
三島さんは自身の性格について、後年のインタビューで、親から昔から「能天気」と言われていたことを明かしています。
「親からも、女房からも『能天気』と言われています」
QJWeb
本人が「昔っから」と表現しているように、周囲から見たこの性格は、芸人になってから作られたキャラクターではありませんでした。
高校時代には周囲から暗い人物に見られるようになりますが、本人がもともと認識していた自分自身とはかなり違っていたようです。
小学校ではイラスト・マンガ部で『燃えよパピヨン』を描く
小学生のころはイラスト・マンガ部に入り、自分でも漫画を描いていました。
そのとき描いていた作品のタイトルは『燃えよパピヨン』で、本人は後年、小説以上に漫画に育ててもらった感覚があるとも話しています。
芸人として表舞台へ出るよりずっと前から、自分で何かを作って楽しむ時間が日常の中にありました。
中学までは友人グループの中で過ごしていた
中学校までは、三島さん自身の表現では「人気グループの端っこ」くらいの位置にはいたそうです。
まったく人づきあいをしない少年だったわけではなく、この中学時代の友人の一人が、数年後に三島さんをNSCへ誘うことになります。
高校時代|友人がいない3年間と『吉本超合金』との出会い
中学までの生活から一転し、高校では三島さんの人間関係が大きく変わりました。
一方で、この時期には読書に没頭する時間が増え、テレビでは後に進路へ影響するお笑い番組と出会っています。
男子校になじめず、一日誰とも話さない日もあった
三島さんは男子校へ進学しましたが、高校の人間関係にはなかなかなじめませんでした。
後年、友人があまりいなかったのかと尋ねられた際には、かなりはっきり答えています。
「あまりというか、ゼロです。」
QJWeb
一日誰とも会話をしない日もあり、周囲からは暗い人物だと思われるようになった一方、三島さん自身は「本当の自分とは違う」という感覚を抱えていました。
中学時代までは友人グループの中にいた三島さんにとって、高校の3年間はそれまでとはかなり違う時間になりました。
村上春樹や乙一など小説を読み続けた高校生活
人づきあいが少なくなった高校時代、三島さんが多くの時間を使っていたのが読書でした。
入り口になったのは村上春樹さんで、その後は乙一さん、舞城王太郎さんなど、面白そうだと思った作品を次々と読んでいたといいます。
昼休みや放課後の交友関係を広げるより、一人で作品の世界へ入っていく高校生活を送っていました。
『吉本超合金』を見て「芸人という仕事」に惹かれる
高校時代のもう一つの大きな出来事が、FUJIWARAや2丁拳銃が出演していた『吉本超合金』を見始めたことでした。
三島さんは子どものころからダウンタウンを見ていましたが、この番組を見たことで、お笑いを見るだけでなく「芸人という仕事」そのものを意識するようになります。
「めちゃめちゃ楽しそうな、ええ仕事やな」
FANY Magazine
当時から漫才師になりたい、コント師になりたいと細かく決めていたわけではなく、三島さんが惹かれていたのはお笑い芸人という職業でした。
高校卒業後のフリーター生活|22歳でNSCへ向かうまで
高校を卒業しても、三島さんはそのまま養成所へ進んだわけではありません。
アルバイトなどをしながら数年間を過ごすうちに、中学時代の友人から持ちかけられた話が、お笑いの世界へ入る具体的な入口になりました。
親戚を頼った仕事も続かず、アルバイトをしながら過ごす
高校卒業後は親戚を頼って仕事を紹介してもらったこともありましたが、本人によると長くは続きませんでした。
定まった進路を持たないままアルバイトなどをし、当時始まったM-1グランプリを見ながら、ダウンタウン、FUJIWARA、笑い飯らのお笑いにも引き続き触れていました。
22歳になったころには、同年代の友人たちが大学を卒業して就職し始め、自分の将来を考える場面が増えていきます。
中学時代の同級生から「一緒にNSCへ」と誘われる
芸人になる話を具体的に持ちかけたのは、中学時代の同級生でした。
その友人は大学へ進学していたため、三島さんは一緒にNSCへ入るつもりで卒業を待ち、その間に入学のためのお金を貯めていました。
高校時代にお笑いへ興味を持ってから数年たっていましたが、ここで初めて「見る側」から「やる側」へ移る話が現実的になります。
友人の留年をきっかけに1人で先にNSC大阪校へ
ところが、卒業を待っていた友人が大学で留年し、予定どおり一緒にNSCへ入れなくなりました。
三島さんはさらに1年待つのではなく、自分だけ先に行くことを選びます。
22歳でNSC大阪校28期へ入り、三島達矢さんの芸人人生が始まりました。
一緒に行く予定だった友人は翌年に東京NSCへ入りましたが、その後ほどなく芸人を辞めています。
NSC大阪28期とバルチック艦隊|在学中にM-1準決勝へ
NSCに入った三島さんは、現在の相方である南條庄助さんとすぐコンビを組んだわけではありません。
最初に本格的な活動を始めたコンビは「バルチック艦隊」で、在学中から早くも大きな結果を残します。
同期と距離を取り「誰もやっていないネタ」を目指した
NSCに入ったころの三島さんは、同期と積極的につるむより、自分たちだけの変わったネタを作ることへ意識を向けていました。
当時は少しひねったフレーズや独特の発想を入れ、ほかの芸人がやっていないものを作ろうとしていたと振り返っています。
高校時代には人間関係から離れて一人で本を読んでいた三島さんが、NSCでは今度は自分から意識的に周囲と違うものを探していました。
バルチック艦隊でM-1グランプリ2005準決勝進出
結果はかなり早く現れ、NSC在学中の2005年、バルチック艦隊はM-1グランプリで準決勝まで進みました。
M-1公式アーカイブにも、NSC大阪所属のバルチック艦隊が3回戦から追加合格となり、準決勝へ進んだ記録が残っています。
養成所に入ったばかりの時期に、M-1準決勝まで進出したことになります。
当時は東のオリエンタルラジオ、西のバルチック艦隊と注目されることもあり、三島さん自身も手応えを感じていました。
まだ芸人生活のスタート地点に近い段階で、一度は「自分たちはいける」という感覚を味わっています。
ネタがウケなくなり、最初のコンビは解散へ
ところが、準決勝進出後も同じ勢いが続いたわけではなく、やがてネタが思うようにウケなくなっていきました。
三島さんは後年、バルチック艦隊時代の自分について、本来は能天気な部分もあるのに、実際の人物像とは違う方向へネタやキャラクターを寄せていたことを振り返っています。
相方との関係も悪くなり、周囲から解散を止められることもありましたが、最終的にバルチック艦隊は解散しました。
南條庄助との出会い|別々のコンビからトリオ、そして2人へ
南條庄助さんは三島さんと同じNSC大阪28期ですが、2人の芸人人生は長い間、別々に進んでいました。
現在のコンビへつながったのは、バルチック艦隊解散後に三島さんが組んだ別の相方と、南條さんとの意外なつながりでした。
NSC同期でも最初は別々のコンビで活動していた
南條さんから見ると、在学中にM-1準決勝へ進んだ三島さんは、同期の中でも結果を出している存在でした。
しかし南條さん自身も別のコンビで活動していたため、NSCで同期だったことがそのまま現在の結成につながったわけではありません。
バルチック艦隊が解散すると、三島さんは別の芸人と新しいコンビを組みました。
南條が三島の新しい相方を通じて加入し、3人で活動開始
その新しい相方と南條さんは、アルバイト先で一緒に働く仲でした。
南條さんも当時のコンビを解散しており、その相方と話しているなかで、自分も入れてほしいと声をかけます。
三島さんも了承し、2008年ごろに3人での活動が始まりました。
このトリオは「ガンセキオープン」として活動しましたが、劇場で結果を出すまでには長い時間がかかります。
約3年間劇場オーディションに落ち続け、2011年に「みなみのしま」へ
3人になってから約3年間、当時の劇場オーディションにはなかなか合格できませんでした。
やがてメンバーの1人が抜け、2011年春ごろから三島さんと南條さんの2人で活動することになります。
コンビ名は「みなみのしま」となりましたが、2人になってからもすぐには状況が変わらず、その後約1年間は劇場オーディションに受からない状態が続きました。
南條さんとのコンビができた時点でも、現在の狂言風漫才はまだ存在していませんでした。
解散寸前で生まれた狂言風漫才|最後の劇場オーディションが転機に
2人になった三島さんと南條さんは、自分たちに合う漫才を見つけようと、さまざまな方法を試しました。
現在では一目で分かる芸風を持つ2人ですが、その形が見つかったのは、コンビを続けるかどうかまで考えた時期でした。
普通の漫才で結果が出ず、自分たちの映像を見て解散を考える
当時の2人は、自分たちに合う形を探すために、過去のM-1で披露された漫才を書き起こして研究したこともありました。
自宅ではビデオカメラで自分たちのネタを撮影し、テレビへ出始めていた後輩たちと見比べることもありましたが、思うような答えは出ませんでした。
さまざまな漫才を試しても結果につながらず、30歳を目前にして劇場にも一度も受からない状態が続き、ついには解散する話が出ます。
すでに申し込んでいた劇場オーディションだけは最後に出て、それでも駄目なら終わりにしようというところまで進んでいました。
ミルクボーイ駒場の言葉で「狂言風クリスマス」を最後の勝負へ
最後のオーディションを前にしても、通常の漫才を新たに作る気力は残っていませんでした。
そこで思い出したのが、数か月前の地下ライブで遊びとして披露していた「狂言風クリスマス」という短いネタでした。
それまで披露したものの中でも反応がよく、一緒にライブへ出ていたミルクボーイ・駒場孝さんからも、本格的なネタにしてみてはどうかと勧められていました。
三島さんは特に、南條さんが披露した狂言師風の声まねに手応えを感じていました。
解散前の最後と決めた劇場オーディションで狂言風のネタを披露すると、大きくウケて初めて合格しました。
現在のすゑひろがりずを象徴する芸風は、何年も準備して完成させた計画ではなく、解散寸前に持ち込んだネタから始まりました。
初の劇場合格から2週間後、500円の着物と8万円の小鼓を用意
劇場に初めて受かったあと、三島さんはこのスタイルへ大きく舵を切ろうとします。
当時は衣装に使えるお金も多くなかったため、古着店で500円の黒い着物を購入し、店主に着方を教えてもらいました。
南條さんはインターネットで約8万円の小鼓を購入しましたが、最初は思うような音が出ず、ルームシェアしていた芸人仲間に気を遣いながら風呂場やトイレで練習していたといいます。
南條さんには普通の漫才を残したい気持ちもありましたが、三島さんは着物と小鼓をそろえ、この方向へ振り切ることを提案しました。
南條さんはM-1グランプリ2019を終えたあと、8年前に三島さんが袴と小鼓をすぐ用意し、このスタイルで行こうと言ってくれたことへの感謝を公式Xへ投稿しています。
東京進出と長い下積み|アルバイトを続けながら大宮で芸を磨く
伝統芸能風のスタイルを見つけても、その直後からテレビ出演が増えたわけではありません。
劇場や営業を続けながらアルバイトで生活を支える時期は、その後も長く続きました。
2014年に東京へ移り、キングオブコント準決勝へ
大阪で活動を続けた2人は、2014年に東京へ進出しました。
同年と翌2015年にはキングオブコントで準決勝へ進み、伝統芸能風のスタイルで少しずつ結果を残していきます。
テレビへ呼ばれる機会も生まれましたが、それだけで生活できるほど仕事が安定する状態にはなりませんでした。
仕事は週1回あるかないか、カラオケ店で約5年間働く
三島さんは芸人生活の中で、焼き鳥店、パチンコ店、AD、カメラアシスタント、漫画喫茶、介護ヘルパー、駐車場管理、カラオケ店など、数多くのアルバイトを経験しています。
大阪時代には量販店の清掃をしていたところ、店長から声をかけられて万引きGメンを担当し、本人によれば約50人を捕まえたこともありました。
東京へ移った直後は逆にアルバイトの面接へなかなか受からず、上京前の貯金を切り崩しながら暮らしていました。
当時はお笑いの仕事が週に1回あるかないかという状態で、芸人として何をするかより、まず働き口を決めなければならない時期もありました。
「お笑いの仕事は週に1回あるかないかだった」
タウンワークマガジン
困っていた時期に採用してくれたカラオケ店は、三島さんが東京で最も長く続けたアルバイトになりました。
朝や昼にアルバイトをし、そのあとネタ合わせやライブへ向かう生活は、売れるまでの日常の一部になっていました。
大宮の劇場と営業で「明るく伝わる芸」へ変化していく
東京へ移ってから2人の重要な活動場所になったのが、大宮ラクーンよしもと劇場でした。
大宮では劇場だけでなく、郵便局やカレー店、会議室など大小さまざまな場所での営業も重ねていきました。
初期の伝統芸能風ネタは現在より重々しい雰囲気がありましたが、営業ではその場ですぐ伝わる明るさが求められ、2人のスタイルも少しずつ変わっていきました。
大宮の芸人仲間からは和装そのものより、三島さんや南條さん本人の言動を細かくいじられるようになり、舞台上のキャラクター以外の部分でも笑いが起きるようになります。
営業でネタを伝える力を磨き、劇場では素の人間性をいじられるという二つの経験が同時に続きました。
宮川大助・花子の助言を経て2016年に「すゑひろがりず」へ改名
伝統芸能風のスタイルが定着しても、当時のコンビ名は「みなみのしま」のままでした。
舞台を見た宮川大助・花子さんから、芸風に対してコンビ名が合っていないと指摘されたことが、改名を考えるきっかけになります。
和の雰囲気やおめでたさが名前からも伝わるように考え、2016年に「すゑひろがりず」へ改名しました。
着物、小鼓、古風な言葉遣いに加えてコンビ名までそろい、現在知られている外側の形がここでほぼ整いました。
M-1グランプリ2019決勝|営業中心だった2人の仕事が動き始める
芸風を見つけて東京へ出たあとも、すゑひろがりずの活動は劇場や営業、アルバイトが中心の期間が続きました。
その流れを大きく動かしたのが、結成から長い時間を経て挑んだM-1グランプリ2019でした。
2019年春、南條が「一度M-1で結果を出したい」と提案
2019年の春ごろ、三島さんと南條さんは単独ライブを開くかどうかをめぐり、前説の合間の楽屋で話し合いました。
三島さんは、人気がない状態で新ネタを増やすより、営業で使えるおめでたいネタを増やした方がよいと考えていました。
小さな営業には比較的呼ばれていたため、あと少し収入が増えてアルバイトを辞められれば、それでも十分だという感覚もあったそうです。
一方の南條さんは、営業を長く続けるためにも、一度は世間に名前を知ってもらう必要があると考えていました。
「今年はちょっとM-1をがんばらしてほしい」
QJWeb
営業をやめて賞レースへ向かったのではなく、営業を続けていくために一度M-1で結果を出そうという発想でした。
キャラクターだけでなく2人の会話を入れ、初のM-1決勝へ
M-1へ向けて2人が変えたのは、着物や小鼓といった見た目ではありませんでした。
それまでのネタは舞台に上がると最後まで伝統芸能のキャラクターを崩さず、短い設定をつなぐような構成が中心でした。
そこへ三島さんと南條さん本人のやり取りや、アドリブを挟める余白を作り、2人の会話そのものが見える漫才へ変えていきました。
大宮で自分たちの素の部分をいじられてきたことで、三島さん自身も「どんなところで自分は笑われるのか」を少しずつ把握するようになっていました。
その年、すゑひろがりずは初めてM-1グランプリ決勝へ進出し、2019年12月22日の決勝を8位で終えました。
NSC在学中のバルチック艦隊以来、三島さんにとって約14年ぶりにM-1の大きな舞台が芸人人生を動かしました。
2019年に始めたYouTubeも、M-1後のゲーム実況で急成長
すゑひろがりずは2019年から公式YouTubeチャンネル「すゑひろがりず局番」を始めていましたが、当初は動画を十数本ほど公開したあと、しばらく更新が止まった時期もありました。
M-1決勝後にチャンネルを見る人が増え、ゲーム実況を始めると、古風な言葉へ言い換えながらゲームを進める2人のスタイルが注目されます。
2020年には『バイオハザード RE:2』などの実況が伸び、その後『あつまれ どうぶつの森』を扱った動画でも大きく視聴者を増やしました。
M-1で顔を知ってもらった直後に、YouTubeでも2人の素のやり取りを見てもらえるようになったことで、新しい活動の軸が加わりました。
現在へ|劇場・テレビ・YouTubeに残る三島達矢の昔の経験
M-1以降はテレビで見かける機会も増えましたが、すゑひろがりずの活動はテレビだけに移ったわけではありません。
劇場、営業、YouTubeを行き来しながら、長く続けてきた伝統芸能風の形と、三島さん本人の素の部分を両方見せるようになっています。
大宮で引き出された「和風キャラではない三島本人」の面白さ
大宮の劇場へ出始めたころ、周囲の芸人も最初は和装の2人をどう扱えばよいのか分からなかったといいます。
ところが三島さん自身の言動が細かくいじられるようになると、和風というパッケージとは別のところで笑いが起きるようになりました。
その感覚は2019年のM-1で、伝統芸能キャラを守りながら2人の普通の会話も見せるネタへ変化したことにも表れています。
着物と小鼓だけで押し通すのではなく、その中から三島さん本人が見える形へ少しずつ変わっていきました。
漫才に限定しなかった姿勢が和風変換やゲーム実況へ広がった
三島さんは芸人になるころから、漫才かコントかと形式を強く限定するより、試して反応がよければ残すという感覚で活動してきました。
そのため、劇場で見つけた狂言風漫才も、営業での言葉遊びも、YouTubeでのゲームタイトルやゲーム内用語の「和風変換」も、一つの型だけに閉じずに広がっています。
「YouTubeが練習の場になってんのはありますねえ」
QJWeb
ゲーム中に出会ったものをその場で説明し、言葉を返していく時間は、テレビのロケにも通じる練習になっていると三島さん自身が話しています。
高校時代にお笑いを「楽しそうな仕事」と見ていた三島さんは、22歳でNSCへ入り、最初のコンビの解散や長いオーディション生活を経て、南條さんと現在の形へたどり着きました。
解散を考えた最後の舞台で試した狂言風のネタは、着物と小鼓を使う漫才になり、大宮での劇場や営業を通して2人自身の会話が加わっていきました。
M-1グランプリ2019の決勝を経た現在も、劇場、テレビ、営業、YouTubeと場所を変えながら、三島達矢さんは南條庄助さんと活動を続けています。












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