人物プロフィール
ウエストランドの井口浩之さんといえば、相手の言葉へ間髪入れず反応し、ときには不満や悪口まで大量のツッコミへ変えていく漫才で知られています。
M-1グランプリ2022王者となってからはテレビで目にする機会も大きく増えましたが、その芸人人生は優勝より十数年前から続いていました。
出発点となったのは、岡山県津山市でサッカーをしながらテレビのお笑い番組を追いかけていた学生時代です。
高校生の時点で、井口さんの進路にはすでに「お笑い」が入っていました。
大学進学をきっかけに東京へ出たあともすぐ芸人になれたわけではなく、高校の同級生だった河本太さんとの離別と再会、養成所へ通わないフリー芸人生活を経て、現在のウエストランドへたどり着いています。
井口浩之の生い立ちと家族|津山で育った“ツッコミ井口”
井口浩之さんは1983年5月6日生まれで、岡山県津山市の上田邑で育ちました。
現在の漫才を見ると話すことが中心だった少年を想像しそうになりますが、子ども時代から大学まで長く続けていたのはサッカーでした。
津山市上田邑で育ち、小学生のころからサッカーを続ける
小学生になるとサッカークラブへ入り、学校の外でもボールを追いかける生活が始まりました。
本人によると幼稚園のころから周囲より背が低く、身長順ではいつも前のほうに並んでいたそうで、家族も両親を含めて小柄でした。
井口家は男三兄弟で、井口さんはその真ん中です。
家では家族とテレビを見ることもあり、吉本新喜劇で池乃めだかさんが笑いを取る姿や、同じく小柄な岡村隆史さんが人気者になっていく様子も目にしていました。
小学生ですでに「ツッコミ井口」|注意していたら周囲に広まった
井口さんには、小学生のサッカークラブ時代から「ツッコミ井口」という呼び名がありました。
最初から漫才のようなツッコミを連発していたというより、練習中に周囲へ注意することが多かったのが始まりだったそうです。
「最初は単純に、真面目だったから周りに注意してた」
THE CHANGE
呼び名は学校内だけにとどまらず、中学や高校では文化祭へ来た他校の生徒から「ツッコんでください」と求められることまであったといいます。
芸人になる何年も前から、地元ではすでに「ツッコミをする井口」という人物像ができていました。
母親と三兄弟の家庭|家族で見ていた新喜劇
家庭でのお笑いにまつわる記憶には、母親から何気なく言われた一言も残っています。
「芸人だったら、背低くてもいいのになー。」
井口浩之公式note
井口さん自身は、この言葉を聞いた当時から明確に芸人への進路を決めたわけではありませんでしたが、家族で見ていたテレビの中には「小柄でも笑いを取れば人気者になれる」という姿がありました。
兄の井口真至さんも後に芸人として活動し、お笑いコンビ「あすなろ」に所属しています。
井口さんはもともと芸人をやりたい気持ちを持っていた時期に兄が芸人を始めたことで、自分にもできるという感覚を持ったことを後年明かしています。
津山西中から津山商業高校へ|河本太とサッカー部で近づく
ウエストランドの相方となる河本太さんも津山市出身で、2人は津山市立津山西中学校、その後の岡山県立津山商業高等学校でも同級生でした。
ただし、中学生のころからいつも一緒にいた親友同士だったわけではありません。
中学では同級生でもほとんど話さなかった河本太
中学では同じ学校に通っていたものの、現在のコンビにつながるほど深い関係にはなっていませんでした。
2人の距離が縮まったのは、高校へ進み、同じサッカー部に入ってからです。
井口さんは小学生から続けていたサッカーをそのまま続け、河本さんと部活動の時間を共有するようになりました。
高校のサッカー部で話すようになり、部室で漫才のまねごと
高校のサッカー部では、練習だけでなく部室でふざけながら話す時間も増えていきました。
その中で2人は、漫才のまねごとのようなやり取りをするようになります。
まだライブへ出たことも養成所へ行ったこともない高校生でしたが、お笑いは放課後の遊びの中へ入り込んでいました。
井口さんのツッコミと河本さんとの会話が、このころから部室の日常になっていきます。
自転車で帰り、コンビニでたこ焼きを食べた高校時代
学校が終わると2人で自転車に乗って帰り、途中のコンビニへ立ち寄ってたこ焼きを食べることもありました。
その後は津山市の小田中付近で別れ、それぞれの家へ帰っていたと地元紙のインタビューで振り返っています。
後にM-1王者となるコンビの関係は、特別なオーディション会場ではなく、津山のサッカー部と放課後の帰り道で形になっていきました。
高校時代に『オンバト』へ夢中|芸人になりたい気持ちが固まっていく
井口さんのお笑い熱がさらに強まった高校時代、テレビでは1999年にNHK『爆笑オンエアバトル』が始まりました。
地方に暮らす高校生にとって、まだ無名に近い若手芸人のネタを毎週見られる番組は貴重な存在でした。
ネタ番組をVHSへ録画し、毎週『爆笑オンエアバトル』を見る
井口さんは『爆笑オンエアバトル』を毎週のように見て、気に入ったネタをVHSへ録画して繰り返し再生していました。
本人によれば、録画したテープは実家に残っているかもしれないほど見込んでいたそうです。
当時の津山ではお笑いライブへ簡単に足を運べる環境ではなく、同じ番組を見ている同級生も2、3人程度だったと振り返っています。
テレビ画面の向こうで毎週入れ替わる若手芸人のネタが、井口さんにとってお笑いの現場を知る窓口になっていました。
アンタッチャブルらの漫才に夢中になった津山の高校生
番組では『ボキャブラ天国』などで名前を知っていた芸人だけでなく、まだテレビ出演が多くなかった芸人のネタにも触れています。
中でも井口さんが強く惹かれたのがアンタッチャブルなどの漫才でした。
後にM-1へ出場することになる井口さんですが、高校生当時はM-1よりも『オンバト』へ出演することのほうを強く意識していたといいます。
「正直、『M-1』より『オンバト』に出たいと思ってました」
THE CHANGE
「高校を出たら漫才をやろう」|河本と自然に出た卒業後の話
部室で漫才のようなことをしていた井口さんと河本さんの間では、やがて卒業後の話にもお笑いが出てくるようになりました。
どちらかが正式に相方募集をしたというより、2人の間で「高校を出たらお笑いをやろう」という話が自然に出ていたとされています。
ただし、卒業式の翌日から2人で漫才師として活動を始めたわけではありません。
井口さんは大学へ進み、河本さんは就職するという別々の進路から東京へ向かいました。
大学進学をきっかけに上京|千葉商科大学でもサッカーを続ける
高校を卒業した井口さんは2002年、千葉商科大学商経学部経済学科へ進学しました。
大学進学には勉強だけでなく、東京へ出てお笑いを始めたいという考えもありました。
芸人になることを念頭に、大学進学という形で東京圏へ
井口さんは後年、大学を選んだ当時についてかなり率直に説明しています。
「お笑いやるための口実として、適当にこっちの大学を決めて受けて」
Rooftop
「大学へ行く」と「芸人になる」は井口さんの中で別々の進路ではなく、東京へ出るための一つの流れになっていました。
高校時代に思い描いていたお笑いへの距離を縮めるため、まず生活の場所を岡山から東京圏へ移したことになります。
千葉商科大学サッカー部で3年時に副キャプテン
東京へ出てもサッカーをやめたわけではなく、大学でもサッカー部へ入りました。
千葉商科大学によると、3年生では副キャプテンを務めています。
小学校から高校まで続けた競技を大学でも続けたため、井口さんのサッカー歴は学生生活のほぼ全体に及びました。
このころはまだ芸人として舞台へ出る生活ではなく、大学生としてサッカーを続けながら、その先にお笑いを考えていました。
大学卒業後は就職せず、お笑いの道を探す
2006年に大学を卒業すると、井口さんは一般企業へ就職する道を選びませんでした。
一度会社へ入れば真面目に働き続けてしまうと思い、芸人を始める余地を残すためフリーターとして過ごした時期があります。
高校卒業時には河本さんとお笑いの話をしていましたが、この時点で2人がすぐコンビとして動いていたわけでもありませんでした。
芸人になりたい気持ちは残りながら、相方も活動場所も定まっていない時間が続きます。
河本太との再会からウエストランド結成へ
河本さんも高校卒業後に東京へ出ており、築地の寿司店で働いていました。
高校時代に同じ方向を見ていた2人ですが、東京へ出てからは一度関係が切れています。
上京後はいったんケンカ別れ|すぐにはコンビにならなかった2人
河本さんは寿司店を辞めたあと井口さんのところへ転がり込みましたが、仕事もせずに過ごしていたことで井口さんが怒り、2人はケンカ別れしました。
河本さん自身も後年、このときについて自分が悪かったという趣旨で話しています。
高校の部室で漫才のまねごとをしていた関係はここでいったん止まり、井口さんは河本さんと離れたまま大学卒業後の時間を過ごしました。
東京の同窓会で再会し「やりたいならやるか」
再び2人がつながったのは、東京で開かれた地元の同窓会でした。
高校時代からお笑いをやりたい気持ちを持っていた井口さんは、再会した河本さんとあらためて活動することになります。
一度は東京で離れた高校の同級生が再び組み、ここからプロの舞台を目指す動きが始まりました。
相方候補を養成所で探したわけでも、事務所から組まされたわけでもなく、津山で同じ学校に通っていた2人が東京で再び合流した形でした。
2008年11月にウエストランド結成|名前は津山のショッピングセンターから
2人は2008年11月に「ウエストランド」を結成しました。
コンビ名の由来は、岡山県津山市二宮にあるショッピングセンター「ウエストランド」です。
2人が子どものころからゲームセンターなどへ遊びに行っていた地元の場所の名前を、そのまま東京で始めるコンビへ付けました。
津山を離れて芸人を始めても、コンビ名には子どものころから知っていた地元の名前が残りました。
養成所なしの若手時代|居酒屋で働きながら年間100本以上のライブへ
ウエストランドはNSCやスクールJCAなどの養成所を経ず、フリーのコンビとして活動を始めました。
そのため最初から同期や先輩とのつながりがある環境ではなく、自分たちで出演できる場所を探さなければなりませんでした。
知り合いゼロからエントリー費を払ってフリーライブへ
当時の2人は、出演者側がエントリー費を払うフリーライブへ次々と申し込みました。
井口さんによると、その本数は年間100本以上に及んだといいます。
「最初はしんどかった。知り合いがいないので。養成所行ってないので。」
OHK岡山放送
誰かに舞台を用意してもらうのではなく、お金を払い、知らないライブへ出て、そこでまた次の出演先を探す状態から始まっています。
居酒屋アルバイトと事務所オーディションを繰り返す生活
ライブだけで生活費を得られる段階ではなかったため、井口さんは居酒屋でアルバイトをしていました。
ライブ出演を続けながら芸能事務所のオーディションも受けましたが、すぐ所属先が決まったわけではありません。
昼間から芸人の仕事がある生活ではなく、アルバイトで収入を得ながら、夜のライブやオーディションへ向かう日々が続きました。
「売れない芸人だった」という一言ではなく、舞台へ立つために自分たちがお金を払い続けるところからウエストランドは始まっています。
爆笑問題への憧れからタイタンへ|預かり期間を経て所属
井口さんが入りたいと思っていた事務所は、爆笑問題が所属するタイタンでした。
ほかの事務所のオーディションでは結果が出ない時期もありましたが、タイタンが若手芸人を募集していたタイミングで機会をつかみます。
2010年夏ごろにまず「預かり」という形になり、ライブへ出演しながらタイタンの芸人として活動する道が開けました。
井口さんは後に、人生の転機としてタイタンへ入ったことを挙げています。
ネタへ細かくダメ出しをして型にはめるのではなく、爆笑問題自身が漫才を続ける事務所で活動できたことも、ウエストランドの方向に影響しました。
憧れ続けた『オンバト』出演と、現在の漫才ができるまで
タイタンの預かりとなった翌年、井口さんが高校生のころから見続けてきた番組につながる機会が訪れます。
NHK『爆笑オンエアバトル』の後継番組、『オンバト+』への出演でした。
2011年『オンバト+』初挑戦で初オンエア|初の全国地上波へ
ウエストランドが初めて『オンバト+』の収録へ臨んだのは2011年で、結果は413KB、10組中5位でした。
オンエア枠へ滑り込み、2011年4月23日に2人のネタが全国放送されました。
高校時代には津山の実家でVHSへ録画していた番組の流れをくむ舞台へ、今度は芸人として出る側に回ったことになります。
「ここで負けたら何もなかった可能性もあるんで」
THE CHANGE
高校時代から憧れていた『オンバト』系番組での初オンエアは、ウエストランド初の全国地上波出演にもなりました。
ところが放送後、井口さんが目にしたのは喜びの声ばかりではなく、ブログへ書き込まれた厳しい感想でした。
長年『オンバト』を見る側だった井口さんにとって、出演者側へ回った途端に批判を受けたことは強く残る出来事になりました。
2012年に「井口がツッコミ続ける」漫才を試す
そのまま同じ漫才を続けて現在の形になったわけではなく、2012年にはネタのスタイルを変える時期が訪れます。
きっかけの一つとなったのが『爆笑レッドカーペット』のオーディションで、そこで井口さんが大量にツッコミ続ける形を試しました。
同年の漫才新人大賞では8分間のネタが必要になり、そのスタイルをさらに長い漫才として組み立てています。
現在よく知られる井口さんの長いツッコミは、最初から完成品として存在したのではなく、この時期の試行錯誤の中で形になっていきました。
太田光の「面白いじゃん」で、そのスタイルを続ける
漫才新人大賞では賞を獲得できませんでしたが、終演後にマネージャーから爆笑問題・太田光さんへネタの感想を聞いてくるよう促されます。
当時の井口さんにとって太田さんは気軽に話しかけられる相手ではありませんでしたが、思い切って感想を求めると返ってきた言葉は短いものでした。
「面白いじゃん」
THE CHANGE
賞は取れなくても、憧れていた太田さんからネタを肯定されたことで、井口さんはそのスタイルを続けることにしました。
『笑っていいとも!』に出演しても続いた若手時代
現在につながる漫才を作り始めた翌年、ウエストランドには全国ネットのテレビへ継続的に出演する機会が訪れます。
2013年からフジテレビ『笑っていいとも!』へレギュラー出演することになりました。
2013年に『笑っていいとも!』レギュラーへ
結成から約5年で国民的な昼番組へ出演することになり、フリーライブへ自分でお金を払っていたころから見れば仕事の規模は大きく変わりました。
一方で、スタジオの観客がウエストランドを十分に知っているわけではなく、その場の空気を一気に変えられるほど経験もありませんでした。
井口さんは後年、番組出演時の難しさについて、まだ自分たちにそれをひっくり返す力がなかったという趣旨で話しています。
『いいとも!』へ出たことと、芸人の仕事だけで生活できるようになることは同時ではありませんでした。
テレビへ出ても芸人だけでは食べられなかった時期
テレビで名前や顔を見られる機会が増えても、若手芸人としての生活がその瞬間に終わったわけではありません。
劇場やライブの現場では、テレビへ出ているからといって必ずしも人気が高まるわけではなく、井口さん自身も観客の厳しい反応を受けることがありました。
早い段階で全国ネットへ出た一方、そこで得た知名度と漫才師としての評価の間にはまだ距離がありました。
ぶちラジやライブを続けながら漫才を磨く
テレビ以外ではライブへ立ち続け、自分たちで話す場も持つようになります。
現在まで続くYouTube・Podcast形式の『ウエストランドのぶちラジ!』は、2018年の時点ですでに前身番組から数えて9年目を迎えていました。
テレビの出演量だけに左右されず、井口さんと河本さんが自分たちの言葉で話し、ライブでは漫才を試す時間が続きました。
2014年に『笑っていいとも!』が終了したあともウエストランドは活動を続け、その後の大きな賞レースへ向かっていきます。
M-1初決勝から2022年優勝へ|長いツッコミが大舞台に届く
高校生のころには『オンバト』への憧れのほうが強かった井口さんですが、芸人として活動を続けるうちにM-1は大きな舞台になっていきました。
ウエストランドが初めて決勝まで残ったのは、結成から12年が経ったM-1グランプリ2020です。
2020年に初のM-1決勝進出も9位
2020年の決勝では622点を獲得し、結果は9位でした。
最終決戦には進めなかったものの、井口さんが言葉を重ねてツッコミ続けるウエストランドの漫才がM-1決勝の舞台で披露されました。
2012年ごろから形にしてきたスタイルを変えて別のコンビになったのではなく、その漫才を続けた先で初のM-1決勝へ到達しています。
この初決勝から2年後、再び同じ大会の決勝へ進むことになります。
2022年に2度目の決勝へ進み第18代王者に
M-1グランプリ2022には過去最多となる7,261組がエントリーし、ウエストランドは2度目の決勝進出を決めました。
ファーストラウンドでは659点で3位に入り、さや香、ロングコートダディとともに最終決戦へ進出します。
最終決戦では7人の審査員のうち6票を獲得しました。
2022年12月18日、ウエストランドはM-1グランプリ第18代王者になりました。
高校の部室で始まった2人のやり取りから、正式なコンビ結成まで約5年、結成からM-1優勝まではさらに14年が経っていました。
優勝後も漫才を続ける|爆笑問題が見せてきた背中
M-1を取ったことで、井口さんの仕事はバラエティ番組を中心に一気に増えました。
それでもウエストランドにとって、優勝は漫才を終える区切りにはなりませんでした。
井口さんが長く見てきた爆笑問題は、テレビで多くの仕事を持つようになってからも新しい漫才を作って舞台へ立ち続けています。
優勝直後のインタビューでも、井口さんは今後について明確に答えています。
「漫才を続けますので」
クランクイン!
高校時代にテレビのネタ番組を録画して見続け、タイタンへ入って爆笑問題の近くで活動してきた井口さんにとって、M-1王者になったあとも漫才は活動の一部として残っています。
津山とサッカーが現在の仕事へ|井口浩之の今につながる原点
M-1後に仕事の幅が広がった井口さんですが、その中には芸人になる前から続いていたものと結びつく仕事もあります。
その一つが、小学生のころから大学まで続けたサッカーです。
少年時代から大学まで続けたサッカーがW杯現地取材へ
2026年、井口さんはDAZNの現地リポーターとしてFIFAワールドカップ2026を取材しました。
小学校から大学まで競技を続け、芸人になってからもサッカー観戦を趣味としてきた井口さんにとって、ワールドカップを現地で取材する初めての機会でした。
現地ではグループステージ3試合を取材し、初めての海外渡航で約2週間半を過ごしています。
津山でサッカーボールを追っていた小学生時代から続いた競技が、2026年にはワールドカップを伝える仕事の一つになりました。
ファジアーノ岡山のアンバサダーとして地元へ
同じ2026年7月には、ウエストランドの2人がファジアーノ岡山設立20周年アンバサダーに就任しました。
クラブによると、2人は2022年ごろからスタジアムを中心としたイベントへ出演しており、20周年を機に正式にアンバサダーを務めることになりました。
ウエストランドというコンビ名そのものが津山市の商業施設から取られている2人にとって、岡山のサッカークラブに関わる仕事でも故郷との接点が続いています。
東京で芸人になってから18年後、地元・岡山と学生時代から続けたサッカーが一つの仕事の中で重なりました。
VHSでお笑いを追った少年が、今もお笑いを語り続ける
もう一つ昔から変わらないのが、芸人として出演することだけではなく、ほかの芸人のネタを見ること自体が好きだという部分です。
高校時代には『オンバト』をVHSへ残していた井口さんは、現在も構成作家・飯塚大悟さんとお笑いについて語る連載などを続けてきました。
その連載は2025年に『書籍!! 今月のお笑い 1』として書籍化され、舞台へ立つ側になってからも、芸人やネタについて見て話す時間は続いています。
津山で育ち、サッカー部の部室で河本太さんとふざけ合っていた井口浩之さんは、大学進学をきっかけに東京へ出ました。
一度離れた河本さんと再び組み、養成所も芸能界の知り合いもないところからライブへ出続けた先で、ウエストランドとしてM-1の舞台に立ちました。
現在も漫才を続けながら、子どものころから好きだったサッカーとお笑いの両方を仕事の中で追い続けています。












コメントを残す