片岡鶴太郎の若い頃と生い立ち|父と通った寄席から弟子入り、ひょうきん族で売れるまで

人物プロフィール

本名
荻野繁雄
生年月日
1954年12月21日
身長
163cm
血液型
O型
出身地
東京都 荒川区
所属事務所
太田プロダクション
師匠
片岡鶴八

片岡鶴太郎さんといえば、現在は俳優や画家として活動し、ヨガを生活に取り入れている姿でも知られています。

2026年にも舞台『ブラック・コーヒー』でエルキュール・ポアロを演じ、映画『時には懺悔を』にも出演するなど、70代になっても俳優の仕事を続けています。

ところが、その芸能人生の出発点は、東京の下町で父親に連れられて通った浅草や上野の寄席と、そこで覚えた声や仕草をまねすることでした。

10歳になるころには自分でテレビの素人参加番組へ応募し、高校では演劇部に入り、卒業が近づくと「いつか芸能界へ」ではなく、実際に弟子を取ってくれる人物を探して動き始めます。

高校卒業後は大学へ進まず、声帯模写芸人・片岡鶴八の弟子となり、ものまね芸人として舞台に立つ道を選びました。

『オレたちひょうきん族』で全国的に知られるよりずっと前から続いていた、片岡鶴太郎さんの若い頃を順番にたどります。

片岡鶴太郎の生い立ちと家族|西日暮里で父と寄席へ通った少年時代

片岡鶴太郎さんは1954年12月21日、東京の西日暮里に生まれました。

本名は荻野繁雄で、幼いころは父親、母親、弟との4人家族で暮らしていました。

後に本人が振り返った下町での日常には、現在の片岡鶴太郎さんからは想像しにくいほど、寄席や近所の大人たちが身近にいる風景が残っています。

父と浅草・上野の寄席へ通い、覚えた芸を家族の前で披露

父親は東京・神田の果物店の長男として生まれましたが、幼くして父を亡くし、里子に出された経験を持っていました。

その父が家庭を持ち、母親とともに鶴太郎さんと弟を育てる中で、家族の楽しみの一つになっていたのが寄席でした。

父親は落語や演芸が大好きで、休日になると幼い鶴太郎さんを連れ、上野や浅草の寄席へ足を運んでいました。

最初は芸の意味もよく分からないまま舞台を見ていたものの、月に何度も通ううちに、落語家の話し方や芸人の声、仕草まで覚えるようになります。

家へ戻ると座布団を敷き、寄席で見てきた芸を家族の前で再現しました。

家でも学校でも、それを披露して笑いが起こると、また別の芸を覚えて試すようになっていきました。

両親は共働きで、本人の公式ブログには、風邪をひいたときに近所の人がおかめうどんを食べさせてくれたという思い出も残されています。

親だけでなく近所の大人にも叱られたり褒められたりしながら育つ、昔の東京の下町らしい生活でした。

「私が笑いの世界へ入ったのは紛れも無く父の影響でした。」

片岡鶴太郎オフィシャルブログ「鶴日和」

芸人という職業を知るより先に、父親と寄席へ行き、そこで見た芸を自分で再現する生活が始まっていたことになります。

小学生で『しろうと寄席』へ出演し、芸人への憧れが具体的に

学校でも、鶴太郎さんは授業中に先生の顔や話し方の特徴を観察し、それをまねして友達を笑わせていました。

見るだけでは終わらず、小学生のうちに自分からテレビへ近づいています。

10歳ごろ、フジテレビの素人参加番組『しろうと寄席』へ、親には黙って応募しました。

後日オーディションの知らせが届いたため、父親に事情を話して会場まで連れて行ってもらいます。

会場には大人の出場者が並び、子どもは鶴太郎さん一人でした。

そこで披露したのは、普段から研究していた動物のものまねなどでした。

オーディションの現場には、当時フジテレビのADだった横澤彪さんもいて、「ここはもう少しこうしよう」と子どもの鶴太郎さんへ助言してくれたといいます。

本番でもものまねを披露し、審査員から評価を受けました。

小学生のころには、家庭や教室で人を笑わせるだけでなく、実際にテレビの舞台へ自分から応募して立っていたのです。

卒業文集に芸能界への夢、荒川少年少女合唱隊にも参加

芸能界へ近づこうとする動きは『しろうと寄席』だけではありませんでした。

荒川区で子どもの合唱隊が作られることになると、音楽の先生から勧められてオーディションを受け、荒川少年少女合唱隊の一期生になっています。

週末には練習へ通い、歌うことや人前に立つことにも触れていきました。

小学校を卒業するころには、将来の希望もかなり具体的になっていました。

「将来はモノマネを研究して芸能界に入りたい」

全国大学生活協同組合連合会

これは後から作られた「幼いころから芸能界を目指していた」という話ではなく、小学生の時点で本人が卒業文集へ残していた進路でした。

中学・高校時代|演劇部で芝居を経験し、卒業後の進路を決める

芸人への夢があった一方、中学生になると学校生活では一度大きくつまずきます。

その後に進んだ高校では、ものまねだけでなく芝居へ関心を広げていきました。

中学3年の夏に猛勉強し、都立竹台高校へ進学

中学校では、両親から勉強を強く言われなかったこともあり、3年生になるころには成績がかなり下がっていました。

都立高校へ行きたいと先生へ伝えても、難しいと言われるほどだったと本人は振り返っています。

母親へ相談すると、私立高校へ通わせるだけの余裕はないと伝えられました。

そこで書店へ行き、小学校高学年から中学3年までの国語・数学・英語の参考書や問題集を買い込みます。

分かるところまでさかのぼり、一つずつ問題を解いていくうちに勉強そのものが面白くなり、日によっては夕方から長時間机に向かいました。

夏休み明けのテストでは学校で上位10番以内に入るほど成績を上げ、第一志望だった東京都立竹台高校へ進学しました。

何かに興味を持つと繰り返し続ける姿は、ものまね以外のところにもすでに表れていました。

都立竹台高校の演劇部で、笑いだけではない芝居に取り組む

東京都立竹台高校では演劇部に入り、3年生では部長も務めました。

文化祭では、単に人を笑わせる出し物だけではなく、別役実の作品など本格的な芝居にも取り組んでいます。

当時憧れていた人物の一人が渥美清さんでした。

『男はつらいよ』の寅次郎だけでなく、笑いとは違う役も演じる姿を見て、喜劇もシリアスな芝居もできる役者に惹かれていました。

学校ではものまねで友人を笑わせ、放課後は演劇部で芝居をするという二つの時間が並んでいました。

本人は後年、芸能界へ入る入口としてはまず芸人を選びながらも、将来的には芝居をしたいという考えを子どものころから持っていたと語っています。

大学ではなく、高校卒業後すぐ芸の世界へ

高校卒業が近づいても、大学へ進んでから芸能界を目指すという考えはありませんでした。

俳優になりたい気持ちはありましたが、役者は自分が出演したいと思っても、役が与えられなければ舞台に立てません。

それに対し、ものまねなら自分で人物を探し、特徴を研究し、一本の芸として舞台へ持っていけます。

卒業前後には、まず喜劇女優の清川虹子さんへの弟子入りを考えましたが実現せず、俳優の松村達雄さんにも弟子入りを願い出たものの、弟子は取らないと断られました。

待っていればいつか芸能界へ入れると考えるのではなく、自分を弟子として受け入れてくれる師匠を実際に探して歩き始めていました。

芸人になったきっかけ|片岡鶴八への弟子入りから3年間の修業

最初から芸能事務所へ所属したわけでも、養成所へ通ったわけでもありません。

片岡鶴太郎さんが選んだ入口は、昔ながらの師匠への弟子入りでした。

アルバイトをしながらではなく「芸を仕事にする」道を選ぶ

高校卒業後にアルバイトで生活費を稼ぎ、空いた時間にオーディションを受けるという方法もありました。

しかし鶴太郎さんは、それでは一日の一部しか芸に使えないと考えます。

「24時間芸のことを考えていたかった」

キネヅカ

食事の時間も移動時間も、師匠や芸人の近くで過ごせる弟子の生活を選びました。

師匠を探した末、声帯模写の片岡鶴八に弟子入り

清川虹子さん、松村達雄さんへの弟子入りがかなわなかった後にたどり着いたのが、声帯模写芸人の片岡鶴八さんでした。

鶴八さんは、単に声だけを似せるのではなく、歌舞伎役者のせりふ、口調、癖まで覚え、一人で芝居のように見せる芸を持っていました。

鶴太郎さんは手紙を出し、得意だったものまねを見せ、ようやく弟子として受け入れられます。

高校を出たばかりの青年は、ここで「片岡鶴太郎」という芸名をもらい、声帯模写芸人としての修業を始めました。

後に父親を亡くした際、鶴太郎さんは、芸名をもらったあと家で最初に「鶴太郎」と呼んでくれたのも父だったと公式ブログに記しています。

鞄持ちや演芸場通いを続け、3年後に独り立ち

弟子入り後は師匠の鞄を持ち、演芸の現場へ付き添いながら芸を覚えました。

本人にとっては、働きながら芸人になる準備をする時間ではなく、毎日そのものが演芸の勉強でした。

寄席へ行けば舞台を見て、戻れば自分のネタを考え、声や特徴を何度も繰り返して身につけていきます。

もともと小学生のころから人の顔や声を観察していた鶴太郎さんにとって、声帯模写はその観察を職業として磨く世界でもありました。

約3年間の弟子生活を終えると、師匠のもとを離れ、自分の芸で仕事を取る若手芸人として動き始めます。

浅草と地方を回った若手時代|テレビへ出る前の片岡鶴太郎

独り立ちしたからといって、すぐテレビの人気者になったわけではありません。

地方を回る一座や温泉地の宴会場、東京の演芸場など、観客の違う場所で芸を出しながら20代前半を過ごしました。

地方巡業を経験し、道後温泉では司会とものまねで舞台へ

師匠のもとを離れた後には、コメディー系の一座で地方を回った時期がありました。

荒川区のインタビューでは、その期間を約2年と振り返り、その後、知人の紹介で愛媛県の道後温泉へ向かったと語っています。

松山市の公式資料でも、20代の鶴太郎さんが道後温泉の旅館の宴会場で司会やものまねをしていたことが紹介されています。

東京の寄席とは客層も空気も違う温泉地で、目の前の宿泊客を相手に一回ごとに反応を受けながら舞台を重ねました。

師匠の弟子を離れた後も、地方巡業と道後温泉での舞台を経て、テレビへ行く前に人前で芸を続ける時間がありました。

東京へ戻り、東宝名人会・浅草演芸場で声帯模写を披露

道後温泉での時期を終えると、再び東京へ戻ります。

22歳ごろには演芸場のオーディションを受け、東宝名人会や浅草演芸場などの舞台へ出演するようになりました。

まだテレビでは広く知られておらず、自分の声帯模写を数分の持ち時間で客へ見せる日々です。

小森和子さんなど実在人物の特徴を拾ったものまねを増やし、ピンで舞台に立つ形を固めていきました。

この浅草の演芸場で、後の芸人人生を大きく動かす人物と同じ舞台に立つことになります。

道後温泉で出会った女性と結婚し、3人の息子の父に

道後温泉は仕事だけでなく、後の家族との出会いの場所にもなりました。

そこで所属していた一座の座長の娘と知り合い、東京で勝負したいと道後を離れる際には二人で上京します。

1979年に結婚し、その後3人の息子が生まれました。

テレビで名前が知られるようになる前に、すでに夫となり、父親となる生活も始まっていました。

ビートたけしとの出会いから太田プロへ|浅草からテレビの世界へ

東京へ戻って演芸場へ出るようになったころ、浅草では漫才ブーム前の若い芸人たちが舞台を重ねていました。

その中に、まだ全国的なスターになる前のビートたけしさんがいました。

浅草演芸場でツービートと一緒になり、たけしと飲みに行く仲に

当時の香盤では、鶴太郎さんがトップバッター、その次にツービートが出ることもありました。

自分の出番が終われば、たけしさんの舞台を見ることもできます。

二人は演芸場を出た後、ほぼ毎日のように飲みに行くようになり、テレビへ出たいという話もするようになりました。

正月にはテレビの大型演芸番組を見ながら、いつか自分たちもあの場所へ行きたいと話したこともあったと鶴太郎さんは振り返っています。

やがてツービートがテレビへ出始め、たけしさんの所属先との縁から、鶴太郎さんも太田プロダクションへ進みました。

浅草で同じ出番表に名前が載っていたビートたけしさんとの関係が、鶴太郎さんをテレビの仕事へ近づける一つの入口になりました。

太田プロへ進み、テレビ出演が増え始める

20代前半までの主戦場は寄席や地方の舞台でしたが、20代半ばになるとテレビの仕事が入り始めます。

24歳ごろにはフジテレビ系『お笑い大集合』へ出演し、ものまねを武器にテレビの現場へ入っていきました。

その一方、1980年前後には漫才ブームが起こり、コンビの漫才師が次々にテレビへ進出します。

鶴太郎さんは漫才コンビではなく、一人でものまねをする芸人だったため、同じ形でブームへ乗ったわけではありませんでした。

それでも、舞台で蓄えてきた人物の声や仕草を見つける芸は、その後のテレビバラエティーで使われることになります。

小学生時代に出会った横澤彪とテレビ局で再会

フジテレビへ出入りするようになると、子どものころ『しろうと寄席』のオーディションで世話になった横澤彪さんと再会しました。

小学生だった鶴太郎さんが中学、高校、弟子生活、地方巡業を経て、本当に芸人としてフジテレビへ戻ってきたことになります。

「やっぱり来たね」

ORICON NEWS

横澤さんはその後、『THE MANZAI』などを手がけ、お笑い番組の中心人物になっていました。

10歳の『しろうと寄席』で出会ったテレビマンと、プロの芸人になった20代で再び同じ現場に立ったことになります。

この再会の先に、1981年に始まる『オレたちひょうきん族』がありました。

『オレたちひょうきん族』でブレイク|「マッチでーす!」が生まれた頃

1981年、片岡鶴太郎さんは26歳で『オレたちひょうきん族』へ出演するようになります。

浅草や地方で一人ずつ観客の反応を受けてきたものまね芸人が、ここから全国放送のバラエティーで知られていきました。

1981年から『ひょうきん族』へ、26歳で知名度が上昇

番組にはビートたけしさん、明石家さんまさんをはじめ、多くの芸人が出演していました。

鶴太郎さんは、もともと持っていた声帯模写だけでなく、その場で振られた人物になりきったり、周囲から仕掛けられたことに大きく反応したりする役割も増えていきます。

その中で特に大きな反響を呼んだのが、近藤真彦さんを題材にした「ひょうきんマッチ」でした。

しかし、近藤真彦さんはもともと鶴太郎さんの得意なものまねレパートリーではありませんでした。

突然振られた近藤真彦のものまねを3日で準備

ある収録を前にディレクターから、近藤真彦さんの『ギンギラギンにさりげなく』をやるよう突然頼まれます。

声質が似ているという手応えは本人にもなく、ディレクターから求められたのは、細かな声まねよりも元気のよさと勢いでした。

渡された音源を聞き、わずか3日間で歌を覚えて収録へ向かいます。

台本を見ると、セットの下敷きになって終わる展開になっていたため、本人はその1回限りのネタだと思っていました。

ところが放送後の反応が大きく、スタッフから再びマッチをやろうと声がかかります。

一度きりの予定だった近藤真彦さんのものまねが繰り返し求められ、「マッチでーす!」とともに鶴太郎さんを代表するテレビ芸の一つになりました。

新曲が出るたびに曲を聞き、動きや表情を研究し、また次の収録に持っていくという作業を続けました。

ものまねと体を張るリアクション芸で人気者に

『ひょうきん族』では、近藤真彦さん以外にも、小森和子さん、浦辺粂子さん、たこ八郎さんらを題材にしたものまねを披露しました。

本人そっくりの声を再現するだけでなく、顔つき、動き、本人から受けた印象まで膨らませて一つのキャラクターにしていました。

さらに番組では、熱いおでんを使った企画など、後に「リアクション芸」と呼ばれるような体を張る場面にも登場します。

浅草で数分間のものまねをしていたころとは仕事の規模が変わり、テレビ番組の司会なども次々に入るようになりました。

「鶴ちゃん、来たよ、これは絶対、逃しちゃダメだ!」

双葉社 THE CHANGE

横澤彪さんからそう声をかけられた時期を、鶴太郎さん自身も「売れた」と実感する転機として振り返っています。

26歳前後で『ひょうきん族』の仕事が動き始め、寄席のものまね芸人だった鶴太郎さんは全国区のテレビタレントになりました。

32歳でボクシングへ|売れている最中に俳優へ舵を切った転機

テレビの仕事が増えても、子どものころから抱いていた俳優への興味は消えていませんでした。

30代に入ると、その思いが実際のドラマ出演と、体そのものを変える挑戦へつながります。

『男女7人夏物語』で俳優の仕事が広がる

1986年、31歳のころにTBS系ドラマ『男女7人夏物語』へ出演します。

演じた大沢貞九郎は、バラエティーで見せていたものまねキャラクターとは違い、会社員として働きながら恋愛や人間関係の中にいる人物でした。

高校の演劇部から長く持ち続けていた芝居への思いを、テレビドラマで本格的に試せる仕事となりました。

一方で、この役の印象が強かったため、その後も似たタイプの人物を演じる依頼が続きました。

本格的に役者を続けるなら、バラエティーで定着していた自分の見た目やイメージを一度変えたいと考えるようになります。

当時はテレビの仕事が終わると朝まで飲食し、睡眠が1~2時間ほどになる日もある生活で、運動する時間もほとんどありませんでした。

32歳、子どもの頃から好きだったボクシングを本格的に開始

そこで鶴太郎さんが始めたのが、子どものころから好きだったボクシングでした。

単なるダイエットのためではなく、当時33歳までだったプロテストの年齢制限を前に、本物のライセンス取得まで考えます。

映画『レイジング・ブル』で役作りのため肉体を大きく変化させたロバート・デ・ニーロからも刺激を受けました。

32歳で秘密裏にトレーニングを始め、仕事と並行しながらリングへ通います。

「本物のプロボクサーになってやろう」

双葉社 THE CHANGE

1988年、33歳でプロボクシングのライセンスを取得しました。

売れてから守りに入るのではなく、テレビで定着していた体形や顔の印象まで変えながら、俳優として別の役を演じる準備を進めました。

『異人たちとの夏』で父を演じ、日本アカデミー賞へ

同じ1988年には、大林宣彦監督の映画『異人たちとの夏』へ出演しました。

演じたのは、主人公が幼いころに亡くした下町の父親です。

この役を作る際に思い浮かべていたのが、幼い鶴太郎さんを寄席へ連れて行っていた実の父親でした。

本人は後に、映画の父親役のモデルは自分の父だったと明かしています。

翌1989年、この作品で第12回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。

小学生のころ家の座布団で芸を披露していた父親との関係が、30代では映画の役づくりの中に現れることになりました。

絵を描き始めた40歳前後|ものまねとは違う表現の世界へ

俳優としての仕事が続く30代後半、鶴太郎さんの生活にもう一つ新しいものが入ってきます。

それが後に長く続く絵画でした。

38歳で見た椿から、自分でも絵を描き始める

38歳のころ、咲いている椿を見て、その姿を絵に描ける人になったらいいと思ったことが始まりでした。

その時点で画家として仕事をする計画があったわけではなく、まず自分で道具を用意して描き始めます。

芸人として売れ、俳優として映画賞も受けた後でしたが、絵については初心者として一から試していました。

きっかけは大きな仕事の依頼ではなく、38歳のときに目にした一輪の椿でした。

村上豊との出会いで「観察する力」を絵へ

絵を始めて間もないころ、タモリさんと飲みに行った席で、近くにいた画家の村上豊さんを紹介してもらいます。

鶴太郎さんは、どうすれば絵がうまくなるのかと率直に質問しました。

そこで村上さんから返ってきたのは、技術的にそっくり描くことだけを目標にする必要はないという話でした。

「あなたが感じた特徴を描けばいい」

文化放送

相手の顔や声の特徴を見つけて強調することは、鶴太郎さんが小学生のころから続けてきたものまねの作り方でもありました。

「ものまね」と「絵」はまったく別の表現ではなく、目の前のものから特徴を見つけるという点で近いと気づき、制作を続けていきます。

1995年の初個展から画家としての活動が本格化

描き始めて数年後の1995年、40歳で東京にて初個展「とんぼのように」を開催しました。

以後も新しい作品を制作し、国内各地で個展を開くようになります。

俳優の仕事をやめて画家一本になったのではなく、撮影や舞台の仕事を続けながら、絵の制作も日常の一部になっていきました。

2001年にはパリでも個展を開催し、書にも活動を広げていきます。

50代後半からヨガへ|現在の生活へ至るまで

ボクシングや絵と同じように、ヨガも最初から仕事にするために始めたものではありませんでした。

50代後半になった鶴太郎さんが最初に関心を持ったのは、体を曲げるポーズではなく瞑想でした。

瞑想への関心からヨガを始め、毎日の実践へ

仏陀や空海をはじめ、自分が関心を持った人物の本を読んでいるうちに、「瞑想」という言葉が何度も出てくることに気づきます。

ちょうどそのころ、ドラマで共演した俳優の秋野太作さんが長く瞑想を続けていることを知りました。

鶴太郎さんが興味を伝えると、秋野さんを通じて信頼できる指導者を紹介してもらいます。

そこで教えられたのが、瞑想だけを切り離して行うのではなく、体を整える段階からヨガ全体を学び、その先に瞑想があるという考え方でした。

57歳だった鶴太郎さんは、その説明を聞いてヨガそのものを一から始めます。

「瞑想をやってみたい」という興味から始まり、57歳から毎日のヨガ、呼吸法、瞑想を続ける生活へ変わっていきました。

2017年にヨガの資格を取得、食事や生活リズムも大きく変化

始めた直後だけ熱中したのではなく、ヨガはその後も毎日の習慣として続きました。

2017年5月にはインド政府公認プロフェッショナルヨガ検定に合格し、ヨガマスター、ヨガインストラクターの称号を受け、第1回ヨガ親善大使にも任命されています。

ヨガに合わせて一日の時間の使い方も変わり、深夜から早朝に起きて長時間かけて体を整え、食事にも時間をかける生活になりました。

本人の公式ブログでは近年も23時起床の日常を紹介し、朝食には玄米や豆類、野菜を使った料理などを載せています。

なお、38年間続いた結婚生活は同じ2017年に終わっており、成人した3人の息子たちとはその後も交流があります。

俳優・画家・ヨガを続ける現在の片岡鶴太郎

ヨガが注目されるようになってからも、俳優や絵画の仕事をやめたわけではありません。

2026年4月には舞台『ブラック・コーヒー』で、以前から演じたいと望んでいた名探偵エルキュール・ポアロ役を務めました。

同年8月28日に公開された映画『時には懺悔を』にも出演しており、70代になった現在も俳優として作品に参加しています。

一方、公式ブログでは絵や書、ヨガ、食事、舞台の稽古など、それぞれの活動が同じ日常の中に並んでいます。

寄席の芸を何度もまねしていた少年が、ものまね、芝居、ボクシング、絵、ヨガと、その時々に自分で始めたものを繰り返し続けながら現在まで活動しています。

片岡鶴太郎さんの芸能生活は、西日暮里で父親と寄席へ通い、家の座布団の上で覚えた芸を披露していたところから始まりました。

高校を出るとすぐ片岡鶴八さんへ弟子入りし、地方や浅草の舞台を経て『オレたちひょうきん族』へ進み、その後は子どものころから抱いていた芝居の世界にも足を踏み入れました。

現在も俳優として舞台や映画に立ちながら、絵を描き、ヨガを続けています。

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