人物プロフィール
演劇とコントの両方を続ける8人組「ダウ90000」で、舞台や映像作品に出演している飯原僚也さん。
現在はダウ90000での活動に加え、蓮見翔さんとの漫才コンビ「3000」でも舞台に立っています。
ところが飯原さんが子どものころに目指していたのは、お笑い芸人でも俳優でもなく、K-1のプロ選手でした。
空手の全国大会で優勝するほど稽古を重ねながら、中学生のときのけがでその道を断念し、高校では部員が自分一人になった演劇部で芝居を続けています。
そこから映画「GO」に影響を受けて徳島から東京へ出て、日本大学芸術学部で蓮見翔さんたちと出会ったことから、現在まで続く道が始まりました。
飯原僚也の生い立ちと家族|兄を追って空手を始めた徳島時代
飯原僚也さんは1998年6月2日、徳島県で生まれました。
後に演劇とコントの世界へ進みますが、子ども時代の生活で大きな割合を占めていたのは空手でした。
その入口には、飯原さんより2歳年上の兄がいました。
徳島の田舎で育ち、子どものころから東京に憧れていた
飯原さんは10代を振り返ったインタビューで、徳島の田舎で育ちながら、早い時期から東京へ強い憧れを持っていたと明かしています。
友人たちとは、干上がったダムのような場所へ出かけ、誰がより硬いところでバク転できるかを競うような遊びをしていました。
さらに、友人同士で「どれだけ女の子と話さずに学校生活を送れるか」を競っていた時期まであったそうで、後年の落ち着いた雰囲気にも通じるような少年時代の一場面が残っています。
一方で、東京への憧れは単なる「都会へ行ってみたい」という気持ちだけではなく、やがてプロ選手になるという具体的な目標と結びついていきました。
2歳上の兄の影響で空手へ|週6日、1日4〜5時間の稽古
空手を始めたきっかけは、2歳上の兄でした。
兄の影響を受けてフルコンタクト空手に取り組むようになると、練習は週6日、1日4〜5時間ほどに及ぶ生活になっていきます。
放課後に少し習い事をするという程度ではなく、学校生活と並んで空手が毎日の中心にある時期でした。
そして小学5年生のころには全国大会で優勝し、現在の所属先プロフィールにも「2010年 全日本優勝」という空手歴が記載されています。
ただ、本人が後に語ったところでは、優勝した瞬間も大喜びしたというより、毎日あれだけ練習してきた末にようやく結果が出た、という感覚の方が強かったそうです。
小学生の時点で全国大会を制するほど空手に打ち込んでいた飯原さんは、その先にさらに大きな目標を置いていました。
全国大会優勝とK-1への夢|中学3年のけがで進路が変わる
飯原さんが目指していたのは、K-1のプロ選手になることでした。
プロとして活動することと、以前から憧れていた東京へ出ることが、当時の本人の中では一つの将来像になっていました。
中学3年生まで空手中心の生活を続けましたが、その途中でけがをします。
医師から回復が難しいと告げられ、長く目指していたK-1への道を断念することになりました。
飯原さんはその後、空手を続けられなくなったことを長期間引きずるのではなく、次に何を目指すかを探し始めています。
そこで高校時代に身近に現れたのが、空手とはまったく違う演劇でした。
高校で一人だけの演劇部員に|空手の次に見つけた芝居
空手を離れた飯原さんは高校へ進学すると、演劇部へ入ります。
この時点で将来の芸人像が固まっていたわけではなく、まず始まったのは一人の高校生として芝居に触れる時間でした。
先輩の引退後は顧問と二人|戯曲を読み一人で公演も
入部した当初には先輩がいましたが、その先輩がほどなく引退すると、演劇部に残った部員は飯原さん一人になりました。
部室に大勢の仲間が集まり、配役を決めながら一本の舞台を作るような環境ではありません。
飯原さんと顧問の先生だけになっても活動をやめず、数多くある戯曲を読んだり、一人で公演をしたりしていたと本人は語っています。
本人の説明では、当時は何かに取り組んでいたい気持ちがあり、空手の次に身近にあったものが演劇だったという感覚だったようです。
部員が自分一人になっても、高校卒業まで芝居から離れませんでした。
映画館まで自転車で2時間|映画好きだった高校時代
演劇部と並んで、このころの飯原さんが好きだったのが映画です。
徳島で暮らしていた当時は、映画館へ行くために自転車で約2時間かけることもありました。
空手に代わる新しい目標を探していた時期に、学校では演劇を続け、時間をかけて映画館へ足を運ぶ生活が重なっていきます。
やがて映画は趣味として見るだけのものではなく、自分もその世界の仕事へ進みたいと考えるきっかけになりました。
映画「GO」を見て映画・芝居の仕事に憧れ、東京を目指す
進路を考えるうえで特に大きかった作品として、飯原さんが挙げているのが、行定勲監督、宮藤官九郎さん脚本の映画「GO」です。
窪塚洋介さんや柴咲コウさんが出演したこの作品を見て、映画や芝居に関わる仕事への憧れが強くなりました。
子どものころから持っていた東京への気持ちも残っており、映画と芝居を学びながら東京へ出る進路を考えるようになります。
K-1選手として東京へ行くという中学生までの計画はなくなりましたが、今度は映画と芝居を入口に、再び東京が進路の先に現れました。
日本大学芸術学部へ進学|蓮見翔との出会いで現在への道が始まる
高校卒業後、飯原さんは徳島を離れ、日本大学芸術学部映画学科へ進学しました。
ここで出会ったのが、後にダウ90000を主宰する蓮見翔さんや園田祥太さんたちです。
徳島から上京するため日芸映画学科を目標に
飯原さんにとって日芸は、単に東京にある大学だから選んだ進学先ではありませんでした。
地元では関西へ進学する同級生が多いなか、自分は東京へ行きたいという思いがあり、どうせ挑戦するなら高い目標を置こうと考えたといいます。
映画「GO」をきっかけに映画や芝居の仕事へ憧れた高校生が、実際に映画学科で学ぶため上京するところまで進みました。
蓮見翔の「客席を見る芝居」に驚き、前身団体へ加入
日芸へ入ったころ、すでに蓮見翔さんと園田祥太さんらは、映画学科にいながら演劇やコントを作っていました。
高校では演劇しか経験していなかった飯原さんにとって、映画学科の学生たちがコントまでしていること自体が不思議に映ったそうです。
実際に舞台を見ると、さらに高校演劇との違いを感じます。
高校時代は客席を意識して視線を向けることを避けるよう教わっていた一方、蓮見さんは観客の反応を見ながら、客席へ向けて言葉を投げるように演じていました。
それまで自分が知っていた芝居とは違いましたが、作品自体が非常に面白く、飯原さんは舞台を見たあとすぐに前身団体へ加わっています。
日芸1年生で蓮見翔さんの舞台を見たことが、現在の仲間と活動を始める直接の入口になりました。
2017年「はりねずみのパジャマ」で舞台に立ち始める
飯原さんが加入したのは、ダウ90000の前身となる「はりねずみのパジャマ」です。
2017年9月に東京・Keynote Theaterで上演された第2回公演「地下」には、飯原さんの名前も出演者として残っています。
養成所へ入って漫才やコントの授業を受けたのではなく、大学で仲間と芝居を作り、実際の舞台に立ちながら活動を始めたのが飯原さんの入口でした。
このころの蓮見さんは、飯原さんと上原佑太さんについて、積極的な新入生についてきた「控えめな2人」という印象だったことを後年明かしています。
先に目立っていた新入生が次第に離れていく一方で、蓮見さんのコントを面白いと感じていた飯原さんと上原さんは活動を続けました。
観客4人でも続けた大学時代|就活より演劇を選んだ理由
大学での活動は、最初から多くの観客を集める華やかなものではありませんでした。
それでも飯原さんは4年間、仲間と芝居を続けています。
教室にテーブルで舞台袖を作った日芸時代
飯原さんたちは映画学科の学生だったため、演劇学科のように自由にホールを使える環境ではありませんでした。
学内公演では普通の教室にテーブルを立てて舞台袖を作り、教室の蛍光灯を照明代わりにすることもありました。
出演者が十数人いる一方で、客席には4人ほどしかいなかった公演もあったとメンバーは振り返っています。
飯原さん自身も、友人へ「見に来て」と声をかけて客席を埋められるような状況ではなかったと話しています。
それでも舞台を作る時間はなくならず、むしろ大学生活の中で占める割合が大きくなっていきました。
上原佑太を最初の舞台へ誘ったトイレでの一言
飯原さんが前身団体へ入ったころ、同じく新入生だった上原佑太さんは、友人について活動場所へ来たものの、すぐ舞台へ出るつもりではありませんでした。
加入直後の5月に公演があり、上原さんが出演を迷っていたとき、偶然トイレで飯原さんと一緒になります。
「出ないの?」
Steenz・上原佑太インタビュー
その一言を受けた上原さんは流れで舞台に出演し、蓮見さんの脚本の面白さに引かれて、その後も芝居を続けました。
のちに同じダウ90000のメンバーになる二人が、大学1年の早い時期から同じ舞台で過ごしていたことが分かるエピソードです。
「大学生活のすべて」になった演劇|就活をしなかった飯原
大学生活が後半へ進むと、周囲では卒業後を見据えて就職活動を始める学生が増えていきます。
飯原さんは就活へ向かいませんでした。
客が4人ほどしかいない学校公演もありましたが、それでも仲間と芝居をしている時間が楽しく、本人の中では演劇が「大学生活のすべて」になっていたからです。
成功する保証があったわけではありませんが、飯原さんはこの仲間と芝居を続けることを、自分にとって最も納得できる道だと考えました。
周囲が就活を始めても、飯原さんは芝居を続ける道を選びました。
芸人になるために養成所へ申し込んだ日が転機だったのではなく、大学で観客の少ない舞台も含めて何年も続けた末に、その活動を卒業後も終わらせなかったことが飯原さんの場合の大きな決断でした。
好きな道へ進む飯原に両親が伝えた言葉
就職せず芝居を続ける進路について、両親から強く別の職業を勧められたわけでもありませんでした。
飯原さんが後年明かしたのは、好きなことを選ぶ代わりに、その結果も自分で引き受けるよう求める言葉です。
「好きなことをやってもいいけど、責任は自分で持てよ」
Steenz・飯原僚也インタビュー
高校で一人になっても演劇部を続け、大学でも小さな公演を積み重ねてきた飯原さんは、そのまま卒業後も舞台を続ける側へ進みました。
2020年にダウ90000始動|コントを量産した若手時代
大学卒業前後には、前身団体を取り巻く状況も大きく変わりました。
そこへ新型コロナウイルスの影響が重なり、活動が止まった時期を経て、2020年にダウ90000として仕切り直します。
コロナ禍で活動が止まり「ダウ90000」として仕切り直す
前身団体では中心人物の一人と連絡が取れなくなり、その後コロナ禍によって約3か月活動できない時期が続きました。
2020年9月、蓮見さんはメンバーへ、これから本気で売れることを目指し、いずれ全員がアルバイトをせず活動だけで生活できる状態を作りたいと伝えます。
学生時代の延長にあった集団が、仕事として続けていく「ダウ90000」へ切り替わった時期でした。
まず目標にしたのが、2021年1月の第1回演劇公演「フローリングならでは」です。
その公演へ観客を呼ぶため、毎月コントライブ「あの子の自転車」を開くことになりました。
月15本の新作コントと約200再生のYouTube
ダウ90000として動き始めたころは、すでに知名度があったわけではありません。
「あの子の自転車」では毎月15本の新作コントを用意し、それを4か月連続で続けています。
さらに前身団体時代には、2週間に1度集まって14本をまとめて撮影し、YouTubeへ毎日1本投稿するような時期もありました。
当時公開していた動画は約200回再生にとどまることもあり、「あの子の自転車」も30人規模の会場を知人に声をかけながら埋める状態でした。
現在のように公演チケットが注目される前には、大量の新作を作っても数百人に届かない時期がありました。
2021年1月には目標にしていた「フローリングならでは」を上演し、飯原さんも終演後に自身のXで来場者への感謝を伝えています。
大人数コント「フロント」で8人組の形が見え始める
毎月新作を作るなかで、後のダウ90000を語るうえで重要な一本になったのが「フロント」です。
「あの子の自転車」2回目で披露したこのコントでは、それまで数人ずつに分かれていたメンバーをまとめて出演させました。
大人数が次々と言葉を重ね、あるタイミングで蓮見さんがツッコむ構成が予想以上の反応を得ます。
「この形いけるな」
テレビ朝日 logirl「First Stage」
その後に作られた「顔合わせ」「AED」「まちがいさがし」などにも、大勢の人物が同じ場所で会話を重ねる形式が展開されていきました。
「旅館じゃないんだからさ」直前の離脱を経て現在の8人体制へ
現在の8人で舞台を作る形が固まるまでには、もう一度大きな変化がありました。
第2回演劇公演「旅館じゃないんだからさ」を控えた時期、当時在籍していたメンバー2人が離れることになります。
そのうち一人が離れたのは、本番まで約3週間というタイミングで、脚本もすでに完成した後でした。
メンバーは区民館に集まって話し合い、蓮見さんは残ったメンバーに合わせて脚本を大きく書き直します。
飯原さん、蓮見さん、園田さん、上原さん、道上珠妃さん、中島百依子さん、忽那文香さん、吉原怜那さんの現在につながる8人で上演した作品は好評を得て、後に岸田國士戯曲賞の最終候補にも選ばれました。
アルバイトを終え、ダウ90000だけで生活できるようになる
2020年に蓮見さんが掲げた目標の一つが、メンバー全員がアルバイトをせず、ダウ90000の仕事で生活できる状態を作ることでした。
2022年末ごろには、蓮見さんが考えていたそのラインへ到達します。
翌2023年、テレビ朝日の番組に8人で出演した際にも、以前はアルバイトをしながら活動していたメンバー全員が、すでにバイトを辞めて本業へ集中していることが紹介されました。
飯原さんの場合は、仕事を自分から辞めるより先に、少し変わったタイミングで区切りが訪れています。
「バイトをクビになった瞬間に食えるようになったので助かりました」
テレ朝POST
大学で観客4人の公演をしていたころから数年を経て、舞台とコントの仕事だけで生活するところまで状況が変わりました。
テレビへ広がったダウ90000|飯原僚也の俳優仕事も増加
ダウ90000の活動が広がるにつれて、劇場や演劇公演だけでなく、賞レースやテレビにも出演する機会が増えていきます。
飯原さん個人にも俳優として作品へ参加する仕事が入り、高校時代に興味を持った映画や芝居と別の形で向き合うようになりました。
ABCお笑いグランプリ決勝進出を経て仕事が広がる
ダウ90000は2022年、第43回ABCお笑いグランプリの決勝へ進出しました。
8人という人数を生かした会話劇のようなコントを賞レースの短い持ち時間へ落とし込み、演劇公演とは違う場所でも名前が知られていきます。
2024年の第45回大会ではファーストステージのAブロックを勝ち上がり、令和ロマン、青色1号とともにファイナルステージへ進出し、648点を記録しました。
2026年の第47回大会にも出場し、大会公式では4度目の決勝進出として紹介されています。
一つの大会だけを境に突然仕事が変わったわけではなく、演劇公演、コントライブ、賞レース、テレビ出演が重なるなかで活動場所が増えていきました。
「深夜1時の内風呂で」で演技への興味がさらに強くなる
2022年にはダウ90000の地上波初冠ドラマ「ダウ90000 深夜1時の内風呂で」が放送され、飯原さんも出演しました。
この撮影で共演したのが、俳優の勝村政信さんです。
飯原さんは、演技中だけでなく撮影へ入る前の勝村さんの動きまで間近で見ていたといい、その姿を俳優として学べる材料として受け取っていました。
撮影は3日間という短いスケジュールで、毎日のようにせりふを覚える状況だったものの、終えたころには演技や芝居への興味が以前の10倍ほどに増したと話しています。
高校で一人公演をしていたころとは規模も共演者も変わり、今度はプロの俳優と映像作品を作る現場へ入るようになりました。
「お笑いと芝居の根っこは一緒」と語る飯原
ダウ90000は演劇とコントの両方を続けているため、飯原さんにとっても「俳優」と「お笑い」を完全に別々の活動として切り分けているわけではありません。
本人は、コントだから笑わせるためだけに芝居を変えるという感覚はあまりなく、舞台に立つ自分を俯瞰して見るかどうかなどの違いはあっても、芝居とお笑いの根の部分は同じだと考えています。
もともと高校時代に演劇から始まり、大学で蓮見さんの作品に出会ったあとにコントへ入っていった飯原さんらしい距離感です。
テレビへ進出した後も舞台を離れず、映像の演技を経験すると、その経験からさらに芝居への興味を強めていきました。
「有吉ゼミ」でも注目された部屋とメンバーにいじられる素顔
舞台やドラマとは別のところで飯原さんのキャラクターが知られるきっかけになったのが、片付けが苦手な一面です。
本人は以前から、自宅の部屋が散らかっていることでダウ90000のメンバーからよくいじられていると話していました。
園田さんから誕生日にもらったロボットを、散らかった部屋の中で何度も踏んでしまったという話まであります。
2022年11月には日本テレビ系「有吉ゼミ」のゴールデン帯へ初出演し、飯原さん自身も放送前にXで出演を知らせていました。
高校時代には一人で戯曲を読み、大学に入ったころは控えめな新入生だった飯原さんですが、活動の幅が広がるにつれて、舞台上とは違う本人自身の一面もテレビやラジオで知られるようになっていきます。
蓮見翔と「3000」を結成|ダウ90000と個人活動の現在
2024年以降も飯原さんはダウ90000の8人で活動を続けながら、グループ内で新しい組み合わせの仕事にも取り組んでいます。
大学1年で初めて舞台を見た蓮見翔さんとは、長く同じグループで活動した後、二人だけで漫才をする関係にもなりました。
2024年12月、長年一緒だった蓮見翔と漫才コンビ「3000」結成
飯原さんと蓮見さんによる漫才コンビが「3000(サンゼン)」です。
M-1グランプリ公式に登録されている結成年は、2024年12月15日。
2017年に出会った時点から二人で漫才をしていたわけではなく、前身団体とダウ90000で長く同じ舞台に立った後に生まれたコンビです。
ダウ90000ではメンバーの組み合わせに数字を付けたコンビ・ユニットでも賞レースへ挑戦しており、3000は2025年の第46回ABCお笑いグランプリで準決勝へ進みました。
高校演劇しか知らなかった飯原さんが大学で初めて見た蓮見さんと、約7年後には漫才コンビとして賞レースに出るようになりました。
大学時代は無口だった飯原がラジオで「エース」と呼ばれるまで
飯原さんの変化がよく分かるのがラジオです。
2024年10月に始まったJ-WAVE「GURU GURU!」では、ダウ90000が火曜を担当し、飯原さんもメンバーとともに生放送へ出演するようになりました。
2025年4月、番組開始から半年がたったタイミングでメンバー全員が集まった回では、大学1年生のころから飯原さんを知る蓮見さんが、かつてはあまりしゃべらない人物だったと振り返っています。
「僚也はもうエースじゃないですか。」
J-WAVE NEWS
蓮見さんは、ラジオでの飯原さんについて安定感が出て、周囲のフォローまでできるようになったと評価していました。
飯原さん自身も、ラジオではありきたりな言い回しに逃げず、自分の言葉で話して楽しい番組にしたいという目標を口にしています。
大学1年では「もともとしゃべらない」と見られていた飯原さんが、ラジオでは蓮見さんから「エース」と評されるまでになりました。
演劇・コント・俳優・ラジオを行き来する現在
現在の飯原さんは、どれか一つの肩書きだけで活動しているわけではありません。
ダウ90000では演劇公演とコントライブの両方に出演し、個人では映像作品やテレビ、ラジオにも活動場所を広げています。
2025年には、蓮見さんが脚本・演出を手がけ、飯原さんら8人が出演する第7回演劇公演「ロマンス」を東京、大阪、金沢、福岡で上演しました。
同作は2026年2月に第70回岸田國士戯曲賞を受賞し、大学の教室にテーブルを立てて舞台袖を作っていたメンバーたちの演劇は、全国の劇場へ運ばれる作品になっています。
飯原さんが高校時代に映画を見て抱いた「映画や芝居の仕事」への興味も、ダウ90000を続けるなかで俳優の仕事として現実のものになりました。
2026年も8人で続くダウ90000と単独ライブ「40000」
2026年7月には、ダウ90000にとって約2年ぶりとなるコント単独ライブ「40000」が大阪からスタートしました。
公演は東京、札幌、仙台、福岡、広島、鹿児島、金沢、名古屋、横浜などを含む全国10都市を巡る規模で、飯原さんを含む8人が出演しています。
徳島でK-1のプロを目指していた少年は、けがをきっかけに高校の演劇部へ入り、一人になっても芝居を続けました。
日芸で蓮見翔さんたちと出会い、観客が数人の舞台を重ねながら就職ではなく演劇を選んだ時間を経て、ダウ90000は飯原さんが仕事として舞台に立つ場所になりました。
現在も8人で演劇とコントを続ける一方、俳優、ラジオ、そして蓮見さんとの「3000」へ活動を広げています。












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