萩本欽一の生い立ちと若い頃|母を楽にしたくて浅草へ、坂上二郎とコント55号を組むまで

人物プロフィール

生年月日
1941年5月7日
身長
164cm
血液型
A型
出身地
東京都 台東区
所属事務所
浅井企画
芸人活動開始年
1959年
師匠
東八郎

「欽ちゃん」の愛称で親しまれ、コント55号から数々のテレビ番組へ活躍の場を広げてきた萩本欽一さんは、2026年9月現在85歳です。

1970~80年代には複数の冠番組が高視聴率を記録し、やがて「視聴率100%男」と呼ばれるようになりました。

ところが、その出発点にあったのは華やかな芸能生活ではなく、父親の事業が傾き、母親が借金取りに頭を下げる姿を見ていた少年時代でした。

「母親を大きな家に住ませたい」と考え、有名になって稼げる仕事を探した先で見つけたのが「コメディアン」という職業でした。

中学卒業後すぐ浅草へ向かおうとした少年は、いったん高校生活を挟み、18歳で劇場の世界へ入り、やがて当初は組みたくなかった坂上二郎さんとコント55号を結成します。

萩本さんがどんな家庭で育ち、なぜ芸人になり、浅草で何を経験して「欽ちゃん」になっていったのかを、幼少期から順にたどります。

萩本欽一の生い立ちと家族|浦和から東京へ戻り暮らしが一変

萩本欽一さんは1941年5月7日、東京都入谷生まれで、戦時中には家族と浦和で暮らしていました。

子ども時代には、父親の仕事や家計の変化によって、暮らす場所も家庭の空気も大きく変わっていきます。

父のカメラ事業と疎開先・浦和で過ごした幼少期

父親はカメラ関係の事業をしており、写真の現像や焼き付けにも関わっていました。

母親は四国の比較的裕福な家庭で育ち、結婚前にはタイピストとして働いていた女性で、萩本さんの回想には、幼い息子へ昔の月の呼び名や漢字を教えていた姿も残っています。

浦和で小学生だったころの萩本さんは級長を務めることもあり、東京へ戻った後の姿とは少し違っていました。

東京へ戻った少年が「ヨイショっ子」になった理由

小学校4年生ごろ、疎開先の浦和から東京へ戻ると、新しい学校には周囲の子どもをまとめるガキ大将のような存在がいました。

萩本さんはその子とうまく付き合いながら、自分より年下の弟も仲間へ入れてもらえるよう動いていたといいます。

弟は後年、兄について「ヨイショっ子」だったと書いており、萩本さん自身も2026年のインタビューで、そのころから相手の機嫌や空気を読むようになったことを振り返っています。

学校の成績が下がったときも、母親は叱るより先に通知表の中から褒められる場所を探し、順位が後ろの方になっても「後ろに40人いるね」と声を掛けていました。

周囲の中で自分の立ち位置を探す子どもと、悪いところより良いところを探す母親が同じ家で暮らしていました。

父の事業が傾き、母が借金取りへ頭を下げる生活へ

その後、父親のカメラ事業がうまくいかなくなると、家には借金取りが訪れるようになりました。

中学生だった萩本さんが強く覚えているのは、借金取りが来たとき、母親から「いないと言って」と頼まれた日のことです。

玄関へ出て母親はいないと伝えても相手には通用せず、最後には母親自身が姿を見せ、床へ頭をつけるように何度も謝りました。

それまで「嘘をついてはいけない」と教えられていた少年は、家の中に母親がいるのを知りながら「いない」と言わなければならず、その後ろでは母親が借金取りへ頭を下げていました。

ここから萩本さんの中に、自分が働いてお金を稼ぎ、母親を楽にしたいという考えが具体的に生まれていきます。

中学時代に見つけた「コメディアン」という仕事

芸人になると決める前、萩本さんが最初からお笑い一本で将来を考えていたわけではありません。

絵、野球、映画俳優といくつもの道を思い浮かべながら、「中学を出て働けて、いつか大きな家を建てられる仕事」を探していました。

絵を描いて過ごし、50円を握ってチャップリンを見た日

中学生のころには絵が好きで、学校の絵でも賞を取っており、家の近くにあった小石川植物園へ出かけて風景を描くことがありました。

家計が苦しい時期には、税務署の人が家へ来るため、母親から夜遅くまで帰らないよう言われた日もありました。

そのときに渡された50円を持って映画館へ向かい、目にしたのがチャールズ・チャップリンの「モダン・タイムス」でした。

映画を見終えて家へ帰る道でもチャップリンの動きを思い出していると、長いはずの道のりが短く感じられたといいます。

この体験と、後に職業としてコメディアンを選んだ出来事は同じ瞬間ではありませんが、萩本少年の日常へ「笑い」が強く入り込んだ場面の一つでした。

母を大きな家に住ませたくて「有名になれる仕事」を探す

家計が苦しくなる中で、大学へ進み、医師や弁護士になるような進路は自分には難しいと考えていました。

そこで「中学を卒業してからでも始められ、成功すれば大きな家を建てられる仕事」を考えます。

一度はプロ野球選手を目指して野球部へ入ったものの、打順は7番で守備は右翼、本人の回想ではヒットもほとんど打てず、この道ではないと判断しました。

次に思い浮かべたのが映画俳優でしたが、映画館で二枚目俳優を見たあと自分を鏡で見て、主演スターになる道も違うと考えます。

映画の堺駿二を見てコメディアンを目指す

映画を見続けるうち、萩本さんが目を留めたのが、堺正章さんの父としても知られる喜劇俳優の堺駿二さんでした。

二枚目の主役とは違う位置で登場し、人を笑わせている堺さんを見て、「あの仕事は何だろう」と調べたところ、たどり着いた言葉が「コメディアン」でした。

中学生の萩本さんにとって、ここで「コメディアン」が将来の仕事として具体的な選択肢になります。

「で、コメディアンになっちゃおうって思って」

日刊ゲンダイDIGITAL「増田俊也 口述クロニクル」

チャップリンや榎本健一について書かれた本も読み、有名になる前には小さな劇場で経験を積んでいたことを知ると、「自分も浅草へ行こう」と考えるようになりました。

中卒でデンスケを訪ねるも「高校へ行け」と送り返される

中学校を卒業すると、本当に浅草へ向かい、テレビでも知っていた「デンスケ」こと大宮敏光さんの門を叩きました。

ところが返ってきたのは弟子入りの許可ではなく、「役者は当節、高校ぐらい出なくっちゃ。」という言葉でした。

萩本さんはその言葉に従って高校へ進み、芸人になる計画をいったん3年間先へ延ばします。

高校時代|新聞配達と皿洗いをしながら浅草を目指す

芸人への入口はいったん先送りになりましたが、高校時代の暮らしに余裕ができたわけではありません。

駒込高校へ通いながら複数のアルバイトをし、卒業後は大学ではなく浅草へ行くことを見据えていました。

一人で昼食をとることもあった高校生活

家計を支えるために働いていたため、勉強へ十分な時間を使えず、成績は下がっていきました。

弁当を持っていけない日にはパンを買い、学校の屋上などで一人で食べることもあったと、後年のインタビューで話しています。

周囲の高校生と同じような生活を送れない日があっても、卒業したら浅草へ行くという方向は変わりませんでした。

あえて冬に始めた新聞配達と食堂の皿洗い

高校時代には新聞配達も経験しています。

しかも本人によれば、楽な季節ではなく、寒くて大変な冬をあえて選んでいました。

配り終えた後に新聞が一部残ると、どこへ入れ忘れたのか分からないため最初から回り直し、そのまま朝食を取らず学校へ走った日もあったといいます。

夏に食堂でアルバイトした際には、皿洗い、配達、キャベツ切りの三つの仕事を示され、ほかの二人が嫌がりそうな仕事を先に選びました。

「俺、皿洗います!」

日刊ゲンダイDIGITAL「増田俊也 口述クロニクル」

高校生のころから、ほかの人が避ける役目へ自分から入っていく場面が何度もありました。

1959年、高校卒業と同時に浅草・東洋劇場へ

1959年、高校を卒業すると、18歳の萩本さんは予定していた通り浅草へ向かいました。

所属事務所・浅井企画の公式略歴でも、1959年に浅草・東洋劇場の軽演劇一座へ加わったことが確認されています。

中学卒業時に一度止められた浅草への道へ、3年後に改めて入ったことになります。

18歳で始まった浅草修業|東洋劇場から若手コメディアンへ

テレビへ出るための養成所が整った時代ではなく、萩本さんが入ったのは、舞台のすぐそばで仕事を覚えていく浅草の劇場でした。

芸人として名前が知られるまでには、裏方仕事と舞台を行き来する時間が続きます。

東洋劇場の軽演劇一座で一番下から始める

入ったばかりの萩本さんは、すぐに舞台の中心へ立てたわけではなく、見習いとして下働きから始めました。

本人の回想では、最初は「何もできない」という理由で給料もなく、早朝の掃除などを人に見えないところで続けていました。

その仕事を見ていた人が劇場側へ伝えたとみられ、その後は月3000円の給料を受け取るようになったと話しています。

食事も十分ではなく、先輩がそばを注文するとき「おまえも頼め」と言ってくれることがありましたが、自分は一番安いものを選んでいました。

「いつもかけそば食ってた。」

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浅草では舞台に立つ時間だけでなく、掃除、食事、先輩との付き合いまで含めて若手時代が続いていました。

後の妻・澄子さんと劇場で出会う

東洋劇場へ入った18歳のころ、後に妻となる澄子さんとも出会っています。

澄子さんは劇場のダンサーで、入ったばかりの萩本さんから見れば、自分よりずっと上の位置にいる存在でした。

この時点ですぐ結婚したわけではなく、澄子さんは、まだ何者でもなかった若い萩本さんが浅草で仕事を覚えていく時期から姿を知っていた女性でした。

19歳で「萩本家解散」、家を出て一人の生活へ

浅草へ入っておよそ1年後、19歳のころに家族の生活にも大きな区切りが訪れました。

大学を卒業して商社へ就職した兄の給料で家族を支える状態が続き、兄が「自分には青春がない」という思いを抱えていたことから、それぞれが自分で暮らしていくことになります。

萩本さんは後年、このときの出来事を新聞に出ていた組織の解散記事になぞらえ、「萩本家の解散式」と呼んでいます。

本人は豆腐店の2階にある小さな部屋へ移り、浅草での仕事を続けました。

仲間とのトリオ、浅草新喜劇へ活動を広げる

下働きだけだった時期を抜けると、少しずつ自分で笑いを作る側へ回っていきます。

浅井企画の公式略歴では、1961年に仲間とトリオを組み、自ら座長となって浅草新喜劇を作ったとされています。

現在の「欽ちゃん」だけを見ると、テレビから突然現れたようにも見えますが、その前には東洋劇場から小さな舞台へ続く浅草での年月がありました。

生CMでの失敗と熱海生活|コント55号結成直前の転機

浅草で経験を重ねても、仕事が順調にテレビへつながったわけではありません。

公開コメディー番組の生CMへ起用された際にはNGを重ねて降板し、その後に紹介された熱海の仕事が、次の大きな場面につながります。

公開番組の生CMでNGを重ね、テレビから離れる

テレビの仕事へ呼ばれたものの、生放送のCMで思うように動けず、失敗を重ねました。

舞台では経験を積んでいても、カメラがあり、決められた時間の中で進むテレビは別の場所でした。

仕事を失ったあとも大きな機会には恵まれず、芸人仲間から熱海の温泉地での仕事を紹介されます。

熱海で仕事をしながら海を眺めた日々

熱海では温泉ホテルでコメディアンとして働きながら、空いた時間に海を眺めていました。

2007年のNHK「100年インタビュー」でも、テレビで怒られたことを思い出しながら波を見ていると、荒く押し寄せた波がそのまま引いていき、少しずつ気持ちが変わっていったと語っています。

浅草や東京からいったん離れたこの時期に、一人でできる新しいコントを考え始めました。

熱海で後の代表作「机」のアイデアが生まれる

そこで生まれたのが、後にコント55号の重要なネタとなる「机」でした。

当初は一人で演じることを考えていましたが、「このネタを持って浅草へ帰ろう」と決めます。

「よし。このネタ持って浅草に戻ろう」

日刊ゲンダイDIGITAL「増田俊也 口述クロニクル」

熱海で考えた一人コントを持って東京へ戻ったその日、これまで距離を置いていた坂上二郎さんから連絡が入ります。

坂上二郎とのコント55号結成|苦手だった相手が相方になるまで

坂上二郎さんとは浅草時代から面識がありましたが、萩本さんは最初から「この人とコンビを組みたい」と思っていたわけではありません。

2026年のロングインタビューでは、かつて坂上さんが苦手で逃げたことまで明かしています。

熱海から帰ったその日に坂上二郎から電話がかかる

熱海から、豆腐店の2階に借りていた浅草の3畳間へ戻ると、階下から「欽ちゃん、電話よ」と呼ばれました。

電話の相手が坂上二郎さんでした。

坂上さんから「遊びに来ない?」と誘われて会い、これからどうするのか聞かれた萩本さんは、熱海で考えた「机」の話をします。

東京へ戻る日が少し違っていれば起こらなかったかもしれない電話が、コント55号へつながりました。

「最後の勝負」で一緒に演じたことからコンビへ

当時の坂上さんはキャバレーの司会などをしており、自身も芸人として次の一手を探していました。

萩本さんが「机」の内容を説明すると、坂上さんは、自分で机の脚を切って自分で困るより、別の人間が切った方が面白いのではないかと意見を出します。

その指摘を聞いた萩本さんは、坂上さんへ一緒にやってもらえないかと頼みました。

ただし、この時点では長く続く正式なコンビを作るという感覚ではなく、まず二人で一つのコントを演じるところから始まっています。

「相方を探して坂上二郎さんを選んだ」のではなく、一人コントへ坂上さんのアイデアが入り、二人で舞台に立つことになりました。

わずかな観客の前で始まった「机」のコント

二人で演じることが決まっても、すぐ正式な出演枠をもらえたわけではありません。

萩本さんは劇場側へ「机」をやらせてほしいと頼みますが、通常の出演枠は先まで埋まっていました。

そこで目を付けたのが、午前10時に客席が開いてから10時30分に本公演が始まるまでの時間でした。

「お金はいらないから、その幕前だけでも」と食い下がり、まだ客が入り切っていない時間に二人で演じます。

2026年の本人回想では、その最初期の「机」を見ていた客は10人ほどだったとされています。

喫茶店ブロンディでボケとツッコミを入れ替える

「机」を何度か演じても、最初から大受けしたわけではありません。

当初は萩本さんがボケ、坂上さんがツッコミという現在知られる形とは逆の役割でした。

浅草の芸人が集まっていた喫茶店「ブロンディ」で話し合い、二人は役割を交換します。

長年、二人が同じ時期に役割交換を考えたエピソードとして語られてきましたが、萩本さんは2026年のインタビュー中に、自分の記憶をたどり直しました。

幕前のコントを見ていた放送作家・演出家の滝大作さんから「役を替えた方がいい」と言われ、その言葉が自分の中に残っていた可能性へ気づいたのです。

「正しい歴史で言うと、俺は滝さんに言われて替えた方がいいって言ったんだね」

日刊ゲンダイDIGITAL「増田俊也 口述クロニクル」

役を替えると反応は大きく変わり、坂上さんのボケを萩本さんが追いかけるコント55号の形ができていきました。

コント55号という名前が決まり、浅草から評判が広がる

二人は最初から「コント55号」という名前で活動していたわけでもありません。

舞台を続けるうちに名前が必要となり、劇場側から「コント55号」と名付けられました。

由来については複数の説明が残っており、萩本さん自身も2026年の回想で「4つある」と整理しています。

本人が特に記憶しているのは、王貞治さんが1964年に記録した年間55本塁打にあやかったという話でした。

名前が決まり、役割も入れ替わった二人のコントは、浅草の客の間で少しずつ評判になっていきます。

コント55号がテレビへ|舞台のアドリブから人気コンビへ

小さな幕前から始まった二人の評判は、やがて浅草の外へ届きます。

1968年度にはコント55号としてゴールデン・アロー賞特別賞を受賞するまでになり、テレビでも二人の名前を冠した番組が作られていきました。

浅草からテレビ出演へ

BSテレ東「私の履歴書」では、「机」の評判が広がり、テレビから出演依頼が入るようになった流れが紹介されています。

フジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」への出演も、大きく名前を知られるきっかけになりました。

番組の最後に出演者が前へ出て手を振る場面では、坂上さんが最後まで笑いを取ろうと前へ出る一方、萩本さんは後ろへ下がり、遠くから手を振っていたと本人は話しています。

その姿を見た視聴者から、「後ろで手だけ振っている欽ちゃんが好き」という手紙が届いたこともありました。

アドリブと激しい動きのコントが支持を集める

コント55号の舞台では、坂上さんが予想外の動きをし、それを萩本さんが追いかけて処理する形が広がっていきました。

決められた台本通りにきれいに再現するより、その場で起きたことへ反応するアドリブの割合が増えていきます。

2026年の本人インタビューでは、長い活動の中で作った大量のコントについて、次第にほとんどをアドリブで展開するようになったと明かしています。

浅草の小さな客席で磨いた「その場の反応を見る」やり方が、そのまま大きなテレビ番組へ持ち込まれました。

コンビの人気から萩本欽一個人の番組へ

コント55号の人気が高まる一方で、やがて萩本さん個人を中心にした番組も作られるようになります。

1970年代には「欽ちゃんのドンとやってみよう!」などがヒットし、舞台のコントだけでなく、一般参加者や若い出演者とのやり取りを番組へ取り込んでいきました。

コント55号で相方の動きへ瞬時に反応していた人が、今度はテレビ番組の中で、出演者の予想外の言葉や動きを拾う側へ回っていきます。

「欽ちゃん」の時代|家族を持ち、視聴率100%男になる

浅草へ入ったころから萩本さんを知っていた澄子さんとの関係も、仕事が大きくなる中で変化していきました。

一方、テレビではコンビの一員だけでなく「欽ちゃん」として、多くの出演者をまとめる位置へ進みます。

下積み時代から知る澄子さんと結婚し、3人の息子の父へ

澄子さんは、東洋劇場へ入ったばかりのころから萩本さんを見ていた女性でした。

萩本さんが売れるようになってからも関係は続き、二人は家庭を持ち、3人の息子が生まれました。

萩本さんの著書「ありがとうだよ スミちゃん 欽ちゃんの愛妻物語」では、澄子さんが若い時代から萩本さんを応援していた理由や、家族になった後の会話が明かされています。

後年、病院で息子から「お父さんのどこが好きだったの?」と尋ねられた澄子さんは、少し考えてこう答えました。

「ファンだったの。今もずっとファンよ」

文藝春秋「本の話」

「欽ドン!」「欽どこ」などテレビで独自の番組作りへ

1970年代から80年代にかけては、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」「欽ちゃんのどこまでやるの!」「欽ドン!良い子悪い子普通の子」「欽ちゃんの週刊欽曜日」などが続きました。

ここでは出演番組を増やすこと自体より、コント55号の二人だけで走り回る笑いから、家族のようなセット、一般人、若手タレントなどを巻き込みながら番組を作る方向へ仕事が変わっていきます。

小堺一機さんや関根勤さんをはじめ、後に「欽ちゃんファミリー」と呼ばれる人たちも、こうした番組や萩本さんの周辺から知られるようになっていきました。

「視聴率100%男」と呼ばれた絶頂期

1980年代には、週に持っていた複数の冠番組がそれぞれ高い視聴率を記録しました。

BSテレ東の公式紹介では、週3本の冠番組の視聴率を合計すると100%を超えたことから、「視聴率100%男」と呼ばれたとされています。

2026年の本人回想では、実際には時期によって合計120%ほどになったこともあったと話しています。

18歳で東洋劇場の見習いから始まった青年は、40代には複数のテレビ番組を同時に高視聴率へ導く存在になっていました。

1985年、ほぼすべてのレギュラーを降りて休養へ

人気の最中だった1985年3月、萩本さんは「欽ドン!」「欽どこ」「週刊欽曜日」など、ほぼすべてのレギュラー番組を降りる休養を発表しました。

当時は「充電」や視聴率競争への疲れという趣旨で説明され、約半年の休養に入ります。

2026年のインタビューで本人が改めて話したのは、長かった苦しい時期と同じほど成功の時間が続き、「運を使い切った」と感じていたことでした。

自分の成功が大きくなる一方で、家族に良くないことが起きるのではないかという感覚も持つようになり、自ら番組を降りる方を選んだと説明しています。

もっと番組を増やすのではなく、絶頂期に自分からいったんテレビの中心を離れました。

休養後も新しい場所へ|大学、仮装大賞、85歳の現在

1985年の休養で萩本さんの活動が終わったわけではありません。

テレビ、舞台、野球、大学と、その後もそれまでとは違う場所へ活動を広げていきます。

長く続く「仮装大賞」とテレビでの新しい役割

萩本さんの長いテレビ人生の中でも、現在までつながっている代表的な番組が日本テレビの「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」です。

芸人だけで作る番組ではなく、一般参加者が自分たちで考えた仮装作品を披露する場所で、萩本さんは参加者と言葉を交わしながら番組を進めてきました。

2026年9月現在も番組は続いており、公式サイトでは第102回大会へ向けた地区予選が案内され、本選は2026年12月末に予定されています。

社会人野球を経て73歳で駒澤大学へ入学

テレビ以外では、2005年に社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、初代監督を務めました。

さらに2015年4月、73歳で駒澤大学仏教学部へ入学します。

少年時代には家計の状況から大学へ進むことを現実的な進路として考えられなかった萩本さんが、70代になって学生生活を始めました。

4年間通った後、2019年5月に自主退学しています。

「毎日通っていた。1日も休んでないんですよ」

ニッポン放送 NEWS ONLINE

自主退学を決めた理由については、80歳になるまでの残された時間を、もう一度お笑いへ使おうと考えたことを話しています。

芸能生活が落ち着いたから大学へ行ったのではなく、大学へ通った後で再び「お笑いをやる時間」を選び直しました。

2020年に妻・澄子さんを見送る

大学へ通っていた時期、澄子さんにはがんが見つかり、治療が続いていました。

その後は骨折なども重なり、2020年8月、82歳で亡くなりました。

萩本さんは長く夫婦の私生活を前面には出してきませんでしたが、妻を見送った後、著書で東洋劇場時代から続いた二人の出来事を初めてまとまった形で明かしました。

18歳で劇場へ入ったころに出会ったダンサーと、テレビの絶頂期も、その後の大学生活も同じ時間の中で過ごしたことになります。

85歳で「9階のハギモトさん!」と軽演劇を続ける現在

1941年5月7日生まれの萩本さんは、2026年9月現在85歳です。

BS日テレでは「9階のハギモトさん!SEASON4 人生に虹をかけよう!」が2026年7月から9月にかけて放送され、自身の事務所に大学生が作ったセットを使い、予想外の人たちと新しいテレビを作る内容になっています。

萩本企画でも2026年9月に舞台情報が更新され、テレビだけでなく、観客と一緒に作る軽演劇の活動が続いています。

10代で入った浅草の軽演劇から始まり、85歳になった現在も、萩本さんは人とその場でやり取りしながら笑いを作る場所に立っています。

母親を大きな家に住ませたいと仕事を探した中学生は、高校を卒業すると浅草へ入り、熱海から戻った日にかかってきた一本の電話から坂上二郎さんとコント55号を始めました。

小さな幕前の「机」からテレビの中心へ進み、絶頂期には自ら休養を選び、その後も野球や大学など、それまでとは違う場所へ足を運んできました。

そして2026年、85歳になった今も、萩本欽一さんはテレビと舞台の両方で新しい笑いを作り続けています。

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