人物プロフィール
ぼる塾の田辺智加さんといえば、「まぁねー」という一言や、スイーツについて語るときの豊富な知識で知られています。
ところが芸人になるまでをさかのぼると、学生時代に目指していたのはお笑いとはまったく違うキャビンアテンダント(CA)でした。
短大卒業後は東京ディズニーシーで働き、接客の仕事を7年間続けたあと、27歳でその生活を離れてギャルサークルへ入っています。
そこからさらに進路は変わり、20代後半になってからNSCへ入り、酒寄希望さんとのコンビ「猫塾」を経て、現在のぼる塾へたどり着きました。
CA志望、ディズニーキャスト、ギャルという時間を経てから芸人になったという経歴は、現在の田辺さんだけを見ていると意外に感じる部分かもしれません。
田辺さんがどんな家庭で育ち、なぜ20代後半からお笑いの世界へ飛び込み、酒寄さんや現在のぼる塾メンバーと出会っていったのかを、幼少期から順番にたどります。
田辺智加の生い立ちと家族|市川市で育った子ども時代
田辺さんの人生の出発点は、現在もプロフィール上の出身地として記載されている千葉県市川市です。
市川市に生まれ、36年間を地元で過ごした
市川市が市制施行90周年に合わせて公表した資料では、田辺さんについて「市川市に生まれ36年間市川市で過ごす」と紹介されています。
芸人になるために早くから上京したタイプではなく、NSCへ入ってからも含めて長い期間を地元で生活していました。
2021年にぼる塾のメンバーと初めて実家を出した際にも、それまで田辺さんは実家暮らしを続けていたことが明かされています。
芸人として売れ始めるまで生活の拠点が市川市にあったことを考えると、田辺さんにとって地元と家族はかなり長く日常の中にあったことになります。
小学校の運動会に父が届けた揚げたてのとんかつ
田辺さんの父親は老舗のとんかつ店に携わっており、子どものころからとんかつが身近にある家庭で育ちました。
小学校の運動会では、父親が午前中の競技を見ることよりも昼食に間に合うようにとんかつを揚げることを優先し、お弁当の時間に揚げたてを持ってきてくれたそうです。
「その部分では父のことをとても尊敬しているね」
テレビ朝日
食べることが特別なイベントではなく、家族との日常の中にあったことが分かる幼少期のエピソードです。
後にスイーツや食の知識が個人の仕事へ大きく広がっていきますが、田辺さんの記憶には子どものころから父親と食べ物が結びついた場面が残っています。
母に勧められた英語塾が将来の夢を変えた
一方、小学生までの田辺さん自身は、自分には特に得意なことがないと感じていたそうです。
変化したのは、小学校6年生のときに母親が英語塾へ通わせてくれたことでした。
英語を学び始めたことで、それまでとは違う手応えを感じるようになり、この経験が中学生になってから具体的な将来の夢につながっていきます。
中学・高校・短大時代|英語100点からCAを目指す
現在のお笑い芸人という仕事とは離れていますが、中学から短大までの田辺さんにはCAになるというはっきりした進路がありました。
中学最初の英語テストで100点を取りCAに憧れる
中学校へ進学して最初の中間テストで、田辺さんは英語100点を取ります。
通っていた英語塾には、以前そこへ通っていた生徒の親戚にCAとして働いている女性がおり、塾の先生からその女性より英語ができていると言われたことが、CAという職業を意識するきっかけになりました。
それまで得意分野を見つけられなかった田辺さんにとって、英語は初めて「自分にもできるかもしれない」と思えるものになっていきます。
お笑いではなく、英語を生かしてCAになることが中学・高校時代の大きな目標でした。
高校ではギャルの同級生にも憧れていた
CAを目指していた高校時代には、後の人生につながるもう一つの憧れも生まれていました。
田辺さんの周囲には当時の流行を取り入れたギャルの同級生がおり、本人によると、その友人たちは見た目がかわいいだけでなく優しく、勉強もできる存在だったそうです。
この時点で田辺さん自身がギャルになったわけではありませんが、20代後半になってから大きく生活を変える種は高校時代から残っていました。
CAを目指して短大英語科へ進むも自信を失う
高校卒業後は、目標だったCAへ近づくため短大の英語科へ進学しました。
ところが、短大には英語を得意とする学生が多く、中学や高校では気軽に質問できていた田辺さんも、周囲が授業内容を理解しているように見える環境で次第に質問することをためらうようになります。
英語への自信も徐々に失い、成績にも影響が出るようになりました。
さらに就職活動の時期には航空業界の求人が少なく、就職課からもTOEICの点数を考えるとCAは厳しいと告げられます。
長く目指してきたCAという進路をここで断念することになりました。
航空業界への就職を断念し、新しい進路を探す
CA以外の将来をほとんど考えてこなかったため、就職課から銀行や飲食関係など別業種を紹介されても気持ちが向かなかったそうです。
いくつかの企業を受けたものの就職には至らず、卒業後の進路を考えたときに残ったのが、短大在学中から続けていた東京ディズニーシーでのアルバイトでした。
東京ディズニーシーで7年間|キャストとして見つけた新しい目標
CAという夢を断念したあと、田辺さんが20代の大半を過ごすことになったのが東京ディズニーシーでした。
20歳ごろから大型グッズ店のレジで働き始める
田辺さんは短大時代から東京ディズニーシーで働き始め、卒業後もそのままキャストを続けました。
担当していたのはパーク内でも規模の大きいグッズショップのレジで、本人はこの仕事がとても楽しかったと話しています。
ゲストの持ち物を見て会話の話題を変えるなど、一人ひとりに合わせた接客を意識し、「お土産屋でも忘れられない存在になろう」と考えて働いていました。
レジを担当していると、田辺さんのところで買いたいと列に並ぶゲストがいたことも後年テレビで明かしています。
トレーナーを目指し、25歳ごろに優秀キャストへ
仕事を続けるうちに、新人や周囲のキャストを育てるトレーナーという役割に憧れるようになりました。
田辺さん自身が仕事を始めたころに教えてくれたトレーナーが印象に残っており、自分も同じような存在になりたいと考えるようになったそうです。
さらに25歳ごろには、年に一度、優秀なキャストが選ばれる「マジカルディズニーキャスト」にも選出されています。
CAにはなれなかった一方、ディズニーでは接客を評価される立場まで進んでいました。
「お土産屋さんで忘れられない存在になろう」
スタジオパーソル
忙しいときに弱音を吐いた際、同僚から自分だけでなく皆が大変なのだと伝えられた経験もあり、その後は周囲を見ることを意識するようになったといいます。
現在のライブやテレビ収録でも周囲へ気を配る感覚について、田辺さん自身がキャスト時代に培われたものだと話しています。
27歳でディズニーを辞める決断をする
短大卒業後も仕事を続け、田辺さんが東京ディズニーシーで働いた期間は20歳ごろから27歳までの7年間に及びました。
一方、同級生の中には正社員になった人や、かつて自分が目指していたCAになった人もおり、自分の将来について考えることもあったそうです。
そんな27歳のころ、高校時代から持っていたギャルへの憧れが再び強くなります。
仕事で評価されていた7年間の生活を離れ、ギャルとして過ごすためにディズニーを辞めました。
27歳からのギャル時代|渋谷へ通う生活に一変
ここから田辺さんの生活は、キャストとして決まった仕事へ通っていた時期から大きく変わります。
益若つばさへの憧れからギャルサークルへ
きっかけは、雑誌『Popteen』の表紙で益若つばささんを見たことでした。
高校時代からギャルに憧れていた田辺さんは、その思いが27歳で再び強くなり、ギャルサークルへ入ります。
渋谷109で働くことも考えましたが、年齢の条件から実現せず、それでも田辺さんは毎日のように渋谷へ通いました。
後年のラジオでは、クラブにも頻繁に通い、パラパラを踊りながら渋谷センター街で日々を過ごしていたと話しています。
20代後半でそれまでの仕事を辞め、自分が憧れていたギャルの生活へ思い切って飛び込んだ時期でした。
仕事を辞め、弟や祖父に支えられた時期
ディズニーを辞めた後のギャルサークル時代は定職に就いておらず、田辺さんは生活の中で弟や祖父からお金を借りていたことも明かしています。
友人と過ごしている時間は楽しくても、仕事をしていない現実そのものが消えるわけではありませんでした。
テーマパークでは長く働き、自分の接客にも手応えを持っていた田辺さんが、一度仕事から離れたことで次に何をすればいいのか分からなくなった時期でもありました。
楽しい毎日の一方で「この先どうするのか」と考え始める
QJWebのインタビューでは、ギャル仲間と一緒にいるときは楽しいものの、一人になった瞬間に将来を考えてしまったと話しています。
27歳で仕事をせず渋谷へ通い続ける生活の中で、次第に「このままでいいのか」という感覚が生まれていました。
この時点でも田辺さんには、お笑い芸人を目指してきた過去はありません。
芸人になったきっかけ|偶然の手相占いからNSCへ
田辺さんがお笑いを仕事にしようと考えた直接のきっかけは、長年の夢や学生時代の舞台経験ではなく、偶然受けた手相占いでした。
島田秀平の「人気者になる」という言葉で芸人を意識
仕事をしていなかった時期、友人から勧められたアニメ『薄桜鬼』に夢中になった田辺さんは、作品をきっかけに歴史にも興味を広げました。
友人と沖田総司ゆかりの場所を訪れた際、偶然テレビ収録が行われることを知り、そこで占い師の島田秀平さんに手相を見てもらう機会がありました。
島田さんから伝えられたのが、「人気者になる」という内容でした。
田辺さんの中で「人気者」という言葉と芸人が結びつき、それまで本格的に考えたことのなかったお笑いの道が急に選択肢へ入ってきます。
「その言葉を信じて芸人になりました」
VOCE
「お笑いなら吉本」と東京NSC18期へ
当時の田辺さんはお笑い業界に詳しかったわけではなく、本人によれば「お笑いといえば吉本」という程度の知識でした。
そこで吉本興業の養成所である東京NSC18期へ入り、20代後半から芸人を目指し始めます。
7年間の接客業とギャル時代を経てから、初めてお笑いの世界へ飛び込んだことになります。
早くからネタを書いたり舞台に立ったりしていたわけではない田辺さんにとって、NSCでの授業はまったく新しい環境でした。
最初の一人ネタを約10秒で忘れたことが酒寄希望との出会いに
NSCへ入ったばかりの田辺さんにはまだ仲の良い友人も相方もおらず、ネタ見せの授業へ一人で参加するか迷っていました。
それでも一度やってみようと一人で舞台へ出たものの、始まって10秒ほどでネタを忘れてしまいます。
この失敗を教室で見ていたのが、後に長く田辺さんの相方になる酒寄希望さんでした。
田辺さんにとって失敗だった最初期のネタ見せが、酒寄さんとの出会いを生むことになりました。
酒寄希望との出会いと猫塾結成
田辺さんと酒寄さんは同じ東京NSC18期ですが、最初からコンビとして養成所へ入ったわけではありません。
一人でも舞台へ出た田辺を見て酒寄が声をかける
酒寄さんの記憶では、田辺さんが最初に披露したのは篠原涼子さんの楽曲を使った替え歌のネタでした。
途中で歌詞を忘れた田辺さんでしたが、酒寄さんはその姿を見て逆に興味を持ち、翌日、養成所の階段で田辺さんへ声をかけました。
「昨日のネタ、すごく面白かったです」
VOCE・酒寄希望インタビュー
その日に二人で食事へ行くと、田辺さんは生まれてからその日までの自分の年表をその場で書いて見せたそうです。
酒寄さんはその姿にも驚き、田辺さんと組みたいという思いを強くしていきました。
ただし酒寄さんには当時別の相方がいたため、すぐに二人で活動を始めたわけではありません。
酒寄さんの当時のコンビが終わったあと、田辺さんと新たに組むことになります。
2012年に猫塾を結成し、二人で芸人活動を開始
M-1グランプリ公式サイトでは、田辺さんと酒寄さんのコンビ「猫塾」の結成年月日を2012年5月5日と記録しています。
お笑いへの熱量が高かった酒寄さんは、コンビを組む以上は一番を目指そうという姿勢で、田辺さんはその酒寄さんについていこうと考えていました。
NSCの飲み会へ積極的に参加するタイプでもなく、二人で過ごす時間を増やしながら関係を作っていったそうです。
芸人になる前までまったく別の人生を歩んでいた田辺さんに、初めて長く活動する相方ができました。
「ちびまる子ちゃん」の話から距離が縮まり、ネタ見せで初めて評価される
二人の距離を縮めたものの一つが、共通して好きだった『ちびまる子ちゃん』でした。
田辺さんによると、酒寄さんと『ちびまる子ちゃん』について話した時間が楽しく、その後に二人で行ったネタ見せでは初めて講師から面白いと評価されました。
食べ物についても共通の関心があり、舞台だけではなく好きなものについて話す時間が二人の関係を作っていきます。
酒寄の言葉で自信を持ち、「まぁねー」の田辺へ
猫塾として活動していく中では、「酒寄は面白いが田辺は面白くない」と周囲から言われ、田辺さん自身が自信を失った時期もありました。
その一方で酒寄さんは田辺さんを評価し続け、自信を持てない田辺さんへ、堂々としているほうが面白いと伝えていました。
田辺さんが「自分は面白くない」と弱音を吐いた際には、酒寄さんから、それなら芸人を辞めたほうがいいという厳しい言葉も返ってきました。
田辺さんはそこで、自分から「面白くない」と言っていてはいけないと考え直したといいます。
後に広く知られる「まぁねー」も、ぼる塾結成後に突然作られたものではなく、田辺さんは養成所時代から使っていたと明かしています。
酒寄さんとコンビを組み、自分を前へ出すことを覚えていった時期に現在の田辺さんにつながるキャラクターが形になっていきました。
猫塾の若手時代|劇場で積み重ねた田辺智加の芸風
猫塾として舞台に立つようになった田辺さんと酒寄さんは、やがて後輩芸人からも意識されるコンビになっていきます。
後輩のあんりが舞台袖から何度も猫塾を研究
後にぼる塾で一緒になるあんりさんは、きりやはるかさんと「しんぼる」を組み、猫塾より2期後輩として劇場へ出始めました。
デビュー直後、先輩から自分たちに似たシルエットで非常に面白い女性コンビがいると言われ、あんりさんは出番がない日にも劇場へ行き、猫塾のネタを舞台袖から見ています。
最初は自分たちが売れるためのヒントを探そうとしていたものの、何度も見るうちに猫塾そのものへ引き込まれていきました。
「気づいたらただの猫塾ファンになっていました」
CanCam.jp・あんり
あんりさんが印象に残っていたのは、酒寄さんの独特な言葉選びとともに、田辺さんの存在感が前へ出る猫塾の漫才でした。
手作りのお菓子を配り、あんりとは食べ放題仲間に
あんりさんは猫塾へ近づこうとする中で、まず田辺さんと親しくなっていきます。
当時の田辺さんは楽屋で手作りのお菓子を芸人たちへ配っていたことがあり、あんりさんはその姿も覚えています。
さらに田辺さんから朝でも食べられる油そば店へ誘われたことがあり、その後は週に一度ほど食べ放題へ行くほどの関係になりました。
ぼる塾ができるより前から、田辺さんとあんりさんの間には食べることを通じた先輩・後輩の交流が続いていたことになります。
200人分のケーキまで焼いた「好き」が後の仕事へつながる
現在はスイーツに詳しい芸人として知られる田辺さんですが、猫塾時代の本人は自分には趣味や特技がないと悩んでいました。
酒寄さんはそんな田辺さんへ、お菓子に詳しいことやお菓子作りが得意なことは十分に武器になると伝えています。
それでも田辺さんは自信を持てず、別の特技を作ろうと突然タロットカードを覚えようとしたこともありました。
一方でお菓子作り自体は続けており、売れていなかった時期には200人分のケーキを焼いて劇場へ持っていったことまであったそうです。
仕事になるかどうかとは関係なく続けていたお菓子作りが、後になって田辺さん個人の大きな活動分野になりました。
「200人分のケーキを焼いて劇場に持っていったこともあります」
スタジオパーソル
酒寄希望の妊娠で訪れた転機|一人の舞台からぼる塾へ
猫塾として活動を続けていた二人に、大きな変化が訪れたのは酒寄さんの妊娠でした。
「戻る場所を守る」と伝えながら、ピン活動には不安もあった
妊娠が分かった酒寄さんは、猫塾として活動を続けられるのか、田辺さんがどうなるのかを心配していました。
ところが妊娠を伝えると、いつもは酒寄さんの判断に合わせることが多かった田辺さんが、自分からコンビを続けたい意思を示します。
「戻ってくる居場所を私が守り続けるよ」
ORICON NEWS・酒寄希望インタビュー
ただし実際に酒寄さんが休みに入り、一人で舞台へ出なければならなくなると、田辺さん自身は大きな不安を感じていました。
本人は後に、ピンになった時期には舞台へ出なくてもいいのではないかと思うほど怖かったと話しています。
その時期を支えたのが酒寄さんと、猫塾時代から一緒に仕事をしていた構成作家のみよしゆうすけさんでした。
相方の戻る場所を残したいという気持ちと、一人で舞台へ立つ怖さを同時に抱えながら活動を続けました。
酒寄不在のライブで、しんぼると3人の漫才が生まれる
同じころ、あんりさんときりやはるかさんの「しんぼる」も活動の転機を迎えていました。
しんぼるは一度解散を考え、最後に単独ライブを開くことになり、以前から世話になっていた猫塾と一緒にライブを行う計画を立てます。
しかし妊娠中だった酒寄さんは出演できず、田辺さん、あんりさん、きりやさんの3人でユニットネタを披露することになりました。
きりやさんは後に、この3人で行ったネタがそれまでの人生で一番ウケたと振り返っています。
酒寄さんが出られなかったことで偶然生まれた3人の舞台が、現在のぼる塾へつながる形を作りました。
M-1挑戦を経て猫塾としんぼるが正式合流
田辺さん、あんりさん、きりやさんの3人は、その後ユニットとしてM-1グランプリ2019へ出場し、3回戦まで進出しています。
この時期の3人での活動を経て、猫塾としんぼるはそれぞれのコンビを終え、4人組として活動することを決めました。
酒寄さん本人の記録では、2019年12月7日に猫塾としんぼるを解散し、4人でぼる塾になったとしています。
ぼる塾公式YouTubeでも、2019年12月7日から猫塾としんぼるが合体し、カルテットとして正式に活動すると発表しています。
ぼる塾結成からブレイクへ|「まぁねー」とスイーツでも知られる存在に
ぼる塾になったあと、田辺さんは猫塾時代から持っていたキャラクターや好きなものを、そのまま新しいグループの中へ持ち込んでいきます。
2019年12月7日に4人組ぼる塾として正式結成
正式な4人組は、田辺智加さん、酒寄希望さん、あんりさん、きりやはるかさんで構成されました。
酒寄さんは出産・育児のため表舞台を離れ、当初は田辺さん、あんりさん、きりやさんの3人でテレビや劇場へ出演する形が中心になります。
一方で酒寄さんはメンバーから離れたわけではなく、育児をしながらネタ作りなどに関わり続けました。
テレビでは3人、グループとしては4人という形が、ぼる塾の活動スタイルとして定着していきます。
2020年からテレビ出演が増え「まぁねー」も広がる
ぼる塾は2019年のM-1で3回戦まで進んだあと、2020年に入るとテレビへの出演が増えていきました。
同年には田辺さんの「まぁねー」が新語・流行語大賞の候補にも入り、田辺さん個人のキャラクターも広く知られるようになります。
ORICON NEWSの2020年ブレイク芸人ランキングではぼる塾が8位に入り、翌2021年上半期のランキングでは1位となりました。
特定の賞レースで優勝した瞬間に一気に売れたというより、3人での漫才、テレビ出演、田辺さんの「まぁねー」、あんりさんのツッコミなど、それぞれの特徴が知られていく中で仕事量が増えていった流れです。
猫塾時代から使っていた「まぁねー」が、ぼる塾のブレイク期に田辺さんを象徴する言葉の一つになりました。
スイーツや「好き」の知識が個人の仕事へ広がっていく
ブレイク後の田辺さんは、お笑いだけでなくスイーツに詳しい人物として番組へ呼ばれる機会も増えていきました。
猫塾時代には「趣味や特技がない」と悩んでいたものの、酒寄さんが以前から指摘していたお菓子の知識やお菓子作りが、テレビの外でも仕事へつながります。
2021年にはデニーズとの企画でババロアの商品開発にも関わり、自分が食べるだけではなく、味や商品について伝えたり作ったりする仕事へ広がりました。
ぼる塾のネタ作りでも、作家のみよしゆうすけさんは、ネタの出発点になる「0から1」の部分に田辺さんの日常で起きた面白い出来事が使われることがあると明かしています。
ディズニーでは好きな場所で接客を続け、ギャル時代には自分が憧れた文化へ入り、芸人になってからもアニメ、韓国、スイーツなど興味を持ったものを追い続けてきました。
芸人になる前から繰り返してきた「好きなものへ深く入っていく」という行動が、ぼる塾結成後には田辺さん自身の仕事にもなっていきました。
市川市で育ち、英語をきっかけにCAを夢見た少女時代から、ディズニーで働いた7年間、27歳からのギャル生活を経て、田辺さんは20代後半で初めて芸人という進路を選びました。
NSC最初期のネタ見せで酒寄希望さんと出会い、猫塾として過ごした若手時代と酒寄さんの妊娠による活動の変化を経て、2019年にぼる塾が誕生しました。
現在知られている「まぁねー」やスイーツの仕事の前には、芸人とは関係のない場所で過ごした長い時間と、猫塾時代から続いてきた出来事が積み重なっています。












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