人物プロフィール
システマを使った体当たり企画や、歯に衣着せぬトークでバラエティ番組に登場するみなみかわさん。
現在の姿だけを見ると、若いころから芸人一筋で歩んできたようにも見えますが、実際には高校時代にお笑いから離れ、大学進学時には警察官を目指していました。
大学で再びお笑いに興味を持った後も、最初に考えたのは芸人ではなく構成作家で、松竹芸能の養成所へ入った時点でも自分が舞台に立つことを本職にするつもりはありませんでした。
吉田寛さんからコンビに誘われ、ピーマンズスタンダードを結成したときに、初めて本格的に芸人として生きることを決めています。
映画好きの家で育った少年時代から、浪速高校のアメフト部、関西大学の夜間部、松竹芸能の養成所、長いアルバイト生活を経て、現在へどうつながっていったのでしょうか。
みなみかわの生い立ちと家族|映画好きの両親とお笑いに夢中になった少年時代
みなみかわさんは1982年9月28日生まれの大阪府出身で、本名は南川聡史さんです。
本人が後年書いたブログには、テレビで見せる刺々しいキャラクターとは少し違う、父親や母親、姉たちとの日常が何度も登場しています。
映画好きの両親のもとで育ち、父と難波の映画館へ
南川家では、映画が子どものころから身近な娯楽でした。
両親とも映画が好きで、家族でレンタルビデオを利用するほか、みなみかわさんは父親と大阪・難波の映画館へ出かけることも多かったといいます。
子どものころにはマイケル・キートン主演の『バットマン』シリーズにも夢中になっていました。
「両親も映画好きで、親父とよく難波の映画館へ行ったりしていました」
CINRA
大学時代に映画館でアルバイトを選ぶことや、後に映画について語る仕事を持つことまで考えると、映画は芸人になる以前から長く続いている趣味です。
小学生で『ごっつええ感じ』、中学生で姉から『すんげー!Best10』
お笑いとの最初の大きな接点は、小学校3~4年生のころに始まった『ダウンタウンのごっつええ感じ』でした。
中学生になると姉の影響で、千原兄弟やジャリズム、シェイクダウンなど当時の若手芸人が出演していた『すんげー!Best10』をよく見るようになります。
ダウンタウンより少し身近に感じられながら、それでも自分にとってはスターだったと、当時の感覚を後年のインタビューで語っています。
家族について本人は、母親の誕生日を忘れた際に父親から連絡を受けたエピソードを書いたブログで、自分は特別に貧しい家庭や荒れた家庭で育ったわけではなく、幸せな家庭で育ったと振り返っています。
「ただただ幸せな家庭に育ちました。」
みなみかわオフィシャルブログ
別のブログでは自分を「末っ子の長男」と表現し、姉たちから「なんで聡史だけ」と言われるほど甘やかされて育ったとも書いています。
公務員の父を見て、自分も公務員になると思っていた
父親は公務員で、毎日19時過ぎには帰宅し、家族そろって夕食を食べる生活が南川家の日常でした。
2026年に本人が書いた文章では、子どものころは将来について綿密な計画を立てていたわけではなく、父親のように働いて家庭を持つことを当たり前の未来として受け止めていたと記しています。
芸能界へ入ることはもちろん、この時点では芸人になる未来も想像していませんでした。
浪速高校のアメフト部で過ごした3年間|お笑いから離れ警察官志望へ
中学まで熱心に見ていたお笑い番組から一度距離を置くことになったのが、高校進学後でした。
進学先は、大阪の浪速高校です。
男子校のアメフト部に入り、競技中心の高校生活に
みなみかわさんが通っていた当時の浪速高校は男子校で、本人はアメリカンフットボール部に入りました。
中学時代には女子との人間関係で気まずい経験があり、後年の本人連載では、女子のいない学校を選ぼうと考えたことも浪速高校へ進んだ理由の一つとして明かしています。
高校に入ると生活の中心はアメフトになり、それまで見ていたお笑い番組からも離れていきました。
高校3年間は「アメフトばっかりやってた」と本人が振り返るほど、競技中心の日々でした。
大学ではアメフトを続けず、警察官を目指して進学を決める
周囲のアメフト部員には競技推薦で大学へ進む仲間もいましたが、みなみかわさん自身は大学までアメフトを続けるつもりはありませんでした。
高校卒業後の進路として考え始めたのが警察官です。
当時、関西大学法学部は警察への就職に強いと聞いていたこともあり、関西大学への進学を目標に勉強しました。
ここまでの人生に「お笑い芸人になる」という進路はまだ登場していません。
関西大学法学部第二部へ|夜間学生の生活とM-1で戻ったお笑い熱
高校を卒業したみなみかわさんは、関西大学法学部の夜間部へ進みました。
大学でも、最初は芸人になるための準備をしていたわけではありません。
警察官を考え、学費も踏まえて法学部の夜間部へ
自身の学力を考えたときに法学部の夜間部なら合格を狙えると考えたことに加え、昼間の課程より学費が安かったことも選択理由でした。
後年には、中学時代から続いていた女性への苦手意識から、夜間なら一般的なキャンパスより女子学生との交流が少ないのではないかと考えたことも本人自身が書いています。
入学してみると、周囲には働きながら通学している学生も多く、授業が始まる時間には外も暗くなっています。
本人が想像していたような華やかな大学生活とはかなり違う環境でした。
映画館のアルバイトに大学生活とは別の「青春」を見つける
学生時代には日雇いの引っ越し、スーパーの鮮魚売り場などを経験した後、映画館でも働きました。
夜間部では同級生同士の交流がそれほど多くなかった一方、映画館のアルバイトには大学生が多く、サークルのような空気があったそうです。
勤務先の映画館だけでなく、招待を利用して難波や梅田の別の映画館へ足を運び、月に何本も映画を見る生活を送っていました。
「その映画館に青春を見出してましたね。」
タイミーラボ
M-1が始まり、お笑いへの興味が戻って構成作家を志す
大学時代、止まっていたお笑いへの興味を再び動かしたのがM-1グランプリでした。
高校時代にはほとんどお笑い番組を見なくなっていましたが、M-1を見て「やっぱりお笑いっていいな」と感じます。
ただし、その時点で考えた進路は舞台に立つ側ではありません。
みなみかわさんが目指したのは、お笑い番組やネタを裏側から作る構成作家でした。
2003年、構成作家志望で松竹芸能へ|ピン芸が芸人人生の入口に
大学に通いながら、みなみかわさんは2003年10月に松竹芸能の養成所へ入りました。
吉本興業ではなく松竹芸能を選んだ背景には、本人が昔から「人と逆の方を選ぶ」感覚を持っていたこともありました。
作家コースがなく「ピンでネタを作ってみたら」と勧められる
養成所へ行ってみると、希望していた構成作家専用のコースはありませんでした。
社員から、作家になるにもネタを作れた方がいいため、まずピンネタを作ってみてはどうかと勧められます。
芸人になろうとして始めたピン芸ではなく、構成作家になるための勉強としてネタを作り始めたのが最初でした。
週1回のネタ見せを続け、数か月後に若手ライブへ
当時のみなみかわさんによると、養成所には現在のスクールを想像するような細かな授業はなく、基本は週1回のネタ見せでした。
作家や社員の前で作ってきたネタを披露し、認められれば大阪松竹の若手ライブの最下層ステージへ進める仕組みです。
入ったばかりのころには40人ほどいた同期も、翌週には半分ほどになり、1か月も経たないうちに数人まで減ったといいます。
みなみかわさんは3か月ほどでライブへ出られるようになり、大学と舞台を行き来する生活が始まりました。
約1年でライブから離れ、芸人を辞めて裏方へ進もうとする
比較的早くライブのステージを上がっていったものの、1年ほど続けたころに一度ライブ出演をやめます。
もともと芸人を職業にするつもりで入ったわけではなかったため、このまま舞台に立ち続けるより、東京へ行って放送作家など裏方に回ることを考えました。
ちょうどそのころ、後に人生を大きく変える人物から声がかかります。
吉田寛の誘いでピーマンズスタンダード結成|初めて芸人になると決めた
声をかけたのは、同じ大阪松竹の養成所でほぼ同期だった吉田寛さんでした。
吉田さんは当時、別の相方と組んでいたコンビを解散したばかりでした。
元コンビを解散した吉田が声をかけ、最初は断られる
元相方の吉田さんが2026年のインタビューで語ったところによると、コンビ解散後に同期や周囲の芸人を見渡したとき、自分が面白いと思えたのがみなみかわさんだったそうです。
一方のみなみかわさんは、すでに芸人を離れて裏方へ進もうとしていました。
吉田さんから最初に誘われた際には断っています。
「僕が面白いと思えるのがみなみかわだけやったんです。」
文春オンライン・吉田寛さんインタビュー
吉田さんは、みなみかわさんに断られれば自分も芸人を辞めるくらいの気持ちで声をかけており、一度断られた後も何度か頼み続けました。
何度も誘われ、2005年7月にピーマンズスタンダードを結成
みなみかわさん自身も大学卒業の時期を迎えていました。
繰り返し誘ってくる吉田さんと組むことを受け入れ、2005年7月にピーマンズスタンダードを結成します。
結成年はM-1グランプリ公式サイトにも2005年7月と記録されています。
本人が「初めて芸人になる決意をする」と振り返っているのは、養成所へ入った2003年ではなく、このコンビ結成のタイミングです。
警察官志望から構成作家志望へ進み、ピン芸を経験した末、吉田さんとの出会いによってようやく「芸人」という職業を選びました。
結成直後から衝突も多かった二人、それでもコンビ活動を続ける
コンビになれば関係がすぐに安定したわけではありません。
吉田さんは後年、養成所時代のみなみかわさんについてかなり尖っていたと証言しており、コンビを組んだ直後から二人の間には衝突もありました。
先輩芸人との付き合いを避けたり、思ったことをそのまま口にしたりする時期もあった一方、ピーマンズスタンダードとしてライブへ出るようになると、みなみかわさん自身もユニットライブへの出演や芸人同士の交流を増やしていきます。
元相方・吉田さんはこのインタビューで、養成所時代からコンビ結成、若手時代、東京進出、解散までを自身の側から振り返っています。
相方不在の日に生まれたアイヒマンスタンダード|R-1と『あらびき団』へ
ピーマンズスタンダードを結成して数年後、先に全国放送で知られるようになったのはコンビではなく、みなみかわさん一人のネタでした。
そのキャラクターがアイヒマンスタンダードです。
約2時間で「韓国のバックダンサー」のピンネタを作る
ある日、吉田さんが体調を崩してライブへ出られなくなりました。
みなみかわさんは、それまで頭の中にためていたアイデアを箇条書きにし、約2時間で急きょピンネタを作ります。
完成したのが、韓国のバックダンサーを題材にしたネタでした。
予定して準備していたピン転向ではなく、相方がライブに出られない一日からアイヒマンスタンダードが生まれています。
R-1準決勝から『あらびき団』へ、初めて全国ネットで注目される
ライブで披露すると大きく受け、その後はR-1ぐらんぷりでも勝ち上がりました。
2008年のR-1公式アーカイブにも「アイヒマンスタンダード」の名前が残っており、その年に準決勝まで進出しています。
そこでTBS『あらびき団』から声がかかり、全国ネットの番組へ出演するようになりました。
TBSの『あらびき団』関連DVDにも、アイヒマンスタンダードは出演者として収録されています。
ピンが注目されても、コンビとして売れる方法を考え続けた
全国放送へ出られたことはうれしかったものの、本人はアイヒマンスタンダードのスタイルが永遠に続くとは考えていませんでした。
ピンで注目されている間にピーマンズスタンダードとして形を作る必要があると考え、コンビのネタも作り続けます。
「ピンで知られたからそのままピン芸人へ」という道には、この時点では進みませんでした。
2009年に上京|売れかけた後に待っていた長い下積み
アイヒマンスタンダードで名前が広がり始めたころ、大阪では別の問題が起きていました。
松竹芸能の大阪で活動する場が減り、ピーマンズスタンダードの仕事もほとんどなくなっていきます。
大阪の仕事がなくなり「東京で何とかするか、辞めるか」
先に東京で活動していたTKOの木本武宏さんとも話し、東京へ出て何とかするか、芸人を辞めるかというところまで来ていました。
そこで2009年、ピーマンズスタンダードは上京します。
本人は後年、前向きな東京進出というより、「ある意味、辞めるために上京したみたいなところもあった」と振り返っています。
『爆笑レッドカーペット』から海外ロケへ、コンビの弱点も表面化
東京では、ピーマンズスタンダードとして『爆笑レッドカーペット』へ出演し、レッドカーペット賞を獲得するなど仕事が上向く時期もありました。
さらに海外ロケを伴う番組の仕事が決まり、半年ほど国外を回る機会も訪れます。
ところが、それまでロケ経験がほとんどなく、日ごろから関係が良好とは言えなかった二人は、現場で求められるコンビプレーにも苦戦しました。
番組が終了すると仕事は再び減っていきます。
2010~2014年、ライブとアルバイトを往復する日々
みなみかわさんが特に苦しかった時期として挙げているのが、2010年から2014年ごろです。
仕事が少ないうえ、ライブへ出ても思うように受けず、さらば青春の光やうしろシティなど身近な後輩たちが先に仕事を増やしていく姿も見ていました。
生活を支えたのはアルバイトです。
芸人になってからはデータ入力、串カツ店、マッサージ店、家庭教師のテレアポ、通販受付など、さまざまな仕事を経験しました。
2009年ごろからはテレアポを長く続け、後には深夜営業の歯科医院の受付などもしています。
劇場の出演だけでは生活費にならない時期が長かったため、本人にとってアルバイトは芸人を続けるための「基本給」に近い存在でした。
2012年に結婚、それでも芸人だけでは生活できない時期が続く
仕事が安定しない時期の2012年、現在の妻・南川雅代さんと結婚しました。
二人の出会いも、後に夫の仕事を増やすことになるDMと無関係ではありません。
雅代さんがテレビでピーマンズスタンダード時代のみなみかわさんを見て興味を持ち、mixiで本人へメッセージを送ったことから交流が始まり、その後交際して結婚しています。
子どもが生まれると、みなみかわさんはアルバイトをさらに増やしました。
妻が育休から仕事へ戻る際には認可保育園へ入れず、認可外保育園の費用が月26万円になった時期もあったといいます。
テレビに出た経験があっても、家庭を支えるためにアルバイトを増やさなければならない生活が続いていました。
コンビの対抗心からシステマへ|格闘技が再びテレビにつながった
現在のみなみかわさんを語るうえで欠かせないシステマも、最初からテレビ用の特技として身につけたものではありません。
きっかけをたどると、ピーマンズスタンダードの二人の複雑な関係へ戻ります。
互いに別の格闘技を習い始めたピーマンズスタンダード
コンビ仲が悪くなっていた時期、みなみかわさんがキックボクシングを始めると吉田さんは柔術を始め、みなみかわさんがイスラエル軍の格闘術クラヴ・マガを学べば、吉田さんは総合格闘技を始めました。
本人によれば、お互いに相手へ勝てるよう別の格闘技を習っていた時期だったそうです。
その中で、みなみかわさんがたどり着いた一つがシステマでした。
システマを『ざっくりハイタッチ』で披露し、千原ジュニアとの笑いが生まれる
当初のシステマは、ライブのエンディングなどで見せる小さなネタの一つでした。
転機になったのがテレビ東京系『ざっくりハイタッチ』への出演です。
番組でシステマを披露すると、少年時代からテレビで見ていた千原ジュニアさんが笑い、さらに振ってきた言葉へ自分が返すというやり取りが生まれました。
何をしてもうまくいかないと感じていた数年間の中で、憧れていた芸人とテレビ上で笑いのラリーが成立したことが大きな手応えになりました。
「よかった、やっぱりおもろかったんや」
ENTAME next配信インタビュー
子どもが生まれた後もアルバイトを続け、コンビの限界と向き合う
システマという武器ができても、ピーマンズスタンダードとして賞レースで大きな結果を残せたわけではありません。
家族が増えた後もアルバイトと芸人の仕事を並行しながら、漫才やライブを続けました。
一方で、コンビとしての活動期間は10年を超え、M-1グランプリでも準々決勝より先へ進めない状態が続きます。
長く続けたからこそ、このまま同じ形で活動を続けるかを決める時期が近づいていました。
2019年にピーマンズスタンダード解散|「いつ辞めてもいい」で変わったピン活動
2005年から続いたピーマンズスタンダードは、2019年に活動を終えます。
テレビでは二人の不仲もたびたびネタになっていましたが、解散を単純に人間関係だけで説明することはできません。
M-1準々決勝までという結果に「ケジメ」をつけて解散を決断
みなみかわさんは、10年以上活動しながらM-1で準々決勝より先へ進めなかったことを挙げ、自分から解散を決めたと説明しています。
2019年2月に本人ブログで解散を報告し、13年間のコンビ生活では数え切れないほどけんかをしたと書きました。
その一方で、13年間一緒に活動した吉田さんについて、幸せを願える程度の関係はあるとも記しています。
「コンビ組んで13年。色んな事がありました」
みなみかわオフィシャルブログ
吉田さんは芸人を離れてテレビ制作会社へ入り、みなみかわさんはピン芸人として残りました。
ピンで2、3年やって芽が出なければ辞めるつもりだった
解散した時点で、みなみかわさんは芸人を何十年も続けるつもりだったわけではありません。
ピンで2、3年活動しても芽が出なければ辞めようと考えていました。
すると、「どうせ辞めるかもしれないのだから、もう好きにやっていい」という感覚が生まれます。
辞める覚悟を持ったことで、それまで抑えていた毒気や事務所への不満までテレビで話すようになりました。
本人が後に「吹っ切れた」と振り返るこの変化が、ピン芸人・みなみかわとして仕事が増えていく入口になります。
『ゴッドタン』などで開き直ったトークが注目され、仕事が増え始める
ピン転向後は、『ゴッドタン』の「腐り芸人」企画などで、芸能界や所属事務所について遠慮なく話すキャラクターが注目されます。
コンビ時代から持っていたシステマ、長い下積みで蓄積した経験、芸人仲間との関係なども、トーク番組で使える題材になりました。
NANSEの現在の公式プロフィールでも、2019年の解散後にピン芸人となり、『ゴッドタン』の腐り芸人出演で脚光を浴びたことが経歴として記載されています。
妻のDM営業から独立へ|株式会社ナンセで迎えた現在
ピンになって仕事が増え始めたみなみかわさんの芸人人生を、さらに大きく動かしたのが妻・南川雅代さんでした。
もともと雅代さん自身がmixiのメッセージを送ったことから始まった二人の関係は、十数年後には芸人の営業方法そのものへ広がっていきます。
2022年、妻が東野幸治らへ直接DMを送り仕事につなげる
当時、みなみかわさんの仕事が思うように増えない状況を見て、雅代さんはInstagramにみなみかわを応援するアカウントを作りました。
そして東野幸治さんへ「夫とYouTubeで共演してほしい」という趣旨のDMを直接送ります。
通常の芸能事務所の営業ルートを通さない依頼でしたが、東野さんはその行動自体を面白がり、実際にYouTubeでの共演が実現しました。
雅代さんは続いて千原ジュニアさんや佐久間宣行さんらにもDMを送り、実際の出演へつなげていきます。
2026年9月、みなみかわさん自身も芸人人生のターニングポイントを一つ選ぶなら「妻のDM」と改めて語っています。
「妻のDMでしょうね」
ENCOUNT
長い下積みの中で何度も仕事が途切れてきたみなみかわさんにとって、妻が自分で営業を始めたことは実際に仕事量が変わる出来事になりました。
2024年5月に松竹芸能を退所し、ナンセで活動開始
2024年4月18日、松竹芸能はみなみかわさんが5月末で退所することを公式に発表しました。
松竹芸能の発表では、本人から個人で活動していきたいという意向があり、その意思を尊重して退所が決まったと説明されています。
5月31日で松竹芸能を離れ、翌6月1日から妻が設立した合同会社ナンセの所属となりました。
NANSE公式サイトにも、2024年5月31日付で翌日から所属することが発表されています。
養成所へ入った2003年から長く所属してきた松竹芸能を離れ、夫が所属芸人、妻が会社を動かすという新しい活動体制へ移りました。
合同会社から株式会社へ、夫婦で作った事務所が現在の活動拠点に
ナンセという社名は、名字の「南川」を音読みした「ナンセン」と、大阪弁の「なんせ」を重ねて付けられました。
2025年8月には業務拡大に伴い、合同会社ナンセから株式会社ナンセへ組織変更しています。
現在のNANSE公式サイトでは、テレビやラジオ、Podcast、YouTubeなどに加えて単独ライブの開催も案内されており、ピン芸人として活動を続けています。
2026年にも単独ライブ「ニヤる」を開催するなど、コンビ解散後に始まったピン活動は一時的なものではなく、現在の芸人人生の中心になりました。
公務員になると思っていた少年は、警察官を目指して大学へ進み、構成作家になろうとして松竹芸能へ入り、相方から誘われたことで初めて芸人になる道を選びました。
そこからピーマンズスタンダードとして13年間を過ごし、アルバイトを続けながらアイヒマンスタンダードやシステマという武器を見つけ、2019年の解散後にピン芸人として再び仕事を増やしていきます。
そして現在は、かつて自分へmixiでメッセージを送ってきた妻が社長を務める株式会社ナンセを拠点に、芸人人生を続けています。












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