人物プロフィール
真空ジェシカのガクさんといえば、丸い眼鏡と金髪、そして川北茂澄さんの予測できないボケを受け止める独特のツッコミで知られています。
真空ジェシカはM-1グランプリで2021年から2025年まで5年連続で決勝進出を果たし、2024年には初めて最終決戦まで進みました。
ところがガクさん自身の昔話をたどると、小学生のころから芸人になるため一直線に進んできたわけではありません。
中学受験をして青山学院へ進み、大学ではお笑いだけでなく軽音サークルにも入り、裏方の仕事を学ぶためにYCCへ通い、就職活動では眼鏡会社を受けています。
芸人一直線ではなかったガクさんが、大学で川北さんと出会い、どうやって真空ジェシカのガクになったのかを、子どものころから順番にたどっていきます。
ガクの生い立ちと家族|目立ちたくて犬のぬいぐるみを学校へ
ガクさんの本名は川俣岳(かわまた・たける)で、1990年12月3日生まれ、神奈川県出身です。
子どものころの話には、現在の舞台上とはまた違った、少し不器用で目立ちたがりな姿が残っています。
運動は苦手、でも注目は浴びたい|花壇で野球を眺めた小学生時代
小学生時代は明るい子どもだった一方で、本人によると運動はかなり苦手でした。
友達が野球をしているときも一緒にプレーする側ではなく、その様子を眺めていることが多く、時にはボールを近くへ投げられてからかわれることもあったそうです。
それでも人から注目されること自体は好きで、あるとき自分の体ほどもある大きな犬のぬいぐるみを学校へ持って行きました。
友達が野球をしている横で、花壇のあたりに座り、その大きな犬を抱いて試合を眺めていたといいます。
「運動はできないけど注目は浴びたい!」
Ameba塾探し
野球には参加できなくても、大きなぬいぐるみを持参して別の方法で目立とうとしていたというのが、当時のガクさんでした。
兄と始めた習い事と、中学3年まで続いたピアノ
家族には兄がおり、子どものころは兄がしていたことに続く形で水泳や空手も習いました。
ただし水泳も空手も長くは続かず、本人が自分から始めたいと言ったピアノだけは幼稚園から中学3年生まで続いています。
ピアノを長く続けた理由も「音楽一筋だったから」という単純な話ではなく、自分から始めたいと言った手前、途中で「辞めたい」と両親へ言い出しにくかったそうです。
小学校の卒業アルバムでは将来について、ストレートに「お笑い芸人」とは書かず、「動物好きのお笑いタレント」という言葉を残しました。
お笑いの仕事への興味はすでにありましたが、この時点ではまだ将来の職業として具体的に芸人を目指していたわけではありません。
両親の意向で中学受験|慶應コースで週4日塾へ通った日々
小学校高学年になると、すでに中学受験を経験していた兄に続く形で、ガクさんも受験勉強を始めます。
本人が強く希望して始めたというより、きっかけは両親の意向でした。
横浜にあった塾へ通い、先生たちには「スイカ」「ダイカン」「ローニン」といった変わったあだ名が付いており、子どもたちは難関中学の過去問を解くともらえるカードを集めていました。
筑波大学附属駒場中学校のカードは「ツクコマンダー」と呼ばれていたといい、受験勉強の中にも子ども同士で楽しめる仕掛けがあったようです。
やがて慶應を目指すコースへ入り、週4日の通塾に加え、自宅でも毎日3時間ほど勉強する生活になりました。
そのころ大きかったのは「この学校へ絶対に行きたい」という気持ちより、受験させてくれている両親を失望させたくないという思いでした。
第一志望だった慶應には届かず、結果を知ったときに最初に浮かんだのも「親ががっかりするのではないか」という心配だったといいます。
しかし両親は落胆する態度を見せず、ガクさんは青山学院中等部へ進学しました。
青山学院中等部・高等部時代|無口キャラの失敗から「陽キャデビュー」へ
青山学院へ入ったガクさんは、中学から高校へ進む数年間で、学校内での振る舞いを大きく変えています。
その始まりは、中学入学直後に本人なりに考えた「モテるためのキャラクター作り」でした。
中学でクールを演じたら「暗い人」に|いじられ役になった学校生活
渋谷などで見かける格好いい人を見て、「クールな人がモテる」と考えたガクさんは、中学校であまりしゃべらないキャラクターを演じ始めました。
ところが周囲には「クールな人」ではなく、単に暗くて静かな人として受け取られてしまいます。
本人の表現では、次第に学校内の目立たないグループで「いじられ役」のような立ち位置になり、パソコンのパスワードまで同級生に知られてしまったことがあったそうです。
小学校時代に大きな犬のぬいぐるみまで持って行っていた少年が、中学では自分から口数を減らして過ごしていました。
高校では人気グループへ|ファストフード店で始めた初アルバイト
青山学院高等部へ上がると、外部から入学してきた生徒たちとの新しい人間関係が始まりました。
ここでは中学時代とは反対に、本人が後に「陽キャデビュー」と表現するほど、積極的に人と関わるようになります。
クラスの明るいグループへ入り、その中で再び「いじられ役」の位置に収まったことで、人前で話すことへの抵抗も薄れていきました。
高校時代には近所のファストフード店で初めてアルバイトも始めています。
応募した理由は、ファストフード店ではアルバイト同士の恋愛があるらしいという噂を聞いたからでした。
学校では自分のことを「僕」と呼んでいたのに、アルバイト先では少し自信があるように見せようと「俺」に変更し、実際にそこで交際相手もできたと本人はタウンワークのインタビューで振り返っています。
学校では中学から高校へ、アルバイト先では「僕」から「俺」へと、自分の見せ方を試していた時期でもありました。
人を笑わせる仕事への興味はあったが、まだ芸人は現実の進路ではなかった
お笑いそのものは昔から身近にあり、『爆笑オンエアバトル』や『エンタの神様』なども見ていましたが、テレビを見ながら「自分も芸人になる」と決めていたわけではありません。
一方、高校時代には一人で吉本興業の劇場へ足を運ぶこともあり、後にブレイクする前のマヂカルラブリーなどを見ていました。
2019年には、高校時代の同級生が人力舎のライブ「バカ爆走!」を見に来た日に、ガクさん自身が当時の自分についてXで振り返っています。
お笑いへの興味は少しずつ濃くなっていましたが、高校卒業時点でも、まだ「芸人になる」という一本の進路が決まっていたわけではありませんでした。
青山学院大学でお笑いへ|軽音サークルから舞台に立つ側へ
高校卒業後はそのまま青山学院大学へ進みます。
大学へ入った直後、最初に中心に置こうとしていた活動はお笑いではなく音楽でした。
ベースを弾いたバンド「ソイ」は半年ほどで終了
大学ではまず軽音サークルへ入り、そこで組んだバンドではベースを担当しました。
バンド名は「ソイ」で、UNICORNの楽曲などをコピーしていました。
ただ、メンバーはいずれも積極的に練習するタイプではなく、ガクさん自身も軽音サークルにしっくり来ないまま、半年ほどで離れています。
一方、軽音と並行して「サブ」のつもりで入っていたのが、大学のお笑いサークルでした。
サブで入ったお笑いサークルが居場所に|最初のネタ見せは「ショート漫才」
お笑いサークルでは、入ったばかりの新入生が先輩の前でネタを披露する「ネタ見せ」があり、ガクさんもここで初めて本格的に人前でネタを披露しました。
選んだのは、普通の漫才をそのまま演じるのではなく、短い漫才を次々と見せる「ショート漫才」という形でした。
「まっすぐ作ったネタでスベるのが恥ずかしかった」
日刊SPA!
普通に作った漫才で滑るより、変わった仕組みを持ち込めば、もし受けなくても「変わったことをやったから」と自分の中で逃げ道を作れると考えていたそうです。
先輩から返ってきたのも、単純な「面白かった」という言葉より、「新しいことをやろうとしている」という反応でした。
ガクさんは『アダムス・ファミリー』のような少し不気味な笑いや、POISON GIRL BANDのような「なぜ面白いのか簡単には説明できない笑い」も好んでおり、大学お笑いの最初から定番とは少し違うものへ惹かれていました。
大学2年でYCCへ|舞台袖で感じた「演者のほうが楽しそう」
大学2年になると、ガクさんはよしもとクリエイティブカレッジ(YCC)へ通い始めます。
ここで注意したいのは、YCCへ入ったからといって、当時すでにプロの芸人になると決めていたわけではないことです。
YCCは芸人を育成するNSCとは異なり、ライブ制作やマネジメントなど、お笑い業界の裏方を目指す人も学ぶ場所で、ガクさんも「お笑いに関わる仕事なら裏方もある」と考えていました。
周囲には業界へ入る目標を持って真剣に学ぶ学生がいる一方、自分はそこまで明確な進路を持てていなかったと振り返っています。
卒業制作のライブでは舞台袖で道具を出す仕事を担当し、ステージに立つ芸人たちをすぐそばで見ていました。
「演者楽しそう」
ワラパー
舞台に立つ側と舞台袖にいる側を同じ現場で見比べた時間が、芸人という仕事を現実的に見るきっかけの一つになっていきます。
真空ジェシカ以前の「玉露Gメン」など大学お笑いでも複数のユニットを経験
大学お笑いでは、最初から真空ジェシカだけで活動していたわけでもありません。
スクールJCAの公式noteでは、学生時代のガクさんが「玉露Gメン」「立ち漕ぎくん」など、複数のユニットで活動していたことが紹介されています。
また、真空ジェシカは現在プロダクション人力舎に所属していますが、スクールJCAの卒業生ではありません。
ガクさんにとって芸人への入口は養成所卒業ではなく、大学のお笑いサークルと、その後に起きる川北さんとの出会いでした。
川北茂澄との出会い|青学と慶應の合同ライブから真空ジェシカへ
ガクさんが青山学院大学でお笑いをしていたころ、川北茂澄さんは慶應義塾大学のお笑いサークルで活動していました。
大学は別でしたが、学生お笑いの舞台では両サークルが何度も一緒になります。
合同ライブで何度も顔を合わせた2人|「バッハみたいな髪型」が第一印象
青学と慶應のお笑いサークルは合同ライブを行う機会が多く、ガクさんと川北さんはそこで互いのネタを見るようになりました。
当時のガクさんは今の金髪とは違い、髪を長く伸ばしてパーマをかけていました。
「バッハみたいな髪型」
日刊SPA!
川北さんから見ると、長髪でほとんど人と話さないガクさんは、少し尖っていて近寄りがたい人物に映ったそうです。
ところが本人によれば、特別に周囲を拒絶していたのではなく、単に人見知りで友達が少なく、黙っていただけでした。
逆にガクさんは、川北さんについて、同世代の中でもネタや大喜利が特に面白い存在だと感じていました。
川北さんが初めてきちんと話しかけてきたのも、ガクさんがネタの中でやった一部分を「面白かった」と伝えたときだったそうです。
川北から夜の電話|「変な漫才がやりたい」と誘われる
何度か同じライブへ出るようになった後、ある夜、川北さんからガクさんへ電話がかかってきました。
「変な漫才がやりたいからコンビ組んでくれないか」
TOKYO FM「川島明 そもそもの話」
ガクさんがそれまでシュールな方向のネタをしていたことを知っていた川北さんが、一緒に変わった漫才をやる相手として声を掛けたのでした。
ガクさんから川北さんを誘ったのではなく、川北さんの側から電話でコンビ結成を持ちかけています。
ただし当時から何でも一緒にする親友同士だったわけではなく、プライベートで頻繁に飲みに行くような関係でもありませんでした。
連絡するとすれば大喜利投稿サイトを送り合うなど、お笑いを通じた付き合いが中心でした。
大学お笑いで組み始め、2012年5月の真空ジェシカ結成へ
2人は大学3年生ごろから一緒に漫才をするようになり、現在のプロダクション人力舎公式プロフィールでは2012年5月結成と記載されています。
学生時代に組み始めた時期と、所属事務所が公式に示す結成時期は資料によって表現が異なるため、同じ年として扱わないほうが分かりやすい部分です。
初期から川北さんは、漫才でよく使われる「はいどうもー」や「もういいよ」といった定型的な言葉をそのまま使うことを嫌がり、ガクさんは組んでからそのこだわりの強さを知っていきました。
別々の大学のお笑いサークルで出会った2人が、学生コンビ「真空ジェシカ」として動き始めました。
ガクが芸人になったきっかけ|眼鏡会社への就活と人力舎からのスカウト
真空ジェシカを組んだからといって、ガクさんがすぐに「卒業後はプロの芸人になる」と決めたわけではありません。
大学生活の終盤には、一般企業への就職も現実的な選択肢として残っていました。
コンビを組んでもプロになるつもりはなく、眼鏡会社を受けた
就職活動を始めても、ガクさんには「この業界で働きたい」という明確な希望がありませんでした。
そこで自分を見つめ直したとき、確実に自分の特徴だと思えたのが眼鏡だったそうです。
その結果、就職活動では眼鏡会社を1社受けました。
ところが面接では会社への熱意が伝わらず、不採用になります。
大学で漫才をしている一方、卒業後の進路としては眼鏡会社の採用試験も受けていたという時期でした。
学生ライブを見た人力舎関係者から声を掛けられプロ入り
そのころ、学生芸人が出演するライブや大会に真空ジェシカとして出ていた2人の前に、別の進路が現れます。
会場で学生芸人を見ていたプロダクション人力舎の関係者から声を掛けられたのです。
ガクさんは後のインタビューで、人力舎から声を掛けられていなければNSCへ行っていた可能性もあったと話しています。
就職か芸人かを決め切れていなかったところへ人力舎からのスカウトが入り、プロとして進む道が具体的になりました。
真空ジェシカがスクールJCAを経由せず人力舎所属になったのは、この学生お笑いからのスカウトという経緯があるためです。
芸人になると両親へ伝えた日|母と父が見せたそれぞれの反応
プロの芸人になることが決まり、ガクさんは両親にもその進路を伝えました。
母親は驚くというより、すでにそうなることを察していたような反応だったといいます。
父親は最初に、本当に大丈夫なのか、生半可な気持ちでは続かないのではないかと覚悟を確認しました。
それでも本人が芸人になる意思を伝えると、最終的には受け入れています。
中学受験では両親をがっかりさせないことを気にしていたガクさんが、大学卒業時には自分から「芸人になる」という進路を家族へ伝える側になっていました。
若手・下積み時代|地下ライブとアルバイトを往復した日々
人力舎へ所属した後も、すぐテレビ出演だけで生活できるようになったわけではありません。
真空ジェシカはライブへ出ながらネタを続け、ガクさんはその外側でアルバイト生活を長く続けました。
テレビとは違う場所で鍛えられた地下ライブ「バスク」
若手時代の記憶としてガクさんが名前を挙げているライブの一つが、Aマッソ加納さんらが関わっていた「バスク」です。
出演者には、後に広く知られるようになる錦鯉、メイプル超合金、ななまがり、金属バットなど、当時から独自のネタをする芸人が集まっていました。
出演者が発表される前からチケットが売れるほどライブ自体に支持があり、芸人同士も周囲より変わったことをしようと競うような空気があったといいます。
その場所で真空ジェシカも、テレビ番組へ合わせることより、自分たちが面白いと思うものを試し続けました。
ガクさんは後年、この時期について、テレビへの距離は遠くなったように感じる一方、「面白いことをする筋肉」は鍛えられたという趣旨で話しています。
個人経営のカラオケ店から3年間のコールセンター勤務まで
芸人の仕事だけでは生活できなかった時期、印象に残っているアルバイトの一つが個人経営のカラオケ店でした。
店長は日焼けした肌に茶髪を立てた派手な人物で、客が少ない時間は比較的自由に過ごせ、店長が作ったまかないをアルバイト全員でカラオケルームに入って食べることもあったそうです。
一方で店長が「散歩してくる」と出たままなかなか戻らなかったり、閉店時間を過ぎても知人と空いた部屋で過ごしていたりと、アルバイト側が振り回される日もありました。
最後に長く続けたアルバイトは、ネット通販のクレームを受けるコールセンターでした。
約3年間、家電の不良などについて電話口で一日中謝罪する仕事を続け、保留中にお菓子を食べたりコーヒーを飲んだりしながら気分を切り替えていたといいます。
ある日は約1時間のクレーム対応を終えて受話器を置いた直後に視界が真っ白になり、本人は強いストレスから解放された際に起こる「閃輝暗点」に当てはまる症状だったと振り返っています。
昼間から芸人の仕事だけをしていたわけではなく、舞台の外では長時間クレームを受け続ける仕事もしていました。
2019年「Laughter Night」優勝から『ラジオ父ちゃん』へ
長くライブ活動を続けていた真空ジェシカに、2019年、大きな結果が出ます。
TBSラジオ『マイナビ Laughter Night』の第5回チャンピオンLIVEで、真空ジェシカがグランドチャンピオンになりました。
優勝後の2019年12月にはTBSラジオで特別番組が放送され、2020年4月からは『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』がレギュラー化しました。
テレビで一気に全国区になるより先に、ラジオで2人の会話そのものを長く届ける場所ができたことになります。
同じ2020年8月には、それまで名乗っていた「ガクカワマタ」から「ガク」へ改名しました。
学生時代から約8年が過ぎ、賞レース以外でも真空ジェシカの名前に触れる場所が少しずつ増えていった時期でした。
2021年にも目標は「バイトを辞めてお笑いだけで飯を食う」だった
ラジオ番組が始まっても、本人の感覚ではまだ「売れた」と言える状態ではありませんでした。
2021年のインタビューで「売れるとはどういうことか」と聞かれたガクさんが挙げた基準は、テレビ番組の本数でも知名度でもありませんでした。
「バイトを辞めてお笑いのみで飯を食う」
ワラパー
2012年の結成から長く活動し、ラジオの冠番組まで持っていても、ガクさんにとってはアルバイトをしなくても芸人の仕事だけで生活できることが、まだ一つの現実的な目標でした。
M-1で変わった真空ジェシカ|2021年3回戦のネタ飛ばしから5年連続決勝へ
2021年、真空ジェシカはM-1グランプリへ出場します。
最終的には初の決勝進出を果たしますが、ガクさんが後に転機として挙げたのは決勝当日ではなく、その前の3回戦でした。
川北が舞台で止まり、ガクがボケまで言って自分でツッコんだ3回戦
3回戦の舞台で、川北さんがネタの途中に台詞を飛ばし、その場で止まってしまいました。
そこでガクさんは、川北さんが本来言うはずだったボケを自分で口にし、さらにそのボケへ自分自身でツッコミを入れてネタを進めました。
その場を乗り切った真空ジェシカは3回戦を通過します。
川北さんの台詞が完全に止まった舞台で、ガクさんがボケとツッコミを一人で処理して先へ進めたという出来事でした。
同時に2人は、このままのネタ合わせではまずいと考えるようになります。
ネタ合わせを見直し、その年初めてM-1決勝へ
3回戦での失敗をきっかけに、真空ジェシカはそれまで以上に本番へ向けてネタを合わせるようになりました。
そして2021年、結成から約9年でM-1グランプリ決勝へ初進出します。
公式結果では638点で6位でしたが、この年を境にM-1の決勝で真空ジェシカを見ることが毎年続いていきます。
本人がターニングポイントとして挙げているのは、華やかな決勝ではなく、その前にネタが止まった3回戦です。
翌2022年にも決勝進出が決まり、2年連続ファイナリストとなりました。
2022年は647点で5位、2023年も643点で5位と、決勝進出だけで終わらず上位を争う位置に残り続けました。
2024年は初の最終決戦、2025年まで5年連続ファイナリストに
2024年はファーストラウンドで849点を獲得し3位に入り、初めて最終決戦へ進みます。
最終決戦では1票を獲得し、最終順位は3位でした。
このときの反響について、ガクさんは翌2025年のM-1公式インタビューで、それまでの決勝の中でも反響が大きく、仕事も少し増えた感覚があったと話しています。
つまり、決勝へ進んだ瞬間だけで一度にすべてが変わったのではなく、何年も決勝へ出続け、その中で順位を上げたことで仕事の変化を感じたという経過でした。
2025年も844点で4位となり、3位とはわずか1点差でした。
真空ジェシカは2021年から2025年まで5年連続でM-1グランプリ決勝進出を果たしています。
ガクの現在|漫才・ラジオ・YouTubeへ広がった活動
M-1への連続出場で全国的な知名度が上がった後も、真空ジェシカの活動の中心には漫才やライブがあります。
そこへ大学時代から続く大喜利、ラジオ、YouTube、テレビなどが加わり、ガクさんが立つ場所は学生お笑いのころより大きく広がりました。
ネタを書く川北と舞台で受けるガク|現在の真空ジェシカ
真空ジェシカでは川北さんがネタ作りを中心に担当しており、QJWebのインタビューでも川北さんがネタ作りを担っていることが紹介されています。
2026年にスクールJCAで特別授業を行った際にも、ガクさん自身が「自分はネタを書いていない側」であることを前提に、自分の立ち位置について養成所生へ話していました。
ただし舞台上では単純に決まったツッコミだけをするわけではなく、2021年M-1の3回戦のように、その場で川北さんのボケを引き取り、自分で処理する場面もあります。
現在は『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』がTBS Podcastで続き、公式YouTubeでは『真空ジェシカのギガラジオ』などを配信し、テレビ東京ではヤーレンズとともに『真空レンズ』にも出演しています。
大学のお笑いサークルで始まった2人の会話が、漫才だけでなくラジオや動画、テレビへ広がっています。
大きな目標を決めず、求められた仕事へ全力で向き合う現在地
ガクさんは昔から、自分の人生を振り返るときに、強い目標を先に決めてそこへ一直線に向かったという説明をあまりしていません。
両親の勧めで中学受験をし、大学では軽音からお笑いへ移り、裏方を学んだYCCで演者を見て、川北さんから誘われ、就職活動をした先で人力舎から声を掛けられました。
現在についても、仕事の種類を細かく限定するより、求められた仕事には取り組むという姿勢を本人は語っています。
2026年には真空ジェシカ全国漫才コントツアー「全国の中にある」も展開し、コンビで各地の舞台へ立っています。
小学生のころは、友達が野球をする横で大きな犬のぬいぐるみを抱き、自分なりの方法で人の目を引いていました。
大学では舞台袖から芸人を眺めていた時期を経て、川北さんからの電話と人力舎からのスカウトをきっかけに、自分が舞台へ立つ側を選びました。
その後も地下ライブとアルバイトを続けながら漫才を重ね、現在はM-1で5年連続決勝へ進んだ真空ジェシカとして、全国の舞台やラジオ、動画、テレビで活動を続けています。












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