人物プロフィール
M-1グランプリでは2021年から2025年まで5年連続で決勝進出し、独特な発想の漫才で知られる真空ジェシカの川北茂澄さん。
慶應義塾大学出身という経歴も知られていますが、学生時代から一直線にエリートコースを歩いて芸人になったわけではなく、子どものころから続けていた剣道、浪人生活、大学での初舞台、別大学のガクさんとの出会いなど、いくつもの時期を経ています。
中学生のころにはすでに芸人になると周囲へ話していた川北さんは、慶應入学後、体育会の剣道部を離れてお笑いサークルへ移りました。
その大学お笑いの場でガクさんを見つけ、のちに川北さんのほうからコンビ結成を持ちかけたことが、真空ジェシカの始まりになります。
川北さんがどんな家庭と学生時代を過ごし、なぜ芸人を目指し、ガクさんと真空ジェシカを組み、アルバイトを続けながらM-1の舞台まで進んだのかを、時間を追ってたどります。
川北茂澄の生い立ちと家族|埼玉で育ち、中学時代には芸人を意識
川北茂澄さんは1989年5月23日生まれ、埼玉県出身で、幼いころからテレビの中のお笑いに興味を持っていました。
一方で家庭にはスポーツとの縁もあり、川北さん自身も小学生のころから長く剣道を続けています。
父・川北茂樹はセンバツ完全試合を経験した前橋高校野球部主将
父親の川北茂樹さんは、群馬県立前橋高校で野球部に所属し、1978年春のセンバツで甲子園史に残る完全試合を達成したチームの主将でした。
完全試合を成し遂げたのは投手の松本稔さんで、父・茂樹さんは三塁手としてその試合に出場しており、その後は慶應義塾大学へ進み、リクルートを経て企業経営に携わっています。
父の経歴が華やかなことから川北家について「実家がお金持ちなのでは」と語られることもありますが、公に確認できるのは父の職歴や活動歴までで、家の資産状況を示す具体的な情報は明らかになっていません。
父は後年、幼い茂澄さんについて、キャッチボールをしてみても野球にはあまり向いていなかった一方、毎日のように四コマ漫画を描いていたことを講演で明かしています。
父親の野球をそのまま受け継ぐのではなく、川北さんが長く続けた競技は剣道でした。
小3から剣道、家では『ぷよぷよ』に夢中
川北さんが剣道を始めたのは小学3年生のころで、その後も学生時代まで続け、現在の人力舎公式プロフィールにも剣道三段と記載されています。
小学生から長く竹刀を握り、大学入学時にも剣道を続けるつもりでいたほど、川北さんにとって身近な競技でした。
もう一つ、子どものころから続いているものがゲームの『ぷよぷよ』です。
本人によると家にはすでに『ぷよぷよ』があり、近所の友達と遊んでいましたが、のちに大学のお笑いサークルの部室で再び触れ、本格的にやり込むようになりました。
現在のプロフィールにまで「ぷよぷよ(大分5位)」と記載されるほどになり、M-1へ挑戦するころにもこのゲームは生活の中に残っています。
中学生のころには「芸人になる」と周囲へ話していた
川北さんがお笑いへ興味を持った出発点は、「芸人という職業に憧れた」というより、テレビの中で大人たちがふざけている光景でした。
「テレビでふざけたいと思ってました。」
日刊SPA!
大人がテレビでふざけ、それが仕事になっていると知ったことに魅力を感じたと本人は説明しており、当時はツッコミよりも自由にふざけている側を好んでいました。
その気持ちは早い段階から進路の話へ変わり、中学生のころには周囲へ「芸人になる」と話すようになっていました。
後に実際に芸人を目指すと家族へ話したときも、突然始まった話ではなく、家族にとっては以前から聞いていた将来像でした。
高校・浪人時代|剣道を続けながら芸人になる進路を考える
中学で芸人を意識していたものの、高校を卒業してすぐ養成所へ入ったわけではありません。
川北さんは高校、浪人、大学受験という道を通りながら、お笑いを将来の選択肢として残し続けました。
高校でも続いた剣道と学生生活
川北さんの出身高校は埼玉県立川越高校で、本人が大学時代に使っていたTwitterでも同校を「母校」と記した投稿が残されています。
高校では剣道部に所属し、小学生から始めた剣道を継続していました。
後に大学へ入ったときも最初に体育会の剣道部を選ぼうとしているため、この時点では「芸人になりたいから学校生活をすべてお笑いへ振る」という過ごし方ではありませんでした。
学校生活では剣道を続け、その一方で将来については芸人という進路を頭に置いていた時期が高校から浪人生活へ続いていきます。
一浪中、「芸人になるなら大学も売りになる」と考え慶應へ
高校卒業後、川北さんは1年間の浪人生活を経験しました。
このころには、芸人になるという考えそのものを捨てるのではなく、芸人になった後のことまで含めて大学進学を考えていました。
「芸人になるなら、少しいい大学に入っておいたことも一つの売りになるかもしれない」と考えて受験に向き合っていたと、後のインタビューで明かしています。
そして一浪を経て慶應義塾大学へ進学しました。
現在は「慶應卒の芸人」と紹介されることも多い川北さんですが、大学名を生かしてクイズ芸人になることを目指していたわけではなく、この時点ですでに進みたい方向はお笑いでした。
慶應で剣道部からお笑いサークルへ|初舞台は「小西ファラオ」
慶應へ入学した川北さんは、すぐにお笑いサークルへ直行したわけではありません。
最初に選んだのは、それまで長く続けてきた剣道でした。
体育会剣道部の厳しさからお笑いサークルO-keisへ
入学当初の川北さんは体育会の剣道部へ入りましたが、活動が想像以上に大変で、続けることが難しいと感じるようになります。
辞める口実を探していたところで、大学にお笑いサークルがあることを初めて知りました。
もともと芸人になりたい気持ちは持っていたため、夏前には剣道部から慶應のお笑いサークル「お笑い道場O-keis」へ移っています。
現在のO-keisの卒業生紹介にも川北さんは5期生として名前が残り、2011年度にはサークルの代表も務めました。
父・茂樹さんは、息子は大学でも剣道を続けると思っていたため、いつの間にかお笑いサークルへ入っていたことに驚いたと後に振り返っています。
ドンキでファラオ衣装を買った初舞台
川北さんのお笑いサークルでの初舞台は、現在の真空ジェシカの漫才とはかなり違うものでした。
舞台に向けてドン・キホーテでファラオの衣装を購入し、大学の教室で行われたライブに出演しています。
披露したのは、大西ライオンさんをもじった「小西ファラオ」というキャラクターがニュース番組に登場するような内容でした。
現在の漫才師・川北茂澄の最初の舞台は、ファラオ姿で登場するコントだったことになります。
「交通費返せ」のアンケートから学生芸人として活動を重ねる
初舞台には他大学のお笑いサークルの学生も見に来ており、終演後のアンケートには川北さんのネタに対して「交通費返せ」という厳しい感想が書かれました。
O-keisでは、その言葉を単に笑い話にして終わらせず、「交通費をどう返すのか」を真面目に話し合ったと本人が明かしています。
そこから学内だけでなく他大学との合同ライブや学生お笑いの大会へ参加する機会が増え、川北さんは舞台経験を重ねていきました。
O-keisの卒業生記録には、真空ジェシカ以前に「レジデンシャル」という学生コンビで活動していたことも残っています。
大学生活ではお笑いだけでなく、個別指導塾でもアルバイトをしていました。
教職課程を取っていたため教育実習の練習にもなることと時給の良さから始めた仕事でしたが、得意ではない数学まで担当した結果、保護者から「川北先生、もう限界ですか?」と電話を受け、約1年で離れています。
大学お笑いでガクと出会い、「変な漫才」を求めてコンビへ
O-keisで活動範囲を広げた川北さんは、大学の外にいた一人の学生芸人と何度も顔を合わせるようになります。
青山学院大学のお笑いサークルに所属していた、現在の相方ガクさんです。
別大学の合同ライブで出会い、川北からガクへ声をかける
当時の大学お笑いは大学ごとに完全に分かれていたわけではなく、慶應と青山学院をはじめ、複数のサークルが合同ライブを開き、学生同士で交流していました。
川北さんが初めて見たころのガクさんは、長い髪にパーマをかけた、本人いわく「バッハみたいな髪型」をしていました。
ガクさんは人見知りで周囲とあまり話していなかったため、川北さんの目には少しとがった人物のように映ったといいます。
何度もライブで顔を合わせるなか、最初に話しかけたのは川北さんのほうで、ガクさんが披露したネタの中から具体的に面白かったくだりを伝えました。
ガクが覚えていた「ネタも大喜利も一番ウケていた」川北
川北さんから見ればガクさんは気になる他大学の学生芸人でしたが、ガクさんの側も川北さんをかなり早い段階から認識していました。
「ネタも大喜利も一番ウケてた。」
日刊SPA!
ガクさんは学生時代の川北さんを、同期の中でも特に笑いを取っていた人物として覚えています。
一方で二人は、すぐに私生活でも遊ぶ親友になったわけではなく、大学時代は飲みに行くような付き合いもほとんどありませんでした。
連絡を取るとしても「こういう大喜利の投稿サイトがあるからやろう」といった、お笑いに関する内容が中心でした。
川北から電話でコンビへ誘い、学生コンビとして活動開始
二人の関係が変わったのは、川北さんが学生お笑いの大会を見た夜でした。
テンポの速い漫才が活躍する大会を見た川北さんは、それとは違う漫才をやりたいと考え、シュールなネタをしていたガクさんへ突然電話をかけます。
「変な漫才がやりたいからコンビ組んでくれないか」
TOKYO FM『川島明 そもそもの話』
真空ジェシカは、川北さんが「変な漫才」を一緒にやる相手としてガクさんを選んだところから始まりました。
当時のガクさんは川北さんほど明確に「プロの芸人になる」と決めておらず、とりあえず一緒にやってみるという感覚で誘いを受けています。
真空ジェシカとして学生大会へ、教室で撮った漫才がテレビ出演へ
コンビを組んだ二人は、学生のお笑い大会へ出るため、大学の教室で漫才を撮影して応募しました。
その映像が評価されて学生大会の決勝へ残り、テレビ朝日の大学生番組『学生HEROES!』への出演にもつながります。
別大学の二人が試しに組んだコンビは、学生大会をきっかけに「真空ジェシカ」として継続していく形になりました。
学生時代の川北さんはコンビだけでなくピンのフリップネタにも取り組み、大学卒業が近づいたころには、そのネタそのものを卒業論文として提出したこともあります。
フリップを写真に撮ってWordへ貼り、最低限「研究」らしい題名を付けて提出したもので、ちょうどR-1の準決勝前だったため、本人は卒論よりR-1を優先してネタをそのまま使うことにしたと振り返っています。
人力舎にスカウトされ2012年プロへ|養成所を経なかった芸人デビュー
大学お笑いで活動を続けた真空ジェシカには、卒業後の進路を考える時期が訪れます。
川北さんには芸人になる意思がありましたが、実際にプロへの入口となったのは養成所の入学試験ではありませんでした。
学生お笑いの舞台から人力舎に声をかけられる
学生お笑いの大会やライブで活動していた二人は、そこでプロダクション人力舎の関係者から声をかけられました。
ガクさんによれば、ライブを見に来ていた人力舎の担当者から声がかかった時期は、ガクさん自身が就職活動もしていたころでした。
オーディションを受けて養成所へ入る前に、学生芸人としての舞台を見た事務所側からスカウトされたというのが、二人のプロ入りの入口です。
中学生から芸人を考えていた川北さんにとって、ここで学生お笑いがそのまま職業へつながりました。
スカウトがなければNSCへ入る予定だった
人力舎には養成所のスクールJCAがありますが、川北さんがそこへ入学してから所属したわけではありません。
もしスカウトがなければどうしていたかを聞かれた際、川北さんは吉本興業のNSCを考えていたと答えています。
「僕もNSC入ろうと思ってて。」
WLUCK PARK
つまり川北さんはスカウトがなければ芸人にならなかったのではなく、別の入口からでも芸人になるつもりだったことになります。
2012年5月1日を公式結成年としてプロ活動をスタート
真空ジェシカは学生時代の2011年ごろから二人で組んで活動していましたが、M-1グランプリの公式コンビ情報では結成年を2012年5月1日としています。
プロダクション人力舎の公式プロフィールでも2012年5月結成とされているため、学生時代に組み始めた時期と、プロとしての公式な結成年は分けて見る必要があります。
所属直後にはテレビのネタ番組へ出演する機会もあり、二人は「これで売れなければ厳しい」と話していたものの、その一度で一気に仕事が増えることはありませんでした。
川北さんはピンでも活動を続け、R-1ぐらんぷり2013で準決勝まで進んでいます。
JCA卒ではない「同期」の扱い
真空ジェシカは人力舎所属のためスクールJCA出身と思われることがありますが、人力舎の養成所側も「真空ジェシカはJCAを出ていない」と明記しています。
そのため真空ジェシカについて「同期」と表現する場合、同じJCAの期という意味ではありません。
ガクさんはインタビューでオズワルドや空気階段を同期として挙げていますが、これは養成所のクラスが同じという話ではなく、芸歴が近い世代としての「同期」です。
若手時代はコントと地下ライブ、アルバイトを並行
人力舎へ所属したあとも、真空ジェシカの現在の漫才がすぐ完成したわけではありません。
ライブでさまざまなネタを試す一方、川北さんは生活のために派遣の仕事を続けていました。
2014年ごろはコントを多く演じていた
現在はM-1で漫才を見る機会が多い真空ジェシカですが、プロになったばかりのころはコントを多く演じていました。
川北さん自身も2014年ごろについて、まだコントを中心にやっていた時期だったと後に話しています。
現在知られている真空ジェシカの漫才だけを最初から続けていたわけではなく、若手ライブでコントやさまざまな形のネタを試していました。
事務所のライブだけに閉じず、他事務所の芸人が集まる小さなライブにも出演し、その中には後にテレビで知られるようになる芸人たちが何組もいました。
「バスク」で変なことを競い、芸風が少しずつ変化
若手時代に二人が強く覚えているライブの一つが、Aマッソ加納さんと当時ブンブンブンの阿久津さんが主催していた「バスク」です。
出演していたのは真空ジェシカのほか、金属バット、錦鯉、メイプル超合金、ななまがりなどで、当時は現在ほど全国的に知られていなかった芸人も多く参加していました。
ライブでウケれば、次はさらに変なことをやろうという空気になり、ガクさんは出演者たちの芸風が少しずつ「歪んでいった」と表現しています。
「『バスク』のせいで、だいぶみんな遠回りしてた。」
お笑いナタリー
「もっと変なことを」と出演者同士が刺激し合う地下ライブで、真空ジェシカも現在とは違う試行錯誤を続けていました。
道路工事・草むしり・下水処理場を回った派遣生活
舞台だけで生活できるようになるまで、川北さんは複数の派遣アルバイトを経験しています。
仕事は道路工事、草むしり、下水処理場の清掃などで、一つの職場へ固定されるというより、派遣先を転々とする働き方でした。
下水処理場では、汚水などが入っていたタンクを一度乾かし、高圧の水を当てて清掃する作業を担当しています。
乾いていたものが水で戻って飛び散る現場だったにもかかわらず、その日は着替えを持っておらず、そのまま仕事を続けたという具体的な記憶も残っています。
同じ派遣先にはチャンス大城さんやモグライダー・ともしげさんもおり、テレビで知られる前の芸人たちが同じ現場で働いていました。
最後まで続けたのは路上のガードレールを拭く仕事
川北さんが最後まで続けていたアルバイトの一つが、路上のガードレールを拭く仕事でした。
道路上にカラーコーンを置いて作業するものの、大型トラックが横を通ると風圧でコーンが飛ばされそうになるため、コーンを手で押さえながらガードレールを拭いていたと明かしています。
この仕事の日当は本人によれば1万円ほどで、プロになって何年も経ってからも、舞台と派遣の現場を行き来する生活が続いていました。
2010年代後半にラジオやお笑いファンの間で名前が広がっていっても、すぐにアルバイトを辞められたわけではありません。
2019年ラフターナイト優勝からM-1初決勝へ
長くライブとアルバイトを並行していた真空ジェシカに、仕事の流れが変わり始める出来事が続きます。
その一つが2019年のラジオのお笑いコンテストでした。
2019年、マイナビ Laughter Nightでグランドチャンピオン
2019年、真空ジェシカはTBSラジオ「マイナビ Laughter Night」第5回チャンピオンLIVEへ進出しました。
有楽町よみうりホールで行われた大会で優勝し、第5回グランドチャンピオンとなります。
テレビの賞レースとは違う形でしたが、この優勝には冠ラジオという具体的な特典があり、真空ジェシカに新しい活動の軸が生まれました。
冠ラジオ「ラジオ父ちゃん」が始まり活動の幅が広がる
ラフターナイト優勝後、2019年12月に冠特番が放送され、2020年4月から『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』がレギュラー番組としてスタートしました。
番組は2021年3月に地上波での放送を終えましたが、その後Podcastとして復活し、現在まで続く真空ジェシカの代表的な活動の一つになっています。
2020年にはM-1の準々決勝敗退時にコンビ名がSNSのトレンドへ入るなど、お笑いファンの間での注目も高まっていきました。
ただ、この段階でも二人自身は仕事環境が劇的に変わったとは感じておらず、川北さんのアルバイト生活も続いていました。
2021年M-1初決勝、「草むしりのバイトをやめられる」
大きな変化が起きたのはM-1グランプリ2021でした。
この年の3回戦ではネタを飛ばす場面があり、ガクさんが川北さんのボケを代わりに言って自分でツッコむ形で立て直すという出来事もありました。
それでも3回戦を通過し、準々決勝、準決勝と勝ち進み、結成以来初めてM-1の決勝進出を決めます。
「これでバイトをやめられると思うと嬉しいですね。」
FANY Magazine
決勝進出が決まった時点でも川北さんはモグライダー・ともしげさんと草むしりのアルバイトをしており、ともしげさんも同じ2021年大会で初のM-1ファイナリストになっていました。
M-1初決勝は、川北さんにとって全国的な知名度だけでなく、長く続けてきたアルバイトを辞められるところまで仕事が変わった出来事でした。
子どものころから遊んでいた『ぷよぷよ』も、このM-1の時期には独自のルーティンになっています。
川北さんは漫才を『ぷよぷよ』にたとえ、まず設定という土台を組み、その上で笑いを連鎖させる感覚が似ているとして、M-1予選前に『ぷよぷよ』をプレイしていました。
M-1決勝常連となり仕事の環境が変わる
初決勝の翌年、真空ジェシカはM-1グランプリ2022でも決勝へ進みました。
さらに2023年も決勝へ進出し、2024年には4年連続で決勝へ進んだうえ、初めて上位3組による最終決戦へ進出しました。
2024年の最終決戦では、直前のライブでも大きくウケる日とそうでない日があったという「アンジェラ・アキ」を題材にしたネタを選んでいます。
学生時代に「変な漫才」をやるためガクさんを誘い、地下ライブではさらに変なことを試していた二人が、同じコンビのままM-1の最終決戦まで進みました。
現在もライブ・漫才・ラジオへ|学生時代から続く川北茂澄の現在地
M-1初決勝でアルバイト生活を終えたあとも、真空ジェシカは漫才だけに活動を限定していません。
ラジオ、YouTube、テレビ、ライブを並行しながら、川北さんはピンで大喜利やフリップ芸に出演する機会も持っています。
M-1は2021年から2025年まで5年連続決勝
2025年も真空ジェシカはM-1決勝へ進み、2021年、2022年、2023年、2024年、2025年と5年連続のファイナリストになりました。
2021年の初決勝から5大会続けて決勝の舞台に立ったことになり、人力舎の公式プロフィールにも5年分の決勝進出歴が並んでいます。
賞レースへの取り組み方について川北さんは以前から、出場する大会を絞る考えを持っており、2020年にはM-1へ集中するため他大会へのエントリーを控えたこともありました。
多くの大会結果を積み上げるというより、M-1で同じ漫才を磨きながら毎年勝ち進む期間が長く続いています。
ライブ、ラジオ、テレビへ活動を広げた現在
2026年現在も、TBS RADIOのPodcast『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』、YouTube「真空ジェシカ」、テレビ東京『真空レンズ』などで活動しています。
人力舎のライブにも出演を続け、漫才とコントの両方を扱うツアーなど、テレビ出演だけではない舞台活動も続いています。
中学生のころに「芸人になる」と話し、慶應で剣道部からお笑いサークルへ移り、自分からガクさんを誘った選択が、現在の真空ジェシカまで続いています。
大学の教室でファラオ姿の初舞台に立った川北さんは、学生お笑いからスカウトでプロになり、道路工事や草むしりの仕事を続けながら舞台へ立ってきました。
そしてM-1初決勝を境にアルバイトを離れたあとも、学生時代に始めたガクさんとのコンビで漫才とライブを続けています。












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