人物プロフィール
ココリコの田中直樹さんは、長く続くバラエティ番組で見せる姿だけでなく、俳優や生き物にまつわる活動でも知られています。
ところが、大阪府豊中市で過ごした10代の本人は、学校で特別目立っていたわけではなく、自分自身をかなり「普通」の生徒だったと振り返っています。
田中さんは子どものころから芸人を目指していたわけではなく、高校卒業後にはデザインの専門学校へ進んでいます。
人生の向きが大きく変わったのは、専門学校を卒業する直前、昔から知っていた遠藤章造さんが田中さんの卒業制作を手伝い、その後「一緒に東京へ行こう」と誘った時でした。
野球と工作に夢中だった少年が、遠藤さんとどのように距離を縮め、なぜ20歳で芸人の道を選び、若手時代をどう過ごしたのか、幼少期から順番にたどっていきます。
田中直樹の生い立ちと家族|豊中で野球と工作に夢中だった少年時代
田中直樹さんは1971年に大阪府豊中市で生まれ、上京する20歳ごろまで豊中で暮らしました。
現在の仕事からはお笑い一筋の少年時代を想像しそうですが、当時の生活には野球、工作、映画、生き物など、いくつもの好きなものがありました。
9歳上と6歳上の姉に囲まれた「末っ子の長男」
田中さんは姉が2人いる末っ子の長男で、一番上の姉とは9歳、もう一人の姉とは6歳離れて育りました。
年齢の離れた姉たちからかわいがられていたといい、後に進路を考える時には、2番目の姉の夫がしていたデザインの仕事にも興味を持つことになります。
幼いころの家には映画好きの父親もいて、田中さんがのちに熱中するものの一つも父親との時間から生まれました。
豊島小学校で野球と工作に夢中|父親と見た『ジョーズ』
豊中市立豊島小学校に通っていたころは、近所の友達と野球をして遊び、野球チームにも所属する少年でした。
野球と同じくらい好きだったのが工作で、ローラースケートが流行した時には、高価で買えない代わりに近所の工場でもらった廃材と椅子用のキャスター8個を使って自分で作っています。
ところがキャスターは自由に向きが変わるため思ったように進まず、完成したものは田中さんの期待とはかなり違う乗り物になりました。
小学校低学年のころには、映画好きだった父親と映画『ジョーズ』のリバイバル上映も見に行っています。
怖さを感じながらもサメへの興味が残り、成長してさまざまな種類や姿を知るうちに、さらに惹かれていきました。
「本当にめちゃくちゃ怖かった!」
ESSEonline
同じ小学校に遠藤章造がいたが、まだ話す仲ではなかった
豊島小学校には、後に30年以上コンビを組むことになる遠藤章造さんも通っていました。
ただし小学生の2人は別のクラスで、田中さんは遠藤さんを知ってはいたものの、まだ直接話したことはなかったといいます。
田中さんの目に映る遠藤さんは、野球も話すことも得意で、生徒会長に立候補するほど活発な人気者でした。
中学で遠藤章造と親しくなる|野球部で過ごした3年間
小学校時代はほとんど接点のなかった2人の関係が変わったのは、豊中市立第四中学校へ進んでからでした。
同じクラスと野球部で過ごす時間が増え、田中さんにとって遠藤さんは「同じ学校にいる人気者」から身近な友人へ変わっていきます。
中学1年で同じクラスになり「こんな面白いやつがいる」と驚く
中学1年で同じクラスになると、田中さんは遠藤さん独特の笑いの感覚を気に入り、次第に一緒に過ごすようになりました。
遠藤さんは当時から身ぶりを使ったくだらないギャグまで持っており、田中さんはそんな遠藤さんによく笑わせてもらっていたそうです。
芸人になる話が出る何年も前から、田中さんにとって遠藤さんは「面白いことをする友人」でした。
キャッチャー田中とショート遠藤|最後の試合後にはたこ焼きを食べて帰った
2人は中学の野球部で3年間一緒に白球を追い、田中さんがキャッチャー、遠藤さんがショートを務めていました。
中学最後の試合では田中さんの送球ミスが敗戦につながったものの、遠藤さんによると、ほかの部員が落ち込みながら帰る中で田中さんだけは途中で普通にたこ焼きを食べていたそうです。
田中さん自身にはその行動のはっきりした記憶がなく、試合中からお腹がすいていたことだけはうっすら覚えていると後年笑っています。
文化祭では遠藤のコントが満員、田中の「盲腸研究」は担任だけに
中学生のころから、人前で笑いを取ることについては2人の立ち位置にかなり違いがありました。
文化祭で遠藤さんが『プロ野球ニュース』を題材にしたコントをすると会場には生徒が集まりましたが、田中さんが選んだのは「知って得する盲腸」という研究発表でした。
発表を見ていた生徒は次第に減り、最後には担任の先生がうなずきながら聞いてくれていたといいます。
この時点では、遠藤さんが笑いを取る側に立っていたのに対し、田中さん自身はまだ芸人になる方向へ動いていませんでした。
野球部の帰り道で拾った手帳に「喫茶ココリコ」の文字
後のコンビ名につながる出来事も、中学時代の野球部帰りに起きています。
2人が道端で拾った手帳を見ると、予定欄に「喫茶ココリコで待ち合わせ」と書かれていました。
連絡先も記されていたため近くの公衆電話から持ち主へ知らせると、取りに来た女性からお礼として5000円を受け取りました。
その時は芸名を考えていたわけではありませんでしたが、「ココリコ」という耳に残る言葉と、手帳を返してお礼をもらった出来事は2人の記憶に残りました。
桜塚高校からデザイン専門学校へ|まだ芸人を考えていなかった10代
中学校を卒業すると、遠藤さんは野球のため香川県の高校へ進み、田中さんは地元の大阪府立桜塚高校へ進学しました。
毎日のように顔を合わせていた2人はいったん別々の高校生活へ進み、田中さんは芸能界とは違う進路を考えるようになります。
高校野球は1週間で退部し、ハンドボール部へ
中学校まで野球を続けてきた田中さんは、高校でも野球部へ入りました。
ところが練習の厳しさから約1週間で退部し、その後は人数合わせで誘われたハンドボール部へ入っています。
遠藤さんが野球選手を目指して県外の高校でプレーしていた時期、田中さんは地元で授業と部活動をこなす高校生活を送っていました。
『4時ですよーだ』とコメディ映画が好きでも進路はデザインだった
お笑いを見ること自体は昔から好きで、中学生ではザ・ドリフターズや『オレたちひょうきん族』『夕やけニャンニャン』を見ていました。
高校時代にはダウンタウンの『4時ですよーだ』を楽しみにし、小学生のころから『Mr.BOO!ミスター・ブー』や『ピンクパンサー』といったコメディ映画にも親しんでいます。
お笑いやコメディは好きでも、それを自分の職業にするという発想まではまだ結びついていませんでした。
ものづくり好きと姉の夫の影響で店舗設計を学ぶ
高校卒業後に選んだのは、お笑いの養成所ではなくデザインの専門学校でした。
小学生のころから工作が好きだったことに加え、2番目の姉の夫がデザイン関係の仕事をしていたことにも魅力を感じ、専門学校では店舗設計のクラスで学びました。
卒業後もデザインや設計に関わる仕事を考えており、田中さんの20歳直前までの進路は、現在知られている芸人としての姿とは別の方向へ向いていました。
田中直樹が芸人になったきっかけ|卒業制作を手伝った遠藤の誘い
専門学校の卒業が近づいたころ、田中さんの進路を大きく変える形で遠藤さんが再び身近な存在になります。
芸人になる話は突然出てきましたが、その直前には、田中さん一人では卒業そのものが危うくなる出来事がありました。
卒業制作が間に合わず、遠藤が1週間朝から晩まで手伝う
田中さんは専門学校の卒業制作が大きく遅れ、提出期限を過ぎて卒業できない可能性が出るところまで追い込まれていました。
ちょうど大阪での仕事を辞めて時間があった遠藤さんが田中さんの家へ来るようになり、約1週間、毎日朝から晩まで卒業制作を手伝います。
田中さんが後年「遠藤さんの作品だと思っている」と笑うほど手を貸してもらい、ぎりぎりで専門学校を卒業することができました。
卒業はできたが就職先なし|遠藤はプロ野球の夢を断念
卒業には間に合ったものの、制作に追われていた田中さんは十分な就職活動ができておらず、卒業後の就職先が決まっていませんでした。
一方の遠藤さんは、中学生のころから思い描いていたプロ野球選手への道を断念し、もう一つ興味を持っていた芸能界へ進もうとしていました。
そこで遠藤さんが声をかけた相手が、卒業制作を一緒に仕上げたばかりで、まだ就職先のなかった田中さんでした。
天竺川で「コンビ組んで東京行けへん?」と誘われる
遠藤さんが田中さんを誘った場所は、豊中市を流れる天竺川の土手でした。
田中さんの実家から歩いて行ける場所で、遠藤さんが芸能界を目指す話を切り出します。
「コンビ組んで東京行けへん?」
ORICON NEWS
伊丹空港に近い豊中らしく、ちょうど飛行機が近くを通っていたため、田中さんは最初、人生を変えるその言葉をうまく聞き取れず、飛行機が通り過ぎてから聞き直しました。
専門学校を出たばかりの田中さんは、この誘いをきっかけにデザインの道から遠藤さんとの芸人人生へ方向を変えます。
NSCには入らず「3年で結果が出なければ辞める」と20歳で上京
誘われた田中さんには驚きがありましたが、卒業制作を助けてもらった遠藤さんへの感謝に加え、もともとコメディが好きだったことや東京への憧れも背中を押しました。
デザインを学んでいた田中さんらしく、丹下健三さんの設計による東京都庁を実際に見てみたいという気持ちもあったそうです。
当時は高校卒業後の18歳でNSCへ入る人もいる中、20歳の2人は自分たちが2年遅れていると考え、大阪で養成所へ入るより東京で直接スタートする道を選びました。
しかも1992年当時はまだ東京NSCが開校していなかったため、ココリコは「東京NSCの○期生」という形で芸人になったコンビではありません。
2人は「3年たった時にレギュラー番組へ少しも関われていなければ諦める」と期限まで決め、20歳で東京へ向かいました。
1992年にココリコ結成|初舞台の一つの笑いから吉本へ
上京したからといって、すぐに決まった劇場や仕事が用意されていたわけではありません。
養成所を経由していない2人は、自分たちで人前に出られる場所を探すところから始めました。
東京NSC設立前、オーディション雑誌を頼りにライブを探す
遠藤さんが東京・久我山の親戚宅に住むことになったため、田中さんも近くに部屋を借り、電車を乗り継いで吉本興業の当時の東京支社へ通いました。
ライブへ出る方法を探すために使っていたのがオーディション情報誌で、出演できそうな場所を自分たちで探していました。
ある日、テレビのお笑い番組でライブとオーディションの告知を見つけると、2人は応募するため急いで約3分のコントを作ります。
急造した3分のコントで初舞台|一つの笑いで人前に立つ楽しさを知る
オーディションでコントを見せると、その日の夜に行われる吉本主催のライブへ出演させてもらえることになりました。
舞台ではほとんど笑いが起きませんでしたが、一か所だけ客席の半分ほどが反応してくれた瞬間がありました。
「初めて人前に立つのが楽しいと思えました」
POPEYE Web
1992年5月のこの舞台が田中さんにとっての初舞台となり、2人はそのまま吉本興業で活動を始めていきます。
中学時代の手帳を思い出し「ココリコボンバーズ」と命名
コンビ名を決める段階で2人が思い出したのが、中学生のころに拾った手帳に書かれていた「喫茶ココリコ」でした。
手帳を無事に持ち主へ返して謝礼ももらえたことから、「ココリコ」は2人にとって縁起の良い、しかも特定の意味に縛られない言葉として残っていました。
ただ、2人とも強く前へ出るタイプではないと考え、力強そうな言葉を加えて、最初のコンビ名を「ココリコボンバーズ」としました。
「ココリコ」がフランス語でニワトリの鳴き声を表す言葉だと知ったのは、名前を付けた後だったそうです。
銀座7丁目劇場の若手時代|バイト生活と路地裏のネタ合わせ
1992年に活動を始めたココリコにとって、若手時代の大きな拠点になったのが1994年に開館した銀座7丁目劇場でした。
テレビで知られる前の2人は、オーディションを受け、舞台へ出て、生活のためにアルバイトをしながら次の仕事を待っていました。
劇場オーディションを受けながら数百円で何日も過ごす生活
銀座7丁目劇場では、オーディションを受けて出演枠をつかむ日々が続きました。
吉本興業の旧東京支社へ通っていたころには、建物の1階にある駐車場や近くの路地に立ってネタ合わせをすることもありました。
芸人の収入だけでは暮らせないためアルバイトも必要で、時には数百円で数日を過ごさなければならないほど手元のお金が少ない時期もありました。
テレビへの憧れを抱きながらも、目の前にあるのは劇場の舞台とオーディションという生活でした。
後年、田中さんは劇場へ出続けていた姿を見たテレビ関係者が名前を出してくれたことから、別のオーディションへつながった経験も明かしています。
加藤浩次の一言で「ボンバーズ」を外し、ココリコへ
銀座7丁目劇場では、極楽とんぼやTEAM-0など、東京吉本の先輩たちとも接するようになりました。
中でも田中さんが若手時代の恩人として語っているのが、極楽とんぼの加藤浩次さんです。
加藤さんは「ココリコボンバーズ」という名前の後半が2人に似合わないと感じていたようで、独特の言葉で改名を勧めました。
「ボンバーズちぎっちゃえよ」
TOKYO FM「川島明 そもそもの話」
助言を受けて「ボンバーズ」を外し、現在まで続く「ココリコ」というコンビ名になりました。
田中さんによると、名前を短くすると自分たちにも周囲にも不思議となじみ、その後は仕事の幅も広がっていったといいます。
テレビで結果が出ず遠藤と取っ組み合い|それでも3年以内にレギュラー獲得
先輩に励まされながら舞台へ立っていても、テレビで思うような結果が出ない時期には、田中さんと遠藤さんの関係もぎくしゃくしました。
ウケなかった原因を互いのせいにし、まともにコミュニケーションを取らなくなった末、楽屋で本当に取っ組み合いになったことがあります。
普段使わないような強い言葉で言い返そうとした田中さんが言葉を噛み、周囲の先輩がそこを笑いに変えたことで、その場は収まりました。
2人が上京時に決めた「3年でレギュラーに関われなければ辞める」という期限が来る前に、実際にレギュラー番組の仕事が決まりました。
『ガキの使い』前説からレギュラーへ|ココリコの仕事が変わった転機
劇場で舞台を重ねていたココリコにとって、その後の芸人人生を大きく変えた番組の一つが『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』でした。
最初から現在のようなレギュラーメンバーとして入ったのではなく、スタジオの観客を本番前に盛り上げる前説から番組に関わっています。
前説を任され、約半年後から本編にも呼ばれるようになる
ココリコは偶然『ガキの使い』の前説を担当できることになり、収録前の客席を相手に仕事を続けました。
前説を始めて半年ほどすると、本編のオープニングにも少しずつ呼ばれるようになります。
舞台で観客を前に積み重ねていた時間の先で、前説から本編へと出演する場所が変わっていきました。
田中さん自身も2026年のインタビューで、『ガキの使い』を人生における大きな出来事の一つとして挙げています。
月亭方正に支えられながらレギュラーメンバーへ
本編へ出る回数が増えたココリコは、やがて番組のレギュラーメンバーになりました。
大きな番組で結果を求められる中、田中さんが支えになった人物として名前を挙げているのが月亭方正さんです。
方正さんはTEAM-0時代から東京吉本で活動し、ココリコが初舞台に立ったころから2人を知る先輩でした。
前説だった2人が番組本編へ入り、やがて現在まで続くレギュラーの位置へ進んだことは、ココリコの仕事を大きく変える転機になりました。
20代後半で『ココリコ黄金伝説』が始まり全国区へ
1998年にはテレビ朝日で『ココリコ黄金伝説』が始まり、ココリコ自身の名前を冠した番組を持つようになります。
初期には、特定の一品だけで1週間生活する企画など、田中さんと遠藤さん自身が長時間のロケへ挑む内容もありました。
番組がゴールデンタイムへ進むころには、若手時代に前説を担当していた2人も全国的に知られるコンビになっていました。
劇場のオーディションを受けていた時代から数年を経て、ココリコは自分たちの冠番組を持つところまで仕事の範囲を広げました。
コメディ・俳優・生き物へ|少年時代から続いていた現在の仕事
知名度が上がった後の田中さんは、バラエティ番組だけに活動を絞らず、コメディ、俳優、生き物に関わる仕事へと活動を広げています。
その中には、小学生や高校生のころに好きだったものと重なる分野もあります。
『ミラクルタイプ』や『みんなのいえ』へ|コメディ好きが俳優業にも広がる
2001年にはコントを軸にした『ココリコミラクルタイプ』が始まり、同じ年に三谷幸喜監督の映画『みんなのいえ』にも出演しました。
『みんなのいえ』での演技により、田中さんは第25回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。
小学生のころからコメディ映画を好み、芸人としても最初に作ったのがコントだった田中さんは、その後もバラエティと俳優の両方で活動するようになりました。
本人も50代になってから、コントやコメディを好きな気持ちは小学校時代から変わっていないと話しています。
若手時代の悩みの中で、生き物を見ることが心の支えになる
幼いころから生き物に興味はあったものの、その存在が仕事や生き方の考え方にまで入り込むようになったのは、芸人として仕事が増えてからでした。
30歳前後になると自分たちの番組や多くの仕事を任される一方、田中さんは求められるものに自分の力が追いつかないと感じ、人間関係や睡眠不足も重なって心身が疲れていた時期があったと明かしています。
そんな時、自分を社会的な評価の中の「田中直樹」ではなく、生物学上の一つの「ヒト」と考えることで見え方が変わりました。
「生き物としては最低限のことをできている」
HOMINIS
食べることができ、屋根のある場所で眠れていると考えることで気持ちが少し軽くなり、生き物への感謝や尊敬が以前より強くなったといいます。
父親と見た『ジョーズ』から始まったサメへの興味も続き、現在では種類の多さや生態、長い進化の歴史にまで関心を広げています。
2026年、とよなかアンバサダーとして生まれ育った街と再びつながる
2026年8月、田中さんと遠藤さんはそろって「とよなかアンバサダー」に就任しました。
就任式では、2人が出会った学校、コンビ結成の誘いがあった天竺川、中学時代に「ココリコ」の言葉を見つけた出来事など、芸人になる前の豊中での時間が改めて語られました。
「いまの僕を形作っていると思う」
豊中市
豊中で遠藤さんと出会い、20歳で一緒に街を離れてから34年を経て、今度は2人で故郷の魅力を伝える役割を担うことになりました。
野球と工作が好きだった豊中の少年は、デザインを学んだ後、遠藤さんからの一言をきっかけに予定していなかった芸人の道へ進みました。
初舞台で生まれた一つの笑いから劇場時代を重ね、ココリコとして仕事が広がってからも、子どものころから好きだったコメディや生き物は田中さんの生活の中に残り続けています。
そして現在は、芸人人生が始まるずっと前に遠藤さんと出会った豊中とも、アンバサダーという形で再びつながっています。












コメントを残す