蓮見翔の生い立ちと家族|父はギタリスト、母の笑い声からダウ90000結成まで

人物プロフィール

生年月日
1997年4月8日
身長
170cm
血液型
A型
出身地
東京都 東久留米市
コンビ・グループ名
ダウ90000
相方・メンバー
園田祥太、飯原僚也、上原佑太、中島百依子、忽那文香、道上珠妃、吉原怜那
結成年
2020年
所属事務所
オフィスカニバブル
芸人活動開始年
2020年

8人組のダウ90000を率い、コントと演劇の脚本・演出を手がける蓮見翔さん。

2026年には戯曲『ロマンス』で第70回岸田國士戯曲賞を受賞し、劇作家としても大きな実績を残しました。

現在の姿だけを見ると、学生時代から迷わず舞台の道を進んできたようにも見えますが、本人は中学生のころに一度、お笑い芸人になることを諦めています。

それでも高校で映画や劇を作り、日本大学芸術学部では演劇と漫才を同時に続け、大学卒業のタイミングで就職せずダウ90000を始める道を選びました。

その始まりをたどると、母親がテレビを見て笑っていた小学生時代、ギタリストとして働く父親を見ながら考えていたこと、文化祭で味わった客席の笑いなど、現在につながる出来事が順番に現れてきます。

蓮見翔の生い立ちと家族|母の笑い声からお笑いに夢中になった少年時代

蓮見さんは1997年4月8日生まれで、東京都で育ちました。

後年、地元について語った際には花小金井の名前も挙げており、子どものころから生活の中にはテレビとお笑いがありました。

9歳で見たM-1|母親が笑うチュートリアルからお笑いへ

お笑いへ強く興味を持った場面として本人が挙げているのが、2006年のM-1グランプリです。

一緒にテレビを見ていた母親が、優勝したチュートリアルを見て大笑いしていました。

当時9歳だった蓮見さんには、母親がなぜそこまで笑っているのか理解できない部分があり、その疑問からお笑いへ意識が向いていきます。

「9歳のときに観たM-1で、母親がすごく笑っているのが不思議でお笑いに興味を持つようになりました。」

テレビ朝日「+90000」

小学生になると、担任の先生からM-1のDVDを借りたこともありました。

さらに『モヤモヤさまぁ~ず2』をきっかけにさまぁ~ずへ夢中になり、近所のTSUTAYAへ行って単独ライブのDVDを次々と借りています。

小学生のころには「お笑い芸人」が初めて本気でなりたいと思った職業になっていました。

さまぁ~ずのDVDを借り続け、中学ではラジオへネタ投稿

家庭では早く寝る決まりがあったため、中学生のころにリアルタイムで見られる番組は限られていました。

そのなかで特に繰り返し見ていたのが、土曜夜に放送されていた『ザ・イロモネア』で、録画した同じ回を1週間見続けることもあったそうです。

テレビだけではなく、TBCラジオ『トータルテンボスのぬきさしならナイト!』や文化放送『髭男爵 山田ルイ53世のルネッサンスラジオ』などもポッドキャストで聴き、ネタを投稿していました。

ただし、当時送ったネタが番組で読まれたことは一度もなかったといいます。

ギタリストの父を見て、中学生で一度「芸人は無理」と考えた

お笑いへの憧れが強くなる一方で、蓮見さんはかなり早い時期に「プロになる難しさ」も意識するようになります。

父親はギタリストとして音楽の仕事をしており、その仕事で子ども2人を育てていました。

大人になった蓮見さんは父親の仕事について、音楽だけで家族を支えていたこと自体が相当すごかったと理解するようになりますが、子どものころはまた違った見方をしていました。

身近にプロの世界で働く父親がいたことで、好きなことや技術があることと、有名になったり成功したりすることは別だと早くから感じていたといいます。

「僕、お笑い芸人になること自体、中学生の時点で一回諦めてたりもするんで。」

ほぼ日「ダウ90000蓮見翔のまなざし」

中学から深夜バラエティへ触れるようになると、プロの芸人たちの面白さを見れば見るほど、「自分にはこんなに面白くなれない」と考えるようになりました。

小学生のころに抱いた芸人への憧れは、ここで一度進路の候補から離れていきます。

井草高校時代|見る側から「作る側」へ変わっていった

高校へ進んだ蓮見さんは、東京都立井草高校で過ごしました。

芸人を目指す自信はなくなっていましたが、お笑いを見る時間はむしろ増えていきます。

週30本ほどのバラエティを録画し、バイトとお笑いを見る日々

高校に入ると、それまであまり見られなかった深夜バラエティの存在を知りました。

本人によると、毎週30本ほどを録画してすべて見ており、部活動には入らず、アルバイトをするか、お笑いを見るかという生活を送っていました。

人前で派手にふざけてクラスの中心になるタイプの笑いにはあまり乗れず、当時憧れていたのはラーメンズでした。

自分からボケるより、ふざけている友人の横へ行ってツッコミを入れることを意識する時期もあったといいます。

芸人になる自信を失った一方、「面白いものを作りたい」という気持ちまでは消えていませんでした。

高2で映画、高3で約30人の劇を作り日芸映画学科へ

高校2年生になると、当時広がっていたTwitterを題材にして映画を撮りました。

高校3年の文化祭では、クラスの文化祭実行委員から「今年は何をやるの?」と聞かれ、自分から劇を提案します。

そこで作ったのは、約30人が出演するコメディ劇でした。

文化祭という場ではありましたが、実際に客席から笑いが起き、自分が書いて作ったもので人が笑う感覚を味わいます。

芸人として前へ出る道を諦めかけていた蓮見さんに、「書く・作る」という別の入口が現れた時期でした。

「映画学科っていう逃げ道を選びました」

Steenz 蓮見翔インタビュー

本人は後年そう表現していますが、文化祭で映画と劇を実際に作った経験を持ったまま、日本大学芸術学部映画学科へ進学しました。

日本大学芸術学部時代|園田祥太との出会いと2つのお笑い活動

日芸へ入った蓮見さんは、養成所へ進むのではなく、大学内で舞台制作を始めます。

ここで出会った同級生や後輩たちが、数年後のダウ90000につながっていきました。

スベったショートムービーから始まった園田祥太との関係

現在のダウ90000で蓮見さんと同学年なのが園田祥太さんです。

2人が出会ったのは日芸へ入学して間もないころで、授業では各自が撮ったショートムービーを発表していました。

園田さんは「500mlの水を一気飲みしようとするのに全然飲めない」という動画を作ったものの、教室ではほとんど受けなかったそうです。

その後、園田さんが学食にいると、それまで面識のなかった蓮見さんが近づいてきました。

「『あの動画、マジでつまらなかったわ』って話しかけてきたのが出会いでした」

Steenz 園田祥太インタビュー

かなり変わった初対面から始まった2人ですが、園田さんはその後、蓮見さんと最も長く一緒に活動するメンバーになります。

「はりねずみのパジャマ」を始め、教室に長机で舞台袖を作る

大学1年だった2017年3月、蓮見さんはもう一人の主宰に誘われ、前身団体「はりねずみのパジャマ」で初公演を行いました。

最初のメンバーは男性8人で、園田さんも「断らなそう」という理由で誘われて参加しています。

映画学科の学生だったため演劇学科のホールは使えず、公演場所は大学の教室でした。

長机を立てて無理やり舞台袖を作り、照明は教室にある蛍光灯を使います。

出演者が15人ほどいるのに客が4人しかいなかった公演もあり、変わった看板を持って学生を呼び込んでいたこともありました。

蓮見さんともう一人の主宰はそれぞれ脚本を書き、同じ場面を書いてしまったときには、どちらのシーンの方が面白いかをメンバーの前で競わせていました。

園田との20分の会話が受け、自分の武器を会話劇に見つける

もう一人の主宰の面白さに勝てないと感じていた蓮見さんは、自分なら何で勝てるのかを探していました。

その答えの一つになったのが、園田さんとのコントです。

あるネタでは、歌に合わせて国旗を覚える設定の途中で、蓮見さんと園田さんが20分ほど会話を続ける場面がありました。

その長い会話が客席に大きく受けたことで、蓮見さんは会話劇を自分の武器として磨いていくことを決めます。

現在のダウ90000で見られる、何気ない会話が少しずつずれて笑いへ変わっていくスタイルは、日芸の教室で行われていた舞台の中ですでに形を見せていました。

後輩の上原佑太さんも、学生時代の蓮見さんについて、最初から観客に伝わることを意識した脚本を書いていたと語っています。

道上珠妃さん、忽那文香さん、中島百依子さんらも公演を見たり、友人の紹介を受けたりしながら参加していきました。

中島さんの場合は忽那さんが間をつなぎ、蓮見さんとマクドナルドで会ったあと、約2か月後の公演へ誘われています。

ヌープリッキーで漫才に挑み、M-1では2回戦の壁を越えられず

演劇と並行して、蓮見さんは大学時代に漫才にも取り組んでいました。

2018年には長谷部さんと「ヌープリッキー」を結成し、M-1グランプリへ出場しています。

M-1公式では蓮見さんが「蓮見水族館」名義で登録されており、本人によれば3年間M-1へ挑戦しました。

ただ、ヌープリッキーとしては2回戦より先へ進むことができませんでした。

演劇では会話劇という武器が見え始めた一方、漫才では結果が出ない時間も並行して流れていました。

2020年、就職せずダウ90000へ|約40人から8人が残った

大学生活の終盤には「はりねずみのパジャマ」の人数が増え、ピーク時には約40人が関わる団体になっていました。

ところが蓮見さんが大学を卒業する2020年、活動を続ける前提そのものが大きく変わります。

大学卒業とコロナ禍で活動が止まり、進路を決め直す

大学時代に組んでいた漫才コンビでは単独ライブも予定されていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大によって開催できなくなりました。

「はりねずみのパジャマ」の活動も止まり、蓮見さん自身は就職しないまま大学を卒業します。

学生団体では、稽古の途中で就職活動が忙しくなり、メンバーが抜けることも珍しくありませんでした。

学生の延長のまま続ければ自分も甘えてしまうと考えた蓮見さんは、ここで活動の線を引くことにします。

「就職しない」メンバーが残り、現在の8人で再出発

2020年9月、蓮見さんはメンバーへ、これから本気で売れるつもりで活動することを伝えました。

条件として示したのは、芸能活動への華々しい覚悟ではなく、まず「就職するつもりの人は抜けてほしい」という現実的なものでした。

その条件を示したところ、蓮見さんを含む現在の8人が残ります。

ここで蓮見翔、園田祥太、飯原僚也、上原佑太、道上珠妃、忽那文香、中島百依子、吉原怜那のダウ90000が動き始めました。

養成所へ入学して同期とコンビを組んだのではなく、大学の教室で何年も作品を作ってきたメンバーが、そのままプロとして続ける形を選んだことになります。

「9がかわいい」から90000へ|グループ名を決めた経緯

プロとして活動するにあたり、「はりねずみのパジャマ」から名前も変更しました。

蓮見さんは「劇団」のように活動内容を限定する印象を持つ名前を避けたいと考えており、数字を入れたグループ名を検討します。

「1万の位」の名前があまりないという話になり、女性メンバーから「9がかわいい」という意見が出たことで「90000」が決まりました。

前についた「ダウ」は語呂から決まり、意味を背負わせすぎない「ダウ90000」という名前になりました。

ダウ90000の若手時代|月15本の新ネタと小さな劇場から始まった

8人で再出発したからといって、すぐに大きな劇場へ立てたわけではありません。

蓮見さんはまず2021年1月の演劇公演を目標に置き、そこへ観客を呼ぶため、毎月コントライブを開くことにしました。

初舞台『あの子の自転車』から4か月連続で月15本を書き下ろす

ダウ90000として最初に行ったコントライブが『あの子の自転車』です。

「だからダウの初舞台は『あの子の自転車』っていうコントライブですね。」

テレビ朝日 logirl「First Stage」

当初は大人数をコントの中で動かす難しさも感じましたが、ライブは一度きりでは終わりませんでした。

蓮見さんは毎月15本の新作コントを書き、それを4か月連続で続けます。

本人が「あと1か月続いていたら折れていた」と語るほどの量でした。

大学時代にはYouTube用に2週間で14本をまとめて撮り、毎日1本ずつ公開するような時期もあったため、本人の感覚では「月15本ならできる」と考えていたそうです。

客席15人ほどのライブからユーロライブ「テアトロコント」へ

初期のコントライブは30人ほどの小さな会場で行われ、コロナ禍の人数制限もあったため、客席に入っていたのは15人程度でした。

YouTubeへ公開したコントも再生数が200回程度のことがあり、作品を大量に作り続けても、届く人数はまだ多くありませんでした。

そんなライブを見つけたのが、渋谷・ユーロライブのプロデューサー小西朝子さんです。

ダウ90000は約200席のユーロライブで行われる「テアトロコント」へ呼ばれ、30人規模だった活動から次の舞台へ進みます。

蓮見さんが大量のネタを書き続ける意味を迷い始めていた時期に届いた出演依頼でした。

『夜衝』『旅館じゃないんだからさ』を経て8人の形が固まる

2021年にはコントライブ『夜衝』などを重ねながら、演劇公演にも取り組んでいきました。

第2回演劇公演『旅館じゃないんだからさ』では、稽古期間中に出演メンバー2人が抜けることになり、蓮見さんは脚本を大きく書き直しています。

理由を外側から推測することはできませんが、残った8人で作品を作り直し、公演までたどり着きました。

この作品は後に第66回岸田國士戯曲賞の最終候補となり、学生時代の教室公演から続いてきた蓮見さんの演劇活動も外部から注目されるようになります。

5人でM-1へ出場し、ヌープリッキー時代を超える準々決勝へ

同じ2021年、ダウ90000は8人全員ではなく、蓮見さんと吉原怜那さん、中島百依子さん、道上珠妃さん、忽那文香さんの5人でM-1グランプリへ出場しました。

M-1公式ではこの5人組の結成年が2021年8月15日とされていますが、これはM-1出場ユニットとしての記録であり、ダウ90000本体は2020年旗揚げです。

5人は準々決勝まで進出しました。

大学時代のヌープリッキーでは3年間挑んでも2回戦を突破できなかった蓮見さんにとって、別の形でM-1の2回戦より先へ進んだ出来事になりました。

演劇とお笑いの両方で知られるまで|ABC決勝から現在へ

2021年を境に舞台を見る人は増えていきましたが、ダウ90000には別の難しさも生まれました。

コントをすれば演劇と呼ばれ、演劇をすればお笑いのグループとして紹介されるという、8人組ならではの立ち位置です。

2022年ABCお笑いグランプリ決勝と、蓮見翔が感じた「暗黒期」

2022年、ダウ90000は第43回ABCお笑いグランプリの決勝へ初めて進出しました。

蓮見さんは決勝前のインタビューで、小学生のころからお笑いが好きだったものの、自分は芸人になれるような人間ではないと思って一度諦めていたことに触れています。

「遠回りしてコントやってたら賞レースの決勝にいけたので、本当に嬉しい」

ABEMA TIMES

一方で決勝では、本人たちはお笑いの賞レースへ挑んでいるつもりでも、ネタに対して「芝居」としての評価を受けました。

さらに直後にはメンバーの体調事情でグループ活動が難しくなり、決まったドラマの仕事も重なって、本人の感覚ではお笑いから離れていく時期になります。

2026年にTOKYO FMへ出演した際、蓮見さんはこのころを「暗黒期」として振り返っています。

ただ、ABCへの挑戦自体はそこで終わらず、その後も決勝の舞台へ戻っています。

舞台だけでなくテレビ・ラジオ・ドラマ脚本へ仕事が広がる

ダウ90000の知名度が上がるにつれ、蓮見さん個人の仕事も増えていきました。

コントや演劇の脚本・演出だけでなく、テレビ番組、ラジオ、ドラマ脚本などへ活動が広がります。

2022年のインタビューでは、東京03の飯塚悟志さん、オークラさん、ヨーロッパ企画の上田誠さんら、以前から見ていた作り手とドラマを書く機会も生まれていることを話していました。

高校時代に「自分は芸人として面白くなれない」と考えて映画学科を選んだ人物が、「書く」という形でお笑いの現場へ戻り、演じる側にも立ち続けるようになっていました。

『ロマンス』で第70回岸田國士戯曲賞を受賞

演劇作品では『旅館じゃないんだからさ』に続き、2023年にも『また点滅に戻るだけ』が岸田國士戯曲賞の最終候補となりました。

そして2025年に上演した第7回演劇公演『ロマンス』が、第70回岸田國士戯曲賞の候補に選ばれます。

2026年2月16日の選考会で、大石恵美さんの『よだれ観覧車』とともに受賞作となりました。

『旅館じゃないんだからさ』『また点滅に戻るだけ』に続く3度目の最終候補で、蓮見さんは岸田國士戯曲賞を初受賞しました。

ただし、この受賞を境にダウ90000がお笑いを離れたわけではありません。

2026年もお笑い賞レースへ出場し、単独ライブ『40000』で10都市を回る

岸田國士戯曲賞を受賞した2026年にも、ダウ90000はABCお笑いグランプリへ挑戦しました。

準決勝の取材で、なぜ岸田賞まで受賞してなおお笑いの賞レースへ出るのか聞かれた蓮見さんは、短く答えています。

「お笑いがやりたいんですよ。」

ABCマガジン

第47回ABCお笑いグランプリ2026では4度目の決勝進出を果たし、2026年になってもコントで賞レースの舞台へ立っています。

同年7月からは、約2年ぶりとなるコント単独ライブ『40000』をスタートしました。

大阪、東京、札幌、仙台、福岡、広島、鹿児島、金沢、名古屋、横浜の全国10都市を回る公演で、脚本・演出は引き続き蓮見さんが担当しています。

演劇で大きな賞を受けたあとも、ダウ90000はコントと演劇の片方へ一本化せず、両方を続けています。

母親がM-1を見て笑う姿からお笑いへ興味を持った少年は、中学生で一度その道を諦め、高校では自分が前へ出る代わりに作品を作り始めました。

日芸の教室で園田祥太さんたちと舞台を作り、漫才では結果が出ない時期も経験したあと、2020年に就職せず8人でダウ90000を続ける道を選びました。

その8人は現在も同じ舞台に立ち、蓮見さんはコントを書き、演劇を書き、お笑いの賞レースにも出ながら活動を続けています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA