高木ブーの生い立ちと家族|空襲後の柏、15歳のウクレレからドリフ加入まで

人物プロフィール

本名
高木友之助
生年月日
1933年3月8日
身長
160cm
血液型
O型
出身地
東京都
コンビ・グループ名
ザ・ドリフターズ
相方・メンバー
加藤茶、いかりや長介、志村けん、仲本工事
結成年
1964年
所属事務所
イザワオフィス
芸人活動開始年
1964年

ザ・ドリフターズのメンバーとして長く親しまれ、「雷様」とウクレレの姿でも知られる高木ブーさんは、2026年3月に93歳を迎えました。

現在もライブを続けていますが、その音楽人生はテレビで人気者になるずっと前から始まっています。

若い頃は京北高校へ通いながらボクシングジムにも通い、中央大学では音楽研究会に入り、卒業時には父親が用意してくれた就職先へ進まずプロミュージシャンを選びました。

その長い音楽人生の出発点になったのが、15歳の誕生日に兄から突然もらった1本のウクレレでした。

高木ブーさんは、最初からお笑い芸人を目指していた人物ではありません。

東京・巣鴨で過ごした幼少期から空襲後の柏での生活、高校・大学時代、プロのバンドマンとして過ごした日々、そしていかりや長介さんから声をかけられてドリフターズへ入るまでを順番にたどっていきます。

高木ブーの生い立ちと家族|巣鴨の6人きょうだい末っ子から柏へ

高木ブーさんは1933年3月8日、東京・巣鴨で高木友之助として生まれました。

家族は両親と兄3人、姉2人で、高木さんは6人きょうだいの末っ子でした。

社宅の池と松、ジャズのレコードがある家で育つ

父親は水道やガスのメーターを製造していた金門商会に勤めており、一家は会社の社宅で暮らしていました。

高木さんが覚えている社宅の敷地には何軒かの家が並び、庭には大きな松の木や池もありました。

近所の子どもたちと遊び、女の子に交じってままごとをすることもあった少年で、両親とは休日に大塚へ映画を見に行き、帰りに親子丼を食べるのを楽しみにしていたと振り返っています。

兄や姉とは年齢が離れており、長兄とは19歳、長姉とは18歳ほどの差があったため、末っ子の高木さんは両親からもかわいがられて育ちました。

もう一つ、のちの人生につながるものが家の中にありました。

家には蓄音機やジャズのレコードがあり、学校で習う唱歌とは違う音楽を幼いころから耳にしています。

まだ自分で楽器を演奏していたわけではありませんが、音楽そのものはウクレレと出会うより早く生活の中にありました。

1945年の空襲で自宅を失い、母の実家がある柏へ

戦争が激しくなると、3人の兄はそれぞれ出征し、巣鴨の家にも防空壕が設けられました。

1945年春、高木さんが12歳のころ、空襲によって暮らしていた家が焼けています。

空襲の日については後年の本人の回想にも幅があり、別のインタビューでは3月10日と話している一方、より詳しい回想では「3月10日ではなく、たぶん4月13日の豊島区の空襲」だったとしています。

火が迫る中、高木さんは父親と消火を試みたものの家を守り切ることはできず、小石川植物園の方向へ避難しました。

それまでの巣鴨での暮らしは空襲によって途切れ、一家は母親の実家があった千葉県柏へ移ります。

東京で生まれた高木さんにとって、柏は少年期後半から青年期へ進む場所となりました。

そして、その柏で生涯手放さないことになる楽器と出会います。

15歳のウクレレが高木ブーの若い頃を変えた

柏へ移ってから数年後、高木さんの生活へ突然入ってきたのがウクレレでした。

自分から欲しいと頼んだ楽器ではなく、最初からプロを目指していたわけでもありませんでした。

兄・昇司にもらったウクレレ、柏の夏祭りで最初のステージへ

1948年3月、中学校卒業を目前にした15歳の誕生日に、三兄の昇司さんがウクレレをプレゼントしてくれました。

昇司さん自身がハワイアン音楽を好きだったために買ってきたもので、高木さんはそれまで楽器を本格的に弾いた経験がありませんでした。

そこへ増田進さんという人物からハワイアンを一緒にやろうと誘われ、ウクレレを覚え始めます。

その年の夏には柏の祭りで、6人ほどの「ドリーム・アイランダーズ」というグループの一員として人前に立ちました。

まだ自在にコードを操れるほどではなく、高木さん自身の回想では、ほとんどGコードを鳴らしながら5、6曲ほど演奏したといいます。

十分に弾けないまま立った最初のステージで観客から拍手をもらい、高木さんはウクレレへますます夢中になりました。

「僕をウクレレの道に引きずり込んだんだよね。」

介護ポストセブン

京北高校で古川和彦とレコードを聴き込んだ

中学卒業後は、柏から常磐線などを乗り継いで、東京・白山にあった京北高校へ通いました。

ウクレレを始めてしばらくすると、周囲の友人に弾き方を教えるほどになり、高木さん自身も学校ではかなり弾けるほうだと思っていたそうです。

そこへ転校してきたのが古川和彦さんでした。

古川さんにウクレレを弾かせてみると自分よりはるかにうまく、兄が立教大学でウクレレをしていたこともあって、すでに高い演奏技術を持っていました。

高木さんは古川さんと親しくなり、南千住にあった古川さんの家へ何度も泊まり込むようになります。

教則本が簡単に手に入る時代ではなかったため、ふたりはレコードを何度も聴き、同じ音を楽器で探しながら演奏方法を覚えていきました。

古川さんは高校卒業後に一足先にプロのハワイアンバンドへ入り、高木さんにとって身近な友人が音楽を仕事にする姿を見ることになりました。

ボクシングよりウクレレを選び、音楽中心の高校生活へ

現在の穏やかなイメージからは少し意外ですが、高木さんは中学から高校にかけて水道橋のボクシングジムにも約2年間通っています。

当時、柏から東京へ向かう常磐線には荒っぽい学生も多く、高木さんは絡まれたときに困らないよう強くなりたいと考え、学校の先輩に勧められてボクシングを始めました。

体重50kg前後のフライ級で何度か試合にも出たものの、本人によれば勝ったことはありませんでした。

そのころにはウクレレへの熱中度が上がり、拳や指を傷めれば演奏できなくなることも気になるようになります。

高木さんが最終的に選んだのは、ボクシングではなくウクレレでした。

高校を卒業するころには、15歳で偶然手にした楽器が日常の中心になっていました。

中央大学で音楽漬け|就職を断ってプロの道へ

高校卒業後、高木さんは中央大学経済学部へ進学しました。

大学へ入ってすぐ音楽研究会に入り、ウクレレを趣味で楽しむ段階から、本格的なバンド活動へ進んでいきます。

音研「ルナハワイアン」でレギュラーを目指した大学時代

中央大学の音楽研究会では、地下の練習場所へ通い、ほぼ毎日のように楽器を弾いていました。

当時の音研で花形だったのが、ハワイアンバンドの「ルナハワイアン」です。

高木さんはそのレギュラーメンバーに入ることを目標に練習し、演奏の場も少しずつ増えていきました。

音研には1学年上に、のちにクレージーキャッツで活躍する谷啓さんもおり、当時からトロンボーン奏者として知られていたと高木さんは語っています。

高校では植木等さんが先輩、大学では谷啓さんが先輩という縁がありましたが、このころの高木さん自身はまだテレビのお笑いへ進もうとはしていません。

目の前にあったのは、好きになったハワイアンをできるだけうまく演奏することでした。

父が用意した東京ガスへの就職を断り、プロミュージシャンへ

大学4年になると、音楽を続けるのか一般企業へ就職するのかを決める時期が来ました。

父親は息子の将来を考え、東京ガスへ就職できる話を用意してくれていました。

ところが高木さんは、その道を選びませんでした。

当時はハワイアンバンドの仕事が多く、大学で音楽を続けるうちに、自分も演奏で生活していけるという感覚を持つようになっていました。

1956年に中央大学を卒業すると、用意されていた就職先には進まず、プロミュージシャンになる道を選びます。

のちに国民的なコメディアンとなる高木ブーさんにとって、最初の大きな職業選択は「芸人になる」ではなく「音楽で食べていく」でした。

「高木智之」としてハワイアンバンドを率いる

プロになるにあたり、本名の「友之助」ではなく、自分で考えた「高木智之」という芸名を使い始めました。

卒業後は自身のハワイアンバンド「高木智之とハロナ・セレナーダス」を率いるなど、本格的に演奏の仕事を始めます。

当時は米軍キャンプでの演奏仕事も多く、高木さんたちは各地を回りながらステージ経験を積んでいきました。

ハワイアンだけでなく、その時代に流行していたジャズ、ポップス、ロックンロールなどにも演奏の幅を広げ、所属するバンドも変わっていきます。

このバンドマンとしての移籍や人脈の中で、後に同じドリフターズのメンバーとなる人物とも出会うことになります。

バンドマン時代に妻・喜代子さんと結婚、仲本工事とも出会う

20代の高木さんは、演奏する場所や所属バンドを変えながらプロミュージシャンとして活動していました。

その時期に、後の人生を大きく支える妻・喜代子さんと、ドリフ以前から付き合いが続く仲本工事さんに出会います。

ダンスパーティーで喜代子さんと出会い、1962年に結婚

高木さんが3歳年下の福本喜代子さんと知り合ったのはダンスパーティーでした。

そこから約5年間交際し、1962年2月1日に結婚しています。

喜代子さんの実家を訪ねると寿司を取ってもらい、祖母が三味線を弾き、妹が日本舞踊を披露してくれるような家だったと高木さんは振り返っています。

一方で、収入が安定しにくかった当時のミュージシャンとの結婚に、喜代子さんの両親や祖父は強く反対しました。

結婚式の朝になっても母親から考え直すよう言われたそうですが、喜代子さんの意思は変わりませんでした。

結婚当初はアパートで生活し、数年後には喜代子さんの実家の庭にある小さな家を借りて暮らすようになります。

ジェリー藤尾のバンドで学生だった仲本工事と出会う

高木さんはその後、歌手・ジェリー藤尾さんの専属バンドでも演奏しました。

そこでバックコーラスを担当する若い歌い手として入ってきたのが、当時まだ学生だった仲本興喜さん、のちの仲本工事さんです。

つまり、高木さんと仲本さんの関係はザ・ドリフターズで始まったものではありません。

高木さんは演奏者、仲本さんは歌える若手として同じ現場に立ち、その後もバンド仲間として活動をともにしました。

ドリフターズ加入後に高木さんが仲本さんへ声をかけることになるのも、この時期から互いの演奏力を知っていたことが背景にありました。

娘かおる誕生、仲本工事らとの「シャドーズ」へ

結婚翌年の1963年1月には一人娘のかおるさんが生まれました。

家庭では父親になった一方、仕事ではジェリー藤尾さんのバンドを離れた後も演奏活動を続け、仲本さんらと「シャドーズ」で活動します。

シャドーズはギターを前面に出したバンドで、高木さんはハワイアンから始まった自分の音楽を、その時代に求められるサウンドへ広げていました。

このシャドーズで横浜のジャズ喫茶に出演していた1964年夏、いかりや長介さんが高木さんの前に現れます。

1964年、いかりや長介の誘いでザ・ドリフターズへ

高木さんがお笑いの世界へ近づく直接のきっかけは、自分からオーディションを受けたことでも、養成所へ入ったことでもありません。

プロのバンドマンとして演奏していたところへ、すでにジャズ喫茶などで顔を合わせていたいかりや長介さんから声がかかりました。

横浜のジャズ喫茶で声をかけられ、車内で「ミルク代」の話

1964年8月末ごろ、高木さんはシャドーズの一員として横浜のジャズ喫茶に出演していました。

その日の店にいかりやさんらが現れ、帰りの車の中で「ウチに来ないか」とドリフターズへの移籍を持ちかけられます。

高木さんは以前からドリフのステージを見ており、コミックバンドとして面白いことをしているとは感じていましたが、自分から入りたいと考えたことはなかったそうです。

そこで気になったのが、妻と幼い娘を抱える生活に直結するギャラでした。

ただし、高木さんは金額を直接尋ねるのが得意ではありません。

「娘のミルク代がかかって困る」

介護ポストセブン

高木さんは遠回しにそう伝えましたが、いかりやさんにはすぐ意図が伝わらず、車の中ではしばらく本当にミルクについての話が続いたといいます。

家へ着くころになってようやく話が通じ、いかりやさんから5000円のギャラアップを提示されました。

妻のひと言に背中を押され、ドリフ加入を決める

条件は良くなったものの、高木さんはすぐに決断したわけではありませんでした。

それまで積み上げてきた音楽活動から方向の違うコミックバンドへ移る話でもあり、自宅へ帰って喜代子さんに相談しました。

「新しいことに挑戦してみたら」

介護ポストセブン

妻の後押しを受け、高木さんはドリフターズへ移ることを決めました。

本人の回想では、正式な加入日は1964年9月16日です。

同年10月10日に東京オリンピックの開会式が行われているため、まさに東京が大きく動いていた時期に高木さんの仕事も変わりました。

プロミュージシャンとして始まった高木さんの芸能生活は、ここからコミックバンド「ザ・ドリフターズ」の一員として新しい方向へ進みます。

高木ブーが仲本工事を誘い、1965年に新生ドリフがそろう

高木さんとほぼ同時期に荒井注さんも加入し、いかりやさん、加藤茶さんらと活動する体制になりました。

さらにギターを弾けるメンバーが必要になると、いかりやさんから相談された高木さんが思い出したのが、以前から一緒に活動していた仲本工事さんでした。

高木さんから連絡を受けた仲本さんは、大学卒業後の就職という別の進路もあり、家族も芸能界入りには反対していました。

いかりやさんが仲本家へ出向いて話をするなどした末、仲本さんは1965年初めにドリフターズへ加入します。

後に広く知られるドリフの歴史を考えると、高木さんは誘われて入っただけでなく、仲本さんを新しいバンドへつなぐ側にもなっていました。

「高木智之」から「高木ブー」へ

ドリフ加入直後も、高木さんはプロ入り時から使っていた「高木智之」の名で活動していました。

メンバーからは体格にちなんで「ブータン」と呼ばれていましたが、ある日、渡辺プロダクション社長・渡辺晋さんの家に集まった際、クレージーキャッツのハナ肇さんがドリフのメンバーに芸名を付けることになります。

いかりや長介、加藤茶、仲本工事、荒井注と名前が決まり、最後に高木さんの番が来ました。

「ブーでいいんだよ」

介護ポストセブン

本人はすでに「智之」という芸名を持っていただけに複雑だったそうですが、やがて「高木ブー」の名が定着しました。

『全員集合』前から売れ始めていたドリフターズ

ドリフターズというと、1969年に始まった『8時だョ!全員集合』によって突然人気が出たように見えるかもしれません。

しかし高木さんの回想では、1965年に新しいメンバー構成が整ってから『全員集合』が始まるまでの約5年間も、仕事がない時期ではありませんでした。

加入直後からテレビへ、ジャズ喫茶でも引っ張りだこ

当時のドリフターズはまだバンドとしての色が濃く、ジャズ喫茶などのステージを数多くこなしていました。

高木さんが加入したころにはテレビ番組への出演も始まっており、『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』などのレギュラーも経験しています。

「けっして“下積み”だったわけじゃない。」

介護ポストセブン

ジャズ喫茶では出演依頼が多く、テレビにも複数のレギュラーがある状態だったと本人は説明しています。

『全員集合』は無名のグループが突然世に出た最初の仕事ではなく、すでに仕事を増やしていたドリフがさらに大きく飛び出す番組でした。

1966年ビートルズ日本公演の前座に立つ

その途中にあった大きな仕事の一つが、1966年のザ・ビートルズ日本公演です。

6月30日から7月2日に日本武道館で行われた5公演で、ドリフターズは尾藤イサオさんや内田裕也さん、ジャッキー吉川とブルー・コメッツらとともに前座へ出演しました。

ドリフは『Long Tall Sally(のっぽのサリー)』を演奏し、仲本工事さんが英語でボーカルを担当しています。

高木さん自身は後年になっても、なぜ自分たちが世界的スターの公演の前座に選ばれたのか分からないと振り返っていました。

コントの印象が強くなる前のドリフターズは、日本武道館でビートルズの前に演奏する現役のバンドでもありました。

1969年『8時だョ!全員集合』で全国的な人気者へ

1969年10月、TBS系で『8時だョ!全員集合』が始まりました。

毎週土曜日に公開形式の生放送でコントや音楽を届ける番組で、ドリフターズは全国のお茶の間で知られる存在になっていきます。

番組は1985年まで16年間続き、高木さんの生活もバンド中心だった時代とは大きく変わりました。

忙しい時期は家のことや娘の子育てを喜代子さんに任せることが多く、生放送の日には妻がテレビの前で事故や失敗が起きないよう気を揉んでいたといいます。

プロのバンドマンだった高木さんは、『全員集合』によって日本中が知る「高木ブー」になりました。

『ドリフ大爆笑』の雷様でウクレレが再び表舞台へ

1977年に始まった『ドリフ大爆笑』では数多くのコントが作られましたが、高木さんを象徴する役の一つになったのが「雷様」です。

加藤茶さんと志村けんさんの番組が始まった後、『ドリフ大爆笑』ではいかりやさん、仲本さん、高木さんの3人で新しい形のコントを作る機会が増えました。

そこで、いかりやさんから音楽をもう一度取り入れる提案が出ます。

「俺たち、楽器を忘れてんじゃねえか?」

音楽ナタリー

仲本さんがギター、高木さんがウクレレを持ち、歌手のゲストを迎えて演奏する形が加わりました。

15歳の夏祭りから大学、プロバンドへと続いていたウクレレが、雷様のコントで再び高木ブーさんの代名詞になっていきます。

妻との別れを経て、もう一度ウクレレが人生の中心へ

『全員集合』終了後はメンバー個人での活動も増え、高木さんにも自分の好きな音楽へ戻る時間ができました。

その一方で、長年家庭を支えてきた喜代子さんとの別れが訪れます。

1994年に妻・喜代子さんを亡くし、学生時代の仲間が声をかける

喜代子さんに脳腫瘍が見つかったのは1992年でした。

複数回の手術を受けましたが、1994年に50代で亡くなります。

高木さんは食欲が落ちるほど気持ちが沈み、当時一緒に暮らしていた娘のかおるさんにも心配をかけたと振り返っています。

そのころ連絡をくれたのが、中央大学時代からのバンド仲間でした。

「また一緒にハワイアンやろうよ」

介護ポストセブン

テレビのコントではなく、学生時代に何度も演奏したハワイアンへ戻る誘いでした。

「高木ブーとニューハロナ」でハワイアンを再開

かつての「ハロナ・セレナーダス」の仲間を中心に、「高木ブーとニューハロナ」を結成しました。

最初は大規模な会場ではなく、小さな場所で少しずつ演奏を再開しています。

ドリフで長く活動してきた高木さんが60代になって戻ったのは、15歳から続けてきたハワイアンとウクレレでした。

1990年代後半になるとウクレレ奏者としての活動が広がり、1999年にはNHKのウクレレ講座にも出演しました。

2001年には東京・麻布十番にハワイアンの店「Boo’s Bar HALONA」を開き、音楽活動の比重はさらに大きくなっていきます。

テレビで知られた「高木ブー」と、若い頃からのハワイアンミュージシャンとしての高木さんが、ここで再び一つになりました。

93歳の現在もライブ、育った柏とのつながりが続く

2026年3月8日、高木さんは93歳の誕生日を迎えました。

本人のInstagramでは、家族で誕生日を祝うことや、加藤茶さん夫妻からプレゼントが届いたことを報告しています。

「今年もライブやります」

日刊スポーツ

イザワオフィスの公式プロフィールでも2026年のテレビ出演などが案内され、ザ・ドリフターズに関わる活動は現在も続いています。

同年8月には、少年時代を過ごした柏市の柏神社とのコラボレーション御朱印も実現しました。

空襲後に移り住み、ウクレレを始めた柏との縁は、90代になった現在まで続いています。

15歳でもらったウクレレを、高木さんは93歳になった現在も手放していません。

巣鴨で育った少年は、戦後に移った柏で1本のウクレレと出会いました。

大学卒業時には就職を断って音楽を選び、バンドマンとして演奏を続けた先で、いかりや長介さんからドリフターズへ誘われました。

そして現在も、高木ブーさんのそばには、若い頃から弾き続けてきたウクレレがあります。

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