Aマッソむらきゃみの生い立ち|家族と阪南大学、加納に誘われ芸人になるまで

人物プロフィール

本名
村上愛
生年月日
1988年6月16日
身長
155cm
血液型
AB型
出身地
大阪府 大阪市住吉区
コンビ・グループ名
Aマッソ
相方・メンバー
加納
結成年
2010年
所属事務所
ワタナベエンターテインメント
芸人活動開始年
2010年
養成所・スクール
松竹芸能養成所

お笑いコンビAマッソのむらきゃみさんは、2024年2月まで「村上」の芸名で活動していました。

現在はAマッソとしてライブやラジオ、YouTubeなど幅広く活動していますが、芸人になるまでをたどると、幼いころから一直線にお笑いの道を目指していた人物ではありません。

相方の加納さんとは小学5年生からの幼なじみで、高校が別になっても関係が続き、大学生になってから再び一緒に行動するようになりました。

むらきゃみさん自身は芸人を目指していたわけではなく、大学時代に加納さんから誘われたことが、お笑いの世界へ入る直接のきっかけでした。

小学生のころに一緒にネタをしていた2人が、大学時代のインディーズライブ、松竹芸能、上京、事務所退所とフリー期間、長い下積みを経て現在まで同じコンビを続けています。

むらきゃみの生い立ちと家族|大阪で育った4きょうだいの一人

むらきゃみさんは1988年6月16日生まれで、大阪で育ちました。

後に相方となる加納さんと出会う以前から活発に外で遊ぶ子どもで、現在のゆったりした話し方から受ける印象とは少し違う子ども時代を過ごしています。

子ども時代は「とにかく走り回っていた」

子どものころについて聞かれたむらきゃみさんは、難しい性格分析をするのではなく、外で動き回っていた様子を端的に振り返っています。

「とにかく走り回ってました」

MARZEL

加納さんが後年語った小学生時代の印象でも、むらきゃみさんはマイペースで少し独特なところがあり、運動神経がよかった人物として記憶されています。

この時点では、学校でいつも笑いを取っている「お笑い担当」だったわけではありません。

村上家4きょうだい|公式YouTubeにも家族が登場

むらきゃみさんは4きょうだいの一人で、家族との距離の近さはAマッソとして活動するようになってからも見える場面があります。

2024年にはAマッソ公式YouTubeで「村上4兄弟 最強の村上決定戦」と題した企画が公開され、きょうだいが実際に動画へ登場しました。

家族についてテレビ向けのきれいなエピソードだけが語られているのではなく、ラジオやYouTubeにきょうだい本人が登場するところも、むらきゃみさんの家族との関係が見える部分です。

小学5年生で転校してきた加納と出会う

後の芸人人生を大きく変える出会いは、まだ将来の職業など考える前の小学5年生のころでした。

加納さんが転校してきたことで2人は同級生となり、ここから長い付き合いが始まります。

加納さんから見た当時のむらきゃみさんは、周囲と同じように振る舞うというより、自分のペースを持っている友人でした。

後にコンビを組む2人ですが、小学生の時点で「将来一緒に芸人になろう」と約束していたわけではありません。

小中学校から高校時代|加納と笑いを共有した幼なじみ時代

小学校で知り合った2人は同じ中学校へ進み、日常の中で笑いを共有するようになっていきました。

ただし、学校内でAマッソの2人だけが際立ってお笑いをしていたわけではなかったと、本人たちは後年はっきり話しています。

同級生4人で『笑う犬』や新喜劇のギャグを混ぜたネタを披露

小学生時代には、むらきゃみさんと加納さんに男子同級生2人を加えた4人組で、人前に出てネタを披露したことがありました。

ネタを考えていたのは男子2人で、当時人気だった『笑う犬の冒険』や吉本新喜劇などのギャグを組み合わせた内容だったといいます。

後にプロの芸人になる2人ですが、このころからオリジナル漫才を書いていたわけではなく、その時々で好きだった笑いを友人たちと遊びの延長で楽しんでいました。

「全然お笑い担当ではない」

日刊スポーツ

同じ学校にはほかにも漫才をする子がおり、Aマッソの2人だけが特別な存在だったわけではなかったそうです。

中学卒業後は別々の高校へ、それでも交流は続いた

2人は同じ中学校を卒業したあと、別々の高校へ進みました。

学校が分かれればそのまま疎遠になっても不思議ではありませんが、家が近かったこともあり交流は続きました。

この時期にも、2人が芸人になることを具体的に決めていたわけではありません。

高校卒業後もそれぞれの生活へ進みながら、小学生から続いてきた友人関係だけは切れずに残っていました。

阪南大学時代|芸人志望ではなかったむらきゃみに加納が声をかける

高校卒業後、むらきゃみさんは阪南大学へ進学しました。

ここから、小学生時代の友人だった加納さんとの関係が「一緒に何かをする相手」へ変わっていきます。

阪南大学へ進学、当初は芸人を目指していなかった

大学生になったむらきゃみさんは、最初から卒業後の進路をお笑い一本に定めていたわけではありませんでした。

後年のインタビューでも、当時について自分から強く芸人を目指していたわけではなかったと話しています。

「私は目指してたわけじゃなく、ふらふらしてて。」

Bezzy

大学ではオープンキャンパスの運営に関わるなど、普通の学生生活も送っていました。

別のインタビューでは、以前はパイロットになりたいと思っていた時期もあったと語っています。

芸人になるという進路は、むらきゃみさん自身が長年温めてきた夢ではなく、加納さんとの再接近から突然現れた選択肢でした。

加納の誘いで大阪のインディーズライブへ

大学2年生ごろ、加納さんは大学生活をいったん止めることを考え、その時間に何か新しいことを始めようとしていました。

ある夜、2人で万代池を歩いていたとき、加納さんがむらきゃみさんへ声をかけます。

「暇になるから何かせーへん?」

QJWeb

そこから加納さんが「お笑いライブに出てみよう」と持ちかけ、むらきゃみさんも応じました。

日刊スポーツのインタビューでは、むらきゃみさん自身がその誘いに「二つ返事」だったと振り返っています。

加納さんにとっても、先に「絶対に芸人になる」と決めて相方候補を探したというより、「むらきゃみと何かをしたい」という順番だったといいます。

「お笑いをやりたいから相方を探した」のではなく、「むらきゃみと何かをする」ことが先にあったのがAマッソの始まりでした。

おそろいのサーモンピンクの自転車で遠出していた2人

まだ何を始めるか固まり切っていなかったころ、2人はホームセンターのコーナンで同じ自転車を買い、遠くまで走ることもありました。

価格は7000円ほどで、本人たちが「鉛のように重い」と表現する自転車でした。

色はサーモンピンクで、それぞれ「サーモンピンク村上」「サーモンピンク加納」と名前まで付けています。

お笑いを始める直前にも、2人で何か面白そうなことを探しながら動き回っていた時期があり、その延長線上でライブ出演が始まりました。

初めてのネタ作りは清水丘のマクドナルド

ライブに出ることが決まると、2人はそれぞれ一本ずつネタを書いて持ち寄ることにしました。

待ち合わせたのは清水丘のマクドナルドで、加納さんはコーヒー、むらきゃみさんはバニラシェイクを手に、初めて書いたネタを見せ合っています。

むらきゃみさんはA4用紙をちぎった紙などへ思いついた内容を書き込んで持参しましたが、その独特な内容を見た加納さんが、その後のネタ作りを担うようになりました。

のちにAマッソでは加納さんがネタを書く形が定着しますが、その役割分担も最初から決まっていたものではありません。

月1回ほどのインディーズライブから活動が始まる

2人は大阪のインディーズライブへ出始め、月に1回ほど舞台へ立つようになりました。

当時はまだどこの芸能事務所にも所属しておらず、大学生活と並行して舞台へ出る状態でした。

大阪だけでなく東京のコンテストへ足を運ぶこともあり、少しずつ「学生の遊び」から継続的な活動へ変わっていきます。

現在の公式なプロフィールではAマッソの結成年は2010年とされていますが、2人が一緒にインディーズライブへ出始めたのはそれ以前の大学時代でした。

Aマッソ結成と松竹芸能時代|大阪の地下ライブから上京へ

インディーズライブを続けていた2人は、卒業後の進路を考える時期に入ります。

ここでAマッソは、養成所へ自分たちで申し込むだけではない、思いがけない形で芸能事務所との接点を持ちました。

NSCを考えていた2人に松竹芸能から声がかかる

2人はもともと吉本興業のNSCへ行くことも考え、そのための費用を貯めていました。

ところが、インディーズライブへ松竹芸能の関係者が見に来ており、2人へ声がかかります。

当時の松竹芸能では女性芸人を集めるコースが始まる時期で、Aマッソには養成所へ無料で入れる特待生枠が提示されました。

入学金を用意してNSCへ進むつもりだった2人にとって、無料で入れる条件は大きく、そのまま松竹芸能タレントスクール大阪校へ進みます。

地下ライブへ出ていたことが、そのまま松竹芸能からのスカウトにつながりました。

週1回のネタ見せ中心だった松竹芸能タレントスクール

松竹芸能の養成所生活は、発声やダンスなどを幅広く学ぶ学校というより、週に一度のネタ見せが中心でした。

最初に発声を行うと、すぐにネタを披露し、講師から指摘を受けるという流れだったと2人は振り返っています。

褒められることは少なく、「おもんない」「意味わからん」と厳しく言われる日も続きました。

同じ女性芸人コースにはヒコロヒーさんがおり、松竹の養成所時代を基準にすると同期にあたります。

養成所には約10カ月通ったのち、2人は予定されていた2年間を最後まで大阪で過ごすことなく、東京へ移ることになりました。

「愛」のAと『キン肉マン』から生まれたAマッソという名前

「Aマッソ」というコンビ名も、長い時間をかけてブランド戦略を考えて決めたものではありませんでした。

ライブのエントリーシートを書くため、その場でコンビ名を決める必要があり、「三丁目四丁目」や近所の店名だった「木村屋」なども候補に挙がっています。

最終的に、2人の名前に共通する「愛」のAと、『キン肉マン』のゲームで耳にした「マッソー」という響きを組み合わせて「Aマッソ」になりました。

急いで決めた名前が、その後10年以上にわたって使われるコンビ名になっています。

住吉大社や万代池公園でネタ合わせをしていた大阪時代

大阪で活動していたころ、2人には自由に使える稽古場があったわけではなく、身近な公園や屋外でネタ合わせをしていました。

場所は住吉大社、万代池公園、長居公園などでした。

夜の住吉大社で練習していた際には、警備員が来たため柱の陰へ隠れたものの、しっかり見つかっています。

「見えてるで〜。早よ帰りや〜」

MARZEL

劇場へ出る以前のAマッソは、こうした場所でネタを作り、練習して舞台へ持っていく生活を続けていました。

むらきゃみさんは長居公園近くの焼き鳥店「炭火美酒処 ちょび」で働いていた時期もあり、大学やアルバイトと芸人活動が同時に進んでいました。

新宿角座のオープンを機に大阪から東京へ

転機になったのは、松竹芸能が東京に新宿角座をオープンする時期でした。

養成所で2年間を過ごすより東京のほうが舞台へ出られるのではないかと作家から勧められ、2人は2011年に上京します。

大阪のインディーズライブから始まった活動は、ここで生活の拠点ごと東京へ移りました。

東京では松竹芸能所属の芸人として新宿角座へ出演し、コントの練習には広い教室を使える廃校を利用することもありました。

若手・下積み時代|松竹退所からワタナベ、8年間の共同生活へ

上京したからといって、すぐテレビの仕事が増えたわけではありません。

知り合いの少ない東京で舞台を続けるなか、事務所との関係にも変化が起こります。

松竹を離れ、半年ほどのフリー期間へ

Aマッソは東京へ出てから3年に満たない2013年ごろ、松竹芸能を離れました。

後年のインタビューでは、女性芸人がまとめて参加したオーディションで加納さんが求められた内容に反発し、ふざけた回答をしたことをきっかけにマネージャーから呼び出された経緯を2人が説明しています。

そのころは東京へ出てきても思うようにライブへ出られず、加納さん自身もフラストレーションを抱えていました。

マネージャーから態度について注意された話をむらきゃみさんが加納さんへ伝えると、加納さんは退所を決断し、2人そろって松竹を離れます。

良くしてくれていた社員や先輩のチキチキジョニーから引き止められたものの、そのまま半年ほどフリーで活動しました。

フリー参加可能なライブからワタナベエンターテインメントへ

次の所属先になったのが、現在も所属するワタナベエンターテインメントです。

2人はワタナベの養成所へ入り直したわけではなく、当時行われていたフリー芸人も参加できるライブのオーディションを受けました。

担当者から芸歴を聞かれた加納さんが冗談交じりに「2日目です」と答え、それを面白がられたこともあり、そのままライブへ参加する流れになったといいます。

すぐ正式所属になったわけではありませんが、ライブ出演を続けながらワタナベで活動するようになりました。

松竹を離れたあとに別の養成所へ入り直すことなく、フリー芸人として受けたライブオーディションから現在の事務所へつながっています。

上京後は加納と8年間のルームシェア

仕事だけでなく、上京後の生活も2人は一緒でした。

東京へ移った当初は東急池上線の御嶽山周辺で暮らし、その後も住まいを変えながらルームシェアを続けます。

加納さんによると、一緒に住んだのは2軒でそれぞれ約4年間、合計すると8年間でした。

小学校からの友人であり、相方であり、上京後は同居人でもあるという状態が長く続いていたことになります。

家の中ではむらきゃみさんが散らかし、加納さんが片付けることもあった一方、むらきゃみさんは加納さんの料理や行動を大げさなくらい褒めるため、それでバランスが取れていたと加納さんは後に話しています。

給料日に2人で残高を確認していた売れる前の生活

ワタナベへ移ってからも、すぐ芸人の収入だけで生活できたわけではありません。

むらきゃみさんはアルバイトを続け、コンビの収入が少ない時期には生活費を補う役割も担っていました。

2017年のインタビューでは、給料日になると2人でATMの残高を確認し、今月を乗り切れるかを見ながら、足りなければむらきゃみさんがアルバイトのシフトを増やしていた時期が語られています。

ネタを書く加納さんと、アルバイトへ入って生活費を補うむらきゃみさんという分担ができていました。

M-1で準決勝まで進むようになってからも、生活面ではアルバイトが必要な時期が続いていました。

M-1からTHE Wへ|ネタで評価されてもすぐには売れなかった時期

ワタナベでライブへ出続けるうち、Aマッソはネタを評価される機会を増やしていきます。

それでも、舞台で名前が知られることと、テレビの仕事だけで生活できることの間には長い時間がありました。

『笑けずり』準優勝でライブの観客が増える

2015年、AマッソはNHK BSプレミアムの『爆笑ファクトリーハウス 笑けずり』へ出演しました。

若手芸人たちが合宿しながらネタを作り競う番組で、Aマッソは準優勝まで進みます。

最終オーディションでは笑い飯の西田幸治さんから、単独ライブへ行きたくなるほど面白いと評価されるなど、芸人や関係者からもネタを認められました。

加納さんは後年、『笑けずり』を大きな転機だったと認めながらも、この時点で「売れる」と感じたわけではなかったと振り返っています。

変わったのは、Aマッソを知る人が増え、ライブへ来る観客が増えたことでした。

『笑けずり』はテレビで一気に売れた瞬間ではなく、ライブでAマッソを見に来る人が増えた転機でした。

2016・2017年M-1準決勝、それでもアルバイトは続いていた

続いてAマッソは、2016年と2017年のM-1グランプリで準決勝へ進出しました。

2016年には敗者復活戦にも出場し、漫才コンビとして全国規模の賞レースで名前を見かける機会が増えていきます。

このころには初期の「加納さんがボケ、むらきゃみさんがツッコミ」という固定的な形からも変化し、むらきゃみさん自身のキャラクターをネタへ取り込むようになっていました。

ネタによってボケとツッコミが入れ替わり、どちらか一方へ役割を固定しないAマッソのスタイルが広がっていきます。

ただ、M-1準決勝へ進んでも生活が突然安定したわけではなく、2017年時点でもむらきゃみさんがアルバイトへ入ることがありました。

賞レースで評価されるようになっても、それだけでは「売れた」と言える状態にはまだ届いていませんでした。

2020年THE W決勝進出を境にバラエティの仕事が増える

仕事の種類が大きく変わるきっかけになったのが、2020年の『女芸人No.1決定戦 THE W』でした。

Aマッソは決勝へ進み、プロジェクションマッピングを使った映像漫才も注目を集めます。

それまでにも『笑けずり』やM-1でネタは評価されていましたが、加納さん自身が後年「現状を抜け出したきっかけ」として挙げたのはTHE Wでした。

「『THE W』ですね。ネタ以外のバラエティ番組のオファーが増えました。」

女性自身

THE W以降は、ネタ番組だけでなく、2人の人物そのものを生かすバラエティの仕事が増えていきました。

翌2021年にもTHE W決勝へ進出し、オダウエダに敗れたものの準優勝となります。

2022年にも決勝へ進み、AマッソはTHE Wで3年続けて決勝の舞台に立ちました。

賞レースの結果だけでなく、その前後でテレビやラジオなどへ活動の場が広がったことが、Aマッソにとって大きな変化でした。

2021年に結婚を公表、私生活でも大きな節目を迎える

仕事が増え始めた2021年には、むらきゃみさんの私生活にも節目がありました。

同年10月、『AマッソのMBSヤングタウン』で結婚していたことを公表しています。

所属事務所は相手について一般男性と説明しており、むらきゃみさんも芸人としての活動をそのまま続けました。

小学校から知る加納さんとの8年間の同居生活を終えたあと、むらきゃみさん自身の生活も少しずつ変化していきました。

「村上」から「むらきゃみ」へ|改名と現在まで

Aマッソとしてテレビで知られるようになったあとも、むらきゃみさんには一つ気になることがありました。

コンビ名は知られていても、自分個人の名前までは覚えられていない場面があったことです。

「Aマッソの左の人」から名前を覚えてもらうため改名を考える

改名を考えるきっかけの一つになったのは、2023年10月に訪れた伊勢旅行でした。

街でAマッソだと気付かれても、「Aマッソの人」「左の子」という反応があり、自分の名前まで浸透していないことを改めて感じたと、本人がQJWebの連載で振り返っています。

そこから芸名を変えることを考え、候補を絞り、最終的に選ばれたのが「むらきゃみ」でした。

2024年2月21日、「村上」から「むらきゃみ」への改名を発表し、同時に個人Instagramも開設しています。

長く本名由来の「村上」で活動したあと、Aマッソだけでなく個人の名前も覚えてもらうため、新しい芸名へ切り替えました。

2024年ワタナベお笑いNo.1決定戦で優勝

改名から約4カ月後の2024年6月、Aマッソは所属事務所の大会「ワタナベお笑いNo.1決定戦2024」へ出場しました。

決勝ではファイナルラウンドまで勝ち上がり、Aマッソが優勝しています。

2010年の結成から長く活動し、『笑けずり』準優勝、M-1準決勝、THE W決勝などを経験してきたAマッソにとって、所属事務所の大会で手にした優勝でした。

結成から十数年を経て、2024年にAマッソはワタナベお笑いNo.1決定戦の頂点に立ちました。

2026年に第1子を出産、産休を経てAマッソの活動へ復帰

2026年には、むらきゃみさんの生活にもう一つ大きな変化がありました。

6月11日放送の『AマッソのMBSヤングタウン』で、第1子となる女児を出産したことが発表されました。

出産後は産休に入りましたが、同年8月13日の『AマッソのMBSヤングタウン』で復帰しています。

芸名を「むらきゃみ」へ変えたあともAマッソとして活動を続け、出産と産休を経て再び加納さんと番組へ戻りました。

小学5年生で加納さんと出会ったころ、むらきゃみさん自身は芸人になる未来を決めていたわけではありませんでした。

阪南大学時代に加納さんから声をかけられ、インディーズライブへ出たことから、松竹芸能、上京、フリー期間、ワタナベでの下積みへと時間が続いていきました。

小学生から付き合いのある2人は、生活も仕事も大きく変わった現在も、Aマッソとして同じ舞台に立ち続けています。

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