ヤーレンズ楢原真樹の生い立ち|大学受験失敗からNSCへ、出井との結成とM-1準優勝まで

人物プロフィール

生年月日
1986年11月17日
身長
179.9cm
血液型
O型
出身地
大阪府 池田市
コンビ・グループ名
ヤーレンズ
相方・メンバー
出井隼之介
結成年
2011年
所属事務所
ケイダッシュステージ
養成所・スクール
NSC大阪校 28期

ヤーレンズのボケを担う楢原真樹さんは、細かなボケを次々と重ねる漫才で出井隼之介さんと掛け合いを続けてきました。

2023年のM-1グランプリで初めて決勝へ進み準優勝すると、2024年、2025年も決勝へ進出し、3年連続でM-1ファイナリストとなりました。

ところが、その芸人人生の始まりをたどると、子どものころから一直線に芸人を目指していたわけではなく、大学受験に失敗したあと、母親からNSCを勧められたことが大きな入口になっています。

NSCに入った後もすぐに芸人活動へ熱中したわけではなく、ライブにもほとんど出ずにアルバイトをしていた時期があり、「芸人になった時期」と「芸人として本気になった時期」がかなり離れていました。

大阪府池田市で過ごした学生時代から、出井さんとの出会い、吉本を離れて東京へ移った時期、長いライブ生活を経てM-1の舞台へ届くまでを順番にたどります。

楢原真樹の生い立ちと家族|大阪府池田市で育つ

楢原真樹さんは1986年11月17日生まれ、大阪府池田市出身です。

本人はヤーレンズの共同オフィシャルブログで両親が教師だったことを明かしており、後に芸人への入口を作ることになるのも母親でした。

一方で、幼いころから家族に芸人になるよう育てられたわけではなく、学校生活の中にも、後の進路を簡単には予想できない時間がありました。

小学生のころ吉本新喜劇の藤井隆に憧れていた

大阪で育った楢原さんにとって、子どものころから身近にあった笑いの一つが吉本新喜劇でした。

後年、読売テレビ『にけつッ!!』に出演した際には、小学生のころに吉本新喜劇へ出演していた藤井隆さんに憧れていたことを明かしています。

現在の楢原さんは漫才師として知られていますが、少年時代に目を向けていたのは漫才だけではなく、舞台上で強いキャラクターを見せていた藤井さんでした。

ただし、この時点で「将来は芸人になる」と進路を決めていたわけではありません。

お笑いを見ることと、芸人を職業として選ぶことの間には、まだかなり距離がありました。

小中学校の同級生・岩崎諒太と遊び、ラジオを聴いた学生時代

学生時代の楢原さんを知る人物に、後に声優として活動する岩崎諒太さんがいます。

二人は小学校と中学校が同じで、中学2年生では同じクラスになりました。

岩崎さんによると、同じクラスだった期間は1年間でしたが、当時はよく一緒に遊んでいたといいます。

中学生のころには二人でMBSラジオの『オレたちやってま~す』を聴いており、楢原さんは後年、岩崎さんからお笑いを教えてもらっていた時期だったとも振り返っています。

それぞれ別の世界へ進んだ二人は長く会っていませんでしたが、20年以上が過ぎた2024年、かつて聴いていた番組の流れをくむラジオの場で再会しました。

中学時代にラジオとお笑いへ親しんだ楢原真樹

楢原さんの学生時代をたどると、学校で本格的な学生漫才に取り組んでいた経歴は確認されていません。

本人も後年のインタビューで、学生時代に漫才をしていたのかと聞かれ、そうした活動はしていなかったと答えています。

その一方で、藤井隆さんを見ていた小学生時代や、岩崎さんとラジオを聴いていた中学生時代など、見る側、聴く側としてお笑いに触れる時間はすでに生活の中にありました。

このころの経験がそのまま芸人志望へ結びつくことはなく、進路を考える高校卒業の時期まで、楢原さんは別の道を歩こうとしていました。

高校時代から大学受験へ|進路が決まらない中で迎えた転機

高校時代を終えようとしていた楢原さんが考えていた進路は、すぐにお笑いの世界へ入ることではありませんでした。

大学進学を目指して受験し、そこから思いがけない形でNSCへ進むことになります。

出身高校名は公表情報で確定せず|本人が語った高校時代

楢原さんの出身高校については、所属事務所などの公式プロフィールで学校名は公表されていません。

本人はテレビ番組で、自身が通っていた高校について偏差値が37ほどだったと話したことがありますが、そこから特定の学校名を当てはめることはできません。

ネット上では具体的な高校名が紹介されることもありますが、本人や学校などから高校名を裏付ける公表情報は確認できないため、学校名までは断定できません。

はっきりしているのは、高校卒業後の進路として大学を受験したこと、そしてその結果が次の進路を大きく変えたことです。

大学受験に失敗し、母親から「NSCに行ったら?」と勧められる

高校を卒業する時期、楢原さんは大学受験に挑みましたが、合格には届きませんでした。

浪人してもう一度大学を目指す道を選ばず、次に何をするのか決まっていない状況で出てきたのが吉本総合芸能学院・NSCでした。

その選択肢を出したのは楢原さん自身ではなく、母親でした。

「そしたらお母さんから『NSCとかに行ったら?』って言われて」

めざましmedia

大学受験の失敗と母親のひと言が、楢原さんをお笑いの養成所へ向かわせました。

本人は当時のNSCについて、一般的な専門学校へ通うような感覚で考えていたと説明しています。

小学生のころに藤井隆さんへ憧れたことはあっても、「芸人以外の道は考えられない」という状態で入学したわけではありませんでした。

NSC大阪28期へ|芸人になっても周囲の熱意についていけなかった

楢原さんが入ったのはNSC大阪校28期で、すゑひろがりずの南條庄助さんらと同じ期にあたります。

ここで芸人人生が始まるものの、入学しただけで気持ちまで急に変わったわけではありませんでした。

NSCを専門学校のような感覚で選んだ楢原真樹

NSCには、最初からプロの芸人になるつもりで入ってくる人も大勢います。

大学受験後に母親から勧められて入った楢原さんは、その熱量についていけなかったと後年振り返っています。

周囲ではネタを作り、舞台へ出ようとする同期が動いている一方、楢原さん自身はまだ同じ速度で芸人生活へ踏み出していませんでした。

NSCへ入学したことは芸人人生のスタートでしたが、本人の気持ちとしてはまだ「芸人を仕事にする」と腹を決めた時期ではありませんでした。

卒業後もライブにはほとんど出ず、ローソンで時給700円のアルバイト

NSCを出たあとも、楢原さんはすぐにライブへ出続ける若手芸人にはなりませんでした。

2007年ごろを振り返ったインタビューでは、大阪吉本のオーディションを受ける立場にはいたものの、1年目はエントリーライブにもほとんど出ていなかったと話しています。

「芸人はほぼほぼやってないですね」

Rooftop

生活の中心にあったのは、時給700円のローソンでのアルバイトでした。

家に帰ればドラマ『プロポーズ大作戦』を見て過ごしていたといい、舞台へ出て結果を求める生活とはかなり離れていました。

本人は、モチベーションが低かったからこそ「辞める」という決断をするほどのきっかけもなかったと話しています。

売れることを目指して必死に舞台へ立つというより、芸人という肩書きを持ちながら、実際にはフリーターに近い時間が流れていました。

数年後にようやく「真面目にやろう」と考え始める

その状態がずっと続いたわけではありません。

20代前半になるころ、楢原さんは少しずつ芸人として活動する意識を持ち始め、自分でネタを書くようになりました。

当時組んでいたコンビでは、自分だけの問題ではなく相方の人生にも関わるため、ネタを書く側として頑張ろうと考えるようになっていたと後に語っています。

しかし、ようやくやる気が出始めた22~23歳ごろ、当時の相方から芸人を辞めると告げられます。

楢原さんが約4年間続けていたそのコンビが「すいっちひった~」でした。

芸人として動き出そうとしたところでコンビがなくなり、今度は新しい相手を探す必要が生まれます。

出井隼之介との出会いとヤーレンズ結成|芸人5年目の「大博打」

楢原さんが現在の相方・出井隼之介さんと知り合ったのは、互いに別のコンビで活動していた時期でした。

二人とも若手として思うような結果が出ていない中、コンビの解散がほぼ同じ時期に重なります。

前コンビ「すいっちひった~」を経て、2010年ごろ出井と親しくなる

2010年ごろにはすでに顔を合わせており、当時の出井さんは楢原さんの同期とコンビを組んでいました。

そこで話すうちに見つかった共通点が、サザンオールスターズが好きということでした。

一般的なヒット曲だけでは物足りないほどサザンが好きな人たちを集め、カラオケで少し渋い曲まで歌うような集まりもしていたと二人は振り返っています。

まだ相方候補として近づいたのではなく、最初は同じ音楽が好きな芸人仲間として距離が縮まっていきました。

互いのコンビが解散し、辞めかけていた出井を楢原から誘う

楢原さんの「すいっちひった~」が解散したころ、出井さんが組んでいた「セカンドギア」も活動を終えます。

出井さんはオーディションにも受からない時期が続き、芸人を辞めて大学へ入り直すことまで考えていました。

一方の楢原さんは、以前のコンビでさまざまな形を試しても結果が出なかったため、次は今までやっていない漫才を試そうと考えます。

そこで頭にあったのが、前へ前へと出るのではなく、少し力を抜いた「標準語の引き漫才」でした。

そのスタイルを一緒にできそうな相手として考えたのが出井さんで、楢原さんがネタを用意して声をかけました。

芸人を辞めようとしていた出井さんを、今度は楢原さん自身が誘いました。

2011年結成|関西弁をやめ「引きの標準語漫才」へ大転換

M-1グランプリ公式サイトでは、現在の二人の結成年を2011年9月1日としています。

すでに芸歴5年目前後で、二人とも以前のコンビでは大きな結果を残せていませんでした。

周囲からも、結果の出ていない二人が新しく組んだからといって状況が変わるのかという空気があったといいます。

「僕からしたら、ここで組んだのは大博打。」

ビビプロ公式note

それまでの楢原さんはいろいろな芸風を試し、出井さんも強い関西弁でツッコむスタイルでした。

二人で組んでからは、楢原さんが考えていた方向へ大きく切り替えます。

大阪出身の楢原さんも関西弁を前面に出さず、二人で標準語の脱力した漫才を始めました。

現在のヤーレンズを思わせるスタイルは、売れてから作られたものではなく、結果が出ていなかった若手時代に「今までと違うことをする」ため選んだ形でした。

初舞台で2分を完走し、2012年THE MANZAI認定漫才師へ

大きく芸風を変えた二人には、結成直後から以前とは違う反応が出ます。

当時のオーディションには、2分間ネタを続けられれば次へ進めるゴングショー形式のものがあり、楢原さんは前コンビでは2分を完走できないことの方が多かったと振り返っています。

ところが出井さんとの最初期の舞台では、いきなり2分のネタをやり切ることができました。

それまで一度も受からなかったオーディションにも、結成から3か月に満たないころに合格しています。

さらに2012年には『THE MANZAI』の認定漫才師となり、全国の上位50組に入ります。

舞台を終えた際にはミルクボーイから声をかけられ、出井さんはそのときに初めて「このコンビでいいのだろう」と強く感じたことを覚えていました。

一方、『THE MANZAI』の舞台ではNON STYLEや千鳥らが会場を大きく沸かせる様子も間近で経験し、自分たちとの距離を知ることになります。

結成直後に初めて手応えを得ると同時に、その先にはさらに大きな差があることも知った時期でした。

大阪吉本で浮いたヤーレンズ|2014年に吉本を離れて東京へ

新しいコンビでは結果が出始め、二人は吉本の劇場でも活動するようになりました。

しかし、舞台で結果が出ることと、その環境になじめることは別でした。

標準語の脱力系漫才で大阪の劇場になじめなかった

当時の劇場にはランキングがあり、ヤーレンズの前身コンビは二軍にあたる位置まで進みました。

その一方で、楢原さんには同期との間に数年分の活動差がありました。

同期の芸人たちが早くから劇場で経験を積んでいた間、自分はライブにもほとんど出ない時期を過ごしていたため、同じ「同期」として急に距離を縮めることへ引け目も感じていたといいます。

さらに二人が選んだのは、前へ出る勢いを競うようなスタイルではなく、標準語で少し引いた漫才でした。

「単純になじめなかった」

WANI BOOKS NewsCrunch

周囲の芸人が二人を排除していたという話ではなく、後年の出井さんは、周りが輪に入れようとしてくれていたのに、自分たちが感じていた引け目も大きかったと話しています。

漫才では手応えが出始めているのに、劇場の中では居場所を作り切れない。

その状態が、やがて大阪を離れる選択へつながります。

5upよしもと卒業を前に「東京・大阪・吉本退所」の選択を迫られる

2014年、当時出演していた5upよしもとの卒業が決まります。

楢原さんが同期の南條庄助さんと後年振り返ったABCテレビ『やすとものいたって真剣です』では、この時期に「東京へ行く」「大阪で続ける」「吉本を辞める」という進路を考えることになったと紹介されています。

南條さんたちが東京吉本を選ぶ中、楢原さんと出井さんは吉本を離れる道を選びました。

大阪で続けていた標準語の漫才について、二人には東京の方が面白がってくれる人がいるのではないかという思いもありました。

2014年、二人は大阪吉本を離れ、活動の場所を東京へ移しました。

東京へ移り、トム・ブラウンをきっかけにケイダッシュステージへ

東京で所属先を探す中、ケイダッシュステージを選ぶきっかけの一つになったのがトム・ブラウンでした。

出井さんは以前、大阪で高校生が審査する賞レースにトム・ブラウンが出演したところを見ており、結果は振るわなくてもネタ自体が気になったため、その名前を携帯電話へ残していました。

東京で所属事務所を調べた際、ケイダッシュステージの所属芸人にトム・ブラウンの名前を見つけ、「この人たちがいるなら面白そうだ」と感じたことが選択につながったと出井さんは説明しています。

大阪で居場所を作れなかった二人は、東京で所属先も舞台も一から作り直すことになりました。

「ヒートアップ」「パープーズ」を経てヤーレンズへ改名

出井さんとのコンビは、最初から「ヤーレンズ」という名前だったわけではありません。

結成時には「ヒートアップ」と名乗り、その後「パープーズ」へ変更しています。

「パープーズ」は、二人が好きなサザンオールスターズの楽曲『我らパープー仲間』から取った名前でした。

さらに2014年には現在の「ヤーレンズ」へ改名します。

こちらもサザンオールスターズの『YARLEN SHUFFLE ~子羊達へのレクイエム~』に由来しており、二人が親しくなるきっかけだった音楽がコンビ名にも残りました。

東京のライブで続いた下積み|売れる前の仲間と漫才の日々

東京へ出たことで、すぐにテレビの仕事が増えたわけではありません。

ヤーレンズが長く活動の中心に置いたのは、大小さまざまなお笑いライブでした。

「383」「反野内豊史」などユニットライブで舞台を重ねる

東京時代の二人は、自分たちだけの単独ライブとは別に、芸人仲間と組んだユニットライブを数多く続けています。

2015年には、ヤーレンズ、リニア、ぐりんぴーすによる「383」を開催していました。

2016年にはDr.ハインリッヒとのトークライブ「コーヒーブレイク」も行っています。

さらに錦鯉、モグライダー、虹の黄昏らと続けてきた「反野内豊史」も、後まで関係が続くライブの一つになりました。

テレビで広く知られる前から同じ舞台へ立っていた芸人の中には、後にM-1で結果を残すコンビも次々と現れました。

ヤーレンズも漫才を続けていましたが、決勝まで届かない年が重なっていきます。

それでも舞台から離れず、「ライブに出て漫才をする」という生活だけは長く途切れませんでした。

コロナ禍の公園で本音を話し、コンビの関係が変わる

長いライブ生活の中で大きな変化が起きたのが、2020年のコロナ禍でした。

それまで頻繁に出ていたライブが一斉になくなり、二人には舞台へ行く予定そのものがなくなります。

そこで楢原さんと出井さんは、中野区の塔の山公園などで会い、ネタだけではない話をするようになりました。

すでに長くコンビを組んでいたにもかかわらず、子どものころのことやプライベートの話、互いに引っかかっていた小さな不満まで、以前は十分に話していなかったといいます。

出井さんは後年、この時間に本音を言い合って相互理解が進み、二人の関係が良くなったことが漫才にも表れるようになったと説明しています。

毎日のようにあった舞台が止まったことで、初めて相方と向き合う時間が増えました。

そこから数年をかけ、ヤーレンズの漫才は少しずつ整理されていきます。

2021年、仲間がM-1決勝へ進む中で初めて引退を考える

コンビの会話が増えた一方、楢原さん個人には別の変化も訪れました。

2021年、長く同じライブで活動してきた芸人たちが次々とM-1グランプリ決勝へ進みます。

そのころの楢原さんはアルバイトをしなくても芸人として活動できていましたが、周囲が先へ進んでいく姿を見て、自分たちの今後を初めて現実的に考えました。

「初めて『辞めなきゃな』と思ったんですよね」

ビビプロ公式note

ただ、その時期に観客や周囲の芸人から支えられたことが、反対にM-1へ向き合う理由になります。

辞めることを具体的に考えた翌年、楢原さんは初めてM-1へ本気で向き合うことを決めました。

2022年に漫才を「引き算」|初のM-1準決勝へ

2022年は、楢原さん自身が後に個人的なターニングポイントとして挙げた年です。

結成から10年以上がたち、舞台経験が増えた二人には、できることが増えたからこその問題も出ていました。

モグライダー芝の助言から、詰め込みすぎた漫才を整理

楢原さんは当時の漫才について、長い芸歴とライブ経験によって使える技術が増え、それをネタへ詰め込みすぎていたと振り返っています。

モグライダー、シシガシラと行っていたネタ見せ会でも、情報量の多さを指摘されました。

迷っていた二人へ、モグライダーの芝大輔さんが伝えたのは、毎日舞台へ立って笑いを取ってきた二人なら、もっと要素を減らしても成立するという内容でした。

「もっとシンプルでいいよ」

TV Bros. WEB

二人はネタの情報量を減らし、初めて見る観客にも楢原さんと出井さん自身の面白さが見える形へ整理していきました。

楢原さん自身も、普通のことをしていても自分たちの個性は出ると気づいたと話しています。

長年「足す」ことで作ってきた漫才を、2022年は「引く」方向へ変えました。

7度目の準々決勝を突破し、初めて準決勝・敗者復活戦へ

その変化が結果として表れたのがM-1グランプリ2022でした。

ヤーレンズはそれまで何度も準々決勝へ進みながら、その先へ届いていませんでした。

2022年、7度目の準々決勝でついに壁を越え、初めて準決勝へ進出します。

決勝進出は逃したため敗者復活戦へ回りましたが、前年に引退を考えていたところから、M-1の最終盤まで残る位置へ初めて進みました。

結成11年目で初めてM-1準決勝へ届いたことが、翌年の初決勝へ続く足場になりました。

楢原自身が「意識が変わった」と振り返る2022年

2022年の変化は、ネタの構造だけではありませんでした。

楢原さん自身は、それ以前の自分について目の前の仕事を中心に考え、M-1や芸人人生全体へ十分向き合っていなかった部分があったと振り返っています。

一度は引退まで考えたことで、観客や芸人仲間が自分たちを支えてくれていることにも改めて目が向きました。

長年続けたライブで蓄積した技術、コロナ禍に増えた二人の会話、漫才を整理する作業、そして楢原さん本人の意識の変化が同じ時期に重なります。

2023年になると、その変化はさらに大きな結果として表れました。

M-1 2023準優勝で仕事が一変|3年連続ファイナリストへ

2022年に初めて準決勝へ進んだヤーレンズは、翌2023年のM-1でさらに一段先へ進みました。

結成から12年、楢原さんがNSCへ入ってからはさらに長い時間を経て、ようやく決勝の舞台へ立ちます。

初の決勝で656点、最終決戦まで進み準優勝

2023年12月24日、ヤーレンズはM-1グランプリ決勝へ初進出しました。

ファーストラウンドでは656点を獲得し、さや香に続く2位で最終決戦へ進出します。

最終決戦は令和ロマン、ヤーレンズ、さや香の3組となり、審査員の投票は令和ロマン4票、ヤーレンズ3票でした。

ヤーレンズは初めてのM-1決勝で準優勝となりました。

その年に決勝で披露したネタも、完成してすぐに持ち込んだものではなく、夏ごろにできた長い形から何度も舞台へかけ、決勝まで磨いていったものでした。

M-1後、楢原さんは仕事の量だけでなく仕事の種類まで大きく変わったと話しており、出井さんも自分たちで開催するライブへ多くの客が来るようになった変化を挙げています。

長くライブ中心で続けてきた二人にとって、2023年のM-1は知名度と仕事の両方が動いた大きな転機になりました。

2024年・2025年も5位となり、3年連続M-1決勝へ

準優勝した翌年も、ヤーレンズはM-1へ挑戦しました。

2024年は2年連続で決勝へ進み、ファーストラウンド825点で5位となります。

一度決勝へ出れば翌年は楽になるわけではなく、出井さんは2024年の決勝進出時、前年とは違う戦い方になり、再び決勝へ行くまでが長く感じたと話していました。

さらに2025年も予選を勝ち上がり、3年連続で決勝進出。

決勝ではトップバッターで漫才を披露し、843点で再び5位となりました。

2023年だけの一度きりの決勝進出ではなく、2025年まで3年続けてファイナリストに残りました。

NSC卒業後にライブへほとんど出ていなかった時期や、芸人5年目で周囲から期待されていなかった結成時を考えると、M-1へ届くまでにはかなり長い時間があります。

池田市観光大使となり、ライブ・テレビ・ラジオへ広がった現在

M-1で知られるようになった後も、ヤーレンズは漫才の舞台を活動の大きな軸として残しています。

2026年には単独ライブツアー「10ナンバーズ・からっと」を開催しながら、テレビや複数のラジオ番組にも出演しています。

特にラジオは、中学生のころ岩崎諒太さんと一緒に番組を聴いていた楢原さんにとって、現在の活動の一つとして続いています。

そして2025年10月には、出身地である大阪府池田市の観光大使に就任しました。

池田市は就任理由として、楢原さんが以前からさまざまなメディアで地元への思いを発信してきたことを挙げています。

大阪府池田市で育った少年は、長い芸人生活を経て、地元の名前を背負って発信する立場にもなりました。

大学受験に失敗したとき、母親からNSCを勧められたことから楢原真樹さんの芸人人生は始まりました。

すぐには本気になれなかったNSC時代を経て、出井隼之介さんを自分から誘い、標準語の漫才へ切り替え、東京のライブで長い時間を重ねた末にM-1決勝へ届いています。

現在もヤーレンズとして舞台に立ちながら、テレビやラジオへ活動を広げ、池田市から始まった歩みを続けています。

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