人物プロフィール
2025年のM-1グランプリで準優勝し、40歳で一気に全国へ名前を広げたドンデコルテの渡辺銀次さん。
スーツ姿で独特の持論を畳みかける現在のボケを見ると、最初からこのスタイルで芸人生活を歩んできたようにも見えます。
ところが渡辺さんは、もともとツッコミをやりたくて芸人になった人物で、現在のドンデコルテ以前にはマンキンタン、エマという2つのコンビを経験し、その間には一人で舞台へ立つ時期もありました。
東京NSC14期からM-1初決勝までには長い年月があり、2度のコンビ解散やピン活動、仲間の実家で暮らした下積み時代がありました。
その出発点は、山口県周南市で兄と過ごした子ども時代にあります。
渡辺銀次の生い立ちと家族|山口県周南市で兄と育った子ども時代
渡辺銀次さんは1985年8月2日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは山口県周南市出身とされています。
本人がこれまでに語ってきた話から、両親と兄がいることが分かっており、渡辺さんは二人兄弟の弟として育ちました。
コメ農家の実家で育った二人兄弟の次男
実家の家業については、M-1準優勝直後の2025年12月に出演した『情報7daysニュースキャスター』で、渡辺さん自身がコメ農家だと明かしています。
農家で育ったことから本人の少年時代を想像で補うことはできませんが、渡辺さんが自ら書いたnoteには、家族と過ごした幼いころの場面がかなり細かく残っています。
兄はレッド、自分は敵役――本人が書き残した子どものころの遊び
小学校へ入る前の渡辺さんにとって、兄がいないところで好きなように遊べる時間は特別だったようです。
「二人兄弟の次男である渡辺少年にとって一人遊びは贅沢な時間でした。」
ドンデコルテ渡辺銀次 note
普段、兄とヒーローごっこをすると、正義の味方は兄で、自分は敵役になることが多く、味方になれてもブルーやグリーンまでだったと書いています。
兄が大きな刀を持ち、弟の渡辺さんには小さな脇差が回ってくるという役割まで決まっていました。
現在は舞台の中央で長くしゃべる渡辺さんですが、幼いころの遊びでは兄が主役、自分は敵役や脇役になることが多かったという具体的な記憶が残っています。
祖父の家で一人遊び中、軍鶏と遭遇した夏
4、5歳ごろの夏、家族で母方の祖父の家を訪れたときには、後年まで鮮明に覚えている出来事がありました。
その家では犬や猫、インコ、金魚など多くの動物が飼われており、その中に軍鶏もいました。
渡辺さんは軍鶏を怖がり、祖父に自分がいるときは放さないよう頼んでいましたが、ある日、家族の外出について行かず、一人で庭に残りました。
いつもなら兄が使う大きな刀を独占できるため、プラスチックの刀を手に植え込みを敵に見立てて遊んでいたところ、背後から物音が聞こえます。
振り返ると、そこには放されていた軍鶏が立っており、逃げてもすぐ後ろをついてきました。
何とか玄関へ逃げ込むと、騒ぎを聞いた祖父が駆けつけ、渡辺さんが家族と一緒に出かけたと思って軍鶏を放してしまったことが分かりました。
テレビ用に整理された幼少期の話ではなく、庭で刀を振っていたところから玄関へ逃げ込むまで本人自身が細かく書き残している、渡辺少年の姿が見えるエピソードです。
子どものころからお笑いが好きだった
家庭や学校で最初に人を笑わせた時期を本人が明確に語った資料は多くありませんが、子どものころからお笑いそのものが好きだったことは後年のインタビューで話しています。
特定の芸人一人に憧れていたというより、漠然とお笑いを「面白そう」と感じていたそうです。
初めて腹を抱えて笑った記憶として挙げたのは『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』で、視聴者から届いたハガキに松本人志さんが答えるトークを見て、その話術に驚いたと振り返っています。
徳山高校では生徒会長|山口から東京の大学へ
子ども時代を周南市で過ごした渡辺さんは、地元の山口県立徳山高校へ進みました。
高校時代について本人が語っている資料は限られていますが、2026年になって母校自身から意外な役職が明らかになっています。
徳山高校の元生徒会長だったことを母校公式が紹介
徳山高校の公式ブログは2026年8月、母校を訪れた渡辺さんについて、同校OBで元生徒会長だったと紹介しました。
現在の長い一人しゃべりだけを見て高校時代の性格まで結びつけることはできませんが、少なくとも生徒会長として学校生活を送った時期があったことは母校の記録から確認できます。
徳山高校時代には生徒会長を務めていたという事実は、M-1で知られる以前の渡辺さんを知るうえで興味深い経歴です。
東京の大学へ進み、文学部で学んだ学生時代
高校卒業後は山口を離れ、東京都立大学へ進学しました。
2026年にテレビ東京が『川島明の辞書で呑む』への出演を紹介した際には、渡辺さんが大学時代に文学部で学んでいたことも明記されています。
現在の吉本興業のプロフィールでも趣味として日本文学、民俗学、日本語学、読書が並んでおり、言葉そのものへの関心は現在も続いています。
ただ、大学へ入った時点で明確な職業目標を決めていたわけではなく、本人によれば、やりたいことを見つけられないまま進級していた時期でもありました。
大学卒業を前に芸人を決意|就職せず東京NSC14期へ
進路を本格的に考えたのは大学卒業が近づいたころでした。
周囲が就職活動へ向かう中、渡辺さんは会社へ入ることとは別の道を考え始めます。
「一生続けられる仕事」を考えたとき、お笑いが浮かんだ
2026年のインタビューで、芸人を目指した理由をこう話しています。
「どんな仕事なら一生続けられるだろう、と思ったときに『お笑いなら』という思いがありました。」
マイナビニュース
本人は就職活動自体をしておらず、会社へ入り、その仕事を一生続けることのほうに怖さを感じていたと説明しています。
子どものころから好きだったお笑いが、ここで趣味ではなく仕事の選択肢として現れました。
大学卒業後に会社員を経験して転身したのではなく、就職せず、そのまま芸人の道へ進んでいます。
両親は芸人になる進路に反対した
大学まで進んだ息子がお笑いの世界へ行く決断を、両親は喜んだわけではありませんでした。
渡辺さんによれば両親は反対し、大学まで行ったのにもったいないという受け止め方だったようですが、最終的には本人の決断を止めることはありませんでした。
別の職業へ就いてから芸人へ転身したのではなく、大学を出る段階でお笑い一本を選んだことになります。
地元の幼なじみと吉本へ入り、マンキンタンを結成
渡辺さんが入ったのは東京NSC14期で、一緒に吉本へ入ったのが地元の幼なじみでした。
二人はマンキンタンとして活動を始め、渡辺さんは現在とは反対のツッコミを担当します。
2009年のM-1グランプリ公式記録にもマンキンタンの名前が残っており、24歳のころにはすでに漫才師として大会へ挑戦していました。
マンキンタンからエマへ|最初の解散とピン芸人としての再出発
NSCを出てからの渡辺さんは、現在のドンデコルテへ一直線にたどり着いたわけではありません。
最初のコンビで手応えを得たあと、その相方が舞台を離れ、一人になった渡辺さんは別の形で芸人生活を続けることになります。
ツッコミとして同期から評価されたマンキンタン時代
マンキンタンは若手のころから舞台で一定の結果を出し、コンビ2年目にはM-1で3回戦まで進みました。
当時を知る同期のネルソンズ・青山フォール勝ちさんは、2026年の『しくじり先生』で、マンキンタンは周囲より仕上がっていて、一歩抜けている印象だったと証言しています。
渡辺さん自身もこのころは鋭いツッコミをする側で、現在の長いボケとは立ち位置が違いました。
芸歴3年目、幼なじみの相方が舞台を離れた
吉本へ入るとき、二人は5年ほどやって芽が出なければ辞めようと話していました。
ところが芸歴3年目ごろ、相方から人前に出ること自体を続けたくないと告げられ、マンキンタンは解散します。
渡辺さんはまだ約束した5年が経っていないと考え、ここでは芸人を辞めませんでした。
最初のコンビが解散したあとも一人で残り、約1年半にわたってピンで舞台へ立ちます。
2014年、佐々木翔太とエマを結成
ピン活動を経た2014年8月、渡辺さんは佐々木翔太さんと新たなコンビエマを結成しました。
当時は本名の渡辺博基名義で活動しており、新宿バティオスやヨシモト∞ホールなどの舞台に出演し、単独ライブも行っています。
エマでも渡辺さんはネタ作りを担っていましたが、相方から自分のキャラクターとネタの人物像が合っていないという趣旨の話をされたことで、次第にネタを書けなくなったと後年説明しています。
コンビは2017年10月26日に解散しました。
30歳で益々荘へ|エマ解散後も続いた下積み生活
エマが活動していた時期、渡辺さんの生活ではもう一つ大きな変化が起きていました。
2016年ごろ、30歳になった渡辺さんは、現在もたびたび芸人仲間の話に登場する「益々荘」で暮らし始めます。
山添寛・青山フォール勝ちとの共同生活から益田家へ
益々荘へ移る前は、同期の相席スタート・山添寛さん、ネルソンズ・青山フォール勝ちさんと3人でルームシェアをしていました。
家賃11万5000円を3人で分けていたものの仕事は少なく、渡辺さんによれば部屋にはエアコンもなく、夏には水風呂へ何度も入って暑さをしのいでいた時期もありました。
青山さんが家を出たあと、アパートの更新に必要なお金を用意できなくなった渡辺さんへ声をかけたのが、カゲヤマの益田康平さんでした。
益田さんの実家へ行き、家族との面談を経て、山添さんとともに暮らし始めた場所が益々荘です。
30歳を過ぎてから約10年、芸人仲間の実家の一角が渡辺さんの生活拠点になりました。
同居していた山添寛が先にM-1決勝へ
益々荘へ移った2016年の年末、同居していた山添さんの相席スタートがM-1グランプリ決勝へ進出しました。
渡辺さんはその姿を益々荘にある山添さんの部屋で見ており、一番近くにいた仲間が先に結果を出したことには複雑な感情があったと話しています。
翌春には山添さんが益々荘を出ていきました。
さらに後年、けん玉の練習中に自宅のテレビを壊し、数年間テレビをほとんど見ていない間に、同期のEXIT・りんたろー。さんが大きく売れていたという出来事もありました。
久しぶりにテレビをつけたとき、派手な衣装で前へ出ていた印象のりんたろー。さんが、番組で人の話を聞く側にまでなっている姿を見て驚いたと振り返っています。
エマ解散後は再び一人でフリップや漫談へ
2017年にエマが解散すると、渡辺さんは再びピンで活動するようになりました。
一人の時期にはフリップ芸や漫談を行い、コンビがなくてもライブやピン芸の賞レースへ出続けます。
仕事量が少ない時代にも周囲には渡辺さんを見ていた芸人がいました。
ゆにばーすの川瀬名人さんは、まだ自分が若手だったころ、深夜までネタを書いていると、一度帰った渡辺さんが約30分後に差し入れを持って戻ってきた場面を覚えています。
「川瀬まだ書いちょるんやったら手伝うよ」
ORICON NEWS
抽象的な人物評ではなく、朝方まで残っている後輩を見て、一度帰宅したあと食べ物を持って戻ったという具体的な場面です。
両親から「いつ芸人をやめるんだ」と聞かれ続けた30代
大学卒業時に芸人になることへ反対していた両親とのやり取りは、年数を重ねても終わりませんでした。
30代になると、実家へ帰るたびに芸人をいつ辞めるのかという話になったといいます。
渡辺さんには「これだけの結果が出ているから続けさせてほしい」と見せられるものがなく、親が眠くなるまでうなだれて話をやり過ごしていた時期もありました。
そうしたやり取りが続いたため、当時は実家から足が遠のいていたとも話しています。
貧しい生活そのものより、同世代や同期だけが先へ進んでいく感覚のほうがきつかったと、渡辺さんは後年振り返っています。
仕事もコンビもない時代を支えたR-1
コンビがなく、一人でネタを作っていた時期にも渡辺さんが出場を続けていたのがR-1グランプリでした。
芸人を辞めようかと考える一方、辞めたところで年齢的に次の仕事が簡単に見つかるとも思えず、その間もピンネタを作って大会へ出ていました。
「『R-1』のおかげで芸人を辞めずに済みました。」
カンテレ公式エンタメNEWS「みよか」
決勝へ行けない年でも、3回戦の舞台で笑ってもらえれば、自分のネタを受け入れてくれる場所がまだあると感じられたそうです。
小橋共作からの誘い|news38からドンデコルテ結成へ
渡辺さんがピンで活動していたころ、5期後輩の小橋共作さんもまた前のコンビが解散し、今後を考えていました。
二人が特別に仲のいい先輩後輩だったわけではありません。
5期後輩・小橋が「一番面白い」と思った先輩
小橋さんは一人になったあと、芸人を辞めることまで考えましたが、最後にもう一度だけあがこうとします。
「よし、自分が1番面白いと思ってる人を口説こう。」
ドンデコルテ 小橋 note
そのとき最初に浮かんだのが5期上の渡辺さんでした。
小橋さんから見る渡辺さんは、ライブではよくウケ、MCもでき、頭の回転も速く、自分より「格」が上だと感じる先輩だったそうです。
以前から遊び感覚で何度か一緒に漫才をしたことはありましたが、小橋さんは正式に組んでほしいとは言えずにいました。
2018年にnews38としてお試し漫才を開始
二人は2018年ごろから「news38」という名前でお試しのコンビ活動を始めます。
ただし、この時点では現在のドンデコルテとして正式にコンビ登録したわけではありません。
前のコンビを失い、もう辞めるつもりだった小橋さんが2019年、改めて渡辺さんへ「一緒にM-1へ出ませんか」と連絡すると、返事は意外にもすぐ返ってきました。
「M-1準々決勝」が正式結成の条件になった
あっさり了承された小橋さんは、どこまで勝ち進めたら正式にコンビを組むのかと渡辺さんへ尋ねました。
渡辺さんが出した答えは「準々決勝」でした。
二人とも前のコンビでは2回戦敗退を経験していたため、小橋さんにとっては簡単な条件ではありませんでした。
まだ正式なコンビではない二人が、M-1準々決勝へ進むことを結成条件にしてネタを作り始めました。
最初の1回戦で敗退、それでも再エントリーした
2019年8月2日、二人はM-1の1回戦へ出場しました。
小橋さんは手応えを感じていましたが、結果を見ると名前がありませんでした。
早い時期の1回戦には再エントリー制度があったため、小橋さんがもう一度出ようと連絡し、9月20日に再挑戦します。
今度は1回戦を通過し、10月21日の2回戦も突破しました。
11月11日の3回戦も通過し、ついに渡辺さんが出していた条件へ届きます。
最初の1回戦敗退から再びエントリーし直し、即席に近かった二人は本当に準々決勝まで勝ち上がりました。
準々決勝の楽屋で渡辺銀次がしていたのは「けん玉」
2019年11月19日の準々決勝当日、小橋さんがネタ合わせをしようと広い楽屋で渡辺さんを探すと、そこで見つけた渡辺さんはけん玉をしていました。
二人は準決勝進出を狙って新ネタを用意しましたが、この日の結果は準々決勝敗退でした。
それでも正式結成の条件はすでに達成しています。
翌日、小橋さんはカフェでの打ち合わせ中に事務所へコンビ登録へ行こうと切り出し、二人はプロフィールを登録しました。
M-1公式サイトに記録されている結成年月日は、翌日の2019年11月20日です。
M-1で設定した目標をクリアした翌日に、ドンデコルテが正式に始まりました。
ツッコミからボケへ|ドンデコルテの漫才が形になるまで
コンビが決まっても、渡辺さんにはもう一つ大きな変更がありました。
マンキンタンやエマで続けてきたツッコミではなく、新しい相方の前ではボケに回ることになります。
本当はツッコミをやりたかった渡辺銀次
渡辺さんは後年、そもそもツッコミをやりたくてお笑いを始めたと話しています。
一方、小橋さんは二人がまだ別々のコンビで活動していたころ、普段ツッコミの渡辺さんがライブ企画でボケを担当している姿を見ていました。
そのボケが印象に残っていたため、一緒に組む際には、小橋さんから「あの感じのボケをやってほしい」という話が出ます。
渡辺さん自身は当初かなり抵抗があったものの、続けていくうちに舞台で笑いが取れるようになっていきました。
小橋とのコンビではボケに回り、ネタ作りを担う
こうしてドンデコルテでは小橋さんがツッコミ、渡辺さんがボケとネタ作りを担当する形ができていきます。
渡辺さんのネタ作りは、思いついたことをメモし、自由帳へ広げ、そこから連想したものをネタへ落とし込み、最後にiPadで清書する方法が多いと本人が説明しています。
若いころにやりたかった役割とは違うところで、現在知られているドンデコルテの形が生まれました。
渡辺博基から「銀次」へ、父が考えていた名前を芸名に
コンビ結成後しばらくは本名の渡辺博基で活動していましたが、その後、芸名を渡辺銀次へ変更します。
2026年5月のトークで本人が語ったところでは、「銀次」は生まれたときに父親が付けようと考えていた名前でした。
母親が考えた「博基」が本名になりましたが、本人は2026年から約3年前、漫才のキャラクターに合い、呼ばれやすいと考えて父親案だった銀次を芸名に選んだと説明しています。
現在広く知られる「銀次」は、まったく新しく作った名前ではなく、出生時から渡辺家にあったもう一つの名前候補でした。
2024年、「おじさん」を前面に出してM-1初準決勝
ドンデコルテは2019年、2020年、2021年とM-1準々決勝まで進みましたが、そこから先の壁はなかなか越えられませんでした。
変化が見えたのはM-1グランプリ2024です。
神保町よしもと漫才劇場には20代の後輩が多く、渡辺さんはそこで過ごすうち、自分がおじさん側にいることを強く意識するようになったと話しています。
のちに『恋煩い』として知られるネタも、もともとは年齢を前面に出さず、固い性格の人物として演じていたものでした。
そこへ年齢や「おじさん」という要素が加わり、2024年のM-1ではコンビ初の準決勝進出を果たします。
若さを装うのではなく、年下ばかりの劇場で気づいた自分の年齢そのものがネタの材料へ入っていきました。
40歳でM-1初決勝|準優勝を境に仕事量が変わった
2024年に初めて準決勝へ進んだ翌年、ドンデコルテはさらに一つ先へ進みます。
渡辺さんはすでに40歳になっていました。
2025年、結成6年で初めてM-1決勝へ
M-1グランプリ2025でドンデコルテは初めて決勝へ進出しました。
ファーストラウンドでは845点を獲得して3位に入り、たくろう、エバースとともに最終決戦へ進みます。
若手時代から一緒だった同期の多くがすでに売れていく中、渡辺さんはM-1公式インタビューでも、自分だけが置いていかれている感覚を抱えていた時期を振り返っていました。
東京NSC14期から長い時間を経て、40歳で初めてM-1決勝の舞台に立ちました。
最終決戦まで進み、たくろうに次ぐ準優勝
最終決戦では、たくろう、ドンデコルテ、エバースの3組が優勝を争いました。
審査の結果、優勝はたくろうとなり、ドンデコルテはM-1グランプリ2025準優勝となりました。
放送後、渡辺さんが益々荘へ戻ったのは深夜で、長く同居を受け入れてきたカゲヤマ益田さんが待っていました。
『M-1アナザーストーリー』では、帰宅した渡辺さんを益田さんが抱きしめる場面も放送されています。
30歳のころに更新費用を払えず移り住んだ家へ、M-1準優勝者として戻る夜になりました。
決勝後の仕事量を本人は「L字」と表現
M-1の結果だけを見てブレイクと決める必要はありませんが、ドンデコルテの場合は大会後に実際の仕事量が大きく変わりました。
2026年1月のインタビューで仕事量の変化を聞かれた渡辺さんは、右手で空中に直角を描き、「L字」と表現しています。
小橋さんも、その時点で決勝から一日も休んでいないと話していました。
M-1準優勝を境に、長く続いた「仕事がない側」の生活から、休みがないほど仕事が入る状態へ変わりました。
ピン時代の「命綱」だったR-1で初決勝へ
M-1準優勝から約3か月後、今度は渡辺さん一人で長年出場してきた大会に大きな変化が起きます。
仕事もコンビもなかった時代に出続けたR-1で、初めて決勝へ進みました。
2026年、初のR-1決勝からFinalステージへ
R-1グランプリ2026は過去最多6171人がエントリーし、渡辺さんは9人のファイナリストに残りました。
3月21日の決勝ではファーストステージで655点を獲得し、今井らいぱちさん、トンツカタン・お抹茶さんとともにFinalステージへ進出しました。
最終投票では渡辺さんにも1票が入り、優勝は今井らいぱちさんとなりました。
かつて芸人を辞めずに済んだと語った大会で、17年以上の芸歴を重ねて初めて決勝の最終3人まで残りました。
漫才とコントの二刀流でもダブルインパクト準優勝
2026年7月には、コンビとして『ダブルインパクト2026 漫才&コント二刀流No.1決定戦』の決勝にも進出しました。
ドンデコルテはファーストステージでコントを披露して上位5組へ残り、続くステージでは漫才を披露しました。
2ネタの合計で滝音に次ぐ準優勝となり、漫才だけではなくコントでも決勝の上位へ進んでいます。
ツッコミからボケへ回って始まった小橋さんとのコンビは、2026年には漫才とコントの両方で全国大会を戦うまでになりました。
41歳の誕生日、ドンデコルテとして徳山高校へ戻る
その約2週間後の2026年8月2日、渡辺さんと小橋さんは山口県の徳山高校を訪れました。
8月2日は渡辺さんの41歳の誕生日でもあります。
母校の公式ブログは「ドンデコルテがやってきた!」として二人の来校を紹介し、渡辺さんが同校OBで元生徒会長だったことも記しました。
高校時代に生徒会長を務めた校舎へ、41歳になった日に現在の相方と戻りました。
山口県周南市で兄と育ち、徳山高校から大学へ進んだ渡辺銀次さんは、卒業を前に「一生続けられる仕事」としてお笑いを選びました。
マンキンタン、ピン活動、エマ、益々荘での生活を経て、小橋共作さんからの誘いとM-1準々決勝という条件をきっかけにドンデコルテが始まりました。
40歳でM-1初決勝へ進んだあとも、R-1、ダブルインパクトと舞台は続き、2026年8月には相方とともに母校の徳山高校へ戻っています。












コメントを残す