村上健志の生い立ちと家族|青学・映画学校からNSCへ、フルーツポンチ結成まで

人物プロフィール

生年月日
1980年12月8日
身長
172cm
血液型
B型
出身地
茨城県 牛久市
コンビ・グループ名
フルーツポンチ
相方・メンバー
亘健太郎
結成年
2005年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2005年
養成所・スクール
NSC東京校 10期

フルーツポンチの村上健志さんといえば、『アメトーーク!』の「運動神経悪い芸人」で生まれた“ヒザ神”や、『プレバト!!』で俳句の実力を発揮する姿を思い浮かべる人も多いでしょう。

現在はテレビだけでなく、俳句やラジオ、文章を書く仕事にも活動を広げています。

ただ、芸人になるまでの道をたどると、最初からお笑いだけを目指していたわけではなく、青山学院大学に通いながら映画学校の俳優コースで演技を学んでいた時期がありました。

そこからNSC東京校へ進み、同期だった亘健太郎さんと練習でコントをするようになり、やがてフルーツポンチが生まれます。

茨城県牛久市で過ごした学生時代から、映画学校、NSC、コンビ結成、テレビで知られるまでを順番にたどっていきます。

村上健志の生い立ちと家族|茨城県牛久市で育った学生時代

村上健志さんは茨城県牛久市の出身です。

後に牛久市の観光大使にも選ばれていますが、その前には地元の学校へ通い、家族に見守られながら学生生活を送っていました。

中根小学校から下根中学校へ|母・祖母に見守られた少年時代

牛久市観光協会が2015年の観光大使任命式に際して公開した資料では、村上さんの出身校として牛久市立中根小学校と牛久市立下根中学校が記されています。

芸人として知られるようになってからも、牛久とのつながりはたびたびテレビ番組などで取り上げられてきました。

2009年にはフジテレビの番組企画で村上さんの実家がある牛久を訪れ、学生時代の村上さんを母親と祖母が見守っていたことが紹介されています。

番組では母校にも足を運び、家族へ感謝を伝える企画が組まれていました。

2017年の『関ジャニ∞クロニクル』でも再び村上さんの実家が取り上げられ、番組メンバーが本人に代わって母親を訪ねています。

テレビに出るようになった後も、牛久の実家と母親は村上さんの人物像をたどる場面で何度も登場してきました。

「イケてなかった」と振り返る中学時代と母校とのつながり

下根中学校で過ごした時期は、後に『アメトーーク!』の「中学の時イケてないグループに属していた芸人」にもつながる時代でした。

テレビで見せる村上さんには、自信満々の人物を演じるコントや強い言葉を返すバラエティーでの姿もありますが、中学生のころから同じ雰囲気だったわけではありません。

芸人になった後には母校との接点も生まれ、牛久市の広報でも下根中学校の卒業生として紹介されています。

少年時代を過ごした場所と、テレビに出るようになった後の活動が再び交わることになります。

地元・牛久で残った記憶|建設中の牛久大仏を見て育つ

牛久で育ったことがよく分かるエピソードの一つが、牛久大仏についての記憶です。

2015年に茨城県のPRイベントへ出演した際、村上さんは子どものころに牛久大仏が建設されていく様子を見ていたと話しています。

完成後の巨大な大仏だけを知っているのではなく、建っていく途中から身近に見ていたという、地元で育った本人ならではの記憶です。

その年には元横綱・稀勢の里関とともに初代・牛久市観光大使に任命されました。

高校から青山学院大学へ|芸能界が少しずつ近づいた時期

中学を卒業すると高校へ進み、その後は青山学院大学経済学部へ進学しました。

大学時代になると、後の芸人人生につながる選択が少しずつ現れ始めます。

高校時代に教科書へ挟まれていた告白の手紙

高校時代については、後年出演したテレビ朝日系『あいつ今何してる?』で、同級生との出来事を振り返っています。

ある日、村上さんの教科書に同級生からの告白の手紙が挟まれていました。

手紙を見つけた村上さんはうれしかったものの、交際することはなく、そのまま卒業後は会わなくなったと記憶していました。

番組ではその同級生本人を取材し、村上さんが覚えていた高校時代の出来事をあらためてたどっています。

テレビで知られる以前の村上さんを、同級生が覚えていた具体的な学生時代の一場面でした。

青山学院大学へ進学し「村さ来」でアルバイト

高校卒業後は青山学院大学経済学部へ進みました。

青山学院側も卒業生として村上さんを紹介しており、2024年には創立150周年を記念した俳句イベントへゲストとして招いています。

大学在学中には、神奈川県の「村さ来 本厚木店」でアルバイトをしていました。

2025年に約20年ぶりに「村さ来」で一日店長を務めた際、当時を知るスタッフから大学時代の様子も明かされています。

「淡々と仕事をされていて、特段の印象はございません」

株式会社焼肉坂井ホールディングス

後にテレビへ頻繁に出演する芸人になることを考えると印象的ですが、アルバイト先では目立った存在として語られているわけではありません。

大学へ通い、居酒屋で働く生活の一方で、村上さんの関心は次第に芸能界へ向かっていきました。

映画学校の俳優コースへ通い、小出恵介と同じ教室で演技を学ぶ

大学在学中、村上さんは雑誌で見つけた映画学校の俳優コースへ通い始めます。

当時から芸能界への憧れはありましたが、最初に選んだ入口はお笑いの養成所ではなく、演技を学ぶ場所でした。

2020年にニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』へ出演した際には、同じクラスに小出恵介さんがいたことも明かしています。

「僕は20歳そこそこで学校に入ったんですけど」

スポニチアネックス

村上さんによると、役者一本に決めていたわけではなく、芸能界そのものへの漠然とした憧れがありました。

中でも好きだったのはお笑いでしたが、芸人になることには難しさを感じ、まず映画学校へ進んでいます。

この映画学校での出会いが、村上さんを次のお笑いの世界へ動かすことになります。

村上健志が芸人になったきっかけ|映画学校からNSC東京10期へ

大学へ通いながら映画学校で演技を学んでいた村上さんですが、ここから進路は俳優ではなくお笑いへ変わっていきます。

芸人になったきっかけは、突然一人で思い立ったというより、映画学校で過ごした時間の中から生まれました。

芸能界への憧れはあったが、最初に選んだのは映画学校だった

村上さんは後年、芸能界には興味があり、その中でも芸人が好きだったことを明かしています。

ただ、その時点では自分がお笑い芸人になるところまで現実的には考えられず、映画学校という別の入口を選びました。

大学卒業後に会社員となり、何年か働いてから芸人へ転身したタイプではありません。

学生から芸能の世界へ進もうとしていた時期に、映画とお笑いの間で進路が変わった人物です。

映画学校の仲間との出会いから、お笑いという進路が現れる

映画学校では、そこで知り合った仲間からお笑いへ誘われたことが、進路を変えるきっかけになったと伝えられています。

演技を学ぶために入った場所で、お笑いへ進む選択肢が具体的になりました。

それまで「好きだけれど、自分がなるのは難しそう」と距離を置いていたお笑いが、自分が実際に挑戦する進路へ変わっていきます。

2004年にNSC東京校10期へ入り、芸人人生が始まる

村上さんは2004年、吉本総合芸能学院・NSC東京校10期へ入学しました。

吉本興業の現在の公式プロフィールでも「2004年 NSC東京校10期生」と記載されています。

同じ10期には、後にそれぞれの場所で活動していく芸人たちがいました。

この時点では、まだフルーツポンチは結成されていません。

2004年はNSCへ入った年、フルーツポンチの結成は2005年4月です。

現在の吉本興業公式プロフィールとM-1グランプリ公式の双方が、コンビの結成年月を2005年4月としています。

NSCで亘健太郎と出会い、フルーツポンチ結成へ

NSCへ入った村上さんは、そこで現在の相方となる亘健太郎さんと出会います。

ただ、最初から「この人とコンビを組む」と決めていたわけではありませんでした。

相方が決まらず残っていた村上健志と亘健太郎

2026年にABEMAの密着企画でフルーツポンチの歩みが紹介された際、2人は24歳ごろのNSC東京10期生時代に、相方を見つけられず最後まで残っていた者同士だったと振り返られています。

村上さんは大学・映画学校を経てNSCへ入り、亘さんも別の経歴から一人でNSCへ入っていました。

同じ年齢で同じクラスにいた2人ですが、最初から完成したコンビとして動いていたわけではありません。

村上のコント練習に亘が付き合い、授業で手応えを得る

村上さんはNSCに入ってからコントのネタを作っていました。

一人で活動していた時期に、仲が良かった亘さんへコントの練習相手になってもらったことから2人の組み合わせが動き始めます。

練習したネタを授業で披露すると反応が良く、2人は選抜クラスへ入ることになりました。

最初は正式なコンビ結成のためではなく、あくまで村上さんが作ったコントを練習するための組み合わせでした。

「ネタを一緒に練習したらうまくいった」という具体的な出来事から、現在まで続く2人の活動が始まりました。

「組もう」と言わないまま2005年4月にコンビが生まれる

授業で手応えを得た後も、2人の間にドラマチックなコンビ結成の申し込みがあったわけではなかったとされています。

練習で組んだコントがそのまま続き、いつの間にか2人で活動する形になっていました。

正式に「コンビを組もう」と言わないまま、村上健志さんと亘健太郎さんはフルーツポンチとして歩き始めます。

M-1グランプリ公式では、フルーツポンチの結成年を2005年4月と記録しています。

「フルーツポンチ」という名前が付いた経緯

コンビ名にも、長く練った物語があったわけではありません。

村上さんの頭にふと「フルーツポンチ」という言葉が浮かび、その語感から名前を付けたと伝えられています。

ネタの練習から自然に2人で活動するようになった結成過程と同じく、コンビ名もその場で生まれました。

こうして映画学校からNSCへ進んだ村上さんは、亘さんとのコントを軸にプロの芸人として活動する段階へ入ります。

フルーツポンチの若手時代|コントを磨きテレビへ

2005年に結成したフルーツポンチは、劇場やライブで活動しながらコントを磨いていきました。

その後のテレビ進出は比較的早く、結成から数年で大きな番組へ出演するようになります。

結成直後からコントを軸に活動

村上さんはネタ作りを担い、フルーツポンチは若手時代からコントを大きな軸として活動しました。

NSC時代に村上さんが作ったコントへ亘さんが参加したところから始まった2人だけに、コンビ結成後もその流れでネタを続けていきます。

2007年には舞台作品への出演記録もあり、テレビで広く知られる前から吉本の舞台で経験を積んでいました。

若手時代については収入や住環境を示す確かな公開記録は多くありませんが、結成3年ほどでテレビ出演が大きく増えたことは確認できます。

2008年『爆笑レッドカーペット』で“ウザキャラ”のコントが注目される

フルーツポンチの名前が広く知られるようになった大きな時期が2008年です。

『爆笑レッドカーペット』への出演が増え、村上さんが演じる相手をイラッとさせるような“ウザキャラ”を生かしたコントが注目されました。

村上さんの話し方や表情を強く出した役柄は、フルーツポンチのコントを見分けやすくする要素にもなっていました。

結成から約3年で全国ネットのテレビ番組へ進み、若手コンビとして知られるようになります。

『爆笑レッドシアター』『ピラメキーノ』へ仕事が広がる

2009年になると、フジテレビ系『爆笑レッドシアター』のレギュラーメンバーに選ばれました。

同じ時期にはテレビ東京系『ピラメキーノ』にも出演し、コントだけでなく子ども向けバラエティーでも顔を知られるようになります。

2005年の結成直後から振り返ると、NSCで偶然に近い形で生まれたコンビが、数年後にはテレビのレギュラー番組へ出演するところまで進んだことになります。

このころから村上さん個人のキャラクターにも注目が集まり、コンビのコントとは別の場面でも名前が知られていきました。

テレビで知られた村上健志|「ヒザ神」から俳句との出会いへ

テレビ出演が増えた後、村上さんにはコント以外からも新しい呼び名や仕事が生まれていきます。

その代表が「ヒザ神」と俳句です。

『アメトーーク!』で「ヒザ神」と呼ばれるようになる

『アメトーーク!』の企画「運動神経悪い芸人」に出演した村上さんは、走ったり競技をしたりする際の独特な動きで注目されました。

特に膝をうまく曲げないように見える動きから、番組では「ヒザ神」という呼び名が誕生します。

テレビ朝日の公式資料でも、村上さんについて「ヒザ神」という呼称が繰り返し使われ、その後も「運動神経悪い芸人」の常連として出演を続けています。

NSC時代に作っていたコントとは別のところから生まれたキャラクターが、村上さん個人を象徴する要素の一つになりました。

2015年、故郷・牛久市の初代観光大使に就任

テレビで知られるようになった後、地元の牛久とも新しい形で関わるようになります。

2015年には、稀勢の里関とともに牛久市の初代観光大使へ任命されました。

子どものころに建設途中の牛久大仏を見ていた村上さんが、今度は地元を外へ伝える立場になりました。

学生時代を過ごした中根小学校、下根中学校がある牛久は、芸人になった後も何度も活動の中へ登場しています。

『プレバト!!』をきっかけに俳句を始める

村上さんの活動にもう一つ大きな軸が加わったのが俳句です。

もともと長く俳句を続けていた人物が番組へ出たのではなく、本人によれば、俳句を始めたきっかけは『プレバト!!』でした。

番組で作品を作り、俳人の夏井いつきさんから評価を受けるうち、次第に俳句へ深く入っていきます。

「一番大きいのは、ほめてもらえた、っていうことです」

好書好日

番組の中だけで俳句を作るのではなく、実際の句会にも参加するようになりました。

朝日新聞の「好書好日」では、さまざまな句会へ参加して学ぶ「フルポン村上の俳句修行」という連載も始まります。

テレビ番組で始めた俳句が、句会、連載、書籍へと独立した活動へ広がっていきました。

句会へ通い続け、2022年に永世名人へ

俳句を始めた後は、番組外でも作品を作り続けました。

『プレバト!!』では段位を上げ、2022年6月には名人10段から番組史上3人目の永世名人へ昇格しています。

昇格を決めた句は「突然の雨」を題材にした作品で、夏井いつきさんから表現上の工夫も高く評価されました。

「本当にうれしい! ありがとうございます!」

MBS「もう一度楽しむプレバト」

芸人としてテレビに出てから始めた俳句で、永世名人まで進みました。

2021年度版の中学3年生向け国語教科書には村上さんの句も収録され、俳句はバラエティー番組内だけの特技ではなくなっていきました。

村上健志の現在|フルーツポンチと俳句・執筆を続ける

若手時代のコントから始まった活動は、現在では俳句、文章、ラジオなどへ広がっています。

一方で、フルーツポンチも解散したわけではなく、村上さんと亘さんは現在もコンビとして吉本興業の公式プロフィールに掲載されています。

俳句、ラジオ、文章へ広がった個人活動

吉本興業の公式プロフィールには、『プレバト!!』のほか、ラジオ出演や「好書好日」の俳句連載、MEN’S NON-NO WEBでの連載などが掲載されています。

村上さん自身のYouTubeチャンネルでも、俳句を中心とした動画を発信してきました。

コントのネタを書いていた若手時代とは形が変わっていますが、自分で言葉を作り、それを人前へ出す活動は現在も続いています。

また、長年参加してきたラジオや、しずるのKAƵMAさんと続ける「アーバンブルーラジオ」など、会話を中心にした活動もあります。

結成21年を迎えた村上健志と亘健太郎の現在の距離感

2026年には、結成21年を迎えたフルーツポンチの現在をABEMAの密着企画が取り上げました。

若手時代には同じコントを作り、結成から数年でテレビの人気番組へ進んだ2人ですが、その後は仕事以外でほとんど会話をしない時期も長くなりました。

番組では、楽屋でも別々の場所で過ごし、連絡も仕事に関するものが中心という現在の様子が映されています。

村上さんは、売れたいという思いが強くなっていたころ、亘さんへ不満をぶつけていた時期についても振り返りました。

「相方に当たることで、自分を上げたつもりになっていた」

日刊スポーツ

亘さんも、当時は大きなケンカをするというより、少しずつ距離が離れていったと説明しています。

それでも2026年時点でフルーツポンチは続いており、舞台では2人でネタを披露しています。

NSCで相方が決まらず残っていた2人が、明確な「組もう」という言葉もないまま始めたコンビは、結成21年を超えて続いています。

牛久で学生時代を過ごした村上健志さんは、青山学院大学から映画学校へ進み、そこで生まれたお笑いとの接点からNSCの門をくぐりました。

NSCでは亘健太郎さんとコントを練習したことからフルーツポンチが生まれ、テレビで知られた後には俳句という新しい活動も始まりました。

現在もコンビで舞台に立ちながら、俳句、ラジオ、執筆と、村上さんが言葉を使う場所は若手時代よりさらに広がっています。

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