人物プロフィール
街裏ぴんくさんといえば、実際には起きていない出来事を、まるで自分が体験してきた話のように語る「ファンタジー漫談」で知られる芸人です。
2024年にはR-1グランプリで優勝し、長くライブを中心に活動してきた漫談家の名前が一気に全国へ広がりました。
しかし、芸人人生の始まりはピン芸人ではなく、現在ラッパーとして活動するYoung Yujiroさんとの漫才コンビでした。
現在の漫談につながる風景は、R-1の舞台よりずっと前、高校の教室ですでに始まっていました。
一人で人形を動かして遊んでいた少年が、藤井隆さんのモノマネでクラスを笑わせ、友人に誘われて芸人となり、客が一人の日もあった浅草の舞台を経てR-1王者になるまでを、時間を追ってたどります。
街裏ぴんくの生い立ちと家族|堺で育った一人っ子の少年時代
街裏ぴんくさんは1985年2月6日生まれ、本名は島谷洋平さんで、大阪府堺市で育ちました。
現在の舞台では大きな体と勢いのあるしゃべりが印象的ですが、子どものころの本人が語る姿はかなり違います。
人形遊びが好きだった、おとなしい一人っ子
本人によると、家庭では一人っ子として育ち、幼いころは人形遊びが好きな、少しおとなしい子どもでした。
両親にはさまざまな習い事をさせてもらい、「とても手をかけて育ててもらった」と地元・堺のインタビューでも話しています。
一人遊びでは、キン肉マンの消しゴムなどを並べ、登場人物をいくつかの陣営に分け、自分で物語を作りながら戦わせていました。
誰かに見せるためではない一人遊びの中で、人物と設定を作り、頭の中で物語を動かす時間を長く過ごしていました。
小4のお楽しみ会で藤井隆をまねし「お笑い担当」へ
学校で立ち位置が変わったのは、小学4年生のころです。
当時好きだった藤井隆さんのギャグ「ホット!ホット!」をクラスのお楽しみ会で披露すると、周囲が笑ってくれました。
それまで友達の輪の中心にいるタイプではなかった街裏ぴんくさんにとって、人前で笑いを取ることがはっきりと楽しいものになった出来事でした。
この一度のモノマネを境に、小学校では周囲を笑わせる「お笑い担当」のような存在になっていきます。
私立中学へ進み、新喜劇とダウンタウンにのめり込む
小学校卒業後は私立中学へ進み、一時は小学校時代ほど前へ出ない時期もありましたが、吉本新喜劇のまねなど、お笑いそのものから離れたわけではありませんでした。
中学生になると、レンタルビデオなどで「ダウンタウンのごっつええ感じ」をまとめて見るようになり、ダウンタウンに強く惹かれていきます。
なかでも「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」のはがきトークで、与えられた題材から本当とも嘘ともつかない話を即興で膨らませていく面白さが印象に残りました。
後に街裏ぴんくさんが作る「ありそうなのに存在しない出来事」を語る漫談より前に、こうした話芸を繰り返し見ていた時期がありました。
学生時代|黒板の前の架空トークとYoung Yujiro
高校は大阪府の上宮太子高校へ進学しました。
ここで後に「裏ブラウン」の相方となるYoung Yujiroさんと過ごした時間が、芸人になる直接の入口になっていきます。
高校の休み時間、教室後ろの黒板が“舞台”になった
Young Yujiroさんとは中学から大学まで付き合いが続き、アルバイト先まで一緒になるほど近い関係でした。
高校の休み時間になると、街裏ぴんくさんは教室後方の黒板付近に立ち、友人たちを相手に、自分で作った話を延々としていたそうです。
Young Yujiroさんが後年振り返ったその姿は、すでに現在の漫談にかなり近いものでした。
「だから原点は高校の休み時間やな」
SPICE
プロになる前から、教室の片隅で「架空の話を本当の出来事のようにしゃべって友人を笑わせる」ことをしていたというのが、街裏ぴんくさんの学生時代です。
Young Yujiroと音楽にも熱中、R&Bを歌ってクラブの舞台へ
高校から大学にかけては、お笑いだけでなく音楽にも熱中しました。
街裏ぴんくさんはR&Bを歌い、クラブのステージにも立っていました。
後にコンビ名へ入る「ブラウン」にも音楽とのつながりがあり、本人は当時ジェームス・ブラウンを歌っていた一方、見た目を友人から「じゃがいも」のようにいじられ、「じゃがブラウン」と呼ばれたことがあったと明かしています。
学校、アルバイト、音楽と、Young Yujiroさんとはお笑いコンビを組む以前からかなりの時間を一緒に過ごしていました。
高校2年ごろ「お笑いコンビをやろう」と誘われる
高校2年生のころ、Young Yujiroさんは本気でお笑いコンビを組むことを考えるようになります。
そのとき相手として頭に浮かんだのが、休み時間に友人を笑わせ続けていた街裏ぴんくさんでした。
Young Yujiroさんから「お笑いコンビをやろう」と誘われたことが、街裏ぴんくさんがお笑いを仕事として選ぶ直接のきっかけになります。
すぐにプロとして動き出したわけではありませんが、大学へ進んだあと、その約束が実際のコンビ活動へ変わっていきました。
神戸学院大学時代|裏ブラウン結成で芸人生活が始まる
高校卒業後、街裏ぴんくさんは神戸学院大学へ進学しました。
大学生活が始まると、友人同士の遊びだったお笑いが、ライブへ出る活動へ変わっていきます。
2004年に漫才コンビ「裏ブラウン」を結成
2004年、街裏ぴんくさんはYoung Yujiroさんと漫才コンビ「裏ブラウン」として活動を始めました。
最初から人生を懸けるほどの決意だったわけではなく、誘われた当初は比較的軽い気持ちで始めたものの、ライブへ向けて動き始めるうちに本人の熱量が上がっていきます。
街裏ぴんくさんの芸歴は、養成所入学ではなく、大学時代の裏ブラウン結成から始まっています。
コンビ時代のネタもすでに普通の出来事だけを扱うものではなく、「あいのりに出た」「人形を修理してくれる坊さんがいる」といった架空の設定を使う漫才コントがありました。
初舞台はbaseよしもとのオーディション、1ボケ目で鐘
裏ブラウンが初めて立った大きな舞台は、当時のbaseよしもとで行われていたオーディションライブ「プレステージ」でした。
二人が用意したのは歴史を題材にした漫才コントで、街裏ぴんくさんが「皮様」という人物を演じるネタでした。
ところがネタはほとんど進まず、本人たちの回想では1ボケ目あたりで終了を知らせる鐘が鳴ります。
Young Yujiroさんは審査側をにらんだと振り返るほど納得していませんでしたが、二人の芸人生活はそこからインディーズライブへ続いていきました。
インディーズライブと魁塾2期で経験を積む
その後は大阪のインディーズお笑いライブ「コメディスタジアム」などへ出演し、短い持ち時間の下位クラスから舞台経験を重ねました。
若いころは「普通にウケにいくのは格好悪い」と考えるような尖った時期もあり、本人たちの対談では、ウケないことさえ面白がっていた当時の感覚が語られています。
放送作家のかわら長介さんが関わった魁塾2期でも学びましたが、NSCのような養成所を卒業してからデビューした経歴ではありません。
ライブへ出ながら実際の客前でネタを試し、コンビとしての形を作っていった時期でした。
両親へ本気で芸人になると伝え、就職せずお笑いの道へ
大学に通いながら活動を続けるうち、街裏ぴんくさんは一般企業へ就職するのではなく、お笑いを続けることを選びました。
両親へ芸人になる意思を伝えたとき、強く反対されることはなかったそうです。
「おまえはそんなんいうとおもてたわ」
さかいっこ
幼いころから好きなことをさせてもらった家庭で、芸人という進路も意外な申し出として突き返されませんでした。
2007年、裏ブラウン解散|街裏ぴんくとしてピン芸人へ
大学時代から約3年間続いた裏ブラウンは、2007年に解散します。
ここから、コンビの一員だった島谷洋平さんが「街裏ぴんく」という一人の漫談家へ向かい始めます。
自分のやりたいことを試すため、自ら解散を持ちかける
解散理由について、本人は不仲を理由にしていません。
一人で自分のやりたいことを試したいという思いから、街裏ぴんくさん側が解散を持ちかけました。
Young Yujiroさんはその後、音楽へ軸足を移してラッパーとして活動を継続します。
街裏ぴんくさんにとっても、元相方が別の世界で活動を続けていることは、芸人を続けるなかで意識する存在になりました。
「裏ブラウン」から「街裏ぴんく」へ、芸名が生まれた経緯
ピンになる際には、裏ブラウンの「裏」を残しつつ、色をブラウンからピンクへ変えることを考えました。
本人によれば、大柄で少し怖く見られやすい外見とのギャップを出すために「ぴんく」を選んだそうです。
ただし「裏ぴんく」では別の意味にも受け取られそうだったため、頭に「街」を付け、現在の街裏ぴんくという芸名になりました。
キレ漫談やぼやき漫談を試し、松竹芸能へ所属
ピンになったからといって、すぐに現在のファンタジー漫談へたどり着いたわけではありません。
一人で舞台へ立つようになってからは、怒りながらしゃべるキレ漫談、ぼやき漫談、フリップを使うネタなど、いくつもの形を試しました。
この時期には松竹芸能へ所属しましたが、在籍期間は1年弱でした。
事務所を離れたあとには、漫談とは別の形で舞台に残る道まで探すことになります。
松竹退所から上京へ|新喜劇志望と大阪の小さなライブ
松竹芸能を離れた街裏ぴんくさんが次に考えたのは、子どものころから見ていた吉本新喜劇でした。
現在の芸風だけを見ると意外な寄り道ですが、本人は実際に新喜劇の選考へ進み、別の入口から舞台人になる可能性を探しています。
松竹芸能を離れ、吉本新喜劇への道を探す
吉本新喜劇のオーディションを受けると、選考は最終段階まで進みました。
しかし合格には届かず、新喜劇の座員として活動する道はここで途切れます。
それでも本人はすぐに諦めず、今度は新喜劇のベテランだった島木譲二さんへ直接弟子入りすることを考えました。
島木譲二への弟子入りも叶わず、フリー芸人へ
島木譲二さんが立ち寄る店の近くへ通い、本人と会える機会を待った期間は約1週間に及びました。
ようやく本人へ「身の回りの世話をさせてほしい」と申し出たものの、見ず知らずの若者に世話をしてもらう理由はないという趣旨ではっきり断られます。
コンビ解散後は、松竹芸能、新喜劇のオーディション、弟子入りと、一人で舞台に残る方法をいくつも探していました。
その後は事務所に所属しないフリーの状態で、大阪の小さなライブへ出演していきます。
味園の白鯨・紅鶴で客2〜3人の舞台を重ねる
フリー時代によく出演していたのが、大阪・千日前の味園ビルにあった「なんば白鯨」や「紅鶴」などのライブでした。
本人の回想では、客席にいるのは2〜3人ほどという日が珍しくなく、多くても10人程度という規模でした。
それでも芸人仲間や常連客との距離は近く、ライブを続ける場所としては居心地のいい環境だったといいます。
客が2〜3人でも自分の話を聞いてくれる舞台があり、その環境でピン芸を試し続けていました。
大阪の居心地から離れるため、2012年に東京へ
一方で、街裏ぴんくさんは温かい場所に慣れたままでいいのかという感覚も持つようになります。
より厳しい環境で試したいと考え、2012年に東京へ移りました。
大阪では少人数でも反応してくれる客がいましたが、東京で待っていたのは、それまでのやり方がほとんど通用しない時期でした。
上京後の下積み|浅草リトルシアターで一から漫談を作り直す
東京へ出てからの数年間は、街裏ぴんくさんの漫談が大きく変わった時期です。
その中心にあったのが、約30席の小劇場浅草リトルシアターでした。
東京では半年ほぼウケず、体重も大きく増える
上京直後は中野などの小劇場ライブへ出ましたが、大阪で反応があったぼやき漫談をしても笑いが起きませんでした。
本人の回想では、東京へ来てから半年ほど、ほとんど一度もまともにウケない状態が続きました。
ライブで結果が出ないストレスから食べる量も増え、上京から半年ほどで体重が約20キロ増えたとも明かしています。
ライブ終わりに悔しさを抱えたまま街へ出る日々のなか、後輩芸人から紹介されたのが浅草の舞台でした。
客1人でも1日3ステージ、最初の1年は週5日浅草へ
浅草リトルシアターでは、芸人自身が劇場の外でチラシを配り、観客を呼び込んでから舞台へ上がっていました。
客席は約30席でしたが、実際の観客が一人だけという日もありました。
それでも公演は行われ、街裏ぴんくさんは1日3ステージに出演し、最初の1年間ほどは週5日のペースで浅草へ通います。
満員のライブを待つのではなく、客が一人の日にもしゃべり、次の回でもう一度試せる環境に身を置きました。
コンビニ夜勤と新ネタ作りを繰り返した毎日
浅草へ通っていたころは芸人の収入だけで暮らせず、コンビニの夜勤もしていました。
夜勤を終えてほとんど寝ずに劇場へ向かう日もあり、その合間に次の漫談を書きます。
家では妻にも新しいネタを頻繁に見てもらい、反応を確かめてから浅草で客前にかけていました。
「このころはマジで毎日0から1を作り続けていて」
THE CHANGE
同じネタだけを繰り返すのではなく、新しい話を作っては客前で試す生活そのものが、数年間続きました。
悪役俳優事務所「高倉組」に4か月所属した異色の時期
東京で生活費を得ながら可能性を探していたころには、芸人とは別に悪役俳優を扱う事務所「高倉組」へ約4か月所属したこともあります。
映画「土竜の唄」などでエキストラの仕事を経験し、周囲には見た目に迫力のある俳優が多くいました。
街裏ぴんくさんと「刺青」「入れ墨」「タトゥー」が結び付けられることがありますが、本人が語ったのは花見のあとに仲間と銭湯へ行った際、本人ともう一人を除く周囲の俳優たちに刺青が入っていたというエピソードです。
悪役俳優として長く活動することはなく、約4か月で離れ、再びお笑いへ集中していきました。
ファンタジー漫談確立|「ホイップクリームの滝」で手応え
浅草で数多くのネタを試していても、現在の芸風にすぐ一本化できたわけではありません。
トゥインクル・コーポレーションで活動するようになってからも、キレ芸やフリップなどを続けながら、自分が一番やりたい話を探していました。
トゥインクル所属後も、キレ芸やフリップなどを試す
大柄な体から勢いよくしゃべる姿は目立ちやすく、怒鳴るような漫談で反応を得ることもありました。
ただ、本人が最もやりたかったのは、実際には存在しない世界を現実の思い出のように語るネタでした。
大阪時代にもそうした話はしていたものの、客前で大きくウケた経験が乏しく、長いあいだ中心には据えられずにいました。
Aマッソ主催「バスク」で“やりたかった嘘の話”が大きくウケる
転機になったのが、Aマッソが主催していたライブ「バスク」です。
ここで街裏ぴんくさんは、存在しない「ホイップクリームの滝」を見に行った体験を語る漫談を披露しました。
それまで思うように反応を得られなかった種類のネタが、この日は大きくウケました。
「自分が1番やりたいことで笑ってもらえた喜びが大きく、ネタの方向性も一本化しました」
FASHIONSNAP
ここから「本当らしい大嘘をしゃべる」という現在のファンタジー漫談へ軸を定めていきます。
ファンタジー漫談へ一本化し、独演会を重ねる
方向性が決まると、街裏ぴんくさんは一人で長時間しゃべる漫談独演会を活動の大きな柱にしていきました。
2016年には第1回漫談独演会「階段ぶっ壊したみたいな大嘘」を開催しています。
短いテレビ用のネタだけでなく、一つの架空世界を長い時間かけて聞かせる形式を続け、ライブで話そのものを育てていきました。
高校の黒板前で友人にしていた架空の話が、独演会で観客へ何十分も聞かせる芸へ変わっていきました。
2017〜2023年|地下の舞台から評価が広がっていく
ファンタジー漫談へ方向を定めたあとも、すぐに全国的な知名度を得たわけではありません。
ライブ、賞レース、ラジオと、街裏ぴんくさんの名前が届く範囲が少しずつ広がっていきます。
2017年の地下芸人まつり、2019年R-1準決勝へ
2017年にはTBSラジオ「JUNK」関連企画の地下芸人まつりで優勝し、ライブシーンの外にも知られる機会が増えました。
R-1にも長く挑戦を続け、2019年には初めて準決勝まで進出します。
以前には自信のないネタを選んで早い段階で敗退した年もありましたが、ファンタジー漫談へ絞ってから賞レースで残るところまで進むようになりました。
2022年Be-1グランプリ優勝で手にした大きなタイトル
2022年には、芸歴11年以上のピン芸人を対象としたBe-1グランプリ2022で優勝しました。
すでに芸歴は十数年を数え、若手向けの枠から外れたあとに手にした大きなタイトルでした。
R-1優勝の2年前には、長い芸歴を持つピン芸人たちの大会で結果を残していました。
2024年だけ突然評価されたのではなく、独演会とライブを続けるなかで、少しずつ外部の大会でも結果が積み上がっていきます。
独演会とラジオ・Podcastへ広がった“嘘の世界”
街裏ぴんくさんの架空世界は、舞台以外の音声コンテンツとも相性がよく、ラジオやPodcastにも活動が広がりました。
TBS Podcastの企画から生まれた「虚史平成」では、実際の平成史に紛れ込む架空の出来事を語り、漫談とは別の形で「本当らしい嘘」を展開しています。
テレビへの露出がまだ限られていた時期にも、一人でしゃべる仕事そのものは舞台から音声へ広がっていました。
2024年R-1優勝から現在へ|芸歴20年目で仕事が一変
2024年、R-1グランプリでは芸歴制限が撤廃され、長く挑戦を続けていた街裏ぴんくさんにも再び決勝を目指せる機会が生まれました。
2004年に裏ブラウンとして芸人を始めてから、ちょうど20年目の年でした。
芸歴制限撤廃のR-1で初の決勝進出、そのまま優勝
2024年3月9日の決勝には、過去最多となった5457人のエントリーから勝ち上がりました。
街裏ぴんくさんにとっては初のR-1決勝進出でしたが、ファーストステージを突破すると、そのまま最終決戦でも勝利します。
芸歴20年目、39歳でR-1グランプリ2024王者になりました。
客が一人の日にも漫談を続けていた浅草時代から約10年を経て、同じ「一人でしゃべる芸」でR-1の頂点へ立ちました。
優勝後は仕事量が急増し、長い下積み生活が変わる
R-1優勝が実際の仕事量をどう変えたのかについては、本人自身がかなり具体的に語っています。
優勝から半年ほどたつと、ラジオ、ライブのゲスト、営業などが増え、一日中休める日がほとんどない時期も経験しました。
「給料は以前の約8倍ほどいただけるようになりました」
フジテレビ
R-1優勝は肩書だけではなく、それまでとは比較にならないほど仕事が増える転機になりました。
元相方Young Yujiroと味園で再共演
R-1王者となった2024年には、芸人人生の前半を一緒に過ごしたYoung Yujiroさんとの再接続もありました。
同年11月、大阪・味園ユニバースで開かれた「味園 LAST WALTZ」に二人が出演します。
そこは街裏ぴんくさんがフリー時代、客2〜3人の小さなライブを重ねていた味園ビルでした。
高校時代にコンビへ誘った元相方はラッパーとして、街裏ぴんくさんはR-1王者となった漫談家として、別々に続けてきた活動を同じ場所へ持ち込みました。
GADOROとの音楽、俳優、ラジオへ広がっても独演会を続ける
R-1後は漫談以外の仕事も広がり、2025年にはラッパーGADOROの「自遊空間 Remix」にFORKさん、ポチョムキンさんとともに参加しました。
高校から大学にかけてR&Bを歌ってクラブへ出ていた街裏ぴんくさんが、芸人として売れたあとに再び音楽の現場へ入る形になりました。
2026年にはラジオ大阪「街裏ぴんくのウソから出た金言」、テレビ朝日「RECTRUCK」のナレーションなどもレギュラーの仕事として所属事務所公式プロフィールに掲載されています。
その一方で、一人で話を聞かせる活動は続いており、2026年5月には渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで第19回漫談独演会「ワンスアゲイン」を開催しました。
テレビやラジオへ仕事が広がった現在も、活動の中心には自分一人で物語をしゃべる漫談があります。
一人で人形を動かして物語を作っていた堺の少年は、高校の黒板前で架空の話をするようになり、友人から誘われて芸人の舞台へ進みました。
コンビ解散後も芸風を変えながら、大阪の小さなライブや浅草で話を作り続け、その時間の先でファンタジー漫談を自分の形にしました。
R-1王者となって仕事の場所が広がったあとも、街裏ぴんくさんは独演会で、存在しない出来事を本当にあった話のように語り続けています。












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