人物プロフィール
くりぃむしちゅーの有田哲平さんといえば、相方の上田晋也さんとのトークはもちろん、『全力!脱力タイムズ』のような仕掛けの多い番組や、プロレスを語る仕事でも独自の存在感を見せています。
現在の姿だけを見ると、若いころから芸人になることを決め、一直線にお笑いの世界へ進んだようにも見えますが、実際はそうではありませんでした。
芸人になる直接のきっかけは、大学生だった有田さんが、上田さんが芸能事務所へ送る履歴書を書いていた夜に偶然居合わせたことでした。
それより前には、熊本で音楽とプロレスに夢中になった少年時代があり、高校ではまだ芸人でもない上田さんと毎日のように何時間もしゃべっていました。
有田哲平さんがどんな家庭で育ち、上田晋也さんとどう出会い、立教大学から海砂利水魚、そしてくりぃむしちゅーへ進んでいったのかを、昔の出来事から順番にたどっていきます。
有田哲平の生い立ちと家族|熊本で音楽とプロレスに夢中になった少年時代
有田哲平さんは1971年、熊本県で生まれました。
子どものころの有田さんをたどると、後の芸人人生より先に、母親から始めた水泳、7歳上の兄から教わった音楽、そしてプロレスという三つの大きな存在が見えてきます。
幼いころは病弱だったと母・迪子さんが明かした少年時代
有田さんの母・有田迪子さんは、自身も若いころから水泳に取り組んできた人です。
迪子さんは13歳で水泳を始め、15歳のころには日本選手権で5位に入り、高校や実業団でも競技を続け、1956年メルボルン五輪と1960年ローマ五輪の日本代表候補にもなりました。
そんな母のもとで育った有田さんですが、幼いころから丈夫な子どもだったわけではありません。
「小さい頃は病弱でしたが、水泳を習わせてからは元気になりました。」
TBS NEWS DIG
母が長く続けてきた水泳を、有田さん自身も子どものころに習っていました。
後年、迪子さんはマスターズ水泳へ挑戦し続けており、80代になっても大会を目指して泳ぐ姿がTBSで紹介されています。
兄からビートルズを教わり、小学5年でプロレスに夢中に
少年時代の有田さんに、もう一つ大きな影響を与えたのが7歳年上の兄でした。
2019年のインタビューでは、兄についてこんな言葉を残しています。
「兄貴がほとんど僕をかたどった人なんですよ。」
Rolling Stone JAPAN/ライブドアニュース
有田さんが5歳のころ、すでに中学生だった兄は、弟にビートルズを教え、ブルース・リーや洋画などにも触れさせました。
同年代の子どもたちがアニメのレコードを買っているころ、有田さんはビートルズのレコードを買いに行くような少年だったといいます。
小学5年生ごろになると、兄から今度はタイガーマスクの存在を教えられます。
当時の熊本ではプロレス中継が深夜だったため、両親が寝静まったあと、兄が有田さんを起こして、こっそりテレビでプロレスを見せました。
そこからプロレス雑誌も読むようになり、やがて強烈に惹かれたのが長州力さんでした。
長州さんが藤波辰爾さんへ反旗を翻した「噛ませ犬」発言に触れた有田さんは、学校でもクラスの人気者だった同級生に張り合うようになります。
勉強やスポーツでも負けたくないと考え、その中で自分が勝負できるものとして意識するようになったのが「おしゃべり」でした。
小学生で「しゃべり」で人を笑わせることを意識する
有田さんは、長州力さんに影響されてクラスの人気者へ対抗しようとしたころから、人を笑わせることにも目を向けるようになりました。
熊本大学教育学部附属小学校の学校関係資料にも卒業生として名前が残っており、熊本で学校生活を送りながら、音楽やプロレス、テレビのお笑いへ興味を広げていきます。
ただ、このころから「将来は芸人になる」と決めていたわけではありません。
テレビでお笑いを見ることと、自分が職業として芸人になることは、まだ別の話でした。
有田哲平の学生時代|済々黌高校で上田晋也と出会う
有田さんは中学を経て、熊本県内の進学校として知られる熊本県立済々黌高校へ進みます。
ここで出会った同級生が、その後30年以上にわたって隣に立つことになる上田晋也さんでした。
高校1年のラグビー部で上田晋也と意気投合
二人が知り合ったのは高校1年生のころで、接点となったのはラグビー部でした。
それだけなら部活動の仲間で終わっていたかもしれませんが、話してみると二人ともプロレスが好きで、さらに日本テレビ系で放送されていた『お笑いスター誕生!!』も見ていました。
プロレスとお笑いという二つの共通点が見つかり、有田さんと上田さんは急速に親しくなっていきました。
上田さんは有田さんより早い段階から芸人という仕事を意識していましたが、有田さんの側には、まだ明確な芸人志望はありませんでした。
部室から駄菓子屋まで「毎日3時間フリートーク」
職業としてのお笑いを考えていなかった一方で、高校時代の二人がしていたことは、後から振り返るとかなり独特でした。
学校で会うと、とにかく二人でしゃべり続けていたのです。
「毎日3時間フリートーク」
スポニチ Sponichi Annex
二人が後年明かした高校時代の過ごし方では、部活動の前にしゃべり、周囲の部員が入れ替わってもまたしゃべり、練習後にも話し続けていました。
それでも終わらず、学校の前にあった駄菓子屋でも話すため、本人たちはこの時間を「1日3ステ」と表現しています。
まだ舞台にも立っていない高校生のころから、二人の間には毎日何時間も続くフリートークの時間がありました。
プロレスの試合を芝生で再現していた高校生活
しゃべるだけでなく、ラグビー部の芝生も二人にとっては遊び場になりました。
前日に見たプロレスの試合があれば、その展開を芝生で再現することもあったといいます。
有田さんが小学生のころから追いかけていたプロレスは、高校へ進んでも熱が冷めるどころか、上田さんとの共通言語になっていました。
ラグビーの練習をしながらプロレスを再現し、その前後には長時間しゃべるという日々を過ごしていましたが、卒業後の二人は同じ進路を選びませんでした。
立教大学へ進学|まだ芸人になるつもりはなかった
高校を卒業すると、有田さんと上田さんは熊本を離れて東京へ進みます。
ただし、ここでも二人が最初から「コンビを組むために上京した」という流れではありません。
早稲田受験を経て立教大学法学部へ
有田さんは大学受験で早稲田大学を受験しましたが、不合格となり、その後立教大学法学部へ進学しました。
2026年に『有田哲平とコスられない街』で早稲田大学のある高田馬場を訪れた際にも、その受験を冗談交じりに振り返っています。
「僕は落ちましたので、嫌いな街ですね」
ORICON NEWS
一方の上田さんは早稲田大学教育学部へ進学しています。
大学受験期にも、有田さんの頭からプロレスが離れることはありませんでした。
1990年2月、東京で新日本プロレスと全日本プロレスの団体対抗戦が開かれた際には、本人によれば大学受験で東京に来ていたにもかかわらず、大事な受験の一つを飛ばした記憶があるほどでした。
進学先は立教大学法学部でしたが、この時点でもプロレスは生活のかなり大きな部分を占めていました。
大学進学後の東京生活と上田との再接近
大学生になった有田さんは江古田で暮らし、上田さんは久我山で生活していました。
高校時代に同じ教室とラグビー部で過ごしていた二人は、別々の大学へ進んだものの、東京で再び行き来できる距離にいました。
このころ、上田さんは芸人になることを比較的はっきり考えていました。
有田さん自身は2026年のTOKYO FM『川島明 そもそもの話』で、当時はそこまで芸人になることを考えていなかったと明かしています。
その有田さんの進路が変わる出来事は、芸人のオーディション会場でも、お笑いライブでもない場所から始まりました。
有田哲平が芸人になったきっかけ|合コン後の一夜で進路が変わる
有田さんが芸人になる経緯には、綿密に準備した進路変更とは違う偶然が重なっています。
高校時代から上田さんとお笑いについて話してきた時間はありましたが、「二人で芸人になる」という計画を立てて大学へ進んだわけではありませんでした。
合コンがうまくいかず上田の家へ泊まりに行った夜
大学時代のある日、有田さんは下北沢で開かれた合コンに参加しました。
ところが、その日は思うような展開にならず、自宅のある江古田へ帰る代わりに、久我山に住んでいた上田さんの家へ泊まりに行きます。
この何気ない行動が、有田さんを芸人の世界へ連れていく夜になりました。
上田さんの家では、高校時代のように昔のお笑いについて話し始めました。
「昔、お笑いが好きだったよな」という思い出話をしていると、その日の上田さんには、すでに一人で進めていた用事がありました。
上田が書いていた芸能事務所への履歴書に有田も加わる
上田さんはその夜、お笑いの事務所へ提出する履歴書を書いていました。
そこへたまたま有田さんが泊まりに来て、高校時代のお笑いの話になったため、流れの中で有田さんも一緒に応募することになります。
「上田に誘われて即決した」という一言では収まらず、上田さんが履歴書を書いていた日に有田さんが偶然その家へ行ったことが直接の入口でした。
1991年、二人はコンビとして活動を始めます。
高校のラグビー部で知り合った二人が、別々の大学へ進んだあと、東京の一室で芸人として一緒に進むことになりました。
大学を辞め、コント山口君と竹田君の付き人へ
コンビ活動を始めたあと、有田さんは立教大学を中退し、お笑いの仕事へ入っていきます。
二人が選んだのは、NSCなどの養成所へ通うルートではありませんでした。
コント山口君と竹田君の付き人をしながら、先輩芸人の仕事を間近で見て、自分たちも若手として活動する生活が始まります。
有田さんの芸人人生は「大学→養成所」という形ではなく、「事務所への応募→コンビ結成→先輩芸人の付き人」というルートから始まりました。
この時期に二人が名乗ることになったコンビ名が「海砂利水魚」でした。
海砂利水魚として始まった若手時代
1991年に活動を始めた二人は、まだ現在の「くりぃむしちゅー」という名前ではありませんでした。
有田さんと上田さんの最初の約10年間は、海砂利水魚として過ごすことになります。
上田とコンビを組み「海砂利水魚」で活動開始
「海砂利水魚」という名前は、付き人を務めていたコント山口君と竹田君の山口弘和さんから付けられたものでした。
現在では独特なコンビ名として記憶されているものの、上田さん自身は後年の著書で、漢字が難しく覚えてもらいにくいことなどから、以前から名前を変えたいと思っていたことを明かしています。
若いころの有田さんは、現在のように大きく笑いながら場をかき回すイメージとも少し違い、ダウンタウンの影響も受けた尖ったスタイルを意識していた時期がありました。
先輩や共演者にいじられるより、自分が笑いの軸になる側でいたいという意識も強かったと、後年のインタビューで語っています。
付き人と若手仕事を続けながら舞台へ
付き人の仕事を経験しながら、海砂利水魚はライブやテレビの仕事へ進んでいきました。
有田さんと上田さんは養成所で同じ期の芸人たちと一斉にスタートしたコンビではないため、「同期」という言葉だけでは当時の関係を整理しにくいタイプです。
一方で若手時代には、アンジャッシュやアンタッチャブルなど、同時期に東京のお笑い界で活動していた芸人たちと一緒になる機会が増えていきました。
テレビで知られるようになる前には、こうしたライブや先輩・同世代の芸人との現場が続いていました。
『ボキャブラ天国』で名前が知られる一方、先が見えなくなる
海砂利水魚の名前が広く知られるようになった番組の一つが、1990年代に人気を集めたフジテレビ系『ボキャブラ天国』でした。
番組には爆笑問題、ネプチューンなど、その後のテレビ界で中心的な存在となる芸人たちも出演していました。
有田さんは後年、ネプチューンや爆笑問題らが先に大きく活躍していき、『ボキャブラ天国』自体も終わったことで、コンビの先が見えない時期が訪れたと振り返っています。
テレビで名前を知られるようになっても、それだけで海砂利水魚の仕事が安定したわけではありませんでした。
ちょうどそのころ、有田さん個人の笑い方やテレビでの立ち位置を変える出来事も起きます。
有田哲平の芸風が変わった時期|萩本欽一との仕事から新しい立ち位置へ
若手時代の有田さんは、自分でも後年「尖っていた」と表現するスタイルで活動していました。
その感覚を大きく揺さぶったのが、萩本欽一さんが演出する舞台への出演でした。
尖った若手だった有田に訪れた萩本欽一との舞台
有田さんはTake2の東貴博さんから声をかけられ、東さんの父・東八郎さんにちなんだ舞台へ出演することになりました。
当時の有田さんは、家庭的な人情喜劇のような雰囲気を素直に演じることに抵抗があり、稽古中にはわざとふざけるような振る舞いもしていました。
ところが本格的なリハーサルになると、周囲に合わせて真面目な演技に切り替えます。
それを見た萩本さんは、有田さんを止めました。
「いいんだよ、いつものやつで」
マイナビニュース
有田さんは、人情物語の中に自分の高いテンションのキャラクターは合わないと考えましたが、萩本さんはそのままやるよう求めました。
本番で有田さんは、ほかの出演者が真剣に芝居をする中、一人だけ勢いのあるキャラクターを続けます。
最初のうちは年配の観客も戸惑っていたものの、舞台が進むにつれて有田さんの発言そのものが次々に笑いを取るようになり、最後の感情的な場面でも笑いと芝居が同時に成立しました。
有田さんはこの舞台を境に、頭で構えて尖った笑いを作るだけでなく、自分のテンションを前へ出すスタイルも使うようになっていきます。
2026年の回想では、この経験がなければ、まだ尖ったままだったかもしれないと萩本さんへの感謝を語っています。
アンタッチャブル山崎弘也らとの関係の中でキャラクターが変化
同じころの有田さんは、アンジャッシュやアンタッチャブルと一緒にライブを行うなど、後にテレビで共演を重ねる芸人たちとも若手時代から交流していました。
中でもアンタッチャブルの山崎弘也さんとは、後に有田さんのプロレスものまねでも独特なやり取りが生まれます。
長州力さんのものまねを練習していたとき、有田さんは山崎さんに「キレましたか」といった質問を投げてもらい、長州さんになりきったまま返答する練習をしていました。
すると山崎さんがプロレスと関係のない質問まで始め、有田さんも長州さんのキャラクターのまま次々に答えられるようになっていきました。
単に声や口調をまねるだけではなく、人物になりきって会話そのものを広げる有田さんの「シチュエーションものまね」は、山崎さんとのやり取りの中でも磨かれていきました。
高校時代に上田さんと何時間もフリートークをしていたときとは形が違いますが、ここでも一人で完結するネタより、相手から何を投げられるかによって笑いが変わる場面が続いていました。
海砂利水魚からくりぃむしちゅーへ|改名後も続いた停滞期
2001年、約10年間使ってきた「海砂利水魚」という名前にも大きな変化が訪れます。
きっかけとなったのは、TBS系『ウンナンの気分は上々。』で行われた改名企画でした。
さまぁ〜ずとの改名対決で「くりぃむしちゅー」に
番組では海砂利水魚とバカルディが対決し、先に敗れたバカルディが「さまぁ〜ず」へ改名しました。
この最初の対決で海砂利水魚が負けていれば、二人が高校時代にラグビー部だったことから「ザ・トライ」になる予定だったと有田さんは明かしています。
その後の対決では海砂利水魚が敗れ、今度は二人が名前を変える番になりました。
内村光良さんが有田さんへ好きなものを尋ねた際、有田さんが「クリームシチュー」と答えたことから、新しい名前が決まります。
2001年、海砂利水魚は「くりぃむしちゅー」へ改名しました。
上田さんは以前から海砂利水魚という名前を変えたい気持ちが強かったようで、後年の著書では当時の心境をかなり率直に記しています。
「『海砂利水魚』以外ならなんでもいい」
文春オンライン
現在では当たり前になった「くりぃむしちゅー」という名前は、二人が自分たちで練り上げて決めたコンビ名ではなく、テレビ番組の改名企画から生まれました。
改名してもすぐには売れず「何もない時期」が続く
同じ企画から改名したさまぁ〜ずは、新しい名前になってから急速にテレビで存在感を増していきました。
一方、くりぃむしちゅーは、名前を変えたこと自体がすぐ大きな仕事につながったわけではありません。
有田さんは後年、改名後にも1年ほど「何もない時期」があったと振り返っています。
「くりぃむしちゅー」へ改名した瞬間がブレイクだったのではなく、新しい名前になってからもしばらく停滞は続きました。
海砂利水魚時代に『ボキャブラ天国』が終わり、改名したあとにも大きな変化が来ない時間を経て、別の方向から二人に仕事が増え始めます。
上田の「うんちく」を境にコンビの仕事が増え始める
流れを変えたのは、コンビ名そのものより、上田さんの「うんちく」でした。
豊富な知識を次々に語る上田さんのキャラクターがテレビで注目されるようになり、それをきっかけにくりぃむしちゅーとしての仕事も増えていきます。
改名から少し時間を置いて、上田さんの「うんちく」がテレビで見つかったことが、コンビの仕事量を変えるきっかけになりました。
高校時代は同じラグビー部で何時間も対等にしゃべっていた二人でしたが、テレビでは上田さんが進行や知識で前へ出て、有田さんが横から予想外の方向へ話を動かす場面も増えていきました。
初の冠番組から『しゃべくり007』へ|仕事の形が変わっていく
仕事が増え始めたくりぃむしちゅーは、2000年代に入ると、自分たちの名前を冠した番組を持つところまで進みます。
ここからは「出演する側」だけでなく、番組の空気や企画そのものに二人の色が強く出る仕事が増えていきました。
2004年『くりぃむナントカ』で改名後初の冠レギュラー
2004年、テレビ朝日で『くりぃむナントカ』が始まりました。
有田さんによると、これは海砂利水魚からくりぃむしちゅーへ改名してから、初めてコンビ名を冠したレギュラー番組でした。
初めての冠番組が決まった当時、有田さんたちはテレビ朝日へ何度も足を運び、番組タイトルを決める段階から参加しています。
「タイトル決めから自分たちでやりましたね。」
テレ朝POST
最初の放送が完成したときにはスタッフと試写室へ入り、実際の番組を見ながら反省会までしていました。
『くりぃむナントカ』は、改名してから初めて持った冠レギュラーで、有田さん自身もタイトル作りから関わった番組でした。
このシリーズはその後、番組名や放送枠を変えながら続き、現在のテレビ朝日系『くりぃむナンタラ』へつながっています。
2008年『しゃべくり007』で有田が再び「ふざける」ことを意識
2008年には、日本テレビ系『しゃべくり007』が始まりました。
同番組では、出演者側にゲストが事前に知らされず、その場でトークを膨らませたり、即興のボケやミニコントへ入ったりする時間が大きな特徴になりました。
有田さんにとって印象的だったのは、ほかの番組ならカットされることもある出演者同士のふざけ合いが、『しゃべくり007』ではむしろ放送されていたことでした。
「ちゃんとふざけなきゃ…」
TOKYO FM『川島明 そもそもの話』
準備したネタだけを見せるのではなく、突然出てきた相手や話題に応じて、その場で何かを始める時間が番組の中心になっていきました。
高校の部室で上田さんと何時間も続けていたフリートークから年月を経て、即興のやり取りそのものが全国放送の番組の中心になりました。
少年時代のプロレス好きが現在の有田哲平へ
テレビでの活動が広がってからも、有田さんが小学生のころに好きになったプロレスは消えませんでした。
むしろ芸歴を重ねるにつれて、長年蓄えてきたプロレスの知識や、その楽しみ方自体が仕事として表に出ていきます。
プロレスを語る仕事が一つの活動軸になる
2016年には配信番組『有田と週刊プロレスと』が始まりました。
毎回用意された『週刊プロレス』をきっかけに、有田さんが選手や団体、試合、その前後の人間関係まで語っていく番組で、シリーズは4シーズンにわたって制作されました。
有田さんは若いころからプロレス雑誌や関係者のインタビューを大量に読み、一つの出来事でも複数の立場から語られる話を頭の中で組み合わせてきました。
2022年にはYouTubeチャンネル『有田哲平のプロレス噺【オマエ有田だろ!!】』も開設しています。
兄に起こしてもらって深夜のプロレス中継を見ていた小学生が、何十年後にはプロレスを長時間語る番組を持つようになりました。
『全力!脱力タイムズ』の作り方にもプロレスの考え方
プロレスは、プロレス番組の中だけで使われているわけではありません。
有田さんは2026年の『川島明 そもそもの話』で、フジテレビ系『全力!脱力タイムズ』の番組作りにも、プロレスの考え方と重なる部分があることを話しています。
『全力!脱力タイムズ』では、芸人ゲストだけが状況を十分に知らないまま収録へ入り、用意された仕掛けにその場で反応していく形が使われています。
有田さんは、最初から「コントです」と見せるより、細かく準備されたものがその場で偶然生まれたように見える作り方を好んでいます。
小学生のころから勝敗の向こうにある人間関係や物語まで追いかけてきたプロレスの見方が、有田さんの番組作りにも入り込んでいます。
テレビ・音声・企画へ広がった現在の活動
2026年現在も、有田さんは『しゃべくり007』『全力!脱力タイムズ』『くりぃむナンタラ』に加え、TBS系『有田哲平とコスられない街』ではMCを務めています。
2022年に始まった初のポッドキャスト『有田脳』も続いており、2026年7月にはシーズン4がスタートしました。
『有田脳』は基本的に打ち合わせをせず、その場で出されたテーマから有田さんが話を広げていく形式で、テレビとは違う場所でも「しゃべること」が仕事になっています。
所属先も2026年現在は株式会社チャッターボックスで、上田さんとともにくりぃむしちゅーとして活動を続けています。
小学生のころに見つけたプロレスと「おしゃべり」は、高校で上田晋也さんと出会ってからも途切れず、有田さんの仕事の中に残り続けています。
熊本で兄と深夜のプロレスを見ていた少年は、高校で上田さんと毎日何時間もしゃべり、大学生のある夜に偶然その上田さんの履歴書作りへ加わりました。
海砂利水魚としての若手時代、萩本欽一さんとの舞台、改名後の停滞を経て、二人は自分たちの冠番組を持つようになりました。
現在も有田さんは、テレビでも音声でもプロレスでも、長く続けてきた「しゃべること」を使いながら活動しています。












コメントを残す