人物プロフィール
現役の弁護士として仕事を続けながら、芸人として舞台に立つこたけ正義感さん。
法律や裁判を題材にしたネタで知られ、現在は60分のスタンダップコメディ「弁論」という一人舞台にも活動を広げています。
ところが、芸人として最初に始めたのは法律ネタのピン芸ではなく、養成所で出会った相方との普通の漫才でした。
京都でお笑い番組を見て育ち、高校では友人とコントまでしていたものの、プロの芸人は「自分が目指していい世界ではない」と考え、先に選んだ進路は弁護士でした。
その考えが変わったのは、弁護士として働き始めて3年ほど経ったころ、現在の妻から「やってみれば」と背中を押されたことがきっかけでした。
子どものころのお笑い好きから司法試験、29歳での養成所入り、コンビ「ほどよし」、ピン転向、R-1、そして「弁論」までを順番にたどっていきます。
こたけ正義感の生い立ちと家族|京都の4人きょうだい末っ子として育つ
こたけ正義感さんは京都で生まれ育ち、姉、姉、兄に続く4人きょうだいの末っ子として子ども時代を過ごしました。
両親は子どもの勉強や進路へ細かく口を出すタイプではなく、本人も比較的自由に好きなことへ向かえる家庭だったと振り返っています。
兄姉のお笑い番組を見て育ち、小学生のころから笑いを取りにいく
家の中でお笑いへの入口を作ったのは、年上の兄や姉たちでした。
兄姉がお笑い番組を録画して見ていたため、末っ子だったこたけさんも一緒に見るようになり、テレビのお笑いが日常の中へ入ってきました。
小学生になると、見る側だけではなく自分で人を笑わせることも始めています。
授業中やクラスの中で笑いを取りにいくことがあり、小学3年生ごろには友人2人と3人組で漫才のようなこともしていました。
プロを目指すよりずっと前から、友人と組んでネタのようなものを作り、人前で笑いを取る経験をしていたことになります。
少年探偵団を結成、京都で過ごした子ども時代
お笑いとは別に、小学生のこたけさんが夢中になっていたのが探偵でした。
『名探偵コナン』などの影響から友人と「少年探偵団」を作り、革の手帳や虫眼鏡を持ち歩いていたといいます。
迷い犬を探すポスターを見かけると、実際に街を歩いて犬を探すこともありました。
「名探偵になりたかった(笑)。」
関東弁護士会連合会
本人によれば子どものころは体が小さく、その一方でかなり負けず嫌いでもありました。
兄姉の後を追ってお笑いを見ながら、自分でもクラスで笑いを取り、放課後には探偵団を作って街を歩くという、行動の多い少年時代でした。
中学から高校へ|弁護士志望とお笑いへの憧れが並行した学生時代
中学生になると、こたけさんの中に弁護士という将来の進路が現れます。
ただし、お笑いから離れたわけではなく、進路としての法律と、好きなものとしてのお笑いが同時に続いていました。
中学3年で母の一言から弁護士を意識、『吉本超合金』にも夢中になる
弁護士を意識し始めたのは、中学3年生ごろでした。
母親との会話で理屈っぽく話していたところ、そんなに理屈を言うなら弁護士になればいいという趣旨の言葉をかけられたことが、一つの入口になりました。
当時見ていたテレビドラマなどの影響もあり、難しい資格を取って働く弁護士という職業が次第に具体的な進路になっていきます。
一方、お笑いではFUJIWARAや2丁拳銃が出演していた『吉本超合金』などを好んで見ていました。
ほかにも麒麟やチュートリアルなどの漫才に親しみ、テレビのお笑いを見る習慣は高校へ進んでも続きます。
中学生の時点で「弁護士になりたい」という進路と、「お笑いが好き」という感覚は、どちらか一方に消えることなく並んでいました。
高校1年の文化祭コントが大ウケ、それでもプロ芸人は遠い世界だった
高校へ進むと、お笑いを見るだけでなく再び自分で演じる機会がやってきます。
高校1年生の文化祭で友人とコンビを組み、コントを披露したところ、会場では大きな反応が返ってきました。
その後も文化祭での出番は毎年続き、学校が終わったあとに生徒を集め、自分たちでライブのようなことをしたこともあったといいます。
人前でネタをする楽しさはすでに知っていましたが、そこで「卒業したら芸人になる」という発想には進みませんでした。
こたけさんにとってプロの芸人は、才能を持った選ばれた人が入る世界で、自分が努力すれば届く職業とは感じられなかったからです。
それに対して弁護士は、勉強して資格試験に合格すれば進める道として見えていました。
高校で毎年人前に立つほどお笑いが好きでも、職業として選んだのは芸人ではなく弁護士でした。
香川大学法学部へ|司法試験を目指して一人で勉強した4年間
高校卒業後、こたけさんは香川大学法学部へ進学しました。
大学選びの段階から有名大学の法学部へ一直線だったわけではなく、弁護士になるにはどこへ行けばいいのかを先生に尋ね、センター試験の結果なども踏まえて香川大学を選んでいます。
センター試験の点数から香川大学へ、司法試験仲間がほとんどいない環境
入学してみると、周囲には司法試験を本格的に目指している学生がほとんどいませんでした。
大学の授業だけで司法試験対策を完結させるのは難しく、こたけさんは資格予備校も利用しながら勉強を進めます。
同じ目標を持つ仲間と毎日集まって受験勉強をする環境ではなかったため、一人で机に向かう時間が多くなりました。
「弁護士になる」と決めて香川へ来たものの、司法試験への道は周囲に合わせて進めるのではなく、自分で勉強の環境を作るところから始まりました。
大学生活のすべてを勉強だけで埋めていたわけではなく、息抜きとしてバスケットボールのサークルにも参加しています。
大学生協の食堂も利用しながら、普段は大学と予備校、自習を往復する生活を送っていました。
予備校・バスケサークル・一人の勉強、派遣村報道から弁護士像が具体化
大学で法律を学び始めたころ、授業で「法律は大学から全員が初めて学ぶ」という趣旨の説明を聞いたことも、地方の大学から司法試験を目指すこたけさんを後押ししました。
出身大学にかかわらず同じ法律を一から学ぶなら、自分にもやれるかもしれないと考えたのです。
大学時代には、リーマン・ショック後の雇用問題や「年越し派遣村」が大きく報道されていました。
その中で困っている人の支援に弁護士が関わる姿を知り、資格を取ることだけではなく、法律を使って人の側に立つ仕事として弁護士を見るようになります。
大学卒業後は司法試験の受験資格につながる法科大学院へ進むことになり、地元の京都へ戻りました。
立命館大学法科大学院から司法試験へ|実家から通った勉強漬けの2年間
次に進んだのが立命館大学法科大学院です。
香川大学時代以上に司法試験が目前へ近づき、ここからの2年間は生活の中心がほぼ勉強になりました。
自転車で通える法科大学院で、朝から夜まで勉強する生活
法科大学院は京都の実家から自転車で5分ほどの距離にあり、通学時間だけを見れば恵まれた環境でした。
朝起きて勉強し、学校へ行って勉強し、帰宅後に食事をしてからまた勉強するという生活が続きます。
大学時代のようにサークルへ顔を出す余裕も少なく、友人と遊ぶ時間も大きく減っていきました。
「本当に、もぐらの気分ですね、当時は。」
全国大学生活協同組合連合会
実家からわずか数分の学校へ通いながら、生活範囲はむしろ勉強へ狭くなっていきました。
司法試験のプレッシャーを越え、一発合格へ
香川大学から法科大学院へ進む際には、既修者向けの2年課程へ入ること自体を難しいと言われたこともありました。
もしその課程へ入れなければ弁護士を諦めることも考えるほど、自分の中では一つの区切りを置いていました。
法科大学院の終盤になって、暗記してきた知識がつながり、ようやく法律全体の構造が見えてきた感覚があったといいます。
そして修了後の司法試験に一度で合格し、長く目標にしてきた弁護士への入口へ到達しました。
合格後は司法修習へ進み、その実務修習地となったのが愛媛県松山市でした。
弁護士生活3年目、妻の一言で芸人が現実の選択肢に
司法修習を終えたこたけさんは、2012年に弁護士として働き始めます。
高校時代に遠い世界だと思っていた芸人ではなく、学生時代から現実的な目標として積み重ねてきた法律の仕事へ進みました。
愛媛の司法修習を経て東京で弁護士として働き始める
松山での司法修習中には、後に結婚する現在の妻とも知り合いました。
修習後は東京の法律事務所へ入り、刑事事件や生活上のトラブルなど、依頼者が大きな問題を抱えて相談に来る仕事を担当するようになります。
弁護士になった最初の2〜3年は仕事量も多く、夜遅くまで働いて終電へ間に合わないこともありました。
大学時代に考えていた「困っている人に法律で関わる」という仕事を実際に始める一方、仕事の外ではお笑いを見る生活も続いていました。
妻もお笑いが好きだったため、二人で話しているときには自然と芸人や番組の話が出ていたといいます。
「そんなに好きならやってみれば」から、その場で養成所探しへ
転機が訪れたのは、弁護士として働き始めて3年ほど経ったころでした。
いつものようにお笑いの話をしていたこたけさんへ、妻がこう声をかけます。
「そんなに好きだったらやってみれば?」
HugKum
こたけさんはその場でお笑いの養成所を検索しました。
そこで見つけたのが、仕事を続けながら通えるワタナベコメディスクールの社会人向けコースでした。
会社員を続けながら芸人活動を始めた厚切りジェイソンの例も知り、平日は弁護士、週末は養成所という形なら自分にも可能だと考えます。
高校卒業時には選択肢に入らなかった芸人が、弁護士になった後の29歳で初めて現実の進路になりました。
妻の一言を聞いた直後に養成所を探し始めたことが、芸人人生の具体的なスタートでした。
29歳でワタナベコメディスクールへ|土曜日に始まった“青春”
2016年、こたけさんは29歳でワタナベコメディスクールへ入りました。
最初から弁護士を辞めて芸人一本にするのではなく、仕事を続けながら週末にお笑いを学ぶところから始めています。
弁護士を続けながら毎週ネタを作り、妻にも意見を聞く
通ったのは毎週土曜日の社会人向けクラスで、朝から夕方まで授業がありました。
ダンスや演技の授業もあったものの、中心になるのは自分たちでネタを作り、講師の前で披露して指摘を受け、また直す作業でした。
平日は法律事務所で働き、週末が近づくと今度はネタを考える生活へ変わっていきます。
作ったネタについて妻へ意見を聞くこともあり、仕事とは別に毎週新しいものを作って人前へ出す時間が増えていきました。
週に一度の習い事のような感覚で入った場所でしたが、毎週ネタを作るうちに、お笑いへ費やす時間は急速に大きくなっていきます。
経験者の同期から技術を学び、プロ所属をつかむまで
クラスには20人ほどがいて、すでに人前でネタをした経験を持つ生徒もいました。
後に芸人として活動するGパンパンダら経験のある同期に、声の出し方や間の取り方などを食事や飲みの席で聞くこともありました。
それまでテレビを見ながら「面白い」と感じていた笑いが、ネタの構成、声量、タイミングといった技術として目の前で分解されていきます。
月ごとのライブでは思うように上の段階へ進めない時期もありましたが、卒業が近づくころに事務所所属へ必要な基準をクリアしました。
ワタナベコメディスクールは卒業すれば全員がそのまま芸能事務所へ所属できる仕組みではなく、卒業ライブや面談などを経て残れるのは一部でした。
「今振り返ると、あれは青春でしたね。」
HugKum
高校時代には手を伸ばさなかったプロのお笑いの世界へ、弁護士になった後で初めて入ることになりました。
木田と「ほどよし」を結成|弁護士を続けながら漫才師としてデビュー
養成所へ入ったこたけさんには、ネタを学ぶだけでなく相方を見つけたいという目的もありました。
同じクラスにいた木田さんと組み、卒業後もコンビで活動していきます。
同じクラスで相方を見つけ、2017年4月にコンビ結成
コンビ名は「ほどよし」で、M-1グランプリ公式記録には2017年4月1日結成、メンバーは木田さんと「小竹正義感」と残っています。
現在は「こたけ正義感」というひらがなの芸名で知られていますが、この時期の公式記録には漢字の「小竹」が使われていました。
養成所在籍中から漫才を始め、所属が決まった後も平日は弁護士として働きながらライブへ出演します。
当時から「法律だけを使った特殊なピン芸人」になろうとしていたわけではなく、本人がやりたかったのは漫才でした。
こたけ正義感さんのプロとしてのお笑いの入口は、ピン芸ではなく木田さんとの漫才コンビでした。
普通の漫才から「弁護士です」を入口にするスタイルへ
「ほどよし」で最初に作っていたのは、法律を前面へ出さない普通の漫才でした。
ところが、知名度のない若手が舞台へ出ても、客席には二人が何者なのか分かりません。
そこで自分が弁護士であることをネタの前に伝えると、客席が少し興味を持ってくれることに気づきます。
「弁護士です」という情報が、法律そのものを笑うためというより、まず自分に注意を向けてもらう入口になっていきました。
現在の法律ネタは最初から完成していたのではなく、普通の漫才を続ける中で、自分にしかない材料として弁護士という仕事が前へ出てきました。
それでも、コンビとして大きな結果がすぐに出たわけではありませんでした。
2019年に「ほどよし」解散|法律事務所も独立しピン芸人へ
ワタナベエンターテインメントに所属してからも、しばらくはテレビの仕事が次々と入る状況にはなりませんでした。
「現役弁護士の芸人なら珍しいからすぐテレビへ出られる」と周囲から言われることもありましたが、実際の若手生活はそれほど単純ではありませんでした。
3年ほど結果が出ない時期を経て、コンビからピンへ
ライブへ出ても手応えを得られない時期が続き、「ほどよし」として約3年間活動した後、2019年にコンビは解散します。
こたけさん自身は、その3年間を「すぐ結果を出せなかった異常な期間」とは考えておらず、若手芸人ならメディアへ出ない期間が続くことも普通だと受け止めていました。
コンビ解散以前から、こたけさんの中には一人でネタをする選択肢もあり、解散後はピン芸人としてさまざまな形を試すようになります。
さまざまなネタを試し、法律を武器にする芸風が固まっていく
2019年には芸人活動だけでなく、弁護士としての働き方にも変化がありました。
勤務していた法律事務所から独立し、自分の法律事務所を構えます。
芸人として仕事が増えたとき、勤務先のほかの弁護士へ負担をかけにくい形へしておきたいという考えも独立の背景にありました。
「ほどよし」の解散と法律事務所からの独立が重なった2019年は、芸人としても弁護士としても一人で動き始めた時期でした。
ピンになってからは、漫談を含めて複数の形式を試しながら、弁護士だからこそ知っている制度や裁判、法律用語を笑いへ変える方法を探していきます。
芸名についても、漫才をしていた初期は本名で舞台に立っていた時期があり、その後、芸人らしく分かりやすい名前を求められる中で「正義感」を取り入れた現在の名前へ移っていきました。
舞台では青いシャツ、グレーのベストとパンツ、赤いネクタイに弁護士バッジという姿が定着し、職業とネタの見た目も結び付いていきます。
弁護士という肩書きは、コンビ時代の自己紹介から、ピン芸人としてネタそのものを作る材料へ変わっていきました。
家族の渡米で「結果が出なければ辞める」|2022〜2023年の転機
ピンへ転向してからも、すぐに生活の中心がお笑いへ変わったわけではありません。
弁護士と芸人を並行する状態が続く中、家族の生活が大きく動いたことで、芸人を続けるかどうかを具体的に考える時期が訪れます。
妻と子どもが渡米、ワタナベお笑いNo.1準優勝で得た大きな手応え
妻がアメリカで働くことになり、当時まだ幼かった子どもとともに渡米しました。
こたけさんは日本に残り、弁護士と芸人の仕事を続けることになりましたが、家族と離れてまで結果の出ていない芸人活動を続けるのかという問題が現実になります。
家族では、これから一年ほどで何も結果を残せなければ芸人を辞めることも話し合いました。
芸人を始めるときに背中を押した妻との間で、今度は「結果が出なければ辞める」という期限を考えるところまで来ていました。
その状況で迎えた2022年、こたけさんはワタナベお笑いNo.1決定戦へ出場します。
芸歴5年ほどで初めて出場した大会で決勝まで進み、結果は準優勝でした。
「まさにそれが、芸人になって一番嬉しかった出来事です。」
PHPオンライン
審査員から今後を期待する言葉を受け、これまで結果が出なかったライブ生活の中で初めて大きな手応えを得ました。
同じ2022年にはABCお笑いグランプリでも準優勝し、一度の偶然ではなく賞レースで名前が残り始めます。
家族と芸人を続ける期限を考えた時期に、初めて複数の大会で結果が出始めました。
R-1グランプリ2023の敗者復活から決勝へ、仕事がつながり始める
翌2023年には、一人芸の大会R-1グランプリへ挑みました。
最初から決勝進出が決まっていたわけではなく、復活ステージへ回ったところから、視聴者投票によって最後の決勝枠を獲得します。
敗者復活からR-1グランプリ2023の決勝へ進んだことで、テレビでこたけ正義感さんを見る機会も増えていきました。
賞レースの結果をきっかけに、それまでほとんどなかったテレビ出演がつながり、好きだった番組への出演も実現しました。
家族はその後日本へ戻り、離れて暮らしていた時期も終わります。
弁護士を辞めて芸人だけに切り替えたわけではなく、裁判など長い期間を要する仕事にも携わりながら、芸人としての仕事量を増やしていきました。
R-1の先に「弁論」へ|弁護士経験を60分のスタンダップコメディに
R-1で知られるようになった後も、こたけさんは数分のテレビ用ネタだけに活動を絞りませんでした。
法律とお笑いを組み合わせた表現は、やがて一人で長時間話す「弁論」へ広がっていきます。
短い法律ネタから、長く積み上げられる漫談形式へ
コンビ時代には客席の興味を引くための「弁護士」という自己紹介から始まり、ピン転向後には法律そのものを素材にしたネタが増えていました。
その先でこたけさんが取り組んだのが、一つの題材を掘り下げながら約60分を一人で話すスタンダップコメディです。
2024年に始まった「弁論」では袴田事件を題材にし、翌2025年には生活保護をめぐる「いのちのとりで裁判」を扱いました。
題材は社会的に重いものでも、舞台を講義や法律解説にするのではなく、自分が実際に触れたり関わったりした事柄を、自分の話として笑いへ組み立てています。
「ウケることが第一義ですから。」
ローチケ演劇宣言!
法律を分かりやすく説明することより、まず一人のお笑い芸人として客席を笑わせることが「弁論」の中心に置かれています。
2024年の約80席から始まった「弁論」、2026年は4都市公演を予定
最初の「弁論」は2024年4月、約80人規模の会場から始まりました。
同年夏には東京と大阪で60分漫談ライブとして公演し、翌2025年には申し込み規模が大きく拡大します。
2025年公演の期間限定公開動画は160万回を超えて視聴され、「弁論」を知る人も増えていきました。
2026年は宮城、福岡、京都、東京を回る4都市公演が発表され、東京公演には約8,000人規模の東京ガーデンシアターが選ばれています。
2026年8月18日時点では公演前で、宮城公演は11月4日、福岡公演は11月11日、京都公演は11月24日、東京公演は12月4日に予定されています。
約80席から始まった一人舞台は、2年後には4都市を回る規模まで広がりました。
高校の文化祭で友人とコントをしていた少年が、弁護士を経て29歳で養成所へ入り、今度は法律と自分の経験を材料に一人で60分の舞台へ立っています。
京都でお笑い番組を見ていたこたけ正義感さんは、まず弁護士になる道を選びました。
29歳で舞台へ入り、漫才コンビ、ピン、賞レースを経て、現在は60分の「弁論」へ進んでいます。
2026年8月時点では、その「弁論」を4都市で上演する次の公演が控えています。












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