月亭方正の生い立ちと若い頃|大学受験からNSCへ、TEAM-0解散と落語家転身まで

人物プロフィール

本名
山崎邦正
生年月日
1968年2月15日
身長
166cm
血液型
O型
出身地
兵庫県 西宮市
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
1988年
養成所・スクール
NSC大阪校 6期
師匠
月亭八方

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』で長く親しまれてきた月亭方正さんは、かつて本名の山崎邦正としてテレビの世界で活躍していました。

現在は高座に上がり、独演会を開きながら弟子へ稽古をつける上方落語家として活動しています。

若い頃をたどると、兵庫県西宮市で育ち、高校時代には文化祭で「ミスター南高」に選ばれ、大学進学を目指して浪人した時期もありました。

そこからお笑いの世界へ進む直接のきっかけになったのは、受験に失敗して進路に迷っていた時期に、当時交際していた女性から「お笑いやったら?」と勧められたことでした。

NSCへ入り、TEAM-0で新人賞を受賞して東京へ進出しますが、25歳ごろには突然コンビが解散し、ピン芸人として「面白くない」と言われることに悩む時期も経験します。

さらに40歳を目前にすると、テレビで知られた存在でありながら「一人で客を笑わせられる芸」を求め始め、桂枝雀さんの落語との出会いから人生が再び大きく動きました。

月亭方正の生い立ちと家族|西宮で「スター」を夢見た子ども時代

月亭方正さんは1968年2月15日、兵庫県西宮市で生まれました。

テレビで見せてきた姿だけを見ると、芸人になることを早くから決めていたようにも思えますが、本人が振り返る子ども時代には「人前へ出るのは好きでも、将来本当に芸人になるとは思っていなかった」という距離があります。

小学校の卒業文集に書いた「将来の夢はスターになること」

子どものころの方正さんは、本人の言葉では「目立ちたがり屋」で、人前へ出ることが好きな少年でした。

著書『僕が落語家になった理由』では、幼少期を「サービス精神旺盛だった」と振り返る章があり、のど自慢で「東村山音頭」を歌った思い出も紹介しています。

その性格がよく表れているのが、小学校の卒業文集に残した言葉です。

「将来の夢はスターになること」

双葉社 THE CHANGE

このころに「お笑い芸人になる」と職業まで決めていたわけではありませんが、人に見られること、人前で何かをすることには早くから抵抗がありませんでした。

ドリフから『ひょうきん族』、ビートたけし、ダウンタウンへ

小学生のころによく見ていたのはザ・ドリフターズで、中学生になると『オレたちひょうきん族』へ興味が移りました。

その中でもビートたけしさんに惹かれ、さらに大阪でダウンタウンが注目されるようになると、今度は松本人志さんと浜田雅功さんの笑いを見るようになります。

ドリフ、ひょうきん族、ビートたけし、ダウンタウンと、成長するにつれて好きなお笑いも変化していきました。

一方で年齢が上がるにつれ、プロのお笑い芸人は自分には遠い世界だとも考えるようになり、卒業文集の「スター」という夢をそのまま職業へ結びつけることはありませんでした。

西宮の家族の中で育ち、学校では人前へ出る少年だった

方正さんは西宮で家族と暮らしながら学校生活を送り、両親や姉がいる家庭で育ったと紹介されています。

少年期には野球などにも触れていますが、後年まで繰り返し語っているのは、家の中の出来事よりもテレビのお笑いと学校で人前へ出ていた自分についてです。

子ども時代に見ていたテレビの笑いは、その後すぐ芸人志望へ結びついたわけではなく、進路を現実的に考え始める10代後半になると、方正さんはいったん別の道へ向かおうとします。

西宮南高校時代と進路|“ミスター南高”から浪人生活へ

中学を卒業した方正さんは、地元の兵庫県立西宮南高校へ進みました。

ここでも人前へ出る性格は変わらず、後年本人がラジオで明かした高校時代のエピソードには、現在のテレビでの姿とは少し違う若い頃が見えます。

文化祭で「ミスター南高」に選ばれた高校時代

西宮南高校の文化祭には「ミスター南高」「ミス南高」を選ぶ企画があり、方正さんは「ミスター南高」に選ばれたことがありました。

芸人になってから若い頃の写真が話題になることもあり、後年には本人も昔の自分の写真をSNSへ投稿しています。

ただし、高校卒業が近づいた時点で「芸人になろう」と一直線に考えていたわけではありません。

大学進学を目指す一方、別の職業も考えていた10代後半

高校卒業後は大学進学を希望し、浪人して受験勉強を続けました。

著書では、この時期に歯科技工士を目指したことも取り上げており、10代後半の方正さんにとってお笑いは、まだ数ある可能性の一つにもなっていませんでした。

ところが浪人して受験した大学には合格できず、予定していた進路が途切れます。

この「次に何をするか」が決まらなくなった時期に、それまで遠い職業だったお笑いが急に現実的な選択肢になりました。

大学受験に失敗したとき、彼女の「天職やない?」でお笑いが進路になる

転機を作ったのは、当時交際していた女性でした。

大学受験がうまくいかず進路を決められずにいた方正さんへ、その女性がお笑いを勧めます。

「天職やない?」

双葉社 THE CHANGE

方正さんは当時「天職」という言葉の意味をよく知らず、意味を調べたうえで「そこまで言うなら、お笑いをやってみてもいいのではないか」と考え始めました。

大学受験の失敗そのものではなく、進路を失ったタイミングで身近な人からお笑いを勧められたことが、芸人への直接の一歩になりました。

1987年にNSC大阪6期へ|GSX結成からTEAM-0で東京進出

方正さんは1987年、吉本興業の芸人養成所NSC大阪校6期へ入ります。

この時点では、後に長くテレビへ出演することも、40歳で落語へ向かうことも決まっていませんでした。

約200人のNSC生を見て「これ、全然勝てるわ」

NSCへ入る前の方正さんは、養成所に集まる人は全員ものすごく面白いのだろうと考えていました。

ところが、実際に約200人の同期を目の前にすると印象が変わります。

周囲を見て「これ、全然勝てるわ」と感じたことを、本人は後年のインタビューで明かしています。

プロの世界を遠く感じていた浪人時代から一転し、同じスタートラインに立つ仲間を見たことで、自分にも可能性があると感じるようになりました。

軌保博光とGSXを結成|現在まで残る最初の相方との写真

NSC入学翌年の1988年、方正さんは軌保博光さんとコンビを組み、最初は「GSX(ガスペケ)」の名前で活動を始めます。

最初の相方との出会いについて、初対面の場所やどちらからコンビ結成を持ちかけたのかまで詳しく説明した本人の公開証言は多くありません。

ただ、方正さんにとって軌保さんが「この世界に入って初めての相方」だったことは、本人が後年SNSでも振り返っています。

1989年にはコンビ名をTEAM-0へ変更し、活動の場所を大阪から東京へ移していきます。

TEAM-0へ改名し、仕事のない状態で東京へ

東京へ出たからといって、すぐテレビの仕事が次々に入ったわけではありません。

方正さんは2025年のラジオ出演で、東京へ出た当初は仕事がほとんどなく、アルバイトをいくつもしていたと振り返っています。

大阪ではNSCを出てコンビを組んだ若手でしたが、東京では改めて仕事を得るところから始めなければなりませんでした。

ダウンタウンの前説から『ガキの使い』へ

状況が動き始めたのは、ダウンタウンが本格的に東京へ進出してきたころです。

TEAM-0はダウンタウンの番組で前説を任されるようになり、収録前の観客を温める現場へ出る機会が増えていきました。

1990年には『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』へ出演するようになり、その後30年以上続く番組との関係が始まります。

TEAM-0で新人賞を獲得|仕事が増え始めた矢先のコンビ解散

東京でアルバイトをしながら活動していたTEAM-0にも、少しずつ結果が出始めます。

テレビとの接点が増える一方、コンビとしても大きな評価を得る機会が訪れました。

1991年、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞

1991年、TEAM-0はABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞しました。

東京へ進出してまだ数年の時期に得た大きな結果で、テレビやラジオの仕事も増えていきます。

後年の本人によれば、解散直前には月収が約50万円になり、テレビやラジオにもレギュラーを持つ状態になっていました。

TEAM-0は「これから売れるかどうか」という段階ではなく、すでに仕事が増え始めたところまで来ていました。

若手時代の人気と「ミスター南高」から続く意外なモテ期

高校時代に「ミスター南高」に選ばれた方正さんは、若手芸人時代にも女性ファンが多かったといいます。

本人によると、バレンタインデーに届いたチョコレートの数について、吉本のスタッフから「さんまさん抜いたよ」と伝えられたこともありました。

後年の「いじられ役」の印象が強いだけに、TEAM-0時代の人気ぶりは若い頃を知るうえで印象的なエピソードです。

1993年、相方から「お笑いはやりたくない」と告げられる

仕事も収入も増えていた1993年、方正さんは軌保さんから思いがけない言葉を告げられます。

「お笑いはやりたくない」

双葉社 THE CHANGE

方正さんにとっては、レギュラー番組もあり生活も成り立ち始めた時期だったため、すぐに受け止められる話ではありませんでした。

新人賞を獲得し、仕事が増えていたTEAM-0は1993年に解散し、方正さんは一人で芸人を続けることになります。

ピン芸人・山崎邦正の苦悩|泣いて帰った収録と「俺、パグや」

コンビ解散後も『ガキの使い』などの仕事は残りましたが、方正さんにとってピン芸人としてのスタートは順調とは言えませんでした。

目の前にはすでにダウンタウンがいて、その実力差を毎回の収録で感じる環境でした。

「アホ」「ヘタレ」より苦しかった「面白くない」という言葉

番組で「アホ」「ヘタレ」と扱われること自体は受け入れられても、方正さんが強く傷ついたのは「面白くない」と言われることでした。

現在なら「スベリ芸」という見方もありますが、当時はその言葉が一般的ではなく、本人には単純に芸人として否定されているように聞こえていました。

「収録終わり、いつも泣いて帰ってました」

双葉社 THE CHANGE

辞めたいと思うこともありましたが、「面白くないから辞めた」と思われることにも抵抗があり、そのまま現場へ通い続けました。

全部受け入れて言い返すと決め、仕事が一気に増える

悩み続けた方正さんは、ある時期から周囲に何を言われても一度受け入れ、そのうえで自分から言い返してみようと考えるようになります。

それまで避けたかった状況へ自分から入るようになると、番組内でのやり取りにも変化が生まれました。

本人の回想では、その方向へ切り替えてから半年ほどでレギュラー番組が一気に増えたといいます。

漫才コンビ時代の「ネタで評価される芸人」とは違う形で、山崎邦正という人物そのものがテレビの中で使われるようになっていきました。

動物番組のパグを見て、自分のテレビでの戦い方を見つける

そのころ、テレビで動物番組を見ていた方正さんの目に、体の大きな犬へ何度も向かっていく一匹のパグが映りました。

何度はね返されても再び向かっていく姿を見た瞬間、自分の立ち位置と重なったといいます。

「俺、パグや」

双葉社 THE CHANGE

強い相手に向かい、はね返されてもまた戻っていくという発想は、その後のテレビでの山崎邦正を考えるうえで具体的な転換点でした。

30代の学び直しと40歳直前の迷い|テレビの外に自分の芸を探す

テレビでは独自の立ち位置を得た一方、方正さんの中では「自分の芸とは何なのか」という迷いが消えたわけではありませんでした。

30代に入ると、それまでとは違う場所へ足を運び、自分にできることを増やそうとします。

30歳を過ぎて立正大学心理学部へ進み、芸人としての道を探す

方正さんは30代になってから立正大学心理学部へ進学し、仕事と並行して大学へ通いました。

その後卒業しており、現在の上方落語協会プロフィールにも「立正大学心理学部卒業」と記載されています。

この時期には大学だけでなく、ピアノや英語などにも関心を広げ、自分の中に芸人として使えるものを探していたと後年語っています。

テレビで仕事を持ちながらも、自分一人で何を見せられるのかという問いは残り続けていました。

腹膜炎で入院中、『笑ってはいけない』の仕事が入る

2007年には体調を崩して入院し、当時の報道では腸炎から腹膜炎の可能性もあるとして療養が続きました。

本人は後年、この時期について腹膜炎で約1か月入院したと振り返っています。

そこへ入ってきた大きな仕事が、年末恒例となっていた『笑ってはいけない』シリーズの収録でした。

十分に体が戻り切らない時期に現場へ入り、番組では蝶野正洋さんからビンタを受ける恒例の展開にも参加しています。

38~39歳の営業で後輩芸人との差を目の当たりにする

落語へ向かう直前の38~39歳ごろ、方正さんは地方の営業で次長課長やチュートリアルらと一緒になる機会がありました。

後輩たちは持ちネタを披露し、短い時間で会場を沸かせていきます。

一方、テレビで顔を知られている方正さんは登場時こそ歓迎されても、一人で20分、30分と客を笑わせ続けるための持ち芸を持っていないことに気づきました。

テレビに長く出演してきた39歳の時点で、「自分には一人で客の前に立てる芸がない」という問題が目の前に現れました。

新喜劇を研究するも「自分には合わない」と別の道を探す

方正さんは次の道として、まず吉本新喜劇を研究しました。

笑いだけでなく登場人物や物語があり、舞台の中で完結する新喜劇に魅力を感じたからです。

しかし、一人で営業先へ行ったときに披露できる芸を求めていた方正さんにとって、大人数で作る新喜劇をそのまま自分の武器にすることはできませんでした。

そこで、芸人仲間にこれから何をすればいいのか相談するようになります。

東野幸治の一言で落語と出会う|桂枝雀「高津の富」から月亭一門へ

相談相手の一人が、長く親交のあった東野幸治さんでした。

40歳を目前にした方正さんへ、東野さんはそれまで本人がほとんど接してこなかった世界を勧めます。

「落語聴いたら?」と言われ、桂枝雀のCDを手に取る

東野さんから勧められたのは落語でした。

当時の方正さんは伝統芸能に強い関心があったわけではなく、最初から「落語家になりたい」と思って聞き始めたわけでもありません。

それでも桂枝雀さんの音源を手に取り、最初に強く引き込まれたのが「高津の富」でした。

一人しか高座にいないのに、会話の相手も場面も次々と変わり、客席から大きな笑いが起きることに衝撃を受けました。

「一人でやる新喜劇や」と気づき、落語漬けの生活へ

新喜劇を研究した直後だったこともあり、方正さんには落語の構造が別の角度から見えました。

「一人でやる新喜劇」

双葉社 THE CHANGE

年配の人物も子どもも、怒る人物も泣く人物も、一人で演じ分けながら物語を進められる落語は、方正さんが営業先で感じた問題への答えになりました。

そこから桂枝雀さんを中心にCDやDVDを繰り返し聞き、自宅でも落語を覚えて声に出す時間が増えていきます。

39歳まで探し続けていた「一人で客の前に立てる芸」を、方正さんは落語の中で見つけました。

月亭八光を通じて月亭八方へ入門を願い出る

落語を聞くだけではなく、自分でも高座へ上がりたいと思うようになった方正さんは、知人だった月亭八光さんへ相談しました。

八光さんの父である月亭八方さんにつながり、方正さんは月亭一門で落語を学び始めます。

すでに全国的な知名度を持つテレビタレントでしたが、落語では一から稽古を受け、師匠に噺を見てもらう生活へ入りました。

テレビで築いた芸歴をそのまま落語の評価へ持ち込むのではなく、40歳近くになって新しい芸を覚える時間が始まりました。

2008年に初高座、2009年に上方落語協会へ

2008年5月11日、方正さんは月亭八方さんの落語会にゲストとして出演し、初高座を経験しました。

この日の高座を経て、八方さんから「月亭方正」の名を授かります。

最初から芸名を全面的に変えたわけではなく、テレビでは山崎邦正、落語では月亭方正という二つの名前を使う期間が続きました。

2009年12月には上方落語協会へ加入し、落語が単発の企画ではなく継続する仕事になっていきます。

家族と関西へ移り「月亭方正」に|テレビ中心の生活から落語へ

落語を始めた後もしばらく生活の拠点は東京にありましたが、上方落語を続けるほど一つの問題が大きくなりました。

兵庫県西宮市出身とはいえ、20代前半から長く東京で生活し、日常的に上方の言葉へ触れる時間が減っていたことです。

上方の言葉を身につけるため、2012年に東京から関西へ

方正さんは落語を続けるなら、普段の生活そのものを関西へ戻す必要があると考えます。

2012年7月、長く暮らした東京を離れ、家族とともに関西へ生活拠点を移しました。

仕事のたびに東京へ通う必要が生まれる一方、日常生活では関西弁を聞き、落語の稽古では師匠や一門と接しやすい環境になります。

落語を始めるだけでなく、家族の生活拠点まで東京から関西へ移したことに、方正さんがどこまで本気で取り組もうとしていたかが表れています。

妻が自宅での稽古を聞き、家族で移住する

方正さんは2001年に結婚し、その後は3人の子どもの父親になりました。

関西へ戻る決断は本人だけの問題ではなく、妻や子どもたちの生活も変える選択でした。

妻はそれ以前から、夫が自宅で落語を繰り返し稽古している姿を見ていました。

「これなら大丈夫」

スポニチアネックス

方正さんによれば、妻は落語への取り組みを家庭で見たうえで、関西への移住についてきてくれたといいます。

落語を始めてしばらくしたころには、八方さんからも本当に続けるのか覚悟を問われ、上方落語協会へ入った後に簡単に辞めることは許されないと伝えられました。

2013年から芸名も「月亭方正」に一本化

2012年12月、方正さんは翌年からテレビを含むすべての活動名を「月亭方正」に統一すると発表しました。

2013年1月1日から、それまで広く知られていた山崎邦正ではなく、落語で授かった月亭方正を正式な活動名として使っています。

40代半ばで生活拠点だけでなく、約25年使ってきた「山崎邦正」という名前まで変えました。

名前の変更は落語家として活動するための一時的な肩書ではなく、その後のテレビ出演でも同じ「月亭方正」が使われています。

リアクション芸を減らしながら『ガキ使』だけは続けた理由

落語へ軸足を移した後、方正さんはそれまで多かったリアクション芸の仕事を少しずつ減らしていきました。

一方、『ガキの使い』については、自分を育ててもらった特別な番組として出演を続けています。

番組では毎年「さようなら月亭方正」と題して卒業を宣言し、結局撤回する企画が長く続いたため、「月亭方正 引退理由」という検索につながりやすい状態も生まれました。

しかし、これは日本テレビも「大茶番劇」と紹介してきた恒例企画で、実際に芸能界を引退したわけではありません。

現在の月亭方正|独演会と弟子を持つ上方落語家へ

テレビで「山ちゃん」と呼ばれていた時代から年月が過ぎ、現在は落語家として高座に上がる時間が活動の大きな柱になっています。

公式サイトのスケジュールにも、全国各地の落語会や独演会が継続的に掲載されています。

独演会を重ね、2026年は彦八まつり実行委員長を務める

2026年5月に大阪・生國魂神社で開催された第33回彦八まつりでは、月亭方正さんが実行委員長を務めました。

彦八まつりは上方落語協会の落語家が参加する恒例行事で、方正さんは出演する側だけでなく、行事を取りまとめる立場にもなっています。

2026年秋以降も大阪や東京などで独演会・落語会の予定が組まれており、落語は40歳前後に始めた「第二の活動」ではなく、現在の仕事の中心の一つになっています。

月亭柳正・月亭新正へ稽古をつける「師匠」の立場へ

自分が40歳近くで八方さんのもとへ入った方正さんも、現在は弟子を持つ立場になりました。

2021年には月亭柳正さんが入門し、その後は月亭新正さんも弟子となっています。

本人の公式YouTubeでは、新正さんへ「味噌豆」の稽古をつける様子も公開され、自分が師匠から教わった落語を今度は次の世代へ伝える側になっています。

NSCで約200人の同期を見ていた若手芸人は、40歳で落語を一から学び直し、今では弟子を指導する師匠になりました。

「引退」ではなく、落語を中心に現在も活動を続けている

月亭方正さんは2026年現在も芸能界を引退しておらず、落語会への出演、独演会、テレビなどで活動を続けています。

若い頃のTEAM-0、ピン芸人としてのテレビ出演、そして40歳前後からの落語と、活動の形が大きく変わってきたため、「テレビで以前ほど見なくなったこと」と「引退」が混同されやすい面があります。

実際には芸人を辞めたのではなく、自分の活動の重心をテレビのリアクション芸から高座へ大きく移してきました。

西宮で「スター」を夢見た少年は、大学受験に失敗した時期に身近な人の一言からNSCへ入り、TEAM-0の結成と解散を経て一人でテレビに立つようになりました。

39歳で再び自分の芸を探したとき、東野幸治さんに勧められて聞いた桂枝雀さんの落語から月亭八方さんへの入門へ進み、生活拠点と芸名まで変えました。

現在は「山崎邦正」として積み重ねたテレビの時間も持ちながら、月亭方正として独演会を開き、弟子へ落語を教えるところまで歩みを進めています。

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