人物プロフィール
ジャルジャルの福徳秀介さんといえば、後藤淳平さんと独特な設定のコントを次々と生み出し、2020年にはキングオブコント王者となった芸人です。
現在は舞台やYouTubeでコントを作り続ける一方、小説の執筆にも活動を広げ、2020年に発表した『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』は2025年に実写映画化されました。
そんな福徳さんの子ども時代をたどると、アメリカで過ごした幼少期、家族を笑わせていた父親、そして身の回りの小さな違和感を面白がる少年の姿が見えてきます。
高校でラグビー部に入ったことで後藤淳平さんと出会い、2人だけで笑い合う時間が、やがてジャルジャルへつながっていきました。
さらに福徳さんが芸人という進路を強く意識した背景には、高校1年生のときに突然亡くなった父親との最後の会話がありました。
福徳秀介の生い立ちと家族|アメリカから帰国した6人家族の末っ子
福徳秀介さんは1983年10月5日生まれで、兵庫県芦屋市で育ちました。
家族は父親、母親、4人きょうだいの6人家族で、福徳さんはその末っ子でした。
小学校入学で日本へ帰国|文化の違いに戸惑った子ども時代
幼いころをアメリカで過ごした福徳さんは、小学校へ入学するタイミングで日本へ帰国しています。
帰国直後の入学式では、記念撮影の際にアメリカで身についた感覚のまま大きく笑顔を作ったところ、カメラマンから笑わないように言われ、日本との違いに驚いたそうです。
学校では自分と同じ帰国子女の友人と親しくなり、その友人が映画監督の黒澤明を超えると話したり、大人へ臆することなく言葉を返したりする姿を面白がっていました。
子どものころから、周囲にいる少し変わった人や、普通なら通り過ぎてしまう出来事をよく見ていたことが分かります。
父がボケて福徳秀介がツッコむ|家族6人の食卓で知った笑い
家庭で特に大きな存在だったのが父親で、福徳さんは後年、お笑いを目指すうえで最も影響を受けた人物として父を挙げています。
父親は風呂場で自分のあざをばんそうこうのようにはがすふりをしたり、日常の中で突然ふざけたりする人物で、福徳さんにとって身近なところに「笑わせる人」がいました。
6人で囲む食卓では、父親と末っ子の福徳さんが場を盛り上げる役になり、父がボケれば福徳さんがツッコむというやり取りも自然に生まれていました。
食事の前には「今日はどうやって家族を笑わせよう」と考えるほど、笑いを取ることが日常の楽しみになっていたそうです。
「笑いを取る気持ちよさを知って、お笑いってええなあと思うようになりました」
東京すくすく
テレビの中の芸人を見て笑いに興味を持つより前から、福徳さんにとって笑いは家族の食卓で実際にやり取りするものでもありました。
人の違和感を観察した小中学生時代|スピッツの歌詞も友人と読み解く
福徳さんは小学生のころから、自分自身や周囲の人の細かな特徴へ目が向く子どもでした。
小学3年生のころには自分の顔の輪郭が気になって頬の内側をかんで過ごしてみたり、中学2年生では上唇の形を気にしてしばらくマスクを着けたりしたこともあったと明かしています。
中学生になるとスピッツを好んで聴き、歌詞をノートへ書き写して、友人と「この言葉はどういう意味なのか」と考えることもありました。
人の言動だけでなく、顔の形や言葉の響きまで細かく気にする時間が、福徳さんの日常にはすでにありました。
関大一高ラグビー部で後藤淳平と出会った高校時代
中学校を卒業した福徳さんは、関西大学第一高校へ進学します。
ここで同じラグビー部に入った後藤淳平さんとの出会いが、福徳さんの人生を大きく動かしていきました。
ゴルフ部ではなくラグビー部へ|後藤淳平との初対面
福徳さんは中学までサッカーをしていましたが、高校のサッカー部には推薦で入った実力者が多く、別の部活も考えるようになりました。
一時はゴルフ部へ入るつもりだったものの、顧問を待っている間に知人からラグビー部の体験へ誘われ、そのままラグビー部へ入ることになります。
そこで出会ったのが、当時おかっぱのような髪形をしていた後藤淳平さんでした。
日焼けしていた福徳さんは、自分から後藤さんへ近づき、体操服の名前を指しながら声をかけたそうです。
「俺、福徳、よろしく!」
Sportsnavi
後藤さんはその姿を見て、白いTシャツに日焼けした福徳さんを「吉田栄作さんみたいな高校生」だと感じたと振り返っています。
鎖骨骨折と病院への付き添いを境に距離が縮まる
同じラグビー部に入った2人ですが、最初からいつも一緒にいるほど親しかったわけではありません。
距離が縮まるきっかけになったのが、福徳さんがラグビーで鎖骨を骨折したときでした。
教師の指示で後藤さんが福徳さんの病院へ付き添うことになり、診察を待つ時間に2人で話したことで、それまでより一気に親しくなっていきます。
福徳さんが水を欲しがったとき、後藤さんが看護師へ頼みに行ったものの言い出せず、「なかった」と戻ってきたという出来事まで2人の記憶に残っています。
芸人として組むよりずっと前に、けがをした部員と付き添った部員として2人の関係が深まっていました。
休み時間も授業中も2人で笑いを作っていた
高校3年間で福徳さんと後藤さんは一度も同じクラスになりませんでしたが、休み時間になるとどちらかの教室へ行き、ほとんど毎回のように顔を合わせていました。
クラスメイトへ勝手にあだ名を付けたり、保健室へ行って2人でふざけたりしながら、自分たちの間で面白いことを探していました。
授業中には携帯電話のメールでも互いを笑わせようとし、休み時間になると「さっきのメールで笑ったか」と答え合わせをするような毎日だったといいます。
まだ舞台へ立って観客を笑わせていたわけではありませんが、2人の中には「自分たち2人でいると面白い」という感覚が育っていました。
父が交通事故で他界|前日に交わしていた芸人への進路の話
高校1年生のとき、福徳さんの父親は仕事へ出たまま交通事故で亡くなりました。
父親は46歳で、いつも通り家を出た日の突然の事故だったため、福徳さんはすぐには現実を受け止められなかったと話しています。
しかも亡くなる前日、2人は偶然にも福徳さんの将来について話していました。
福徳さんが「芸人とかになれたらなあ」と口にすると、父親は次のように返しました。
「やるんやったら、さむい(面白くない)のはやめてくれよ」
東京すくすく
父親と最後に交わした進路の話を経て、福徳さんは「悔いのないよう芸人になろう」と考えるようになりました。
食卓で一緒に家族を笑わせてきた父親は、高校生になった福徳さんが芸人という仕事を現実の進路として考えるときにも、そのすぐそばにいました。
初めての漫才を録音し、2人だけで息ができないほど笑った
高校時代、福徳さんと後藤さんはラグビー部の練習後などに、2人で漫才のようなものを作り始めました。
練習場所はラグビーグラウンドの隅や学校の空き教室、互いの家の近くにある公園などで、作った漫才をカセットテープへ録音していました。
最初に録音した漫才は15分ほどあったのに、ボケらしいボケはわずか3つほどだったそうです。
ところが2人で録音を聞き返した瞬間、自分たちの漫才が面白くてたまらなくなりました。
「録音したテープをふたりで聞いて、ほんまにいわゆる死ぬほど笑いました」
ほぼ日「ふつうの福徳さん。」
誰かに評価されるより先に、福徳さんと後藤さん自身が「2人で作ったもの」に息ができないほど笑った経験がありました。
福徳さんは後年、このときの瞬間があったから現在も芸人を続けられていると思う、と振り返っています。
大学とNSCを同時スタート|ジャルジャル結成へ
高校卒業が近づくと、2人の中で芸人になることは遊びではなく、実際の進路になっていきました。
ただし、高校を卒業してそのまま芸人一本へ進んだわけではありません。
親の希望で関西大学へ進学し、同時にNSC大阪25期へ
福徳さんは当初、大学へは行かずにお笑いの道へ進むつもりでした。
しかし母親から、お笑いで芽が出なかった場合にも就職できるよう大学へ行ってほしいと説得され、後藤さんの家庭も同じように大学進学を望んでいました。
その結果、2人は2002年に関西大学へ進学すると同時にNSC大阪校25期へ入学します。
福徳さんは関西大学文学部で学び、最初はフランス語にも興味を持ったものの難しさから断念し、心理学や哲学などの授業にも触れていました。
大学と芸人養成所を同時に始めるという生活でしたが、2人とも実家から同じ大学へ通っていたことが、ネタ作りの時間を確保するうえで大きかったと福徳さんは話しています。
空き教室や図書館前でネタ合わせを続けた大学生活
大学へ進んだ2人は、授業の合間や放課後にも学校の中でネタ合わせを続けました。
空き教室を見つけて練習したり、図書館の前で声を出して漫才をしたりし、関西大学の資料では元日を含めてほぼ毎日のように練習していた時期も紹介されています。
図書館の前で大きな声を出してネタ合わせをして注意されたこともあり、福徳さんは下駄を履いたり、レジ袋をカバン代わりにしたりしていた学生時代について、現在振り返るとかなり変わった学生だったと話しています。
大学へ進学したことでお笑いから遠ざかるどころか、キャンパスそのものが2人のネタ合わせの場所になりました。
一度は福徳秀介が誘い、今度は後藤淳平が誘い直したコンビ結成
NSCへ入る話を最初に持ちかけたのは福徳さんでしたが、申し込みが現実になる直前、ラグビー部の友人たちから芸人になるのは難しいと言われ、福徳さんの気持ちは一度揺らぎます。
福徳さんがやめようとしたときには、すでに芸人になる気持ちを固めていた後藤さんが、今度は福徳さんを誘い直しました。
最初は福徳さんが後藤さんを誘い、福徳さんが迷ったときには後藤さんが福徳さんを連れ戻す形で、2人は同じ道へ進みました。
吉本興業の公式プロフィールでは、2人は2002年にNSC大阪校25期へ入り、2003年4月にジャルジャルを結成したとされています。
漫才からコントへ|NSCのネタ見せで見つけたジャルジャルの形
現在はコントのイメージが強いジャルジャルですが、活動を始めたころからコント一本だったわけではありません。
当初は後藤さんがボケ、福徳さんがツッコミという役割で漫才をしており、その形を半年ほど続けていました。
しかしNSCのネタ見せで用意していた漫才がなくなり、高校の保健室のような日常の場面を使った芝居形式のネタを試したところ、それまでより手応えのある反応を得ます。
日常で目にした人や会話を少しずらして作るコントなら次々と考えられる感覚があり、2人は次第にコントへ比重を移していきました。
ジャルジャルの現在につながるコント中心のスタイルは、NSC時代のネタ見せで得た手応えから形になっていきました。
baseよしもとのオーディションで苦戦した若手時代
NSCを出ればすぐ劇場で安定してネタをできたわけではなく、若手時代のジャルジャルは大阪の劇場へ出るためのオーディションで何度も苦戦しました。
テレビで知られるようになる前には、短い持ち時間の中でネタを見せ、劇場メンバーへ入ることを目指す時期が続いています。
ネタが受けず「正しい笑い」が分からなくなった時期
baseよしもとのオーディションでは、用意したネタを最後までできず、短時間で止められてしまうこともありました。
何度挑んでも思うような評価を得られず、福徳さんは何が正しい笑いなのか分からなくなるほど迷っていた時期があったと振り返っています。
それでも高校や大学で続けてきたネタ作りを止めることはなく、2人はオーディションへ出続けました。
大学4年生ごろに劇場の仕組みが変わったこともあり、ようやくジャルジャルは劇場へ継続して出演できるメンバーに選ばれていきます。
バッファロー吾郎Aに声をかけられた「ホームラン寄席」
劇場のオーディションで思うように結果が出なかったころ、ジャルジャルを見ていた先輩のバッファロー吾郎Aさんが、自身のイベント「ホームラン寄席」へ2人を呼びました。
短いオーディションでは十分に見せられなかった2人にとって、まとまった時間を使ってネタができる機会でした。
イベント後の食事の場では、バッファロー吾郎Aさんが居合わせた人へ、ジャルジャルと握手しておくよう勧めたこともあったと後藤さんが明かしています。
「この子らとも握手しときや、将来売れるから」
よしもとニュースセンター
まだ劇場のオーディションで苦戦していた時期に、先輩芸人から直接認められた出来事でした。
芸人収入が少なくても極貧ではなかった|実家と大学が支えたネタ作り
若手芸人の話では「食べられないほど貧しかった」という下積みが語られることもありますが、福徳さん自身は自分たちについて別の話をしています。
「ぼくら、いわゆる食えなかった時代がないです」
ほぼ日「ふつうの福徳さん。」
芸人としての月収が1万円に届かない時期でも、2人とも実家で暮らしていたため家賃の負担がなく、大学時代は週2日ほどアルバイトをすれば生活できたそうです。
福徳さんは母親が大学進学を勧めたことも含め、家族が生活面を支えてくれたため授業後に大量のネタ合わせができたと話しています。
舞台では落とされ続けても、生活費を得るためにネタ作りの時間を大きく削らずに済んだことが、当時の2人の環境でした。
2007年NHK新人演芸大賞など、劇場から評価が広がる
2006年に福徳さんは関西大学文学部を卒業し、大学生活を終えたあとも後藤さんとの活動を続けました。
2005年にはBGO上方笑演芸大賞新人賞、2007年にはNHK新人演芸大賞の演芸部門大賞を受賞し、劇場で作り続けてきたネタが賞レースでも結果につながり始めます。
2008年にはABCお笑い新人グランプリで優秀新人賞を受け、テレビへ出演する機会も増えていきました。
テレビ進出と賞レース|ジャルジャルの名前が全国へ
大阪の劇場で活動を続けていたジャルジャルは、2000年代後半からテレビでもネタや2人のキャラクターを見せる機会が増えていきます。
ただし、テレビへ活動の場が広がっても、2人は漫才とコントを作ることをやめませんでした。
baseよしもとからテレビへ活動の場が広がる
『THE THREE THEATER』などで全国放送へ出演するようになり、2010年には『めちゃ×2イケてるッ!』の新メンバーにも加わりました。
若手劇場の舞台を中心にしていたころと比べると仕事の種類は大きく変わりましたが、賞レースへは漫才とコントの両方で挑戦しています。
2010年にはM-1グランプリで初めて決勝へ進出し、コントだけではなく漫才でも全国の舞台へ立ちました。
2013年ABCお笑いグランプリ優勝と東京を拠点にする決断
2013年1月、ジャルジャルは第34回ABCお笑いグランプリで優勝しました。
2008年には同大会の前身で優秀新人賞を獲得していましたが最優秀には届かず、結成10年目で改めて挑んだ大会でグランプリを手にしています。
決勝で披露したのはコントではなく漫才で、当時の2人が最も仕上がっていると考えたネタを選んだ結果でした。
この優勝を迎えた時期、5upよしもとの卒業を控えた2人は東京を拠点に活動していく考えも明かしています。
優勝賞金の使い道を聞かれた福徳さんは、芦屋の実家について「金持ちと言われる」としながらも、それは昔の話だと説明し、雨漏りを直したいと話しました。
福徳さん本人が実家について公に語っている具体的な場所は兵庫県芦屋市までで、六麓荘という地区名を本人が明らかにした記録はありません。
M-1グランプリ2018で3位|漫才でも最後まで挑み続ける
ジャルジャルは2015年、2017年にもM-1グランプリ決勝へ進み、結成15年の出場資格上限を迎える2018年まで挑戦を続けました。
ラストイヤーとなったM-1グランプリ2018では決勝最終決戦まで残り、結果は3位でした。
NSC時代に漫才からコントへ軸足を移したあとも、漫才を捨てたわけではなく、最後のM-1まで自分たちの形で舞台へ立っています。
2018年にJARUJARU TOWER始動|大量のコントを公開する場所へ
M-1のラストイヤーを迎える2018年、ジャルジャルにはもう一つ新しい活動の場所が生まれました。
それがYouTubeを中心に展開する「JARUJARU TOWER」です。
単独ライブに入りきらない「ネタのタネ」を毎日1本公開
2018年2月15日、ジャルジャルは短いコントを毎日公開するJARUJARU TOWERをスタートしました。
2人のネタ帳には、完成した一本のコントになる前のアイデアが大量にあり、それらを「ネタのタネ」として動画にする形です。
単独ライブだけでは披露しきれない数のアイデアを表へ出す場所となり、目標は8,000本で、公式プロフィールでは2039年11月の完成を予定しています。
舞台で使う完成ネタだけを残すのではなく、それまでならネタ帳に眠っていた小さな発想まで毎日コントとして形にする活動が始まりました。
高校時代のように2人で笑いを作る感覚へ戻っていく
JARUJARU TOWERの動画は流行している企画を次々追う形ではなく、2人が考えた人物や会話のずれをコントにして積み上げていく形を取っています。
福徳さんは後年、ジャルジャルでは年齢を重ねてからの方がネタを作る速度が上がっているという感覚も語っています。
高校のグラウンドや公園でネタを録音して2人で聞き返していたころから長い時間がたっても、後藤さんと福徳さんが2人で面白いものを作る時間は活動の中心に残りました。
キングオブコント2020優勝|13回目の挑戦でコント日本一に
ジャルジャルはキングオブコントが始まった2008年から大会へ挑戦を続けていました。
2020年、その挑戦は13回目を迎えます。
第1回大会から挑み続けて13代目キングへ
2019年大会では決勝を前に福徳さんが足を骨折し、予定していたネタを変更して決勝へ臨んで3位となっていました。
翌2020年の決勝進出が決まったとき、福徳さんは体調を万全にして舞台へ立ちたいと話したうえで、13回目の挑戦への思いを口にしています。
「13回目の挑戦! いい加減結果を出して有終の美を飾りたいと思います」
TBS「キングオブコント」
2020年9月26日の決勝でジャルジャルは優勝し、13代目キングオブコント王者となりました。
NSC時代のネタ見せで漫才からコントへ方向を変えてから17年ほどを経て、2人はコント日本一のタイトルを獲得しました。
優勝後も変わらなかった「コントを作り続ける」という軸
キングオブコント優勝後も、ジャルジャルが賞レース王者としてテレビ出演だけを中心にする形へ切り替わることはありませんでした。
JARUJARU TOWERでの動画制作と単独ライブを続け、福徳さんは2023年の対談でも、これから先についてコントを続けることを中心に考えていると話しています。
舞台で新作を作り、動画でもコントを作るという活動は、キングオブコント優勝後も続きました。
小学生からの観察眼が小説・映画へ|福徳秀介の現在
キングオブコントで優勝した2020年、福徳さんはコントとは別の形でも「人」を描く作品を発表しました。
同年11月に刊行された『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』は、福徳さんにとって初めての小説です。
コントと並行して広がった執筆活動|2020年に小説デビュー
福徳さんはコントで見せる会話とは別に、文章でも人物同士の距離や言葉の感覚を描くようになりました。
小説デビュー作『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』では、母校・関西大学を舞台に大学生の出会いと日々を描いています。
その後も2023年に青春短編集『しっぽの殻破り』、2024年に恋愛短編集『耳たぷ』を刊行し、福徳さん個人の活動として執筆が続いています。
小学生のころに友人の言動を面白がり、中学生で歌詞の言葉を友人と考え、芸人になってからも日常の人物や会話をコントへ変えてきた福徳さんは、小説でも人と人の間に起きる細かな感情や会話を書いています。
母校・関西大学を舞台にした小説が2025年に映画化
『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』は大九明子監督によって実写映画化され、2025年4月25日に公開されました。
撮影には関西大学が全面協力し、正門、法文坂、図書館、博物館など、福徳さん自身が学生時代を過ごした千里山キャンパスと周辺地域が実際のロケ地として使われています。
大学時代に後藤さんと空き教室や図書館前でネタ合わせをしていた場所が、20年以上たって自身の小説を原作とする映画の舞台になりました。
大学を卒業して芸人になったあとも、福徳さんにとって関西大学で過ごした4年間は、コントだけでなく物語を書くときにも残る場所になっています。
2026年もオール新ネタの単独ライブを続けるジャルジャル
2026年になっても、ジャルジャルの活動の中心には新しいコントがあります。
春夏には東京・名古屋・大阪でオール新ネタの「JARUJARU CONTE TOUR 2026SS」を開催し、秋冬にはさらに全国9カ所31公演の「JARUJARU CONTE TOUR 2026AW」が発表されました。
秋冬公演について福徳さんは、公式サイトで高校時代から続く2人の関係にも触れています。
「ジャルジャルは、高校の同級生コンビです。同じラグビー部でした」
JARUJARU TOWER公式サイト
高校のラグビー部で偶然出会った2人は、2026年も新作コントだけを持って全国の舞台を回っています。
アメリカから帰国した小学生のころ、福徳秀介さんは身の回りにいる人や言葉の小さな違いをよく見ていました。
高校で後藤淳平さんと出会い、父親との最後の会話を経て芸人の道を選んだあと、その視線は漫才やコント、小説へと形を変えてきました。
高校時代に2人だけで録音した漫才を聞いて笑っていた時間から長い年月が過ぎても、福徳さんと後藤さんは今も新しいコントを作り続けています。












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