人物プロフィール
キングオブコントで何年も決勝の舞台に立ち、今ではラーメン好きの芸人としても知られるや団・中嶋享さん。
現在のや団は本間キッドさん、ロングサイズ伊藤さん、中嶋さんの3人ですが、中嶋さんと本間さんの付き合いは芸人になってから始まったものではありません。
2人が初めて知り合ったのは小学6年生のころで、現在の「や団」という名前の原型まで中学生時代のバスケットボールから生まれています。
さらに中嶋さんが本格的に芸人になると決めた背景には、大学で電気工学を学んでいた時期と、父親を亡くしたときの出来事がありました。
小学生のころは勉強中心だった少年が本間さんと出会い、お笑いに夢中になり、大学に8年間在籍しながら初代や団を始め、長い時間をかけてキングオブコントの決勝へたどり着くまでを順番にたどります。
中嶋享の生い立ちと家族|新潟で生まれ三芳町で育つ
中嶋さんは1982年6月23日生まれで、両親の実家がある新潟県で里帰り出産によって生まれ、その後は埼玉県三芳町で育ちました。
プロフィールでは「新潟県出身」「埼玉県三芳町出身」など表記が分かれることがありますが、本人は2026年の日刊スポーツの取材で、両親の実家が新潟にあり、自分は里帰り出産で生まれたと説明しています。
両親の故郷・新潟で生まれ、埼玉県三芳町で成長
幼少期から生活の中心となったのは埼玉県の三芳町で、のちに幼なじみとなる本間キッドさんも近隣の埼玉県で育っていました。
中嶋さんの両親の詳しい職業や兄弟姉妹については本人が広く語っている情報が多くない一方、父親との関係は後の進路を考えるうえで大きな意味を持つことになります。
ただし、その出来事が起きるのは大学時代なので、子どものころの中嶋さんはまだ芸人を目指していたわけではありませんでした。
勉強中心だった小学生時代、小6の塾で本間キッドと出会う
現在はコントの舞台に立つ中嶋さんですが、小学生時代について本人が語っている姿は、いわゆるクラスのお笑い担当とは少し違います。
「僕は小学校の頃はドラえもんしか見てなくて。勉強ばっかで。」
Bezzy「芸人結成物語」
そんな小学校生活の終盤、小学6年生のときに塾で本間キッドさんと出会いました。
この時点で一緒に芸人になる約束をしていたわけではありませんが、2人はその後も同じ中学、高校へ進み、友人関係が長く続いていきます。
中学・高校時代|バスケ部から「ヤ団」が生まれた
中学生になると、中嶋さんの日常にはバスケットボールとお笑いという、現在まで残る2つの要素が入ってきます。
しかも、この時期にできた友人グループの名前が、20年以上後まで使い続けるトリオ名になりました。
本間キッドと同じバスケ部へ、中3の3on3で「ヤ団」を名乗る
中嶋さんと本間さんは同じ私立の中高一貫校へ進み、2人ともバスケットボール部に入りました。
そこでもう1人の背の高い友人を含めた3人組でよく行動するようになり、本間さんは仲間内のちょっとした「軍団名」を付けようと考えます。
中学3年生のときに3人で3on3の大会へ出場することになり、申込書のチーム名へ書いたのが「ヤ団」でした。
「やだ〜ん」という中学生らしい言葉遊びから生まれた名前で、当時はまさか将来自分たちの芸名として使うとは決まっていませんでした。
芸人になってから語られる「毛利元就の三本の矢が由来」という説明は後付けで、本人たちは後年、中学生時代のノリから生まれた名前だったと明かしています。
本間の兄から借りたビデオでお笑いにハマる
中嶋さんがお笑いを本格的に見るようになった入口には、本間さんだけでなく本間さんの7歳上の兄もいました。
もともとお笑いに詳しくなかった中嶋さんへ本間さんの兄がビデオを貸すと、そこから一気に興味が広がっていきます。
中学時代には松本人志さんの「一人ごっつ」を自分でも見るようになり、中嶋さんはそのビデオをすべて買ったと振り返っています。
さらに本間さんとはエレキコミックの「つっこまれ屋」について話すようになり、小学生のころにはほとんど見ていなかったお笑いが、友人同士の共通の話題へ変わっていきました。
日大豊山高校でバスケに打ち込み、部活後は池袋でラーメン巡り
高校でもバスケットボールを続け、中嶋さん自身は公式Xのプロフィールで日大豊山高のバスケ部で東京都優勝という経歴を紹介しています。
練習後の楽しみの一つになっていたのがラーメンで、池袋へ出て「屯ちん」「無敵家」「光麺」といった店を食べ歩いていました。
なかでも「屯ちん」には4日連続で通い、本人によると4日目に食べた一杯を最もおいしく感じたそうです。
現在の年間数百杯というラーメン生活は、芸人として売れた後に始まった趣味ではなく、高校の部活帰りから続いています。
大学時代|芸人という進路を選ぶまで
高校卒業後、中嶋さんは大学の電気工学科へ進みました。
本間さんとは大学の学部やキャンパスが離れ、毎日のように一緒に過ごしていた中高時代とは生活が変わります。
この大学時代に、趣味だったお笑いが実際の進路へ変わっていきました。
電気工学科へ進むも、大学1年で芸人を意識し始める
中嶋さんは大学1年生になると、電気工学の勉強が自分には難しいと感じるようになりました。
そのころから「芸人になろう」と考え始め、本当は本間さんと漫才をやりたいと思っていました。
ところが本間さんは静岡のキャンパスへ進んでいたため、すぐに2人で組んで活動できる状況ではありません。
そこで大学で知り合った海野健太郎さんをボケの相方候補として、自分なりにお笑いをやる準備を進めていました。
大学2年で父を亡くし、葬儀で芸人になると決意
まだ芸人という進路を考え始めた段階だった大学2年生のとき、中嶋さんの父親が亡くなりました。
中嶋さんは自分を「親の言うことに縛られるタイプ」だったと振り返っており、父親がいる間は芸人になりたいという思いをなかなか口に出せなかったと話しています。
葬儀では親族を代表してあいさつをすることになり、その場で今後の人生について考えました。
「『芸人になろう』って決意しました」
日刊スポーツ
お笑いが好きだった中学生時代からさらに一歩進み、芸人を自分の仕事にすると決めたのが、この大学時代でした。
大学の友人・海野健太郎を相方候補にし、本間との3人組を考える
芸人になることを決めても、中嶋さんが最初から現在の3人で活動していたわけではありません。
大学では海野さんとお笑いをやろうとしながら、一方で本間さんと組みたい気持ちも残っていました。
そこで中嶋さんが考えたのが、本間さんと海野さんを引き合わせて3人で活動することでした。
海野さんの父親のつてで人気音楽フェスのチケットが手に入ると、ロック好きの本間さんなら興味を持つと考え、そのチケットをきっかけに2人が会う場を作りました。
離れた大学へ進んだ本間さんのもとへ中嶋さんが時々遊びに行って関係をつなぎながら、別々だった友人同士を自分で結び付け、初代や団の3人をそろえていきました。
高田馬場「渡なべ」をきっかけに「ヤ団」から「や団」へ
大学4年ごろには、中嶋さんと本間さんがビデオカメラを持って東京都内を歩き、くだらない動画を撮って遊ぶこともありました。
現在ならYouTubeの企画に近いようなことを、まだ芸人として本格始動する前の2人がやっていたことになります。
その途中、高田馬場のラーメン店「渡なべ」を目にした中嶋さんは、漢字とひらがなが組み合わされた店名を気に入りました。
中学時代から使っていたカタカナの「ヤ団」を、ここで現在と同じ「や団」へ変更します。
高校時代から好きだったラーメンが、食べ歩きだけでなくトリオ名の表記にも入り込んでいました。
大学5年目の2005年、本間・海野と芸人活動を始める
中嶋さんは大学を4年間で卒業せず、結果的に8年間在籍しました。
本間さんは4年で大学を卒業して就職を断り、お笑いをやるため東京へ戻りましたが、その時点でも中嶋さんと海野さんはまだ大学生でした。
それでも2005年、中嶋さんが大学5年生だった時期に、本間キッド・中嶋享・海野健太郎の3人で初代「や団」が動き始めます。
SMAの公式プロフィールでも、中嶋さんと本間さんの芸人としての活動開始は2005年4月とされています。
養成所へ行かず初代や団を結成|SMA入りまで
芸人を目指す人が養成所へ入り、卒業後にコンビを組むケースも多いなか、初代や団のスタートは違いました。
中嶋さんたちはNSCなどの養成所へ通わず、自分たちで舞台を探して活動を始めています。
誰でも出られるフリーライブ1〜2本からコントを開始
3人が最初に立ったのは、養成所の卒業ライブではなく、誰でも参加できるフリーのお笑いライブでした。
「僕らは養成所に通っていたわけでもないので」
Cocotame
最初の1〜2回の舞台から、やっていたのは現在と同じコントでした。
中嶋さん自身は本間さんと漫才をやりたいと考えた時期もありましたが、プロとしてのや団はかなり早い段階から3人のコントを選んでいます。
設立直後のSMA NEET Projectへ2005年4月に所属
フリーで数回舞台へ出た後、3人は芸能事務所へ所属することを考えました。
本間さんはネプチューンが好きだったためワタナベエンターテインメントのネタ見せも考えていましたが、友人からSMAがお笑い部門を始めたと聞きます。
当時のSMA NEET Projectは2004年12月に立ち上がったばかりで、や団は翌2005年4月に所属しました。
芸人になるための養成所を経ず、フリーライブから設立直後のSMAへ入ったのが中嶋さんのデビュー経路です。
若手ながらライブのランクを上げ、1年目で選抜DVDへ
SMAでは観客投票によるランク制の「トライアウトライブ」が行われており、や団は約50組いた芸人の中でもかなり若い存在でした。
それでも勢いのあるコントで順位を上げ、トップランクのグループへ入るようになります。
中嶋さんは後年、事務所に入って1年で選抜DVDへ入れてもらったと振り返っています。
芸人生活の出だしだけを見ると、3人は早い段階で事務所内の評価を得ていました。
2007年、海野脱退からロングサイズ伊藤加入へ
初代や団はSMAのライブでランクを上げていましたが、2007年に最初の大きなメンバー変更を迎えます。
大学時代から中嶋さんと一緒に活動してきた海野さんが、芸人を辞めることになったためです。
大学卒業と就職を機に海野健太郎が芸人を辞める
海野さんは大学を6年で卒業することになり、就職やその後の生活を考えて2007年にや団を脱退しました。
中嶋さんは、事務所でいい流れができ始めていた時期だったため、本間さんとかなり慌てたと後に話しています。
ここで本間さんと中嶋さんだけの2人組へ変更する方法もありましたが、その選択はしませんでした。
2人組ではなく「3人のコント」を続けるため新メンバー探しへ
本間さんは3人で演じるコントを続けたいという考えが強く、海野さんと同じようなポジションに入れる新しいメンバーを探します。
そこでSMAの平井精一さんから名前が挙がったのが、当時ピン芸人として活動していたロングサイズ伊藤さんでした。
伊藤さんは事務所ライブでは下位のクラスにいましたが、平井さんは伊藤さんの華や演技力がや団のコントへ合うのではないかと考えていました。
ネタ見せへ来ないロングサイズ伊藤を待ち、直接電話で加入を打診
中嶋さんと本間さんは、伊藤さんが土曜日のネタ見せへ来ると聞き、会場で待つことにしました。
ところが伊藤さんはその週に現れず、翌週も待ってみたものの、また姿を見せませんでした。
伊藤さん本人は当時、芸人活動への気持ちが少し薄れ、ネタ見せへ行くのも面倒に感じていた時期だったと振り返っています。
2週続けて会えなかったため、中嶋さんたちは連絡先を聞き出し、電話で直接「一緒にやらないか」と誘いました。
その誘いを受けた伊藤さんは加入を決め、最下位クラスのピン芸人から、当時SMA内で上位のライブへ出ていたや団へ移ることになります。
2007年4月、現在の3人でや団が再スタート
2007年4月、本間キッド・中嶋享・ロングサイズ伊藤の現在の3人体制が始まりました。
伊藤さんにとって複数人で演じるコントはほぼ初めてで、上位ライブの客席を前にかなり緊張したと話しています。
初舞台について伊藤さんは大きくウケた感覚を覚えていたものの、中嶋さんは後年「そんな大爆笑だったイメージはない」と返しており、同じ舞台でも3人の記憶には温度差が残っています。
海野さんの脱退で消える可能性もあった初代や団の名前は、そのまま新しい3人へ引き継がれました。
長い若手・下積み時代|KOC準決勝常連でもアルバイト生活
現在の3人になった2007年から、全国的にや団の名前が知られる2022年までは15年あります。
その間もライブには出続け、キングオブコントでも何度も上位へ進みましたが、それだけで生活できる時期がすぐに来たわけではありません。
2008年の第1回KOCから挑戦、2009年に準決勝へ
キングオブコントが始まった2008年の第1回大会から、や団は挑戦を続けました。
翌2009年には早くも準決勝へ進出し、その後も2014年、2016年から2019年まで準決勝へ進んでいます。
決勝の一つ手前には何度も行けるのに、その先の10組へはなかなか入れない状態が長く続きました。
「急に現れた遅咲きのトリオ」ではなく、決勝へ届かない期間も舞台と予選を積み重ねていた3人です。
事務所ライブでコントを磨き、現在のや団らしい形が固まる
や団のネタは、本間さんが基本となる台本を作り、3人で話しながら修正していく形が中心です。
中嶋さんと伊藤さんの演技やキャラクターを組み合わせ、本間さんが振り回されていくような3人の関係性も、長年ライブを続けるなかで定着していきました。
ネタによって役割は変わるため、単純に固定されたボケとツッコミだけで説明しにくいのも、3人コントを続けてきたや団の特徴です。
お笑いだけでは生活できず、ラーメン店のアルバイトを続ける
舞台で評価されても収入が安定するとは限らず、中嶋さんは長くラーメン店でアルバイトを続けていました。
ラーメン店で働き始めたのは20歳ごろで、大学時代にはバスケ仲間と非公認のラーメンサークルまで作り、各地の店を巡っています。
写メール機能が付いた携帯電話を早い時期に購入すると、食べたラーメンの写真も残すようになりました。
芸人としてライブへ出演しながら店でも働き、休日や仕事の前後には別のラーメン店を巡る生活が長く続きます。
2020年ごろになっても3人ともお笑いだけで生活できる状況ではなく、キングオブコント準決勝常連になってからもアルバイトが必要な芸人生活でした。
「バーベキュー」など現在につながるコントで決勝を狙い続ける
長いライブ活動を経て、や団は日常にありそうな場所から始まり、途中で状況が大きく転がっていくコントを磨いていきました。
2022年のキングオブコントでは「バーベキュー」などを披露し、それまで何度も越えられなかった準決勝の先へ進みます。
2022年KOC初決勝3位|仕事と生活が変わり始める
2005年に芸人活動を始めてから17年、現在の3人になってから15年が過ぎた2022年に、大きな変化が訪れました。
や団がキングオブコント決勝へ初めて進出したのです。
15年以上追い続けた決勝へ初進出し3位
2022年9月、中嶋さんは自身のXで決勝進出を報告し、「テッペン目指します」と大会へ向かいました。
10月8日の決勝ではファイナルステージまで進み、ビスケットブラザーズ、コットンに続く3位となります。
何度も準決勝で止まっていたや団が、初めて全国放送の決勝で2本のコントを披露した大会でした。
ところが大会が終わった翌日、中嶋さんの日常が突然すべて変わったわけではありません。
ラーメン店のバイトが週6から週1へ
決勝翌日の中嶋さんは、頭にタオルを巻いたラーメン店の仕事姿をXへ投稿し、3位になった翌日もアルバイトへ向かっていました。
ただし、その後はテレビやライブなどの仕事が増え、アルバイトへ入る日数が大きく減ります。
「ラーメン屋のバイトが週6から週に1回になりました!」
TBS「キングオブコント2023」
2022年のKOC後に起きた変化は、「売れた」という言葉だけでなく、週6日だったアルバイトが週1日に減ったという生活そのものに表れました。
最初のファンの子どもがKOCを見ていた
初決勝から数日後、中嶋さんのもとへ芸歴の長さを感じさせる知らせも届きました。
芸人を始めたころ最初にファンになってくれた女性が結婚し、その息子がキングオブコントを見て「や団が一番面白い」と話していたという内容でした。
初代や団から見てくれていた人の次の世代がテレビの決勝を見ているほどの年月が流れていました。
2023・2024年も決勝、2025年は準優勝まで進む
2022年だけで終わらず、や団は2023年に5位、2024年に4位となり、3年連続でキングオブコント決勝へ進みました。
2025年には4年連続4度目の決勝進出を果たし、ファーストステージを突破して再びファイナルステージへ進出します。
最終結果はロングコートダディに続く準優勝で、2008年の第1回大会から挑戦を続けてきたや団にとって過去最高順位となりました。
2009年に初めて準決勝へ進んでから、2025年の準優勝まで16年が経っています。
昔から続くラーメンと地元との縁が現在の仕事へ
KOC決勝進出後は、や団としての仕事だけでなく、中嶋さんが学生時代から続けてきた趣味や経験も仕事へつながるようになりました。
特にラーメンは高校時代、大学時代、アルバイト時代、売れてからの仕事まで切れずに続いています。
高校・大学から続けたラーメン巡りが個人仕事へ広がる
大学時代には非公認のラーメンサークルを作り、20歳ごろからはラーメン店で働き、芸人になってからも年間何百杯というペースで店を回ってきました。
KOCで知名度が上がると地方での営業も増え、それまで行く機会の少なかった地域でも仕事の前後にラーメン店を訪れるようになります。
モグライダー・ともしげさん、トム・ブラウン・布川ひろきさん、お見送り芸人しんいちさんらと一緒に食べに行く機会も生まれ、ラーメンWalker百麺人などラーメンに関係する活動へ広がっていきました。
中学時代に生まれた「ヤ団」の表記を変えたのもラーメン店「渡なべ」で、若手時代の生活を支えた仕事もラーメン店でした。
「水曜日のダウンタウン」で浜田雅功の代役MCも経験
テレビでの立ち位置にも、コント以外の変化が現れました。
2025年5月の「水曜日のダウンタウン」では、休養中だった浜田雅功さんの代役を「そんなワケない芸人」たちへオファーし、最も早く受けた人物が実際に翌週のMCを務める企画が行われました。
中嶋さんはオファーを受けるとわずか19秒で承諾し、実際に翌週の放送で浜田さんの代役MCを務めています。
大学時代に芸人という進路を選んだ中嶋さんが、20年以上後にはダウンタウン浜田さんの代わりに番組の中央へ立つ仕事も経験しました。
新潟公演を含む全国ツアーへ、や団として活動の場を広げる
2025年にはや団として初めて東京・名古屋・大阪を回る単独ライブツアーを行い、2026年には福岡と新潟を加えた全国5都市6公演の「巡業」へ規模を広げました。
新潟は中嶋さんの両親の故郷であり、自身が里帰り出産で生まれた場所でもあります。
2026年のキングオブコントでも、や団は予選を勝ち進んで準決勝35組に入り、9月3日・4日の準決勝へ出場しました。
決勝進出者の発表は2026年9月10日に予定されており、4年連続ファイナリストからさらに先を目指す挑戦は、現在も続いています。
新潟で生まれ、埼玉県三芳町で育った中嶋さんは、小学6年生の塾で出会った本間キッドさんと、中学ではバスケットボールをしながら「ヤ団」という名前を使い始めました。
大学では電気工学を学びながら芸人という進路を意識し、父親を亡くした大学2年生のときにその道へ進むことを決め、海野健太郎さんとの初代や団を経て現在の3人体制へたどり着きました。
長く続いたライブとアルバイトの時間を越えてKOC決勝へ進み、高校時代から好きだったラーメンや学生時代からの本間さんとの関係を残したまま、現在も3人でコントを続けています。












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