人物プロフィール
言い間違いを重ねる「ヤホー漫才」で知られるナイツの塙宣之さんは、現在も寄席に立ちながらラジオやテレビ、YouTubeなど幅広い場所で活動し、2023年には第7代漫才協会会長に就任しました。
浅草の漫才を長く背負ってきた印象がありますが、塙さんが最初に人を笑わせた記憶をたどると、まだ小学生だったころまでさかのぼります。
からかわれていた自分の失敗を自作の歌に変え、教室で笑いを取ったことが、塙さんにとって笑いで周囲との関係を変えた最初期の体験でした。
その後は佐賀へ移り、中学生でダウンタウンの漫才に衝撃を受け、高校生ではお笑い大会に優勝して福岡吉本から声がかかるところまで進みます。
それでもすぐにはプロへ入らず大学へ進み、そこで出会ったのが現在の相方土屋伸之さんでした。
土屋さんを誘ってナイツを組んだ直後には塙さんが交通事故に遭い、二人の本格的なスタートは約1年遅れることになります。
塙宣之の生い立ちと家族|我孫子で生まれ、小学5年で佐賀へ
塙宣之さんは1978年3月27日に千葉県我孫子市で生まれ、幼少期には我孫子市のつくしの幼稚園、根戸小学校へ通いました。
現在も我孫子市とのつながりは続いていますが、子ども時代の途中で一家は佐賀県へ移っており、我孫子と佐賀の両方が塙さんの昔をたどるうえで重要な土地になっています。
我孫子で3兄弟の末っ子として育つ
塙さんは3人兄弟の末っ子で、次兄が「佐賀県」の歌でも知られるはなわさんです。
兄のはなわさんは埼玉県で生まれていますが、その後家族が我孫子へ移り、塙宣之さんは我孫子で生まれました。
父親は東京の証券会社に勤めており、九州で新たな仕事を任されることになったのを機に、1988年ごろ一家で佐賀県へ移っています。
塙さん自身は後年、佐賀で暮らした期間について約8年だったと振り返っており、出生地は千葉県でも、小学校高学年から高校までの多感な時期を佐賀で過ごしました。
幼稚園時代の失敗を「うんこの歌」に変え、小4で笑いを取る
お笑いとの原点として塙さんが何度も振り返っているのが、幼稚園時代の失敗を長くからかわれていた経験です。
小学校へ上がったあともその話題でからかわれていましたが、テレビではザ・ドリフターズの加藤茶さんや志村けんさんが、同じような題材を笑いに変えていました。
そこで塙さんは、自分のことも笑いにしてしまおうと考え、歌詞とメロディーを自分で作った「うんこの歌」を披露します。
「だったら自分のこともネタにしちゃえばいいんじゃないか」
SmartFLASH
実際に歌うと教室で大きな笑いが起き、それまでからかう材料だった出来事が、自分で笑いを取る材料へ変わりました。
小学生の塙さんにとって、笑わせることはテレビの中だけにあるものではなく、自分の立場まで変えられる体験になっていました。
小学5年で佐賀へ転校し、新しい教室でも歌を披露
根戸小学校へ通っていた塙さんは、小学5年生のころ父親の仕事に伴って佐賀県へ転校しました。
転校すれば周囲の友達は一変しますが、塙さんは佐賀でも自分で作った歌を披露し、人を笑わせることを続けています。
2025年には自身の公式YouTubeで幼少期に我孫子で通った店を訪れ、初めて外食でチャーハンを食べた店など、佐賀へ移る前の我孫子での記憶も紹介しました。
佐賀の中学・龍谷高校でお笑い芸人を意識
佐賀へ移ってからも人を笑わせることは身近にありましたが、中学生になると「面白い子」でいることから、お笑い芸人という職業を意識する段階へ進みます。
ダウンタウンの漫才に衝撃を受け、中学から友人とお笑いへ
小学生のころにドリフターズを好んでいた塙さんが、中学時代に強い衝撃を受けたのがダウンタウンでした。
松本人志さんのボケを含め、それまで自分が見ていた笑いとは違う漫才に触れ、芸人を将来の仕事として考えるようになります。
学校では友人とコンビのような形で笑いを取るようになり、当時読売ジャイアンツでプレーしていたモスビー選手のものまねをするなど、テレビで見た笑いを自分たちの教室へ持ち込んでいました。
ドリフターズで笑いを好きになり、ダウンタウンを見た中学時代に「芸人になりたい」という進路が具体的になっていきます。
龍谷高校の仏教コースで過ごし、高2で「激辛!?お笑いめんたい子」優勝
中学卒業後は佐賀県の龍谷高校へ進み、当時設けられていた仏教コースで高校生活を送りました。
同じクラスには寺の息子だった藤園智信さんがおり、塙さんは藤園さんが暮らしていた寮へ遊びに行くなど、学校外でも一緒に過ごしていました。
高校でも友人とお笑いを続け、高校2年生のときには吉本興業が福岡で開催した「激辛!?お笑いめんたい子」へ出場します。
次の博多華丸・大吉のような存在を発掘する目的もあった大会で、塙さんたちのコンビは優勝しました。
高校生の段階で福岡吉本から声がかかり、塙さんの前に初めてプロのお笑い芸人へ直接進める道が現れます。
このころの塙さんは現在とは違ってツッコミ側を担当することもあり、のちのナイツの形がすでに完成していたわけではありませんでした。
福岡吉本から声がかかるも、両親との話し合いで大学進学へ
大会優勝で芸人への道が一気に現実味を帯びましたが、家では別の事情が重なっていました。
1歳上の兄・尚輝さん、現在のはなわさんも高校卒業を控えて「芸人になりたい」と話しており、両親にとっては兄弟が続けて同じ世界へ進もうとしている状況でした。
塙さん自身は学校の成績も比較的良く、普段はおとなしい面もあったため、芸人志望を聞いた両親は驚いたといいます。
「とりあえずは大学まで行ってくれと説得されたんです」
双葉社 THE CHANGE
福岡吉本へそのまま入るのではなく、東京の大学へ進み、そこでお笑いを続ける道を選びました。
高校で一度プロへの入口まで届いた経験を持ったまま、塙さんは佐賀を離れて東京へ向かいます。
創価大学の落研で土屋伸之と出会い、ナイツ結成へ
大学進学は芸人を諦めるためのものではなく、塙さんにとって東京でお笑いを続けるための次の場所になりました。
ここで落語研究会へ入り、学生お笑いの仲間たちと過ごす中で、現在の相方となる土屋伸之さんとも知り合います。
「お笑いができる大学」と考えて創価大学へ進学
塙さんが選んだのは創価大学でした。
大学選びの段階で、創価大学の落語研究会がお笑いの大学対抗戦で活躍している記事を目にし、「この大学ならお笑いができる」と考えたことを本人が明かしています。
入学するとすぐに落語研究会へ入り、大学の授業と並行してライブやネタに取り組む生活が始まりました。
一方、一人暮らしの生活は余裕があるものではなく、食事もコンビニのおにぎりやカップ麺などで済ませることが多かったと大学のインタビューで振り返っています。
「大学4年間は、貧乏生活そのものでした」
創価大学
落研では後にエレキコミックを結成するやついいちろうさんとも出会い、学生芸人同士の交流を広げていきました。
落研と神立ゼミで過ごし、先輩との初代ナイツは解散
塙さんは大学で経済学部に所属し、落研の先輩たちも参加していた神立孝一教授のゼミへ入りました。
大学公式の企画では、神立教授も学生時代の塙さんを覚えており、ゼミ旅行などを通じて将来自分が進みたい世界について話していた様子が紹介されています。
落研では部長を務めるようになり、ライブを企画するなど、演者として舞台へ出るだけでなく周囲を巻き込んで活動していました。
大学時代には先輩と「ナイツ」という名前のコンビを組んだ時期もありましたが、この組み合わせは解散します。
塙さん自身、学生時代はアドリブに頼ったり、うまくいかないと相方側に原因を求めたりして、コンビを組んでは解散する時期があったと後年振り返っています。
現在と同じ「ナイツ」という名前は存在していましたが、土屋さんとのナイツはまだ始まっていませんでした。
ライブの常連客だった土屋伸之に声をかけ、相方へ誘う
土屋伸之さんは、最初から落研のメンバーとして塙さんの前に現れたわけではありません。
当時の土屋さんは公認会計士を目指して勉強しており、一日に長時間机へ向かう生活の息抜きとして落研のライブを見に来ていました。
何度も客席で見かける土屋さんへ塙さんが声をかけたことから親しくなり、その後、土屋さんは大学2年生で落研へ入ります。
「塙さんは落研の部長で、ボケの代表的な存在でした」
マイナビニュース
土屋さんは芸歴こそ短かったものの、グループでコントをすればいろいろな役をこなし、塙さんには自分と笑いの感覚が近い相手に映っていました。
先輩とのナイツが終わったあと、塙さんの側から土屋さんへ「一緒に漫才をやろう」と誘い、現在のナイツが生まれます。
我孫子市の公式記録では、二人がナイツを結成した年は2000年とされています。
ナイツ結成直後の交通事故|2000年結成から本格始動まで
大学の落研で知り合い、塙さんから声をかけてコンビを組んだ二人でしたが、結成してすぐに舞台を重ねられたわけではありません。
プロとして動き出そうとした時期に、塙さん本人のけがによって活動を止めざるを得ない出来事が起きました。
土屋を誘った直後に事故に遭い、活動開始が約1年遅れる
土屋さんを誘った直後、塙さんは交通事故に遭い、骨折して長く治療が必要な状態になりました。
二人でコンビを始めると決めたばかりでしたが、塙さんが十分に動けないため、すぐにナイツとして本格的な活動へ入ることはできませんでした。
2000年にコンビを結成した一方、マセキ芸能社の公式プロフィールでは2001年をナイツの活動開始時期としています。
結成年と活動開始年が異なって見えるのは、この結成直後の空白を挟んでいるためです。
土屋の母の縁でマセキ芸能社へ、松葉杖でオーディション
卒業後の所属先を探すところでは、土屋さんの家族との縁が一つの入口になりました。
土屋さんの母親には以前マセキ芸能社で歌手として活動した経歴があり、大学で漫才をしている息子たちについて事務所へ話をつないでくれました。
塙さんは事故後でまだ松葉杖を使っている状態でしたが、土屋さんと一緒にマセキのオーディションを受けます。
コンビ結成、事故、事務所のオーディションが短い期間に重なり、けがが治ったあとにようやく二人で本格的に動けるようになりました。
2001年ごろ本格始動し、2002年に漫才協会へ
マセキ芸能社で活動を始めたナイツに対し、事務所の社長が勧めたのが浅草の漫才協会でした。
当時の二人が目指していたのは若手ライブやテレビで、浅草の寄席へ入ることには乗り気ではありませんでした。
それでも事務所側の強い勧めがあり、2002年ごろ漫才協会へ入る流れが決まります。
さらに二人は当時の漫才協会会長だった内海桂子さんの弟子となり、それまで学生お笑いをしてきた環境とはまったく違う浅草の世界へ入っていきました。
内海桂子に弟子入りし、浅草で続いた若手・下積み時代
テレビへ出たいと考えていた若手の二人にとって、浅草の寄席は最初から憧れて飛び込んだ場所ではありませんでした。
しかし、そこで毎日のようにベテランの漫才を見た時間が、ナイツのネタの方向を少しずつ変えていきます。
漫才協会でお茶くみ・呼び込み・掃除から始める
当時の漫才協会には現在ほど若手芸人が多くなく、ナイツは寄席へ出るだけでなく、若手として裏方の仕事も担いました。
お茶くみ、客の呼び込み、掃除などをしながら浅草の舞台へ通い、内海桂子さんをはじめとする師匠たちの漫才を間近で見る毎日が続きます。
塙さんは入る前まで、漫才協会を自分たちより上の世代が中心の場所だと思っていました。
ところが実際に師匠たちの舞台を見ると想像していた以上に面白く、テレビの若手芸人を追うだけだった頃とは、漫才を見る基準が変わっていきます。
テレビへ行きたいから入りたくなかった浅草で、ナイツは毎日漫才を見る環境を手にしました。
兄はなわが「佐賀県」で売れた一方、弟はまだアルバイト生活
ナイツが浅草で若手として活動していた2003年ごろ、兄のはなわさんは「佐賀県」の歌で全国的に知られるようになりました。
兄はテレビで目にする存在になっていきましたが、弟の塙さんはまだ芸人の仕事だけで生活できず、土屋さんとともに夜勤のアルバイトを続けていました。
夜に働きながら舞台へ立つため、二人には十分なネタ作りの時間もなく、その時々でM-1などで受けていた芸人のスタイルを参考にすることもありました。
兄から「芸人辞めろ」と言われ、それでも漫才を続ける
兄が先に売れた状況は、兄弟だからこその会話も生みました。
塙さんによると2004年ごろ、はなわさんから電話で真剣に「芸人辞めろ」と言われたことがあります。
兄は自分に円形脱毛症ができるほど仕事の重圧を感じていることを見せ、「売れるとはこういうことだ」と弟へ伝えたといいます。
「それでも、オレは(芸人を)やりたいんだ」
スポニチアネックス
兄が先に芸人として売れた姿を間近に見ても、塙さんはナイツとして漫才を続ける方を選びました。
流行のネタを追うのをやめ、1日1本のネタ作りを始める
若手時代のナイツは、自分たちの漫才が最初から固まっていたわけではなく、その時々の流行に合わせてネタを試していました。
2004年ごろ、NHK新人演芸大賞の予選を前に、当時流行していた「あるあるネタ」を使うかどうかで二人が話し合います。
土屋さんはそのネタを使うことを考えましたが、塙さんは浅草でやってきた自分たちの漫才を続ける方を選びました。
予選結果は通過とはなりませんでしたが、そのころから塙さんのネタ作りの量が大きく変わります。
「一日1本ネタを書いてブログにアップするようになったんです」
POPEYE Web
一度の勝負に使うネタだけではなく、毎日新しい材料を書く習慣が始まりました。
夜勤を続けながら過去のライブを見返し、自分たちの型を探す
ネタを書き続けても、すぐに現在のナイツらしい形へたどり着いたわけではありません。
二人はそれまで約6年分のライブ映像を見返し、自分たちが客にどう見えているのかを確認しました。
そこで、高いテンションで押していく漫才は二人に合いにくく、塙さんが低いテンションのまま細かなボケを続ける方が反応を得やすいことに気づきます。
試しに4分ほど小さなボケを連続させるネタを舞台へ持っていくと、それまでとは明らかに違う客席の反応が返ってきました。
夜勤をしながら過去の自分たちを見返した末に、「大声で勢いを出す」のではないナイツの漫才が見え始めました。
ヤホー漫才が生まれ、M-1で全国へ知られるまで
浅草で師匠たちの漫才を見て、毎日ネタを書き、自分たちの過去映像まで見直したあと、ナイツの代名詞となる漫才が形になります。
低いテンションで小ボケを重ねる漫才がライブで大きく受ける
塙さんが選んだのは、話そのものを大きく展開させるよりも、普通の調子でしゃべりながら言葉を少しずつ間違え、土屋さんが訂正していく形でした。
最初から事務所側に高く評価されたわけではなく、細かなボケを並べたネタに難色を示されたこともありましたが、二人は実際のライブで試します。
客席で大きく受けたことで、この方向を続ける手応えが生まれました。
2007年ごろ、インターネット検索の「Yahoo!」を「ヤホー」と言い間違えるところから始まる「ヤホー漫才」が形になっていきます。
2007年ごろ「ヤホー漫才」が形になり、2008年に受賞が続く
漫才の型が定まると、ナイツの結果も変化していきました。
2008年にはお笑いホープ大賞THE FINALで優勝し、さらにNHK新人演芸大賞の演芸部門でも大賞を受賞します。
浅草で続けてきた漫才と、塙さんが大量に書いてきた小さなボケが、賞レースでも結果として現れ始めた時期でした。
同じ2008年の年末には、ナイツが初めてM-1グランプリ決勝へ進みます。
M-1で2008年3位、2009年4位、2010年6位と3年連続決勝へ
2008年のM-1では決勝初出場ながら最終決戦まで残り、3位となりました。
翌2009年も決勝へ進んで4位、2010年も6位となり、3年続けてM-1の決勝舞台へ立っています。
2008年の初決勝を境に、浅草を中心に活動していたナイツの漫才が全国の視聴者へ広く知られるようになりました。
ただし、M-1だけで突然現在のナイツになったのではなく、その直前には浅草での数年間、一日1本のネタ作り、過去映像の見直し、ヤホー漫才の完成という時間がありました。
高校時代から何度もコンビの形を変えてきた塙さんが、土屋さんとのナイツでようやく自分たちの漫才の型を固めたのが、M-1初決勝へ届く直前でした。
浅草の若手から漫才協会会長へ|現在の塙宣之
M-1後はテレビやラジオの仕事が増えても、ナイツは浅草の寄席から離れず、漫才を続けました。
若いころには入りたくないと思っていた漫才協会との関係も、年月とともに大きく変わっていきます。
寄席を活動の軸に続け、2023年に第7代漫才協会会長へ
ナイツは2007年には三遊亭小遊三さんの門下として落語芸術協会にも所属し、寄席で漫才を演じる機会を広げていきました。
テレビで名前が知られるようになったあとも浅草・東洋館などの舞台へ立ち続け、塙さんは漫才協会の運営にも関わるようになります。
2023年6月、塙さんは青空球児さんの後を継ぎ、漫才協会の第7代会長に就任しました。
若手時代には「テレビへ出たい」と加入を嫌がっていた漫才協会で、20年以上後には会長を務める立場になりました。
漫才協会の芸人たちを追った映画『漫才協会 THE MOVIE ~舞台の上の懲りない面々~』では監督も務め、普段舞台に立つ側とは別の形で浅草の芸人たちを記録しました。
ラジオ・YouTube・俳優・執筆へ広がった現在の活動
現在の塙さんは漫才に加え、TBSラジオ「ナイツのちゃきちゃき大放送」やニッポン放送「ナイツ ザ・ラジオショー」など、長時間しゃべるラジオの仕事も活動の大きな柱にしています。
自身のYouTube「ナイツ塙会長の自由時間」では若手時代や芸人仲間、漫才について話し、著書でもM-1や漫才について掘り下げてきました。
俳優としてドラマへ出演する機会も増え、本人は演技の現場で出会った人物や経験が、その後の漫才の材料になることもあると話しています。
また2025年には「創価学会の日常ちゃんねる」の動画に創価学会支部長として出演し、現在の自身の信仰生活について公に語りました。
大学が創価大学だったという学歴だけから結びつけた話ではなく、本人自身が現在公にしている活動として確認できるものです。
我孫子との交流を続ける現在地
小学5年生で佐賀へ移ったあとも、出生地であり幼少期を過ごした我孫子市との縁は途切れていません。
2018年には我孫子市ふるさと大使に就任し、市内を訪れたり地元に関する企画へ参加したりするようになりました。
2025年には我孫子市から市民文化スポーツ栄誉章を受章し、子どものころに暮らした街との交流は芸人になった後も続いています。
我孫子の小学生だったころに自分の失敗を歌へ変えた塙さんは、佐賀の高校でプロへの入口に立ち、東京の大学で土屋さんと出会いました。
結成直後の事故や浅草での下積みを挟みながら漫才の型を作り、M-1を経て全国へ知られたあとも、二人は寄席で漫才を続けています。
そして現在、塙さんは若手時代にお茶くみや呼び込みをしていた漫才協会で会長を務めながら、ナイツとして舞台に立っています。











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