人物プロフィール
シソンヌのコントで、年齢も性別も違う人物へ入り込み、長谷川忍さんとの掛け合いを作っているじろうさん。
現在はコントだけでなく、俳優や脚本、執筆へ活動を広げていますが、子どものころから芸人になると決めていたわけではありません。
青森県弘前市で育ち、学生時代には英語を使う仕事を考え、関西の短大へ進んでいます。
そこから映画研究部、シティボーイズ、上京後のインディーズ活動を経て、26歳で「吉本でダメなら諦める」という気持ちを抱えてNSCへ入ったことで、その後の道が大きく動き始めました。
長谷川さんと出会ってすぐに売れたわけでもなく、劇場へ出られない時期を何年も過ごした末に、現在まで続くシソンヌのコントが形になっていきます。
じろうの生い立ちと家族|弘前で病院通いが続いた子ども時代
じろうさんの本名は大河原次郎で、1978年7月14日に青森県弘前市で生まれました。
本人が後年振り返った子ども時代には、現在のコントから連想する活発な姿とは少し違う、病院へ通う時間の多い生活がありました。
小児喘息で母と毎週のように病院へ通った幼少期
幼いころのじろうさんは小児喘息がひどく、母親と一緒に毎週のように病院へ通っていました。
薬の「ザジテン」「メプチン」「テオドール」といった名前を大人になっても覚えているほどで、採血や点滴も子どものころから身近なものでした。
病院には自動販売機の飲み物や雑誌、食堂があり、通院そのものをただ嫌な場所として記憶しているわけではなく、母親と出かけた場所として具体的な光景が残っています。
「母親と一番よくどこへ行ったか」と聞かれて思い浮かぶほど、病院は幼少期の日常に入り込んでいました。
「病院です」
東北大学医療系メディア LIFE「僕と病院」
親戚や近所の女性たちにかわいがられて育つ
じろうさんは2026年のインタビューでも、自分を色白で病弱な子どもだったと振り返り、親戚や近所の女性たちによくかわいがられていたと話しています。
弘前には家族だけでなく、近所の大人たちまで含めて顔を知っているような環境があり、現在も帰郷すると昔歩いていた場所を歩くことがあります。
野球では、兄が使っていた広島東洋カープの帽子をお下がりでもらったことからカープを好きになり、子ども時代から応援を続けてきました。
祖母や母方の家族と過ごした弘前での記憶
弘前には、じろうさんが幼いころから長い時間を過ごした家族ゆかりの場所も残っています。
その一つが弘前市富田にある「きそば 一力」で、母方の実家として知られ、本人も幼少期のかなりの時間をそこで過ごしたことを店内のメッセージなどで明かしてきました。
2026年に出演したTBS系「人生最高レストラン」でも、一力の中華そばを故郷・弘前の思い出につながる料理として紹介しています。
大人になってから弘前との関わりが再び濃くなっていきますが、その背景には、こうした家族や親戚のいる街で長い時間を過ごした記憶がありました。
小中高校時代|弘前で過ごし、英語を生かす進路を考える
学校生活も高校卒業までは弘前で送り、その後初めて青森を離れて関西へ向かいます。
このころはまだ、お笑いの養成所へ進むことを将来の選択肢にはしていませんでした。
第二大成小・第三中から青森県立弘前高校へ
じろうさんは弘前市立第二大成小学校、弘前市立第三中学校を経て、青森県立弘前高校へ進学しています。
小児喘息の記憶が強く残る一方で、成長するにつれて行動範囲は街の中へ広がり、高校時代には友人との外出や音楽を探す時間も増えていきました。
後年の著書や地元での取材でも、小学校から高校までの弘前での出来事を繰り返し取り上げており、現在のじろうさんが書く文章にも故郷の風景が登場します。
喫茶店「ひまわり」とJOYPOPSに残る高校時代の思い出
高校時代の記憶として本人が挙げている場所の一つが、弘前の喫茶店「ひまわり」です。
友人から紹介された女の子と二人でお茶をしたことがあり、本人にとっては甘い青春というより、相手が好みではなかったことまで含めて覚えている場所になっています。
一方、音楽を探すときに通っていたのが地元のレコードショップ「JOYPOPS」で、東京から入ってくる新しい音楽を弘前の高校生が知る場所の一つでした。
学校名だけでは見えにくい高校時代も、喫茶店へ行ったり新しい音楽を探したりと、弘前の街の中で過ごしていました。
英語を使う仕事を考え、関西外国語大学短期大学部へ
高校卒業後に選んだのは、お笑いの養成所ではなく関西外国語大学短期大学部でした。
本人によれば、このころは将来は英語を使う仕事ができればと考えていたため、外国語を学べる進路を選んでいます。
「シソンヌじろうは英語がペラペラなのか」というイメージにつながりやすい経歴ですが、本人は2026年の取材で、外国語系の学校へ進んだものの、その後進路が変わって英語の勉強は中途半端になったとも話しています。
少なくとも、短大進学時点で目指していた方向は「芸人」よりも英語を生かせる将来でした。
短大の映画研究部とシティボーイズが進路を変えた
弘前を離れて始まった短大生活で、それまで考えていた進路とは違うものが入り込んできます。
入口になったのは、お笑いサークルではなく映画研究部でした。
映画に興味がないまま勧誘され、映画研究部へ入る
短大へ入った当時、じろうさんは映画に詳しかったわけではありませんでしたが、勧誘を受けて映画研究部へ入りました。
部に入ってから、それまで知らなかった映画を先輩たちから教えてもらい、さまざまな作品を見るようになります。
英語を学ぶために入った学校で、授業とは別の場所から新しい興味が広がっていきました。
自主制作映画に出演し、「演じる側」を経験する
映画研究部では作品を見るだけでなく、学生たちが作る自主制作映画にも出演しました。
じろうさん自身が演じる側へ回る経験をしたのもこの時期で、その後は映画だけでなく舞台にも関心が向いていきます。
まだ吉本興業やNSCという具体的な進路は出てきませんが、英語を使う仕事だけを考えていた入学時とは、過ごし方が少しずつ変わっていました。
シティボーイズを劇場で見て「コント芝居」に惹かれる
やがて強く惹かれるようになったのが、大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさんによるシティボーイズの舞台でした。
テレビの短いネタを見るだけではなく、自分でチケット代を払い劇場へ行き、一本の公演として作られたコントを見るようになります。
「なんでこんな面白いんだろうって」
スポニチ Sponichi Annex
笑いだけでなく、役を演じながら一つの舞台を作る「コント芝居」への興味が、このころにははっきりしていきました。
短大卒業後に上京|約4年間インディーズでコントを続ける
短大を卒業すると青森へ戻るのではなく、じろうさんは東京へ向かいました。
ただし、ここでもすぐ吉本興業に入ったわけではありません。
吉本には入らず、コント劇団の演者として活動
上京後はインディーズのコント劇団に入り、演者として約4年間活動しました。
公演は数カ月に一度ほどで、舞台へ立ちながらコントや芝居を続ける生活を送っています。
このころには、のちに小説にもなる女性キャラクター「川嶋佳子」のように、別人になりきって言葉を作る表現も始めていました。
NSCに入る前から約4年間、人前でコントを演じていたため、26歳で養成所へ入った時点が、じろうさんにとって舞台経験の最初ではありません。
友人・知人中心の客席に限界を感じ始める
インディーズ活動を続ける一方、客席に来るのは友人や知人が多く、自分たちの笑いがまったく知らない客にも届くのか判断しにくい状況が続きました。
舞台を続けていても、その環境の中だけでは次へ進めるのか分からないという感覚が強くなっていきます。
そのころ、東京でより大勢の芸人が競う環境として目に入ったのが吉本興業のNSCでした。
26歳で「吉本でダメなら諦める」とNSC受験へ
じろうさんがNSCへ入ったのは2005年、26歳のときです。
若くして芸人になるための第一歩というより、すでに東京で数年間コントを続けた末の選択でした。
本人は、吉本という場所で試して通用しなければ辞めるつもりだったことを明かしています。
「諦めるためにNSCに入りました」
日商 Assist Biz
インディーズで続けるためではなく、続けるか辞めるかを決めるためにNSCへ入ったところから、長谷川忍さんとの出会いが待っていました。
26歳でNSC東京11期へ|長谷川忍と出会う
じろうさんが入ったのはNSC東京校11期で、同期にはチョコレートプラネット、パンサーの向井慧さん、好井まさおさんらがいます。
同じ「同期」でもデビュー年が近いという意味ではなく、ここではNSC東京校11期という同じ期の仲間です。
年下の同期が多い中、同い年の長谷川と親しくなる
26歳で入学したじろうさんはクラスの中では年長組で、そこで同じ1978年生まれの長谷川忍さんと知り合いました。
二人ともバイクで通っていたことなどから話すようになり、次第に一緒にいる時間が増えていきます。
2026年に二人がNSC時代を振り返った際、長谷川さんはクラスになかなか溶け込めなかった一方、じろうさんは周囲とよく話し、長谷川さんへほかの同期を紹介するような存在だったことも明かされました。
同い年だった二人は最初からコンビだったのではなく、まずNSCの友人として距離を縮めています。
一人コントで自分のやりたい笑いを見せる
NSCでじろうさんが最初に力を入れたのは、誰かと漫才を組むことではなく一人コントでした。
本人は、うまいツッコミができる相手を探したかったため、まず一人でネタをして「自分が何をやりたい人なのか」を見せようとしていたと話しています。
その中には「おばあちゃんにオレオレ詐欺をする」という設定のネタもあり、このコントを客席側から見ていたのが長谷川さんでした。
「ガイド役のツッコミがいたら面白いだろうな」
スポニチ Sponichi Annex
長谷川さんは、じろうさんの発想に自分がツッコミとして入る形を、このころから考えていました。
誘いを断れず複数の仮コンビを経験する
じろうさん自身は、シソンヌを組む前に何人かから声をかけられ、短期間のコンビを複数経験しています。
本人によれば、自分から断ることが苦手で、「違う」と思っていても誘われると組んでしまい、うまくいかないネタ見せを重ねて落ち込むこともありました。
一方の長谷川さんは、その様子を近くで見ながら、じろうさんと自分なら組めるのではないかと考えるようになります。
長谷川忍から誘われ2006年にシソンヌ結成
長谷川さんが実際に動いたのは、じろうさんが別の相手とのネタでうまくいかなかった日のことでした。
2026年の「人生最高レストラン」で二人が語った結成場面は、当時の状況までかなり具体的に残っています。
長谷川がじろうの一人コントに可能性を感じる
長谷川さんは、自分でネタを書きながら漫才をしていましたが、じろうさんの一人コントを見て、発想そのものに興味を持っていました。
じろうさんが人物や設定を作り、そこへ長谷川さんがツッコミとして入れば、見ている側へ状況を伝えやすくなるという組み合わせです。
じろうさんの人物コントと長谷川さんのツッコミという、後のシソンヌにつながる役割はNSC時代に形を見せ始めていました。
じろうが一番弱っていた日に長谷川が声をかける
あるときじろうさんは、一発ギャグを中心にしていた別の芸人から頼まれ、気が進まないままM-1へ向けた漫才をすることになりました。
二人のやりたいことはかみ合わず、長谷川さんも客席からその舞台を見ていました。
長谷川さんは、その日のじろうさんを見て「一番弱っている」と感じ、帰りに一緒になった乗り物の中でコンビを持ちかけています。
「一緒にやった方がいいんじゃない?」と長谷川さんから誘われ、じろうさんが受け入れたことで二人は正式に組むことになりました。
2006年4月にシソンヌ結成、二人でコントを始める
吉本興業の公式プロフィールでは、シソンヌの結成は2006年4月とされています。
長谷川さんが以前やっていた漫才へじろうさんが合わせるのではなく、二人が選んだ中心はコントでした。
じろうさんが人物や状況を作り、長谷川さんがその世界の中で受け止めながらツッコむ形でネタを重ねていきます。
26歳でNSCへ入り、翌2006年に長谷川さんと組んだことで、じろうさんの芸人人生は「シソンヌ」として進み始めました。
コンビ名「シソンヌ」が決まった経緯
「シソンヌ」という名前は、フランス語でバレエの跳躍技を表す言葉から取られています。
二人で初めて練習した翌日にはコンビ名を決めることになり、じろうさんが持ってきたバレエ用語の資料などを見ながら候補を探しました。
じろうさんは漫画「昴」を読んでいたことなどからバレエにも関心があり、その中から「シソンヌ」という音の響きを選んだと明かしています。
劇場へ出られない若手時代|年齢の壁と5〜6年の停滞
コンビを結成すると、ネタ見せでは早い段階から手応えがありました。
しかし、養成所を出たあとに待っていたのは、劇場へ次々出演する生活ではありませんでした。
ネタはウケても劇場オーディションに通らなかった
NSC卒業後、二人は若手芸人が出演する劇場のオーディションを受けますが、なかなかメンバーに入れませんでした。
長谷川さんは、最初のネタ見せでは手応えがあり、このまま進めるのではないかと思ったものの、卒業後は劇場オーディションへ全然通らなかったと振り返っています。
じろうさんも「ウケてはいた」と話しており、客前で笑いが起きないことだけが原因ではありませんでした。
「その年じゃあね」と年齢を理由に外された経験
当時の若手劇場では年齢も壁になりました。
26歳でNSCへ入り、結成時には20代後半だった二人は、10代後半や20代前半から活動している若手よりスタートが遅かったからです。
「その年じゃあね」
anan web
じろうさんは、ネタではなく年齢を理由に劇場メンバーから外されたときのスタッフの顔を後年まで覚えていたと話しています。
ネタを撮影して見返しながら二人のコントを磨く
劇場へ思うように出られない時期にも、二人はネタの稽古を続けていました。
長谷川さんによると、芸歴4年目ごろまではネタを一度撮影して二人で確認し、もう一度やってまた撮影することを繰り返していたといいます。
自分たちが客席からどう見えているのかを映像で確かめる作業を続けたことで、後には舞台上から観客にどう映るかを想像しやすくなったとも話しています。
仕事が少ない時期ほど、二人で撮って見返す稽古を何度も繰り返していました。
チョコレートプラネットら同期と過ごした売れる前の日々
同じNSC東京11期にはチョコレートプラネットがおり、仕事が少なかったころからシソンヌとの交流が続いていました。
じろうさんがチョコレートプラネットの単独ライブへネタを提供したこともあり、2010年には二組によるユニット「チョコンヌ」としても活動しています。
また、NSC時代には養成所のスタッフとして一定の収入があったものの、その仕事がなくなってから金銭的に苦しくなり、同期のパンサー・向井慧さんにお金を借りたことも本人が明かしています。
一方で、じろうさんは後年、この5〜6年ほどの売れていない時期について、同じように仕事のない芸人たちと毎日話して過ごす時間自体は楽しかったとも振り返っています。
単独ライブを始め、シソンヌ独自のコントを形にする
20代後半で結成し、劇場へ入りにくい時期を過ごしたシソンヌは、30歳を越えてから自分たちのコントをまとまった公演として見せる機会を増やしていきます。
短いネタだけでなく、じろうさんが短大時代から惹かれていた「コント芝居」に近い見せ方ができる場所でした。
30歳を過ぎて単独公演へ踏み出す
2013年5月には単独ライブ「シソンヌライブ パ・ド・ドゥ」を開催し、この年から単独公演の流れが本格化します。
同年8月、弘前でネタを見た父親と義母が感想を話し合っている様子を、じろうさん自身がXで投稿しています。
子どものころを過ごした弘前へ芸人として戻り、家族が客席から二人のネタを見るところまで時間が進んでいました。
2013年に「シソンヌライブ」がスタート
同年12月26日から29日には、赤坂RED/THEATERで「シソンヌライブ[01]une」を開催しました。
公式記録では作・演出をじろうさんが担当しており、ここから番号を重ねる「シソンヌライブ」が始まっています。
映像、照明、衣装、大道具まで含めた公演を作ることで、数分の賞レース用ネタとは違う長さのコントを見せられるようになりました。
2013年に始まったシソンヌライブは、後にテレビの仕事が増えてからも終わらず、現在まで続く活動の柱になっています。
劇場で人物と物語を見せるコントを積み重ねる
第2回のライブでは、バナナマンなどのライブを手がけてきた放送作家オークラさんが監修に入り、ネタの長さや構成について助言を受けています。
じろうさんは、オークラさんから「ここはもっと短く」「ここは引っ張る」といった尺の考え方を教わったことを後に語っています。
学生時代に客席から見ていたシティボーイズのように、人物と場面を作り込みながら一本の舞台として見せる時間が増えていきました。
キングオブコント2014優勝|それでもすぐにはブレイクしなかった
単独ライブを始めた翌年、シソンヌの名前が全国へ大きく知られる出来事が起きます。
2014年のキングオブコントでした。
2009年・2013年の準決勝を経て初の決勝へ
吉本興業の公式プロフィールでは、シソンヌは2009年と2013年にキングオブコント準決勝へ進出しています。
2014年大会では2810組がエントリーする中、初めて決勝10組へ残りました。
この年は現在とは異なり、芸人審査員が一騎打ちで勝者を選ぶ方式が採用されていました。
2014年に第7代キングオブコント王者となる
ファーストステージを勝ち上がったシソンヌは、最終決戦でNSC同期のチョコレートプラネットと対戦しました。
最後の対決を制し、2014年10月13日、シソンヌはキングオブコント第7代王者となります。
26歳でNSCへ入り、劇場オーディションにもなかなか通らなかった二人が、結成から約8年で賞レースの頂点まで進みました。
ただし、ここから翌日には仕事が殺到するという展開にはなりませんでした。
優勝後もテレビ仕事が急増せず、ライブを続ける
じろうさんは2026年の「人生最高レストラン」で、KOC優勝翌朝にもテレビ局から呼ばれることはなく、いつものようにパチンコ店へ並んでいたことを明かしました。
「ジャックがなかったからパチ屋に並べたんですよ」
日刊スポーツ
長谷川さんも自宅におり、マネジャーのもとにも仕事の電話が次々入るような状態ではなかったと二人は振り返っています。
KOC優勝は大きな実績になりましたが、その瞬間にテレビ中心の生活へ切り替わったわけではありませんでした。
シソンヌは優勝後も毎年の単独ライブを続け、コントを見た番組関係者や制作スタッフとの接点から少しずつ別の仕事が生まれていきます。
コントを続けた先で俳優・脚本・執筆へ活動が広がる
KOCの優勝だけで仕事の種類が一気に変わったのではなく、単独ライブを続ける間に、じろうさん自身の「演じる」「書く」という仕事が外へ広がっていきました。
短大の映画研究部で始まった演じる経験と、インディーズ時代から続けてきた人物作りが、違う媒体でも使われるようになります。
ライブを見たテレビ関係者から仕事につながっていく
シソンヌライブを続けていると、客席には一般の観客だけでなくテレビや舞台の関係者も来るようになりました。
じろうさんは以前、ライブを見たテレビ関係者から手紙をもらい、仕事を一緒にしたいと声をかけられた経験を話しています。
2018年の日本テレビ系ドラマ「卒業バカメンタリー」で脚本を担当した際にも、監督がシソンヌの単独ライブを見たことが仕事につながりました。
テレビへの入口も、単純にKOC王者だから呼ばれた仕事ばかりではなく、舞台で作り続けていたコントを誰かが客席で見ていたことから生まれています。
人物を演じ、書く仕事がコント以外にも広がる
じろうさんは俳優としてドラマや映画へ出演する一方、自分以外の俳優が演じるドラマ脚本も手がけるようになりました。
自分と長谷川さんなら、どの言葉をどんな間で言えば成立するか分かる一方、別の俳優が演じる脚本では同じ計算がそのまま使えないことも、実際に書いて学んだと話しています。
インディーズ時代から演じていた女性キャラクター川嶋佳子も、後に日記小説「甘いお酒でうがい」へ広がり、じろうさんは小説やエッセイも発表するようになりました。
2026年にはNHK連続テレビ小説「風、薫る」にも出演するなど、人物を作る仕事はコントの舞台だけに収まらなくなっています。
弘前との関わりを深めながら現在もシソンヌライブを続ける
仕事の幅が広がっても、じろうさんはシソンヌのコントを書くことをやめていません。
2026年のインタビューでも、長年一緒にやってきた長谷川さんとのコントについて、現在の感覚をこう話しています。
「僕が書いたものを、僕と長谷川さんがやるのが一番面白い」
Real Sound Book
一方、生活では2023年ごろから東京と弘前を行き来する時間が増え、弘前にも生活拠点を持つようになりました。
2026年2月には弘前れんが倉庫美術館で子どもたちとキャラクターを作るワークショップにも参加し、自分が育った街で「演じる」「人物を作る」という経験を伝える活動もしています。
シソンヌとしては2026年に15回目となる「シソンヌライブ[quinze]」を開催し、東京、静岡、青森で新作コントを上演しました。
弘前で育ち、関西で映画とコント芝居に出会い、東京で約4年間舞台を続けたあと、26歳でNSCへ入ったのがじろうさんの芸人になるまでの道のりでした。
そこで長谷川忍さんと出会い、劇場へ出られない時期も二人でネタを撮って見返しながら、シソンヌのコントを作り続けました。
KOC優勝後もそのコントを手放さず、現在は俳優や脚本、執筆、そして故郷・弘前での活動まで仕事を広げながら、長谷川さんと新しい舞台を作り続けています。












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