仲本工事の若い頃と生い立ち|体操少年が音楽へ進みドリフターズに入るまで

人物プロフィール

本名
仲本興喜
生年月日
1941年7月5日
身長
160cm
血液型
A型
出身地
東京都 渋谷区
コンビ・グループ名
ザ・ドリフターズ
相方・メンバー
加藤茶、高木ブー、志村けん、いかりや長介
結成年
1964年
所属事務所
イザワオフィス
芸人活動開始年
1965年

ザ・ドリフターズの仲本工事さんといえば、黒縁メガネをかけ、軽々と体を動かす体操コントの姿を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

ところが、若いころの仲本さんは最初からコメディアンを目指していたわけではなく、学生時代に夢中になっていたのは体操と音楽でした。

中学生のころに体操とギターという、後の人生を形作る二つのものに出会っています。

高校では体操の大会で好成績を残し、大学へ進むと今度はジャズ喫茶へ出入りするようになり、そこで後に同じドリフのメンバーとなる加藤茶さんや高木ブーさんとつながっていきました。

大学卒業後は一般企業へ就職するつもりだったものの、高木さんからかかった一本の声をきっかけに進路が変わり、いかりや長介さんが芸能界入りに反対する父親を説得して、ドリフターズへ入ることになります。

体操少年だった仲本さんが音楽の世界へ進み、なぜコントをするようになったのか、幼少期から順番にたどっていきます。

仲本工事の生い立ちと家族|沖縄出身の両親と東京で育った少年時代

仲本工事さんは1941年7月5日、東京・日本橋で生まれました。

本名は仲本興喜(なかもと・こうき)で、両親はともに沖縄にルーツを持ち、幼いころから東京で育っています。

日本橋で生まれ、3歳ごろに恵比寿へ

生まれた場所は日本橋でしたが、3歳ごろに家族で東京・恵比寿へ移り、その後の少年時代を渋谷周辺で過ごしました。

一人っ子だった仲本さんにとって、家庭で大きな存在だったのが職人気質の父親です。

華やかな芸能界へ入るのはまだずっと先のことで、このころは父親の仕事を身近に見ながら育つ普通の少年でした。

靴職人の父を手伝いながら育った一人っ子

父親は靴職人で、白金に小さな店を構え、朝から晩まで働いていました。

仲本さんも学校が終われば家業を手伝うことがあり、その生活は後に部活動を選ぶ場面にも影響します。

仲本さんは後年、父親について非常に厳しい人だったと振り返っており、父の言うことに反発することもほとんどなかったそうです。

そんな父親に一度だけ大きく逆らうことになるのが、20代になって「ドリフターズへ入りたい」と伝えたときでした。

幼いころ沖縄へ渡り、戦時中に東京へ戻った家族の記憶

仲本さんがまだ幼かった戦時中、家族は両親の故郷である沖縄へ一時的に渡っています。

本人が後年語ったところでは、母親が不吉な夢を見たことから東京へ戻ることになり、その後に沖縄が空襲を受けたため、幼い仲本さんの命も大きな歴史の流れと隣り合わせにありました。

大人になった仲本さんは沖縄が本土復帰する前、両親を連れて現地を訪れています。

幼いころの自分には記憶が薄い出来事でも、両親から聞かされた家族の歴史として残っていました。

中学で体操とギターに出会った仲本工事

少年時代の仲本さんにとって大きな変化が起きたのは、渋谷区立鉢山中学校へ進学してからです。

後にテレビで知られる二つの特技が、この中学生の時期にほぼ同時に始まりました。

野球部を辞めたあと、新設された体操部へ

中学校へ入った仲本さんは、最初は野球部に所属しました。

しかし練習が遅くまで続くため、父親の靴店を手伝う時間が取れなくなります。

父親の店を手伝うために野球部を辞め、その後に学校で新設された体操部へ入りました。

テレビで何十年も後に披露することになる体操は、将来の芸のために始めたものではなく、家庭の事情から部活を変えた先に偶然あったものでした。

中学3年で個人総合優勝へ

新設されたばかりの体操部でしたが、仲本さんは競技にのめり込みます。

鉄棒や床運動などを練習し、中学3年生になるころには渋谷区の大会で個人総合優勝を経験しました。

「体操が得意な芸人」になるはるか前から、本格的に競技へ取り組んで結果を残していたのです。

このころ身につけた動きは、20代、30代になっても失われず、後に『8時だョ!全員集合』の舞台で思わぬ形で生かされることになります。

父からもらったギターで洋楽を独学

体操に取り組んでいた同じころ、もう一つ夢中になったのがギターでした。

きっかけは父親からギターを買ってもらったことで、ラジオから流れてくる洋楽やロックンロールを聴き、自分で音を探しながら覚えていきました。

まだ楽譜を書いてバンドを支えるような段階ではありませんでしたが、家でギターを弾いて覚えた音楽が、数年後にはアルバイトではなく仕事へ変わっていきます。

都立青山高校では体操選手とロック少年の二つの顔

1957年、仲本さんは東京都立青山高校へ進学しました。

中学校で始めた体操を続ける一方、人前でギターを弾き歌う機会も増えています。

東京都新人戦で個人総合4位

高校でも体操部へ入り、1年生のころには東京都の新人戦へ出場しました。

そこで残した成績が個人総合4位です。

中学の区大会優勝に続き、高校でも競技者として都大会上位へ入る実力を持っていました。

テレビの企画で急に体操を覚えたのではなく、十代の数年間を練習に費やした経験が土台にありました。

文化祭ではギターを持ってロックンロール

一方で、学校行事では競技者とは違う姿も見せています。

文化祭ではギターを手にロックンロールを歌い、当時流行していた洋楽を人前で披露していました。

昼は体操部で体を動かし、音楽にも親しむ高校生活を送り、この二つは大学進学後にいったん別々の道をたどります。

同級生・橋爪功が覚えていた体操部時代

青山高校では、後に俳優となる橋爪功さんも同級生でした。

橋爪さんは後年、仲本さんについて高校時代から知っていたことを明かし、体操を教わった思い出も語っています。

「同級生ですよ」

スポニチアネックス

芸能界へ入る前の仲本さんを知る同級生の記憶にも、まず残っていたのは体操に取り組む高校生の姿でした。

学習院大学で体操を断念し、音楽の世界へ

1960年、仲本さんは学習院大学政治経済学部へ進学しました。

高校まで続けてきた生活はここで変わり、体操よりも音楽に使う時間が増えていきます。

体操部がなく、競技生活に区切り

大学でも体操を続けるつもりでしたが、学習院大学には当時、仲本さんが入れる体操部がありませんでした。

本人の意思で競技を嫌いになったのではなく、進学を境に体操を続ける場所がなくなりました。

一時は法律家を志すことも考えましたが、その進路にも進まず、空いた時間の中で高校時代から好きだった音楽の比重が大きくなります。

ジャズ喫茶で飛び入りし、加藤茶と出会う

転機になったのは、友人に誘われて訪れたジャズ喫茶でした。

店で飛び入りして歌った仲本さんを、演奏していたバンド「クレイジー・ウエスト」が気に入り、翌日から一緒に活動することになります。

そこでドラムを叩いていたのが、後にドリフターズで長い時間を共にする加藤茶さんでした。

「まだ10代でさ。ドラムに一生懸命で、かわいらしい少年だったよ。」

文春オンライン

大学の友人について行ったジャズ喫茶での飛び入りが、加藤茶さんとの最初の接点になりました。

パップ・コーンズで高木ブーとつながる

その後、ジェリー藤尾さんの営業を支えるバンド「パップ・コーンズ」に関わることになります。

前座歌手のオーディションには20人ほどが集まったといい、その中から仲本さんが選ばれました。

ここで出会ったのが、バンジョーなどを担当していた高木ブーさんです。

加藤さん、高木さんと別々の場所で知り合ったこの時期には、まだ3人が同じグループで国民的な人気を得る未来は決まっていませんでした。

大学へ通いながらジャズ喫茶を回る生活

仲本さんは大学を辞めて音楽一本にしたわけではなく、午前中は大学へ通い、午後になるとジャズ喫茶などで歌う生活を送っていました。

学生でありながら、すでに店のステージや営業で実際の観客を前に歌う経験を重ねています。

卒業が近づくころには音楽の仕事を経験していたものの、それを一生の職業にするとは決めていませんでした。

就職直前にドリフターズから声がかかった

大学卒業を迎える時期、仲本さんはいったん音楽から離れ、社会人になることを考えていました。

そこへ高木ブーさんから連絡が入ったことで、それまで考えていた進路が変わります。

大学卒業後は就職するつもりだった

父親は大学まで進ませた息子に、安定した仕事へ就いてほしいと考えていました。

仲本さん自身も卒業後は商工会議所への就職を考えており、芸能界へ進むことを前提に学生生活を送っていたわけではありません。

すでに音楽の現場を経験していながら、卒業後は普通に就職する予定でした。

高木ブーにギターの代役として呼ばれる

そんな時期、高木さんからギターの代役を頼まれます。

その仕事で接点を持ったのが、当時ザ・ドリフターズを率いていたいかりや長介さんでした。

仲本さんはギターだけでなく歌え、楽譜も扱えたため、音楽グループとして活動していたドリフにとって必要な人材になっていきます。

高木さんとの出会いがなければ生まれなかった話で、学生時代に続けた音楽がここで職業への入口になりました。

芸能界入りに父が反対、いかりや長介が自宅へ

問題は、厳格だった父親です。

当時は若者がギターを持つだけでも「不良」と見られることがある時代で、大学を卒業した一人息子がバンドへ入ることを父親は認めませんでした。

仲本さん自身も父親を説得するのは難しいと感じていましたが、いかりやさんはそこで引き下がりませんでした。

「俺が話をするから」

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いかりやさんは仲本家まで出向き、父親と直接向き合いました。

二人きりで話したあと、いかりやさんは自分が辞めるまでは責任を持つという趣旨を伝え、父親はようやく加入を認めます。

父の了承を得て1965年にザ・ドリフターズへ

こうして仲本さんは1965年にザ・ドリフターズへ加入しました。

父親にほとんど反抗したことがなかった仲本さんにとって、ドリフ入りは自分の進路をめぐって初めて大きく意思を通した場面でもありました。

ただし、この時点で「お笑い芸人になる」と考えていたわけではありません。

本人が引き受けた意識に近かったのは、あくまで音楽を担当するバンドマンでした。

音楽担当として始まった仲本工事のドリフ時代

現在ではドリフターズといえばコントの印象が強いものの、仲本さんが入ったころは音楽を土台に笑いを見せるコミックバンドでした。

その中で仲本さんは、歌やギターだけではなく、譜面を書けることでも役割を持つようになります。

譜面とアレンジを任されたコミックバンド時代

『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』などでは、出演者の伴奏に使う曲をアレンジし、譜面に起こす仕事も担当しました。

ジャズ喫茶で披露する音楽ネタの譜面も必要で、曲をきちんと完成させたうえで、そこから笑いへ崩していくのが当時の作り方でした。

仲本さんがドリフで最初に担った大きな役目は、コントではなく音楽でした。

音楽ネタは完成まで1か月ほどかかることさえあり、テレビの仕事が増えるにつれて、その作り方では放送のペースに追いつきにくくなっていきます。

1966年、ビートルズ日本公演の前座で歌う

ドリフ加入翌年の1966年、グループは日本武道館で行われたビートルズ日本公演の前座を務めました。

このとき仲本さんは「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」のリードボーカルを担当しています。

後に体操服姿で知られる仲本さんですが、20代半ばのこの時期は、日本を代表する海外アーティスト公演の舞台で歌うミュージシャンでもありました。

徳間ジャパンの公式プロフィールにも、ビートルズ公演の前座でリードボーカルを務めた経歴が記されています。

テレビの速度に合わせ、音楽からコント中心へ

テレビで求められる本数が増えると、何週間もかけて音楽ネタを作る形から、短い期間で作れるコントへドリフの軸が移っていきました。

仲本さん自身はコントをやるつもりで加入したわけではなかったため、いかりやさんに叱られながら稽古する毎日には戸惑いもあったようです。

「なんで僕コントしてるんだろうって(笑)」

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音楽担当として入った青年が、テレビの変化に合わせてコントを覚えていくことになりました。

黒縁メガネというキャラクターも定着

もう一つ、仲本さんを象徴する存在になったのが黒縁メガネです。

実際には視力を補うためのメガネではなく、いかりやさんの発案でキャラクター作りの一つとしてかけるようになったものでした。

ステージで演奏していた若者は、コントの中で一目で誰か分かる姿を少しずつ身につけていきます。

昔の体操が『8時だョ!全員集合』で武器になった

1969年に『8時だョ!全員集合』が始まると、ドリフはテレビコントの中心的な存在になっていきます。

ここで仲本さんの中学・高校時代が、思いがけない形でもう一度表舞台へ戻ってきました。

藤圭子との企画から始まった体操コント

体操を使ったコントのきっかけの一つになったのが、歌手の藤圭子さんを相手にした企画でした。

体操とは結びつきにくい人物に仲本さんが動きを教え、その失敗まで笑いになる形が受け、やがて体操を軸にしたコーナーが定着していきます。

大学進学とともに一度離れた体操が、十数年後には仲本工事という人物を代表する芸になりました。

鉄棒、跳び箱、マット運動などをコントへ取り込みながら、ゲストにも参加してもらう形へ広がっていきます。

ゲストの安全を考え、1時間かけて準備運動

テレビでは軽々と体を動かしているように見えましたが、本番前には念入りな準備がありました。

体操コントの日は出演者が昼ごろから集まり、約1時間かけて体を動かしてから本番に臨んでいたと仲本さんは明かしています。

「タレントさんに絶対ケガさせちゃいけない」

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できる技を見せるだけではなく、共演者がどこまで動けるかを確かめて内容を組んでいました。

「はい、ポーズ!」と体操キャラクターの定着

体操コントでは、動きを終えたあとに決める「はい、ポーズ!」もおなじみになりました。

仲本さんはラスベガスで見た筋肉自慢の出演者たちがポーズを取る姿から着想を得たと語っています。

黒縁メガネ、体操着、身軽な動き、最後のポーズまでそろい、若いころに競技として覚えた体操は完全にテレビ上のキャラクターへ変わりました。

競技成績を残した十代の経験と、コントを覚えた20代の経験が『全員集合』の舞台で重なりました。

前へ出るだけではないドリフでの役割

ドリフでは、いかりやさん、加藤さん、志村けんさんのように強く前へ出るメンバーがいる一方、仲本さんは場面によって位置を変えられる存在でした。

1970年に加藤さんが交通事故で仕事を休んだ際には、いかりやさんが仲本さんを代役に選び、加藤さんの役割を補ったこともあります。

体操をする回もあれば、楽器を持つ回もあり、相手によってツッコミにもボケ側にも回るため、特定の型だけで仕事をしていたわけではありません。

中学で体操、高校で音楽、大学でバンド、ドリフで譜面作りとコントを経験したことが、番組の中で役割を変えられる幅につながっていました。

ドリフの経験を抱えながら俳優・音楽へ活動を広げた晩年

『8時だョ!全員集合』は1985年に終了しましたが、それで仲本さんの仕事が終わったわけではありません。

若いころから持っていた音楽と、ドリフで身につけたコントや芝居の経験を使いながら、活動の場所を変えていきました。

『全員集合』終了後は俳優として活動

番組終了後はテレビドラマや舞台へ出演し、俳優としての仕事も増えていきます。

時代劇『水戸黄門』や『世にも奇妙な物語』、2時間ドラマなどにも出演し、毎週土曜日の生放送とは違う現場で芝居を続けました。

ドリフ時代に何度も設定の違う人物を演じてきた経験があり、コント番組終了後も「テレビに出るドリフの一員」だけに活動を限定していませんでした。

こぶ茶バンドなどで再び音楽へ

1999年には加藤茶さん、高木ブーさんとこぶ茶バンドを結成しました。

名前は仲本の「こ」、高木ブーの「ぶ」、加藤茶の「茶」を組み合わせたもので、3人は再び楽器を持ってステージに立つようになります。

学生時代から続いていた音楽は、ドリフがコント中心になった後も消えず、60代以降の活動にも残りました。

高木さんは後年、ボーカリストとしての仲本さんについて、ハーモニーを合わせやすい相手だったと語っています。

「仲本ほどやりやすい相手はいない。」

介護ポストセブン

いかりや長介との「ばか兄弟」を後年振り返る

ドリフ後期の仲本さんを語るうえで外せないコントの一つが、いかりやさんと演じた「ばか兄弟」です。

仲本さんが弟、いかりやさんが兄となり、弟の疑問に兄が間違った知識で答えて話が広がっていくため、単純なやり取りに見えて内容を深く作り込む必要がありました。

「実はあのコントが一番難しかった。」

文春オンライン

テーマを決めると、いかりやさんと新聞や資料を見ながら内容を拾い、稽古にも長い時間をかけていました。

若いころは父親を説得してくれたリーダーだったいかりやさんと、何十年も後には二人で細かくネタを練る関係になっていました。

YouTubeやドリフ企画にも出演した80代

70代以降も芸能活動を続け、2020年にはSNSやYouTubeを通じた発信にも取り組みました。

2022年3月には加藤茶さん、高木ブーさんとともに志村けんさんの墓参りへ出かけ、その様子を自身の公式Xに投稿しています。

同年7月5日には81歳の誕生日を迎え、記事冒頭に掲載した公式Xでも近影を公開していました。

10月14日には高木さんと群馬県高崎市で開催されていた「志村けんの大爆笑展」を訪れています。

80代になっても、学生時代から続く音楽とドリフの仲間との仕事は生活の中に残っていました。

2022年、81歳で死去

その数日後の2022年10月18日、仲本さんは横浜市内で交通事故に遭い、病院で治療を受けました。

所属事務所の発表によると、翌10月19日午後10時22分、急性硬膜下血腫のため81歳で亡くなりました。

中学生のころ、父親の店を手伝う生活の中で始めた体操とギターは、その後の仲本さんの人生で何度も形を変えて登場しました。

大学卒業後は就職するはずだった青年が、加藤茶さん、高木ブーさんと出会い、いかりや長介さんに背中を押されてドリフターズへ入り、音楽担当からコントの世界へ進みました。

そして晩年まで、体操、音楽、芝居、ドリフの仲間たちとの時間をそれぞれ手放さず活動を続けました。

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