人物プロフィール
坂上二郎さんといえば、萩本欽一さんとの「コント55号」で舞台を走り回り、「飛びます、飛びます」のギャグでも親しまれたコメディアンです。
テレビでは笑いを届ける一方、俳優として『夜明けの刑事』に主演し、歌手として「学校の先生」をヒットさせるなど、活動はお笑いだけにとどまりませんでした。
そんな坂上さんが若いころに目指していたのは、お笑い芸人ではなく歌手でした。
鹿児島から歌手になるため東京へ出た青年が、歌手の付き人、歌謡ショー、漫才、浅草の舞台を渡り歩き、30代になって萩本さんとコンビを組むまでには長い時間がかかっています。
坂上二郎さんがどんな少年時代を送り、なぜ歌手志望からコメディアンへ進み、萩本欽一さんとコント55号を結成することになったのか、その歩みを若いころから順番にたどります。
坂上二郎の生い立ちと家族|鹿児島と満州で過ごした少年時代
坂上二郎さんは1934年4月16日、鹿児島県鹿児島市に生まれました。
後年の華やかなテレビでの姿よりずっと前、坂上さんの少年時代に生活の中心にあったのは「笑い」よりも「歌」でした。
鹿児島市に生まれ、幼少期は満州で過ごす
鹿児島市で生まれた坂上さんは、幼少期の一時期を満州で過ごし、その後は鹿児島へ戻って成長しました。
まだテレビが家庭に普及する前の世代で、戦後の鹿児島で小学生だったころから歌うことが好きだったと伝えられています。
のちに舞台で歌い、レコードを出し、俳優としても活動する坂上さんですが、このころはまだ芸能界との接点があったわけではありません。
歌うことが大好きだった少年が中学校を卒業
坂上さん自身が2002年のトークショーで振り返った半生では、小学生のころから中学校を卒業するまで歌ばかり歌っていたという少年時代が紹介されています。
卒業した学校は鹿児島市立清水中学校とされ、中学生になるころには歌手になることを夢見るようになっていました。
この時点では、人前で笑いを取る仕事より、歌をうたうことのほうが坂上さんにとって身近な芸能への入口でした。
坂上二郎さんの芸能人生は、お笑いへの憧れではなく歌手への憧れから始まっています。
中学卒業後は地元の百貨店へ就職
中学校を卒業すると、そのまま芸能界へ入ったわけではなく、坂上さんは鹿児島市内の百貨店で働き始めました。
学校を出て働きながらも歌への気持ちは消えず、仕事とは別にのど自慢への挑戦を続けていきます。
百貨店員として生活していた青年が鹿児島を離れるきっかけになったのが、NHKのど自慢でした。
のど自慢をきっかけに歌手を目指して上京
坂上さんの人生が大きく動いたのは、10代の終わりごろです。
歌が好きという気持ちを趣味のままで終わらせず、のど自慢への挑戦を重ねたことで、東京へ向かう道が開いていきました。
何度も挑戦したのど自慢が東京へ出るきっかけに
2002年に坂上さん本人が語った半生の記録では、NHKのど自慢大会へ何度も挑戦し、1952年(昭和27年)に優勝したとされています。
翌1953年、坂上さんは歌手を目指して鹿児島から東京へ向かいました。
人物略歴にはのど自慢を1953年とするものもありますが、坂上さん自身が後年語った記録では1952年に優勝し、その翌年に上京したという順序になっています。
百貨店で働いていた10代の青年が、歌手になるため鹿児島を離れました。
知人もお金もない東京で、青木光一の付き人になる
上京したからといって、すぐに歌手として舞台へ立てたわけではありません。
坂上さんが2002年に振り返ったところでは、東京には頼れる知人も十分なお金もなく、まず住み込みの仕事をしながら歌手になる機会を探していました。
その後、人気歌手だった青木光一さんの付き人となり、全国を回る歌謡ショーに同行するようになります。
自分が主役として歌う場所ではありませんでしたが、歌手のすぐそばで舞台を準備し、各地を巡る生活に入ったことで、坂上さんは芸能の現場で働き始めました。
上京後の最初の仕事は、歌手としてではなく歌手を支える付き人でした。
歌謡ショーのコントへ駆り出され、笑いの仕事が始まる
当時の歌謡ショーは歌だけで構成されるものではなく、途中にコントなどの出し物が入ることもありました。
坂上さんは、そうしたコントを手伝ったことから舞台での演技を認められ、歌手とは違う方向から声がかかるようになります。
やがて須藤という人物に誘われ、「ロックアンドロール」という名前で漫才を始めました。
歌手になろうとして東京へ出てきた坂上さんにとって、お笑いは最初から決めていた進路ではなく、歌謡ショーの現場で頼まれた仕事から少しずつ広がったものでした。
歌手志望から芸人へ|漫才と「安藤ロール」時代
歌謡ショーのコントから漫才へ進んだものの、ここでもすぐに仕事が増えたわけではありません。
坂上さんは司会や漫才、歌謡ショーを行き来しながら、東京で芸能の仕事を続けていきます。
「ロックアンドロール」で漫才を始めるも仕事は少なかった
漫才を始めた「ロックアンドロール」時代は、仕事が十分にある状況ではありませんでした。
しばらくすると相方は司会の仕事へ移り、コンビでの活動は続かなくなります。
坂上さんはこの時期、「安藤ロール」という芸名でも活動し、1957年にはこの名前で東宝名人会に出演した記録が残っています。
歌手志望で上京してから数年がたっていましたが、まだ後のコント55号につながる形はできていませんでした。
島倉千代子の歌謡ショーを経てコメディアンへの道へ
漫才の相方が離れた後、坂上さんは島倉千代子さんの歌謡ショーを手伝うようになります。
歌手の付き人から始まり、歌謡ショーでのコント、漫才、司会と、表に出る役割は変わっても、長く歌の現場から離れていなかったことが坂上さんの若いころの特徴です。
その途中で坂上さんにコメディアンへの転向を勧めた人物が、浅草フランス座で座長格を務めていた阿部昇二さんでした。
阿部さんの紹介によって、坂上さんは浅草フランス座へ入ることになります。
浅草フランス座でコメディアンとして舞台に立つ
浅草フランス座は、渥美清さんや東八郎さんら多くの芸人を送り出した浅草の舞台です。
坂上さんは安藤ロールとして舞台へ立ち、歌手や司会とは違い、客をその場で笑わせるコメディアンとして経験を重ねました。
決められた台本をこなすだけでなく、相手の出方を見ながら返す軽演劇の舞台で過ごした時間が、後にコント55号で見せる即興的な掛け合いへつながっていきます。
そして浅草で知り合ったのが、後に長い相方となる萩本欽一さんでした。
萩本欽一との出会いからコント55号結成へ
坂上さんと萩本さんは、最初から気の合う二人としてコンビを組んだわけではありません。
同じ浅草の舞台で顔を合わせていたころは、むしろ舞台上で互いに張り合う関係でした。
浅草で出会った二人は最初から仲良しではなかった
萩本さんは東洋劇場からフランス座の舞台へ入るようになり、すでに現場で経験を積んでいた坂上さんと一緒にコントをするようになりました。
2026年に萩本さんが当時を振り返った口述では、二人は同じ舞台でかなりやり合ったと語られています。
「実はフランス座で結構やりあったんですよ」
日刊ゲンダイDIGITAL
後のテレビでは萩本さんが坂上さんへ次々と無茶を仕掛ける姿が知られていますが、コンビになる前から二人の間には、相手の出方に反応して舞台を動かす関係がありました。
結婚して家庭を持つ中、キャバレー司会から「最後の勝負」へ
坂上さんは1958年に結婚し、妻の瑶子さんと家庭を築いていました。
コント55号を組む直前はキャバレーで司会をしており、萩本さんの2026年の回想では、妻には子どもが生まれる時期でもあったといいます。
そこで坂上さんは、もう一度芸人として勝負することを妻へ伝えました。
「最後の勝負をさせてくれ」
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失敗すれば芸能の仕事を離れるつもりで臨んだ勝負が、コント55号結成へ向かいました。
1966年、坂上二郎から萩本欽一へ声をかける
1966年、坂上さんと萩本さんは一緒に舞台へ立つようになります。
萩本さんの近年の回想では、熱海で一人コント「机」を考えて浅草へ戻ったころ、坂上さんから電話がありました。
「遊びに来ない?」
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萩本さんが「机」のアイデアを説明すると、坂上さんは一人で机の脚を切って自分で倒れるより、誰かに切られたほうが面白いのではないかと返しました。
そこで萩本さんが坂上さんへ相手役を頼み、二人で舞台へ立つことになります。
最初から「コント55号」という完成したコンビを作ったのではなく、まず一つのコントを二人でやるところから始まりました。
喫茶店ブロンディでボケとツッコミを入れ替える
最初の役割は、後に知られるコント55号とは逆でした。
坂上さんがツッコミ、萩本さんがボケを担当して舞台へ立ちましたが、萩本さんによると2回ほど演じても思うように受けなかったといいます。
二人は浅草芸人が集まっていた純喫茶「ブロンディ」で向かい合い、役割について話しました。
萩本さんがボケとツッコミを入れ替える話を切り出そうとすると、坂上さんも同じことを考えていました。
「なんだ、おんなじ話?」「簡単だね」
日刊ゲンダイDIGITAL
坂上さんがボケ、萩本さんがツッコミへ替わると、舞台の反応は大きく変わりました。
萩本さんは後年、役割交換には放送作家・滝大作さんからの助言も影響していた可能性を明かしており、二人だけの思いつきと単純には言い切れない経緯も残っています。
客の少ない浅草の舞台からコント55号が売れるまで
役割を替えた二人は、浅草の舞台でコントを磨いていきます。
後に全国区の人気コンビとなるコント55号も、始まりは大勢の観客を前にしたテレビ番組ではありませんでした。
代表コント「机」はわずかな観客の幕前から始まった
萩本さんの2026年の回想では、代表作の一つとなった「机」は、客が10人ほどしかいないような状況で演じた幕前から始まったとされています。
講師役の坂上さんと、そこへちょっかいを出す萩本さんが掛け合う形から始まり、役割を入れ替えながら舞台で試していきました。
客席の反応を目の前で受け、その場で動きや間を変えられる浅草の舞台は、二人にとってコントを仕上げる場所になりました。
テレビで完成品を披露して突然売れたのではなく、少ない客の前で何度も試したコントが土台にありました。
萩本が仕掛け、坂上が受けるアドリブ型のコントが完成
コント55号の舞台では、萩本さんが次々と仕掛け、坂上さんが驚いたり逃げたりしながら受ける形が前面に出ていきました。
決まった台詞を静かに交わすのではなく、二人が舞台中を動き回り、その日の反応に合わせて展開が変わっていくこともありました。
歌謡ショーのコント、漫才、浅草フランス座で相手の動きに応じて演じてきた坂上さんは、萩本さんから何をされても受け止めて笑いへ変える側になっていきます。
コンビ名の「55号」については、王貞治さんが1964年に記録した55本塁打にちなむ説など複数の説明が残っており、萩本さん自身も後年、由来にはいくつかの話があったと振り返っています。
テレビ進出で人気が急上昇し「飛びます、飛びます」でも知られる存在へ
1968年にはフジテレビ系『お昼のゴールデンショー』へ出演し、コント55号の知名度は一気に上がっていきました。
萩本さんは当時を振り返り、番組が人気だったころには1日に約200通のファンレターが届いたと語っています。
同年には第6回ゴールデン・アロー賞特別賞も受賞し、浅草の舞台からテレビの人気コンビへ活動の場所が広がりました。
1969年に始まった日本テレビ系『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』では「野球拳」などが人気となり、テレビの中でも二人の勢いが続きます。
坂上さんの「飛びます、飛びます」も代表的なギャグとして長く知られ、後には片岡鶴太郎さんが坂上さんのものまねで披露するようになりました。
片岡さんは坂上さん本人と一緒に「飛びます、飛びます」を演じたこともあったと、坂上さんの死後に振り返っています。
歌手を目指して上京してから十数年を経て、坂上さんはコメディアンとして全国に知られる存在になりました。
歌手になる夢が「学校の先生」で再び形になる
コント55号で売れた後、坂上さんの仕事はコンビでのコントだけにはとどまりませんでした。
1970年代に入ると、少年時代から続いていた歌と、コメディアンになる前から経験してきた芝居の両方が仕事として前に出てきます。
1974年「学校の先生」が27.3万枚のヒット
1974年、坂上さんはシングル「学校の先生」を発表しました。
オリコンの記録では27.3万枚を売り上げるヒットとなり、コント55号の二郎さんとは別に歌手としても広く知られる作品になりました。
鹿児島で歌ばかり歌っていた少年は、歌手になるため東京へ出た後、お笑いの世界で先に成功し、40歳になった年に歌でも大きな結果を残しました。
上京の理由だった「歌」が、コント55号で人気者になった後にヒット曲として戻ってきました。
『夜明けの刑事』でコメディアンから俳優へ活動を広げる
同じ1974年には、TBS系ドラマ『夜明けの刑事』で主演を務めました。
坂上さんにとって初めての刑事役で、演じた鈴木刑事は洗練されたエリート型ではなく、庶民的で人情味のある人物として描かれています。
番組は全111話が制作され、その後も『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』へと刑事ドラマでの出演が続きました。
コントで萩本さんの無理難題に大きな動きで応じていた坂上さんは、テレビドラマでは事件を追う刑事を演じ、映画や舞台にも出演する俳優へ仕事の幅を広げていきます。
妻・瑶子さんとの家庭と、芸能の道へ進んだ子どもたち
家庭では、妻の瑶子さんとの間に一男二女をもうけました。
長女の有沙美希さんはSKDを経て女優となり、父・坂上さんと共演した経験もあります。
長男と次女も一時期芸能活動をしており、次女の亜樹さんは1980年代に女優として活動し、ドラマ『スクール☆ウォーズ』にも出演しました。
売れる前、坂上さんが「最後の勝負」に出る時期からそばにいた家族は、その後、子どもたち自身も芸能の仕事に関わるようになりました。
1989年にはUNICORNとの「デーゲーム」で再び歌う
坂上さんは「学校の先生」だけで歌手活動を終えたわけではありません。
1989年にはロックバンドUNICORNとの共演で「デーゲーム」を発表し、若い世代のミュージシャンとも仕事をしています。
歌手を目指した10代、コメディアンとして売れた30代、俳優・歌手として仕事を広げた40代以降と、坂上さんの活動は一つの分野だけに固定されませんでした。
脳梗塞から舞台復帰|晩年も萩本欽一と続いたコント55号
長くテレビや舞台で活動した坂上さんは、60代を過ぎても仕事を続けていましたが、2003年に大きな転機を迎えます。
脳梗塞で倒れ、左半身に障害が残る中でリハビリ生活に入りました。
2003年に脳梗塞で倒れ、翌年舞台へ復帰
2003年9月、坂上さんは脳梗塞で倒れました。
それまで舞台を動き回っていた坂上さんにとって、身体の自由が利かない状態からのリハビリが始まります。
萩本さんは坂上さんへ、車椅子でも舞台へ出るよう声をかけました。
「欽ちゃんに『車椅子でも舞台にでろ』と言われて頑張りました」
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リハビリを重ねた坂上さんは、2004年6月に舞台へ復帰しました。
脳梗塞で倒れてから約9か月後、再び観客の前へ戻っています。
2007年に脳卒中啓発イベントへ出演した際には、人前に出ることもリハビリになると話し、自身の経験を語りました。
2009年、浅草で萩本欽一とコメディ栄誉賞を受賞
2009年9月、坂上さんと萩本さんは「第2回したまちコメディ映画祭in台東」のクロージングセレモニーにそろって登場しました。
浅草で始まったコント55号は、長年の功績をたたえられ、二人そろってコメディ栄誉賞を受賞しています。
「二郎さん、コンビ組んで良かったね」
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萩本さんの言葉に、坂上さんは「はい、おかげさまで」と応じました。
授賞式が終わったと思うと坂上さんが早々にステージを離れ、萩本さんが「テレビでも舞台でも終わるとすぐ帰る人」と笑いに変える場面もあり、二人の掛け合いは晩年まで変わりませんでした。
歌手を目指して鹿児島から出てきた坂上さんが、芸人人生を始めた浅草で萩本さんと並んで表彰されました。
再発後も復帰を目指し、2011年3月10日に76歳で死去
2010年8月、坂上さんは脳梗塞を再発し、再び療養生活に入りました。
同年12月に萩本さんが見舞った際、「飛びます、飛びます、できる?」と声をかけると、坂上さんはベッドから身体を起こしてギャグで返したといいます。
「飛べませ~ん、飛べませ~ん」
スポニチ Sponichi Annex
帰ろうとした萩本さんを坂上さんが呼び止め、二人は握手を交わしました。
坂上さんはその後も舞台復帰を目指してリハビリを続けましたが、2011年3月10日午前9時40分、脳梗塞の再発により76歳で亡くなりました。
最期は栃木県内の病院で、妻の瑶子さんがそばにいました。
鹿児島を出たときの夢は歌手でしたが、その途中で笑いと出会い、坂上二郎という名前はコント55号とともに広く知られるようになりました。
歌謡ショーの裏側から始まった芸能生活は、浅草で萩本欽一さんと出会ったことで大きく動き、コント、歌、ドラマ、舞台へと広がっていきました。
そして晩年まで萩本さんとの掛け合いを残し、歌手になりたかった少年から始まった坂上二郎さんの歩みは、76年の生涯で幕を閉じました。












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