人物プロフィール
M-1グランプリとR-1ぐらんぷりの両方を制し、自作ゲーム「野田ゲー」の開発まで手がけるマヂカルラブリー・野田クリスタルさん。
現在は独特な漫才やゲーム制作、筋トレなど幅広い活動で知られていますが、お笑いの世界へ入ったのは高校1年生のころでした。
15歳でテレビのお笑い企画に優勝しながら、その後はコンビ解散や地下ライブ、郵便局で働く生活を何年も経験しています。
さらに、現在の相方・村上さんと出会ったころは順風満帆だったわけではなく、ピン芸人としてライブでスベり続けていた時期でした。
高校生で一度大きな注目を集めた少年が、なぜそこから長い時間をかけてM-1王者までたどり着いたのでしょうか。
野田クリスタルの生い立ちと家族|横浜・六ツ川で育った3人兄弟の末っ子
野田クリスタルさんは神奈川県横浜市南区六ツ川で生まれ育ちました。
地元のタウンニュースによると、六つ川台小学校から六ツ川中学校、六ツ川高校へ進み、子どものころから人前へ出ることが多い少年だったといいます。
公園を走り回り、教室では笑いを取りにいった小中学校時代
小さいころの野田さんは家にこもってゲームだけをしていたわけではなく、外ではかなり活発に遊んでいました。
地元紙の取材では、公園を走り回りながら遊び、本人は当時についてこんな言葉を残しています。
「いつも何かに登っていた」
タウンニュース
横浜市立六つ川台小学校から横浜市立六ツ川中学校へ進むと、学校でも前へ出るタイプだったそうです。
当時はダウンタウンの番組をよく見ており、テレビで見たことを教室でまねして周囲を笑わせていました。
野田さんがお笑いへ入った理由をたどると、高校生になって突然始まったというより、すでに小中学生のころから「人前で何かをする」時間が生活の中にありました。
3人兄弟の末っ子|父と兄のゲーム機に囲まれて育つ
家では3人兄弟の末っ子として育ちました。
兄がいたことから、物心がついたころにはすでに家にゲーム機があり、本人にとってゲームは特別な趣味というより日常の中にあるものでした。
父親もゲーム好きで、特に『信長の野望』シリーズを好んでいたため、野田さん自身も周囲の子どもたちとは少し違うゲームへ夢中になった時期があります。
友人たちが『ポケットモンスター』で遊ぶ中、父親の影響で『信長の野望 ゲームボーイ版』にも熱中していました。
現在の「ゲーム好き芸人」という姿は、大人になって仕事のために作られたものではありません。
幼稚園前の30分で『FFIII』、小学生ではゲーム作りにも挑戦
野田さんが最初に本格的に遊んだゲームとして挙げているのが『ファイナルファンタジーIII』です。
幼稚園へ行く前、毎朝30分だけ兄のゲーム機を使わせてもらい、その短い時間で少しずつ物語を進めていました。
長時間の攻略が必要な終盤は幼稚園児のころには突破できず、最終的にエンディングまでたどり着いたのは中学生になってからだったそうです。
後に芸名へ加えた「クリスタル」についても、『ファイナルファンタジー』シリーズの象徴であるクリスタルとのつながりを本人が明かしています。
ゲームを遊ぶだけでなく、小学生になると『RPGツクール』を使って自分でゲームを作ろうとしました。
『バイオハザード』のようなゲームを作りたいと考え、ゾンビに追いかけられて銃で倒す内容をRPGツクール上で工夫し、短いながら実際に完成まで持っていっています。
遊ぶ側だった小学生が、すでに「自分でゲームを作ってみる」というところまで進んでいました。
中学3年で「面白いと噂の同級生」と初めて漫才へ
中学校では人を笑わせるだけでなく、実際にコンビを組んで漫才をするところまで進みます。
中学3年生のころ、別のクラスで「面白い」と評判だった生徒と組み、学校行事で漫才を披露しました。
まだプロを目指して本格的に活動していた時期ではありませんが、翌年に起きる大きな出来事の直前には、すでに学校の中で漫才を経験していたことになります。
高校1年で「学校へ行こう!」優勝|15歳で芸人への道が一気に開く
中学校を卒業した野田さんは、地元の神奈川県立六ツ川高校へ進学しました。
現在の神奈川県立横浜国際高校につながる学校で、高校1年生だった2002年にそれまでの生活を大きく変える出来事が起こります。
同級生と「セールスコント」を結成し、お笑いインターハイへ
高校へ入ると、同級生と「セールスコント」というコンビを組みました。
2人が挑戦したのが、当時人気だったTBS系『学校へ行こう!』の企画「お笑いインターハイ」です。
野田さんは後年、番組へ応募した理由の一つとして、当時人気だったモーニング娘。の辻希美さんと加護亜依さんに会いたかったことまで明かしています。
ところが、軽い気持ちも交じっていた応募から予想以上の結果が待っていました。
セールスコントは約5000人規模の参加者の中を勝ち抜き、お笑いインターハイで優勝します。
約5000人の頂点へ|テレビ出演後に学校生活が一変
15歳でテレビのお笑い企画を制したことで、高校での立ち位置も大きく変わりました。
番組で注目される以前から人前へ出るタイプでしたが、テレビ出演後は自分を「プロ」、学校の友人を「素人」と見るほど意識が変わっていったことを『しくじり先生』で振り返っています。
高校行事への接し方まで変化し、地下ライブへ出ることを優先することもありました。
このころの野田さんを後に間近で見ることになるモダンタイムスも、テレビで注目された高校生が学校行事より地下ライブへ足を運んでいたことを覚えています。
テレビで一度結果を出した高校生が、そのまま芸能界の華やかな場所へ進むのではなく、インディーズのお笑いライブへ入り込んでいきました。
NSCへ行かずネットで相方探し、16歳で「役満」を結成
セールスコントの活動が終わると、野田さんは新しい相方を探します。
吉本興業には芸人養成所のNSCがありますが、野田さんはこの時期にNSCへ入る道を選びませんでした。
インターネットの相方募集掲示板を使い、新しい相方と「役満」を結成します。
まだ16歳ほどでしたが、役満としてライブへ出演し、オーディションを経て吉本興業で活動するようになりました。
高校へ通いながら、放課後や休日には同世代の学生ではなく年上の芸人たちがいるライブの世界へ入っていく生活になります。
自分のネタがウケなくなり、最初の大きな挫折へ
役満は最初から失敗ばかりだったわけではなく、活動初期はある程度手応えもありました。
ところが次第に野田さんが書くネタがウケなくなり、相方がネタを担当するようになります。
コンビ内の力関係まで変化し、本人は後年、この時期についてかなり強い言葉で振り返っています。
「お笑いをやっていて、この時が一番嫌だった」
テレ朝POST
『学校へ行こう!』では一気に注目されたものの、プロのライブでは自分のネタが思うように通用しない時間が始まっていました。
コンビ解散とピン芸人時代|高校卒業後は郵便局で働きながら地下ライブへ
役満は約2年で解散し、野田さんは再び相方を探しました。
ここから現在のマヂカルラブリーへ進むまでにも、もう一つコンビとピン芸人の時期があります。
「役満」解散後もコンビを組み直し、やがてピン活動へ
役満の次に組んだコンビが「アンビシャス」でした。
再びインターネットで相方を探して結成しましたが、こちらは長続きせず約3か月で解散しています。
テレビ朝日系『しくじり先生』では、野田さんがマヂカルラブリー以前にコンビ解散を3回経験したことも紹介されています。
相方が見つからなくなると、今度はピン芸人・野田クリスタルとして一人で舞台へ立ち始めました。
ここで現在まで使う「野田クリスタル」という名前と、一人で自分の好きなネタを突き詰める時間が重なっていきます。
高校卒業後は朝8時から郵便局、芸人との二重生活を7年間
高校卒業後、野田さんは大学へ進むのではなく、芸人活動を続けながら郵便局の非常勤職員として働きました。
郵便局を選んだのは、高校1年生のころから長期休暇のたびに働いており、すでに仕事の流れを知っていたからです。
勤務時間はおおむね朝8時から午後3時ごろで、本人にとってはそれまで学校へ通っていた時間が仕事へ変わったような感覚だったといいます。
郵便物の量によって忙しさが毎日変わる点も、飽きやすい自分には合っていたそうです。
この生活を約7年間続けました。
ただし、郵便局員になること自体を将来の目標にしていたわけではありません。
「いかにバイトを辞められるか」が当時のミッションでした。
スタジオパーソル
高校生でテレビ企画に優勝したあとも、芸人だけで生活できるまでには郵便局で働く長い時間がありました。
中野の地下ライブで「ガムテープ男」など独自のピンネタを披露
郵便局で働く一方、芸人としてはインディーズライブへ出演していました。
特に重要な場所の一つが、東京・中野にあるStudio twlです。
ピン芸人時代は一般的な漫談だけではなく、ミュージカル調に歌い踊るネタなど、自分の世界観を前面へ出したネタを試していました。
当時の映像には、パンツ一丁になって体へガムテープを巻き、舞台を転がるように動き回る「ガムテープ男」のネタも残っています。
分かりやすく大勢の客を笑わせるタイプとはかなり離れたネタで、ライブではスベることも珍しくありませんでした。
しかし、このころのネタを客席から見ていた人物が、後に芸人人生を大きく変えることになります。
モダンタイムスが覚えていた、坊主頭とヨレヨレのスーツ姿
地下ライブ時代の野田さんを高校生のころから知っているのが、お笑いコンビモダンタイムスです。
文春オンラインのインタビューで、初めて出会ったのは2003年ごろで、野田さんはまだ15〜16歳ほどだったと振り返っています。
当時は痩せた体形に坊主頭、学生なのに使い込んだスーツ姿で、周囲へ強い警戒心を見せるような雰囲気だったそうです。
「本当に『誰も信用してない』って感じでした」
文春オンライン
テレビ出演を経験した高校生が、誰もが知る舞台ではなく、客席との距離が近い地下ライブへ何度も通っていました。
村上との出会いとマヂカルラブリー結成|スベっていた野田をなぜ選んだのか
ピン芸人としてライブに立っていた野田さんの前に現れたのが、現在の相方村上さんでした。
村上さんは当時、法政大学のお笑いサークルで活動し、大学お笑いの大会でも結果を残していた学生芸人でした。
村上の第一印象は「クソスベってるヤツ」
村上さんが最初に野田さんのライブを見たとき、いきなり「この人と組みたい」と思ったわけではありません。
当時の印象について後年、かなり率直に話しています。
「最初はクソスベってるヤツって感じですかね」
entax
ところが別の日に再びStudio twlで野田さんを見ると、村上さんの受け止め方が変わります。
客から最大限の笑いを取ることだけではなく、自分が見せたいものを舞台に出しているところに面白さを感じたのです。
村上さんはその魅力を短く「作品感」と表現しています。
「作品感」に惹かれ、ライブ後の野田へ村上から声をかける
2人がコンビを組むことになる場面も具体的に残っています。
Studio twlでライブを終えた野田さんは、会場の外で自分のホームページのURLを書いたチラシを配っていました。
そこへ村上さんが近づき、コンビを組みたいと直接声をかけます。
「コンビ組みたいんですけど、お願いできますか?」
entax
売れている野田さんへ村上さんが近づいたのではなく、ピン芸人としてスベることも多かった時期に声をかけています。
長く相方探しを続けていた野田さんも申し出を受け、2人で活動することになりました。
2007年2月にマヂカルラブリー結成、空き教室でネタを磨く
吉本興業の公式プロフィールでは、マヂカルラブリーの結成は2007年2月とされています。
村上さんは当時まだ法政大学に在籍しており、2人は大学内の空いている教室を使ってネタ作りや練習をすることもありました。
ピン時代に野田さんが一人で見せていた独特な世界へ、村上さんのツッコミが加わる形もコンビの持ち味になっていきます。
野田さんが一人で突き詰めていたものを、村上さんが客へ伝わる形にする関係が少しずつできていきました。
結成翌年にM-1準決勝へ、それでもブレイクまでは遠かった
結成したばかりのマヂカルラブリーは若手ライブで結果を出し始めます。
2007年のM-1グランプリでは3回戦まで進み、翌2008年には準決勝へ進出しました。
コンビ結成から比較的早い段階で賞レースの上位へ進んでいましたが、ここから全国的に知られるまでにはまだ長い時間が残っています。
仕事が少ない若手時代と大宮への移動|マヂカルラブリーが続けた試行錯誤
2008年にM-1準決勝まで進んでも、仕事だけで安定して生活できる状態にはなりませんでした。
さらに、2人が大きな目標にしていたM-1グランプリは2010年大会を最後に一度終了します。
M-1終了後は「1カ月に2回しか仕事がない」時期も
マヂカルラブリーは、ものまねや特技でテレビへ出るより、自分たちのネタで評価されたいという考えを強く持っていました。
ところがM-1がなくなったあともテレビで大きく売れるきっかけはつかめず、後輩が次々と先に知られていきます。
『しくじり先生』では、当時について1カ月に2回ほどしか仕事がない時期もあったことを明かしています。
高校1年から芸人活動を始めていた野田さんにとって、すでに何年もお笑いを続けた後の停滞でした。
一方で、本人は後のインタビューで、地下ライブ時代から売れること自体を避けていたわけではなく、売れて仕事が増えたほうが経験を積めると考えていたことも話しています。
漫才以外でも笑いを探し、独学のプログラミングが新しい武器に
仕事が少なかった時期にも、子どものころから好きだったゲームは生活から離れませんでした。
高校卒業後にはPCゲームへも深くのめり込み、郵便局で働く時間以外をオンラインゲームへ費やすような時期もありました。
その後はプログラミングを独学し、自分で遊べるゲームを作るようになります。
小学生のころにRPGツクールで短いゲームを完成させていた少年が、芸人になってから今度はプログラムを書いてゲームを作るところまで進みました。
ゲーム制作とお笑いは別々に存在するように見えますが、野田さん自身はゲームを作る際にも芸人として培った感覚を使っていると話しています。
「お笑い芸人としての経験があったからこそ、ゲームも作れた」
Real Sound Tech
ライブのコーナーを考えるように、「この流れならどうボケるか」を想像する感覚をゲームにも持ち込んでいます。
2014年、大宮ラクーンよしもと劇場へ移り「覚悟が決まった」
長い停滞の中で大きな場所になったのが大宮です。
2014年に大宮ラクーンよしもと劇場がオープンすると、マヂカルラブリーも同劇場へ出演するようになりました。
東京の中心から離れた大宮へ活動の重心が移ったことを、当時は本人たちも「都落ち」のように受け止めていたといいます。
それでも後年、野田さんがStudio twlなど若手時代の場所を巡った際、大宮について残した言葉ははっきりしています。
「大宮で覚悟決まりましたね」
entax
仕事が少ない時期に与えられた大宮の舞台で、何度も客の前へ立てる環境ができました。
寄席や劇場で幅広い客に届く漫才を模索
地下ライブでは自分の好きなものを強く押し出していた野田さんですが、M-1のような競技ではどうすれば伝わるかも考えるようになっていきます。
大宮では自主ライブとは違う客層の前にも立ち、舞台の回数を重ねました。
独特なネタそのものを捨てるのではなく、より多くの人へ伝える方法を試し続けた時期でした。
M-1 2017最下位からの3年間|R-1とM-1を制するまで
M-1グランプリが2015年に復活すると、マヂカルラブリーにも再び大きな目標ができます。
そして2017年、結成10年を迎えた2人が初めて決勝へ進みました。
初のM-1決勝は10位|「もう漫才できない」と落ち込んだ夜
M-1グランプリ2017の決勝で、マヂカルラブリーは607点。
M-1公式記録では10組中10位となりました。
中学生のころから憧れていた松本人志さんが審査員席にいる舞台へ初めて立ったものの、本人たちが望んだ結果には届きませんでした。
村上さんによると、楽屋へ戻った野田さんはかなり落ち込み、漫才を続けられるのかというところまで考えていました。
ただし、この最下位は仕事が減る出来事にはなりませんでした。
野田さんは後年、2017年のM-1決勝で最下位になった後から仕事が増え、そこからようやく芸人の仕事だけで食べられるようになったと話しています。
15歳で芸人活動を始めてから、およそ十数年が経っていました。
千鳥の「変えるな」に背中を押され、現在のスタイルを継続
2017年の決勝後、2人は漫才をやめてコントへ軸足を移すことまで考えました。
そこで声をかけたのが千鳥の2人でした。
「変えるな、変えるな。そのままやれ」
テレ朝POST
マヂカルラブリーは、それまで作ってきたものを全面的に捨てることなく再びネタを磨いていきました。
2018年にはキングオブコントでも決勝へ進出し、漫才だけに限定されない2人の芸が賞レースでも結果へつながっていきます。
自作ゲームのネタでR-1 2020優勝も、直後に仕事の9割が消える
2020年3月8日、野田さんは一人芸の大会R-1ぐらんぷり2020へ決勝進出しました。
舞台で使ったのは、自分で作ったゲームを操作しながら展開するネタです。
幼稚園のころから遊んできたゲーム、小学生で挑戦したゲーム作り、芸人になってから独学したプログラミングが、ここで賞レースのネタとして同じ場所へ集まりました。
野田クリスタルさんはR-1ぐらんぷり2020で優勝し、第18代王者となります。
ところが、優勝直後から新型コロナウイルスの感染が拡大し、テレビ番組の収録や舞台が次々と止まりました。
本人によれば、優勝後に入った出演オファーも含めて約9割の仕事がなくなったといいます。
優勝賞金500万円について聞かれた際には、この先仕事があるか分からないため生活費にすると答える状況でした。
3年ぶりのM-1決勝で2020年王者へ
R-1優勝から約9か月後、マヂカルラブリーはM-1グランプリ2020で3年ぶりに決勝へ戻ってきました。
ファーストラウンドでは649点を獲得し2位で最終決戦へ進出します。
最終決戦ではおいでやすこが、見取り図と争い、審査員7人のうち3票を得て優勝しました。
2017年に同じ決勝で10位だったコンビが、3年後にはM-1グランプリ第16代王者になりました。
優勝直後、野田さんはM-1公式の決勝リポートにこんな言葉を残しています。
「最下位を取っても優勝できるので、皆さん諦めないでください」
M-1グランプリ公式サイト
高校1年生だった2002年から数えると、最初にテレビのお笑い企画で優勝してから18年ほどが経っていました。
子どものころの「好き」が仕事へ|野田ゲーとクリスタルジムにつながる現在
M-1優勝後はテレビ出演が大きく増えましたが、野田さんの活動はテレビタレントだけには収まりませんでした。
昔から続いてきたゲームと、売れる前から取り組んできた筋トレが、それぞれ別の仕事へ広がっています。
幼少期から続いたゲーム好きが「野田ゲー」という第二の仕事に
2021年にはNintendo Switch向けに『スーパー野田ゲーPARTY』を発売し、その後も野田ゲーシリーズの制作を続けています。
ゲーム制作について本人は、自分の本職をゲームクリエイターだと置き換えているわけではありません。
「ゲームは『第2の武器』」
Real Sound Tech
2025年には生成AIを使ったゲーム制作にも取り組み、2026年になっても新しい技術へ触れながらゲームを作り続けています。
幼稚園前の30分から始まったゲームとの付き合いは、遊ぶことから作ることへ変化し、そのまま現在まで続いています。
テレビ・舞台・ラジオに加え、ゲームとジムへ活動が広がる現在
筋トレの分野では、2021年に野田さん発案の「クリスタルジム」がオープンしました。
吉本興業の芸人を中心とするトレーナーが指導するジムとして活動を続け、2026年にもクリスタルジムのイベントが開催されています。
コンビとしては漫才やテレビ出演を続けるほか、ニッポン放送の『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0』も2026年現在放送されています。
六ツ川で人を笑わせていた少年が、高校1年生でお笑いの世界へ入り、コンビ解散や地下ライブ、郵便局勤務を経て村上さんと出会いました。
15歳で一度つかんだテレビでの優勝から18年ほどを経て、2020年にはR-1とM-1の両方で頂点に立っています。
そして現在も、漫才を続けながら、子どものころから好きだったゲームや後年夢中になった筋トレまで、自分が長く触れてきたものを仕事の中へ持ち込んでいます。












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