宇野慎太郎の生い立ち|内気だった高校時代から青学お笑いサークル、さすらいラビー結成まで

人物プロフィール

生年月日
1991年12月17日
身長
159cm
血液型
A型
出身地
東京都 小平市
コンビ・グループ名
さすらいラビー
相方・メンバー
中田和伸
結成年
2014年
所属事務所
太田プロダクション
芸人活動開始年
2014年
養成所・スクール
太田プロエンタテイメントカレッジ 8期

お笑いコンビ「さすらいラビー」で活動する宇野慎太郎さんは、身長159cmの宇野さんと185cmの中田和伸さんという見た目のコントラストも印象に残る芸人です。

ライブでは漫才とコントの両方に取り組み、2026年7月には結成以来初となる単独ライブ「ヒトバカ」を開催するまでになりました。

ところが、宇野さんは学生時代から人前に出るタイプだったわけではなく、高校時代は休み時間に一人でネタを書き、深夜ラジオを聴いて過ごしていたといいます。

そんな高校生が大学のお笑いサークルで仲間を見つけ、別の大学に通っていた中田さんと出会い、やがて就職ではなく芸人になる道を選びました。

宇野慎太郎さんがどんな家庭や学生生活の中で育ち、どこでお笑いと出会い、どのように現在のさすらいラビーへたどり着いたのかを、昔から順番にたどっていきます。

宇野慎太郎の生い立ちと家族|小平で育った双子の兄

宇野慎太郎さんは1991年12月17日生まれ、東京都小平市出身です。

現在の太田プロダクション公式プロフィールでは青山学院大学理工学部卒と紹介されていますが、そのずっと前から宇野さんの生活の中にはテレビのお笑いがありました。

東京都小平市で育ち、双子の弟と過ごした少年時代

宇野さんは三兄弟で、本人が公式Xで公開している兄弟写真には憲太郎さん、慎太郎さん、裕太郎さんの3人が並んでいます。

裕太郎さんについては宇野さん自身が「双子の弟」と紹介しており、慎太郎さんは双子の兄にあたります。

父親や母親の職業など細かな家庭情報は広く公表されていませんが、後年の本人インタビューには、学校生活を心配する母親や、就職活動を始めた双子の弟と自分を比べる家での出来事が登場します。

宇野さんの家族は、後に芸人になるか就職するか迷った時期にも重要な存在として登場することになります。

中学でM-1や『笑いの金メダル』に夢中になる

宇野さんがお笑い芸人を格好いいと思うようになったのは中学生のころでした。

当時はお笑いブームの真っただ中で、本人は『M-1グランプリ』や『笑いの金メダル』を見ていたと話しています。

テレビで見る芸人への憧れは中学時代にはすでに生まれていましたが、この時点ですぐ芸人を目指して誰かとコンビを組んでいたわけではありません。

後年には中学時代の卒業文集も自身のXで公開しており、現在の舞台上の姿とは違う、地元で過ごしていたころの記録も残っています。

お笑いを好きになった宇野さんは、高校へ進むと見るだけではなく、自分でネタを書くようになっていきました。

内気だった高校時代|休み時間に一人でネタを書いていた

中学時代に芸人へ憧れを持った一方、高校時代の宇野さんはクラスの中心で笑いを取るような生徒ではありませんでした。

むしろ本人が後年振り返っているのは、友人がほとんどいない中でお笑いへ向かっていた姿です。

友達が少ない中、ネタ作りと深夜ラジオへ向かった

高校生になった宇野さんは、休み時間になると一人でネタを書き、家では深夜ラジオを聴いていました。

教室で友人とコンビを組んで人前に立つよりも、頭の中で笑いを考え、ノートにネタを書いている時間のほうが身近だったようです。

本人は当時の自分を「お笑いが好きな内気な少年」と表現しています。

中学時代にテレビで見ていたお笑いは、高校になると「自分で笑いを考える」という行動へ少しずつ変わっていました。

ただし、このころにはまだ人前に出るための場所も、一緒にお笑いをする仲間も見つかっていませんでした。

「学校が楽しい」の一言に母が涙を流した

高校時代の宇野さんについては、家族との出来事も残っています。

友人がほとんどいなかったため母親から学校生活を心配されており、宇野さんがあるとき「学校が楽しい」と話すと、母親が泣いてしまったほどだったそうです。

それほど家では学校での様子を気に掛けられていた一方、宇野さん自身のお笑いへの興味は途切れませんでした。

高校卒業後に進学した大学で、その状況は大きく変わります。

青山学院大学で初めてお笑い仲間ができる

高校を卒業した宇野さんは青山学院大学理工学部へ進学しました。

そこで見つけたのが、大学のお笑いサークル「ナショグルお笑い愛好会」でした。

ナショグルの新歓ライブを見て自分も舞台へ

宇野さんはナショグルの新歓ライブを見に行きましたが、そこで目にした出演者たちは、高校時代の宇野さんが想像していたような明るい人気者ばかりではありませんでした。

本人の目には、少し暗そうに見える学生たちがステージへ出て面白いことをし、客席から笑いを取っているように映りました。

「暗い僕でもやっていいのかな」

ワラパー

高校まで一人でネタを書いていた宇野さんが、見る側からステージへ出る側へ動き始めた瞬間でした。

サークルに入ると、それまでほとんどいなかったというお笑い仲間が一気に増えていきます。

宇野さんにとって大学お笑いは、初めて「好きなお笑いを人と一緒にできる場所」になりました。

「ちゃらいな」では全ネタを書き、学生ライブへ出演

大学時代、現在の中田さんと組む前の宇野さんは「ちゃらいな」というコンビで活動していました。

ママタルトの大鶴肥満さんは、大学1、2年生が参加するバトルライブ「カラフルパレット」に、ちゃらいな時代の宇野さんが出ていたことを覚えています。

当時の相方は日本語がまだ流暢ではなく、その特徴を生かす形で宇野さんが漫才を組み立てていました。

のちに相方となる中田さんもこの時期の宇野さんを見ており、相方の持ち味を生かしながら緻密に漫才を構成する「ブレーン」「司令塔」という印象を持っていたと話しています。

「僕が全部書いていました。」

TVガイドWeb

高校の休み時間に一人で書いていたネタは、大学では実際に相方が演じ、客席から笑いを取るための漫才へ変わっていました。

ガクらと食堂の“サー席”に集まった大学生活

ナショグルでは、現在の真空ジェシカ・ガクさんが宇野さんの1学年上にいました。

二人は学生時代から親しく、宇野さんは授業がない日にも大学へ行き、食堂にあったサークルのたまり場、通称「サー席」で仲間たちと過ごしていたといいます。

通常なら3年生の夏ごろから就職活動が本格化し、上級生は部会やサー席へあまり来なくなる文化がありました。

ところが宇野さんの学年は、4年生になっても卒業直前まで多くのメンバーがサー席に残っていました。

宇野さんによれば同学年の男性は10人ほどいましたが、卒業と同時に就職したのは1、2人ほどで、芸人になる人や留年する人など、それぞれ一般的な就職とは違う道へ進んでいきました。

高校時代にはほとんど友人がいなかった宇野さんが、大学では授業がなくても会いに行くほどのお笑い仲間に囲まれていました。

その大学お笑いのつながりの中で、一橋大学のお笑いサークルにいた中田和伸さんとも出会います。

中田和伸との出会い|予選落ちからさすらいラビー結成へ

宇野さんと中田さんは同じ大学の同級生ではありません。

青山学院大学の宇野さんと、一橋大学でお笑いをしていた中田さんが、大学を越えた学生お笑いのライブや大会で互いの存在を知っていきました。

互いの旧コンビを見て感じていた第一印象

宇野さんが「ちゃらいな」で活動していたころ、中田さんは「このよの」という別のコンビを組んでいました。

中田さんは宇野さんを、ネタを緻密に組み立てて相方を生かす人として見ていました。

一方の宇野さんも、中田さんについて「面白いらしい」という評判を先に聞いていました。

大会で実際に中田さんの漫才を見ると、見た瞬間からボケの人だと分かる存在感があり、同学年にこれほどはっきりボケて笑いを取る人がいるのかと驚いたそうです。

まだコンビを組んでいない時期から、二人は互いの「自分にはない部分」をすでに認識していました。

二人とも学生大会で落ち、結果発表の日にSkype

大学3年生になるころ、学生芸人にとって大きな意味を持っていた「わらいを愛する学生芸人No.1決定戦」がありました。

当時はその大会で結果を残すとプロへの道が見えやすくなるという空気があり、宇野さんも中田さんも、それぞれ別のコンビで出場します。

しかし結果は、二人とも予選敗退でした。

結果が発表された日、宇野さんと中田さんはSkypeで話し、「なぜ自分たちが落ちなければならないのか」と悔しさをぶつけ合いました。

どちらか一人でも決勝へ進んでいれば、さすらいラビーは生まれていなかった可能性があります。

宇野さん自身も、二人とも落ちたことが大きかったと振り返っています。

元相方が別の進路へ進む中、互いに声を掛け合って結成

ちょうど同じころ、中田さんの当時の相方は大学院へ、宇野さんの当時の相方は就職へ進むことになっていました。

宇野さんと中田さん自身も、お笑いを続けたい気持ちと就職を考えなければならない現実の間で揺れていました。

そこで二人は、新しいコンビを組むことになります。

「どっちかが誘うとかではなかったです。」

TVガイドWeb

宇野さんから中田さんを誘ったわけでも、中田さんから一方的に誘ったわけでもなく、「やってみよう」と互いに声を掛け合って組んだコンビでした。

そして最初から、遊びの学生コンビではなくプロを目指すことを前提として活動することを決めます。

「さすらい」と「ラビー」を合わせ、結成直後に学生大会優勝

コンビ名も、当時よく使っていたSkype上で決まりました。

二人で単語を一つずつ出して組み合わせることにし、中田さんが出したのが「さすらい」でした。

宇野さんは「メロン」と、目の前で使っていたNECのパソコン「LAVIE」から思いついた「ラビー」の2案を送っています。

「さすらいメロン」と「さすらいラビー」を比べ、最終的に現在の「さすらいラビー」が残りました。

二人が学生コンビとして動き始めたのは大学3年生になるころの2012年で、同年夏には関東大学生漫才グランプリで優勝します。

組んで間もない時期の優勝は、二人がプロを目指すうえで「自分たちでも勝てる」という自信になりました。

翌2013年には第11回笑樂祭でも優勝しています。

なお、学生時代からコンビとして活動していた一方、M-1グランプリ公式プロフィールでは結成年が2014年4月1日とされています。

そのため、学生コンビとしては2012年ごろから活動し、公式プロフィール上では2014年結成と整理すると、養成所入学年やプロとしての活動開始時期との混同を避けられます。

就職か芸人か|双子の弟が就活する横で揺れた大学4年

学生大会で結果を残し、中田さんとのコンビにも手応えが出ていましたが、大学を卒業すれば生活は学生のままではいられません。

宇野さんにも、芸人になるか一般企業へ就職するかを決める時期がやってきました。

一社受けては落ちる“就活ごっこ”を続けた理由

宇野さんには双子の弟・裕太郎さんがいます。

大学4年生になると、弟は毎週のように企業説明会へ行く一方、宇野さんは家でテレビを見ていることが多くなり、家の中でもその違いが目立つようになりました。

そこで宇野さんも就職活動を始めますが、一社受けては結果を待ち、落ちるとまた一社受けるというゆっくりした進み方でした。

中田さんからは後に「就活ごっこ」と言われ、宇野さん自身もその表現を認めています。

就活を進めながらも、心の中ではプロの芸人になりたい気持ちが次第に大きくなっていました。

就職できないから芸人になると思われたくなかった

宇野さんが就活を完全にやめられなかった背景には、家族へ芸人になることを伝える難しさがありました。

中田さんは一社から内定を得たあとも芸人を選ぶ気持ちを固め、宇野さんへ「プロに行こう」と話していました。

一方の宇野さんは、中田さんだけが内定を持っている状態で芸人になることに引っ掛かりを感じていました。

自分も就職できる状態になったうえで、それでもお笑いを選びたいと考えていたからです。

「就職することもできるけど、それでも『お笑いがやりたい』って言いたかった」

ワラパー

「就職できなかったから芸人になる」のではなく、自分で芸人を選んだ形にしたかったのです。

中学でテレビのお笑いに憧れ、高校で一人ネタを書き、大学で実際に舞台へ立ってきた時間が、ここで初めて「職業としてお笑いを選ぶか」という問題になりました。

所属先も養成所資金もないまま大学卒業が近づく

芸人になる気持ちを固めても、卒業後にそのまま大手事務所へ所属できたわけではありません。

大学時代には松竹芸能のライブへ出演する機会もありましたが、最終的な所属には至りませんでした。

さらに、最初から養成所へ進むつもりで入学金を用意していたわけでもありませんでした。

「所属も決まってない、養成所行くお金もない」

QJWeb

プロになると決めたのに、卒業直前まで具体的な所属先が決まっていない状態で、さすらいラビーは大学生活の終わりを迎えました。

タイズブリックから太田プロへ|若手時代の再スタート

養成所から一斉にデビューするルートではなかったさすらいラビーに、最初の所属先となる縁をつないだのは学生時代のテレビ出演でした。

ここから二人は、現在の太田プロへたどり着くまでに事務所所属、離籍、フリー、養成所という順番を経験します。

『学生HEROES!』の縁から最初の事務所へ

大学時代のさすらいラビーは、テレビ朝日系『学生才能発掘バラエティ 学生HEROES!』にも関わっていました。

番組制作をしていた会社がクリエイターや芸人のマネジメントも手掛けるようになり、その縁から二人へ声が掛かります。

こうして卒業後、さすらいラビーはタイズブリックへ所属しました。

2025年のインタビューで振り返られたタイズブリック時代には、毎週会議室でネタ見せを行い、作家から指摘を受けたあと、別案を考えるため数時間にわたって話し合うこともあったといいます。

同じ事務所にいたストレッチーズらと、終電を逃して朝までファミリーレストランで過ごすこともありました。

学生時代のライブとは違い、一つのネタを作家と何時間も詰め直す環境に入ったことで、プロとしてネタを仕上げる時間が始まりました。

タイズブリックを離れ、フリー期間を経験

タイズブリックでの活動は約2年間続き、2015年12月に二人は事務所を離れました。

そこから次の所属先がすぐ決まったわけではなく、一時期はフリーで活動します。

宇野さんは前の事務所を離れることが決まると、さまざまなライブへ足を運び、先輩芸人に各事務所の事情を聞いて回りました。

ギャラのことや先輩後輩の付き合い方など、外からプロフィールを見ただけでは分からない部分まで聞いていたそうです。

先輩芸人の評判を聞いて太田プロ8期へ

複数の芸人に話を聞く中で、宇野さんの印象に残ったのが太田プロダクションでした。

事務所への不満を口にする芸人もいる中、宇野さんが話を聞いた太田プロ所属芸人からは前向きな話が多かったといいます。

そこで二人は太田プロエンタテイメント学院へ進み、すでに授業が始まっていた8期へ途中から合流しました。

太田プロ公式プロフィールでは2016年9月に8期生として卒業したことが記録されています。

大学のお笑いサークルから直接現在の事務所へ入ったのではなく、最初の事務所とフリー期間を経て、改めて養成所へ入るという順番でした。

ガク・高木とのルームシェアとライブ中心の生活

若手時代には、大学お笑いから続く人間関係が生活の中にもありました。

宇野さんは後に、真空ジェシカ・ガクさん、ストレッチーズ・高木貫太さんとルームシェアをしていた時期があることを明かしています。

家で芸人のネタを一緒に見て、そのネタの一節やツッコミが家の中のブームになることもありました。

高校では一人でネタを書いていた宇野さんの周囲には、いつの間にか大学時代から一緒に笑いを作ってきた芸人たちが日常的にいるようになっていました。

さすらいラビー自身も劇場や若手ライブへの出演を重ね、太田プロ内の定期ライブ「月笑」でも少しずつ結果を残していきます。

月笑年間王者からABC決勝へ|ネタで結果が出始める

太田プロ加入後も、さすらいラビーが突然テレビ出演だけで知られたわけではありません。

ライブでネタを重ねる中、2019年から賞レースや事務所ライブで大きな結果が見え始めます。

2019年、太田プロ「月笑」で初の年間チャンピオン

2019年、さすらいラビーは太田プロの定期ライブ「月笑」で年間ポイントを積み上げました。

11月までの年間ポイントでは宮下草薙や青色1号を上回って1位となり、12月のクライマックスシリーズへ進出します。

ファイナルでは宮下草薙を上回り、2019年の月笑で初の年間チャンピオンになりました。

その年の月笑には、宇野さんの双子の弟も客席へ来ています。

本人によると自分とよく似た弟を見た社員が混乱したそうで、学生時代の就活で対照的な生活を送っていた双子が、今度は芸人となった宇野さんのライブ会場で並ぶことになりました。

2020年M-1の2回戦敗退が次のネタへ向かう刺激に

年間王者になった翌2020年は、新型コロナウイルスの影響でお笑いライブを取り巻く環境も大きく変わりました。

その年のM-1グランプリで、さすらいラビーは2回戦敗退となります。

当時一緒にユニットライブ「風穴」をしていた、ひつじねいり、ママタルト、ストレッチーズは勝ち上がっていましたが、さすらいラビーだけがそこで大会を離れる結果になりました。

宇野さんは後に、この敗退を特に悔しかった出来事として挙げています。

学生時代から一緒だった仲間たちと結果を出したいという思いがあった分、自分たちだけ先に敗退した2020年のM-1は強く記憶に残りました。

2021年ABCお笑いグランプリで初の大きな決勝舞台へ

翌2021年、さすらいラビーは第42回ABCお笑いグランプリの決勝へ進出しました。

若手芸人が全国から集まる大会で、本人たちにとって大きな賞レースの決勝へ進むのは重要な出来事でした。

宇野さんは後年、ABCの決勝へ行けたことを特にうれしかった出来事の一つとして挙げています。

高校で一人ネタを書いていた宇野さんが、大学お笑いと事務所移籍を経て、全国規模の賞レース決勝へ立つところまで進みました。

ただし、ここで一度の結果をもって「ブレイクした」と区切れる歩みではありませんでした。

その後も二人はライブと新ネタ制作を続けていきます。

漫才とコントを続ける現在|一発ブレイクではなく積み重ね

2021年のABC決勝後も、さすらいラビーの活動の中心にはネタがありました。

2022年には再び太田プロライブ「月笑」の年間チャンピオンとなり、2019年に続く2度目の年間王者になっています。

新ネタライブで漫才もコントも作り続ける

2023年のインタビューで宇野さんがスマートフォンの予定を確認した際、その年の7月だけで39本のライブが入っていました。

年間ではおよそ400本のライブへ出演していると本人が話しており、テレビ出演とは別に舞台へ立つ日々が続いています。

さらに二人は、2カ月に一度のペースで新ネタライブを始めました。

2025年時点では一度の新ネタライブで、目安として漫才2本、コント4本の計6本ほどを用意し、中田さんがネタの大元を作りながら二人で仕上げています。

宇野さんは、新ネタを披露する日時を自分たちで決めなければ、手持ちのネタを繰り返してしまうと考え、あえて定期的に新作を出す場所を作ったと説明しています。

「今はネタで世の中に知ってもらうほかない」

TVガイドWeb

漫才だけ、コントだけに絞らず、両方の新しいネタを作って舞台へ持っていくことが、現在のさすらいラビーの活動につながっています。

2025年ツギクル準優勝まで賞レースへ挑戦

さすらいラビーは2023年にツギクル芸人グランプリの決勝へ進み、2025年にも再び決勝へ進出しました。

2025年大会では15組によるファーストステージを突破し、豆鉄砲、スタミナパンとともに3組のファイナルステージへ進出しています。

優勝は豆鉄砲でしたが、さすらいラビーは準優勝という結果を残しました。

M-1、ABC、ツギクルなどを年ごとの成績一覧として並べるより、さすらいラビーの場合は、結果が出なかった年も含めて新しいネタを作り続け、その次の大会へ持っていく時間が長く続いています。

そして2026年7月17日には、東京・座・高円寺2でキャリア初の単独ライブ「ヒトバカ」を開催しました。

「初めて単独ライブやらせてもらいます!」

ORICON NEWS

学生大会で組んだ二人が、2026年には初めて自分たちだけの単独ライブを開くところまで活動を積み重ねました。

大学時代からの仲間と「次は自分たち」と舞台へ立つ

宇野さんの周囲には、大学お笑い時代から現在まで長く活動を続ける芸人が多くいます。

ナショグルの1学年上だった真空ジェシカ・ガクさんをはじめ、ストレッチーズ、ママタルトなど、学生時代からライブや大会で顔を合わせてきた芸人たちです。

大学卒業後、大学お笑い出身であることを前面に出しにくい時期もあったといいますが、それから10年以上が経ちました。

2025年のインタビューで宇野さんは、芸歴よりさらに4年ほど長く付き合っている仲間がいることが、今もお笑いを楽しいと思える理由の一つになっていると話しています。

周囲の芸人がM-1決勝やテレビで結果を残す姿に対しても、単に焦るというより、「次は自分たちだ」という気持ちでネタへ向かうようになったと語っています。

高校の休み時間には一人でネタを書いていた宇野慎太郎さんですが、大学でお笑い仲間に出会い、中田和伸さんと予選落ちの悔しさを共有したことから、さすらいラビーが始まりました。

就職との間で迷いながらも芸人を選び、タイズブリック、フリー期間、太田プロと進んだあとも、二人が続けてきたのは舞台へ出て新しいネタを作ることでした。

2026年に初の単独ライブを開いた現在も、その活動は学生時代から続く漫才とコントの延長線上にあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA