人物プロフィール
青いシャツに赤いパンツ、激しく腰を振りながら歌う「ラッセン」のネタで全国に知られた永野さんですが、テレビで広く売れたころにはすでに40歳を超えていました。
芸人として活動を始めたのは1995年で、代表ネタが世間へ届くまでには約20年があります。
そのさらに前をたどると、宮崎で過ごした学生時代、6歳上の兄が持ち帰ってきた映画やテレビ番組、東京への強い憧れ、NSCの不合格など、テレビで見える永野さんとは少し違う時間が続いていました。
芸人になる直接的なきっかけの一つになったのは、高校時代に兄が福岡から持ち帰った『夢で逢えたら』の録画でした。
現在は本音を前面に出したトークだけでなく、ロックや映画を語る仕事、映画監督まで活動を広げていますが、その興味も子どものころから途切れず続いています。
永野の生い立ちと家族|宮崎で過ごした子ども時代
永野さんは宮崎県出身で、幼稚園から中学校まで一貫した教育環境で過ごしました。
後年のインタビューでは、当時の学校について、お金持ちの家庭や勉強のできる子が通うような学校だったと説明しています。
幼稚園から中学まで恵まれた学校環境にいたが、次第に成績が落ちていった
幼いころの永野さんは、本人によると幼稚園時代に知能検査の結果をめぐって親が先生から呼ばれたこともあったそうですが、その後は勉強に力を入れませんでした。
中学まで進むうちに成績は下がり、周囲に勉強のできる生徒が多い環境の中で、自分を「落ちこぼれ」と感じるようになっていきます。
2022年のインタビューでは、以前は自分の芸風について厳しい環境から生まれたように話していたものの、帰省して姉と話した際、実際の家庭を「すごく温かい家庭」だったと思い返したことも明かしています。
2026年にモグライダー芝さんと中学時代を振り返った際には、学校生活が次第に窮屈になり、教師との衝突も起きていたことをかなり具体的に話しました。
勉強のできる子が集まる環境に入りながら、そこへ馴染めなくなっていく感覚は、中学生のころにはかなり大きくなっていたようです。
6歳上の兄から映画・音楽・お笑いが入ってきた家庭
永野さんの昔をたどるうえで欠かせないのが、6歳上の兄です。
子どものころ、兄から『ダーティハリー』シリーズや『マッドマックス』シリーズ、『タクシードライバー』などを見せられていました。
当時は作品の意味まで理解できなかったものもありましたが、映画を見ること自体は早い時期から日常の中にありました。
「6つ上の兄がいるんですが、『ダーティハリー』シリーズや『マッドマックス』シリーズとかを観せられました。」
双葉社 THE CHANGE
映画だけでなく、高校時代に永野さんをお笑いへ向かわせる番組も、この兄が宮崎へ持ち帰ることになります。
高校時代|音楽にのめり込み『夢で逢えたら』でお笑いへ
中学までの環境を離れた永野さんは、宮崎日本大学高等学校へ進みました。
同校は後に、とろサーモンの久保田かずのぶさんと村田秀亮さんも卒業しており、久保田さんは2026年に永野さんを高校の先輩だと明かしています。
不良の多い高校でU2を口にして笑いを取った
永野さん自身は当時の高校を「ヤンキー校」と表現しており、中学までとは大きく雰囲気が変わりました。
いじめられていたわけではありませんが、勉強のできる子たちが集まる学校から移ってきた自分を周囲がどう見ているかを意識し、楽しい青春だったとは感じていなかったといいます。
そのころ深く入り込んだのが洋楽でした。
2026年の『永野とモグライダー芝のぐるり遠回り』では、高校時代に不良の同級生たちを相手に「U2」を持ち出し、その言葉のズレで笑いが起きていたことを振り返っています。
放課後には親しくなった友人の家へ遊びに行き、食事を一緒に取ることもあったなど、学校の中だけではない高校生活の様子も語られています。
現在の鋭いトークについても、永野さんは高校時代の友人との会話を引き合いに出しています。
「当時から目の前のやつを一発で負かす言葉をずっと考えてきました。」
JINS PARK
現在の毒を含んだ瞬発的なトークと、高校時代の友人同士のやり取りが本人の中では地続きになっています。
兄が福岡から持ち帰った『夢で逢えたら』を友人と見る
高校生だったころ、お笑い界ではダウンタウン、ウッチャンナンチャンら「第三世代」と呼ばれた芸人たちが人気を高めていました。
ただ、宮崎では東京で放送されている番組を同じように見られるわけではありませんでした。
福岡で暮らしていた兄が帰省するとき、お笑い番組を録画したビデオを宮崎へ持って帰ってきます。
その中にあったのが、ダウンタウンやウッチャンナンチャン、清水ミチコさん、野沢直子さんらが出演していた『夢で逢えたら』でした。
永野さんは友人と一緒にビデオを見て、それまで宮崎では知らなかった笑いに触れます。
「なんて面白いんだ!って思いましたね。」
週刊実話WEB
友人とそのビデオを見ながら「お笑いやろう」と思ったことを、永野さんは芸人を目指したきっかけとして挙げています。
お笑いへの興味と「宮崎を出たい」という思いが重なっていく
一方で、芸人を目指した理由を「お笑いが好きだったから」だけで整理すると、永野さん本人の説明とは少し違います。
2026年のインタビューでは、当時について、東京への強い憧れがあったことを率直に明かしました。
「とにかく、地元から出ていきたかったんですよ。」
双葉社 THE CHANGE
2024年に同じ宮崎出身の漫画家・東村アキコさんと対談した際にも、18年間を宮崎で過ごしながら、気持ちの上では東京を自分が戻るべき場所のように感じていたと話しています。
高校卒業が近づくころには、お笑いをやりたい気持ちと東京へ出たい気持ちが同じ方向を向くようになっていました。
高校卒業後に上京|専門学校から芸人への道を探す
高校を卒業した永野さんは宮崎を離れ、東京へ向かいます。
しかし、最初からお笑いの養成所へ一直線に進んだわけではありませんでした。
『グッドフェローズ』に背中を押され、日本スクールオブビジネスへ
上京前後の永野さんの中で印象に残っていた作品の一つが、マーティン・スコセッシ監督の映画『グッドフェローズ』でした。
刺激的な世界から離れ、単調な人生を送ることになった主人公の結末を見て、自分もこのままではいられないと背中を押された感覚があったといいます。
そこで選んだのが、東京の日本スクールオブビジネスでした。
ビジネスの専門学校を選んだ理由について、永野さんは後年、内容そのものよりも東京へ行けることが大きかったと明かしています。
「東京に行けるんだったらなんでもいい」
双葉社 THE CHANGE
専門学校へ進みながらも、お笑いをやりたいという考えは高校時代から消えていませんでした。
NSC東京1期に落ち、たけし軍団入りも断られる
東京へ出た永野さんは、お笑いの世界へ入る方法を探し始めます。
本人が2022年に明かしたところでは、まずNSC東京校1期の面接を受けましたが不合格でした。
さらに、ビートたけしさんのもとで活動する道も考え、オフィス北野へ自分から電話しています。
「オフィス北野に『たけし軍団に入りたい』と電話したことがあるんです。」
ドカント
こちらも入ることはできませんでした。
養成所の面接に落ち、たけし軍団への入口も閉じられましたが、それで宮崎へ戻らず、次の所属先を探しました。
ホリプロのネタ見せを経て1995年にピン芸人として始動
次に足を運んだのがホリプロのネタ見せでした。
永野さんによれば、ここでも最初は落とされましたが、最終的には所属することになります。
そして1995年にピン芸人として活動を開始しました。
コンビではなく一人を選んだことにも、本人なりの理由がありました。
永野さんはお笑いの本場を大阪だと感じながらも、宮崎弁を大阪弁へ変えて漫才をすることには違和感がありました。
一方、東京の強いツッコミ口調にも馴染めず、どうするか考えた末に一人で演じる形へ向かったと説明しています。
「最初からピン芸を完成させていた」のではなく、周囲の漫才スタイルへ馴染めなかった末に、一人でやる方法を選びました。
20代の永野|三軒茶屋で暮らしたホリプロ時代
1995年に活動を始めても、すぐテレビで名前が知られたわけではありません。
永野さんの20代には、東京で芸人を続けるための生活と、舞台で自分のネタを続ける時間が長く続きました。
大阪弁にも東京のツッコミにも馴染めず、一人でネタを始める
ホリプロ所属時代から、永野さんのネタは周囲の芸人とは少し違っていました。
本人は当時から自分が一番面白いという感覚を強く持ち、1999年に『爆笑オンエアバトル』が始まったころには、番組へ出演する芸人たちを批判するようなことを後輩へ話していたと振り返っています。
現在なら「独特」と受け取られる芸風も、そのころはなかなか評価につながりませんでした。
それでも他のスタイルへ完全に合わせることはなく、一人でショートコントや奇妙な設定のネタを作り続けています。
日雇いとビデオ店で生活しながら舞台へ
当時暮らしていたのは三軒茶屋の安いアパートでした。
芸人だけでは生活できない時期には、日雇いの仕事や引っ越し作業などをしています。
ただ、できるだけ多く稼いで生活を広げようとはせず、必要な金額を抑えて、お笑い以外の仕事へ使う時間を少なくしようとしていました。
そんなアルバイトの中で、唯一楽しかったと本人が話しているのが三軒茶屋のビデオ店です。
店では映画を自由に見ることができ、もともと好きだった映画を次々と見られました。
「三軒茶屋のビデオ屋は唯一楽しかったです。」
ドカント
子どものころ兄に見せられた映画は、売れない時期のアルバイト先でも生活の中に残り続けました。
2024年の東村アキコさんとの対談では、弁当店のアルバイトでコンロの扱いを教えられて怖くなり、そのまま仕事を辞めたのに、翌日は客として店へ行ったという出来事まで明かしています。
30代まで実家から仕送りを受けていた時期もあったと話しており、芸人以外の仕事へ生活の軸を移すことはしませんでした。
バカルディに可愛がられる一方、後輩には強気だった若手時代
三軒茶屋には、当時バカルディとして活動していた現在のさまぁ~ず・大竹一樹さんと三村マサカズさんも暮らしていました。
ホリプロの先輩だった2人は、生意気だった永野さんを面白がって可愛がってくれたといいます。
大井町で行われたライブに一緒に出演した帰りには、大竹さんか三村さんが運転する車へ乗せてもらい、同じ三軒茶屋まで帰ったこともありました。
一方で、後輩芸人を集めて他の芸人を批判することもあり、自分の笑いへの自信だけは売れていないころから強く持っていました。
2002年の退所から地下ライブへ|「永野」の芸風が固まるまで
ホリプロに所属していても状況は大きく変わらず、2002年に一つの区切りを迎えます。
ここから先は大手事務所に所属する若手芸人ではなく、自分で舞台へ出ながら笑いを続けていく時間になりました。
居酒屋で告げられたホリプロ退所と、その後の活動
2002年、永野さんはマネージャーから居酒屋へ呼び出されます。
そこで伝えられたのは、本人を嫌っているからではないものの、周囲の芸人へ悪影響を与えているため、自分から辞める形を取ってほしいという話でした。
ホリプロを離れた永野さんは、事務所の看板がない状態で自分のネタを続けることになります。
その後はフリーで活動した時期を経て、フラットファイヴなどに所属しながらライブへ出演し続け、のちに現在のグレープカンパニーへ所属しています。
2007年ロフトプラスワンの単独ライブでショートコントに手応え
ホリプロを離れてから約5年後の2007年、永野さんは新宿のロフトプラスワンで単独ライブを行いました。
このライブでは、自分の持っているものを出し切るつもりでショートコントを大量に披露しています。
その中には、後年の永野さんを知っていると納得できるような、日常から大きく外れた設定のタイトルがすでに並んでいました。
「『永野』単体として初めて納得がいく出来のライブだった」
Rooftop
テレビで知られるより何年も前の2007年には、本人の中で「永野」として納得できるショートコントの形ができていました。
芸人が舞台袖へ集まった「地下のダウンタウン」時代
テレビで知名度がない時期も、ライブに出る芸人たちの間では永野さんのネタが強く記憶されていました。
三四郎の小宮浩信さんと相田周二さんは、地下ライブ時代について、ネタ中に舞台袖へ芸人を多く集めていた芸人として永野さんの名前を挙げています。
「じゃあ、永野さんが地下のダウンタウンさんですね。」
ニッポン放送 NEWS ONLINE
小宮さんが永野さんを挙げると、相田さんも異論はないと同意しました。
ハリウッドザコシショウさんやキングオブコント優勝前のバイきんぐなどと並び、舞台袖の芸人まで見に来る存在だったという証言です。
永野さん自身も2024年のインタビューで、売れないころはチャンス大城さんと路上で飲んでいたことを振り返っています。
テレビの仕事がほとんどない一方で、ライブでは大量のネタを書き、芸人仲間から見られる存在になっていました。
約20年目の転機|「売れたい」から生まれたラッセン
1995年に活動を始めた永野さんが全国的に知られるまでには長い時間がかかりました。
転機の少し前、そのネタを面白がった人物の一人が俳優の斎藤工さんでした。
ブレイク前から斎藤工ら業界内にファンが増えていた
永野さんと斎藤工さんが接点を持ったのは、2013年に放送されたTBS系『日10☆演芸パレード』でした。
そこで永野さんのネタを見た斎藤さんは、その独特さを強く記憶します。
後に斎藤さんは、永野さんから受け取った単独ライブのDVDを自分で複製し、知人の俳優などへ配っていたことも明かしました。
テレビでまだ売れていなかった芸人の映像を、俳優が周囲へ見せて回っていたことになります。
そして斎藤さんが監督する短編映画への出演話が永野さんのもとへ届きました。
映画『バランサー』で初めて披露したラッセンが最もウケる
2014年、斎藤工さんが監督した短編映画『バランサー』に永野さんが出演します。
芸人を扱う映画だったため、撮影では同じ場面をさまざまな角度から何度も撮りました。
斎藤さんによると、永野さんは10回ほどネタを演じることになったものの、同じネタを繰り返さず、その都度違うネタを披露したそうです。
その中の一つに、まだ人前で披露していなかった「ゴッホより普通にラッセンが好き」へつながるネタがありました。
「一番笑いが起きたのがラッセンだったんですよ。」
スポニチアネックス
長い下積みの末に代表作となるラッセンは、テレビ番組ではなく、斎藤工さんの映画撮影の現場で大きな反応を得ました。
撮影現場で最も笑いが起きたため、完成した映画にもラッセンの部分が採用されています。
売れるために見せ方を変え、2015年前後にテレビへ
ラッセンは、長年続けてきたネタの中から偶然一つだけテレビに拾われた、というものでもありませんでした。
永野さんは40歳を目前にして、どうすれば売れるのかを具体的に考えるようになり、テレビへ届きやすい形へ自分を合わせたことを認めています。
「ラッセンのネタもそう。どうやったら売れるのかめちゃめちゃ考えました。」
ドカント
ABCテレビも2024年の番組紹介で、ラッセンを「売れたくて売れたくて生み出した」ネタとして紹介しています。
地下ライブで自分の好きなネタを長く続けた永野さんが、40歳前後で初めて「売れるため」のネタを強く意識しました。
その後、『アメトーーク!』などのテレビ出演をきっかけに仕事が増え、2015年前後からお笑いの仕事だけで生活できるようになったと本人は話しています。
青いシャツと赤いパンツ、独特の髪型、歌いながら腰を振る動きとともに「ラッセン」が広まり、2016年にはブレイク芸人として広く知られる存在になりました。
ブレイク後の違和感から再評価へ|映画と音楽へ広がった現在
長く売れない時間を過ごしてきた永野さんにとって、テレビ出演が一気に増えたことはゴールではありませんでした。
ここからは、それまで自分のやり方でネタを続けてきた芸人が、テレビに合わせようとしたことで別のズレが生まれていきます。
テレビに合わせ続けた結果「飽きられた」と感じる
40歳を過ぎて初めて大きく売れた永野さんは、テレビの現場で周囲から求められる役割へ合わせようとしました。
2024年のJINS PARKで、当時は「大声を出して場を盛り上げればいい」といったテレビのルールを教えられ、それを真に受けて萎縮したと振り返っています。
2026年のインタビューでも、40代でようやく仕事をもらった立場だったため、周囲の言う通りにしていたところ、やがて仕事が減っていったと説明しました。
約20年かけてテレビへたどり着いたものの、売れた後は逆に、それまでの永野さんらしさを出しにくくなっていきました。
2019年『MANRIKI』で斎藤工・金子ノブアキらと映像制作へ
テレビでの勢いが落ち着いていく一方、ブレイク前から続いていた斎藤工さんとの関係は別の方向へ進みます。
永野さんは、斎藤さん、ミュージシャンで俳優の金子ノブアキさん、映像ディレクターの清水康彦さんらと映像制作へ取り組むようになりました。
金子さんとの最初の接点は、清水さんの結婚披露宴で永野さんがネタを披露した場でした。
後に金子さんは、そのときの永野さんに「ハードコアパンクと同じ香り」を感じたと伝えたそうです。
4人のつながりから映像制作チーム「チーム万力」が生まれ、2019年に映画『MANRIKI』が公開されました。
作品では斎藤工さんと永野さんが企画・プロデュースを担当し、永野さんは原作・脚本も手がけています。
子どものころ兄から映画を見せられ、下積み時代にはビデオ店で映画を見続けていた永野さんが、今度は自分で映画を作る側へ回りました。
コロナ禍の鬼越トマホークYouTubeで本音を出すと仕事が増加
その後、コロナ禍に入ると仕事が大きく減りました。
テレビ番組をきっかけに髪を赤く染め、その後も別の色を試すなど、本人が後に「迷走」と表現する時期もありました。
そんな時期に出演したのが、鬼越トマホークのYouTubeチャンネルです。
テレビで求められる役割へ合わせるのではなく、その場で本当に思っていることを自由に話したところ、大きな反響が起こりました。
内容が強すぎたため所属事務所から叱られたものの、その動画以降、永野さんの本音を聞きたいという形で仕事が増えていきます。
「嘘ついてたときより評判良かったな」
双葉社 THE CHANGE
一度テレビへ合わせて抑えていた部分を、そのまま話すようになったことが、近年の再評価につながりました。
高校時代から友人を相手に一発で返す言葉を考えていたという話と、現在の本音トークの間には30年以上の時間がありますが、使っている感覚自体は本人の中で大きく変わっていません。
初監督『MAD MASK』と『永野映画CHANNEL』へ
映像の仕事は『MANRIKI』で終わらず、永野さんは初監督映画『MAD MASK』を制作しました。
作品には永野さん自身のほか、金子ノブアキさん、アイナ・ジ・エンドさん、D.Oさん、戸塚祥太さん、ギターウルフのセイジさん、岩井ジョニ男さん、ヒャダインさん、斎藤工さんらが出演しています。
『MAD MASK』は2025年に公開され、2026年5月にはブラジルの第22回ポルト・アレグレ国際ファンタスティック映画祭でミッドナイト部門最優秀作品賞を受賞しました。
さらに2026年4月からは、BS-TBSで『永野映画CHANNEL』がスタートしています。
番組では永野さん自身が選んだ映画を紹介しており、子どものころに好きだったホイ三兄弟の『新Mr.BOO!アヒルの警備保障』も放送作品に選びました。
現在の公式プロフィールにはテレビの『永野&くるまのひっかかりニーチェ』、Podcastの『永野とモグライダー芝のぐるり遠回り』、映画や音楽を扱う番組などが並んでいます。
ラッセンだけで終わらず、映画、音楽、本音のトークという、売れる前から本人が抱えていたものが仕事として表に出るようになりました。
宮崎で兄が持ち帰ったビデオを見ていた高校生は、東京へ出てNSCにもたけし軍団にも入れず、三軒茶屋でアルバイトをしながら一人でネタを書き続けました。
約20年後、「売れるため」に作ったラッセンがテレビへつながり、その後は再び自分の言葉を前面に出すようになります。
そして現在は、子どものころから身近にあった映画まで自分で作りながら、1995年に始めたピン芸人としての活動を続けています。












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