人物プロフィール
ロバートのコントや、架空の人物になりきる「クリエイターズ・ファイル」で知られる秋山竜次さんは、福岡県北九州市で育ちました。
人物の細かな癖や服装まで拾い上げてキャラクターに変える現在の姿を見ると、幼いころから人前に立つことが好きだったようにも思えますが、母親が覚えている少年時代の秋山さんは少し違います。
一方で学校へ行けば先生を観察し、モノマネのために衣装まで用意し、小学校6年生では自分なりの「笑わせ方」について考えていました。
高校を卒業した時点でも芸人になると決めていたわけではなく、父親の言葉で北九州を離れ、東京でアルバイトを始めたことから進路が動き始めます。
その後、大井町の書店で偶然手にしたお笑い雑誌から養成所の存在を知り、幼いころから一緒だった馬場裕之さんを東京へ呼びました。
秋山竜次の生い立ちと家族|北九州・門司港近くで育った少年時代
秋山さんの原点をたどると、まず見えてくるのが北九州の港町ならではの風景です。
現在のキャラクター芸とは一見離れているような少年時代ですが、当時から周囲にあるものを細かく眺めていました。
造船所と動物検疫所に囲まれ、キリンを眺めていた幼少期
秋山さんが育ったのは、本人によると門司港の近くで、周囲には3つの造船所がありました。
さらに家の目の前には動物検疫所があり、月に1回ほど動物が運ばれてきたそうです。
何十頭ものキリンが来たこともあり、ブロック塀の向こうから何本もの長い首だけが見えていました。
幼稚園のころには、そのキリンを題材にスケッチ大会をしたこともあったと、秋山さんはAmbitions Webのインタビューで話しています。
近所には造船所やコンテナ関係の施設があり、野犬も多く、母親が早朝に出かける際には木刀を持っていたこともあったそうです。
秋山さんが後年「ネタの宝庫」と話す地元には、子どものころから普通の住宅街とは少し違う景色が広がっていました。
母親が覚えている「おとなしく内向的だった」子どものころ
学校でモノマネをするようになる後年の姿とは対照的に、幼いころは人前へ出るタイプではなかったようです。
2023年の『おしゃれクリップ』に電話出演した母親は、幼少期について次のように話しました。
「小っちゃい時は本当におとなしくて、内向的な息子でしたよ」
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人前に出ると母親の後ろへ隠れるような子だったとも語られています。
一方、秋山さんは幼いころからスイミングスクールへ通い、泳ぐことが好きでした。
当時思い描いていたのは芸能界ではなく、南国の海の近くで働くことだったと2025年のTOKYO FM『木村拓哉 Flow』で明かしています。
俳優を目指した父親と、2人の弟がいる家庭
秋山さんには2人の弟がおり、両親と弟たちは現在も北九州に暮らしていると本人が話しています。
父親は若いころ、高倉健さんらに憧れて北九州を出て、東映で大部屋俳優として斬られ役などを経験していました。
秋山さんが中学生のころに父親の出演作を見たところ、山城新伍さんにふすま越しに槍で刺される場面などがあり、父親が登場する作品では何度も命を落としていたそうです。
その後の父親は一つの仕事に留まらず、サイパンでCM撮影などのコーディネートをする会社を手がけるなど、さまざまな仕事を経験し、のちには飲食業にも進みました。
父親の職業が変わるたび、家庭の中には俳優、海外、事業、飲食と異なる世界の話が入ってきました。
馬場裕之と幼稚園から高校まで一緒だった学生時代
秋山さんの学生時代を語るうえで欠かせないのが、後にロバートのメンバーとなる馬場裕之さんです。
2人は芸人になってから知り合ったのではなく、幼稚園のころから同じ地域で育っていました。
小6の「面白い人ランキング」2位で気づいた自分なりの笑い
小学校6年生の文集では、クラス内の「面白い人ランキング」で秋山さんが2位になりました。
1位になった同級生は、当時テレビで流行していたギャグなどを披露して笑いを取るタイプだったそうです。
秋山さんは悔しがるというより、自分は既にあるギャグを使うのではなく、自分で考えたことをやっていると受け止めていました。
「既存のものをやらない」
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」
小学生の時点で、誰かのギャグを再現する笑いと、自分で作る笑いを本人なりに分けて考えていました。
学校行事では教師のモノマネをするため衣装まで用意
成長すると、人前に出る場面も増えていきます。
学校のキャンプファイヤーでは英語教師のモノマネを披露し、そのためだけに服装まで準備していました。
さらに秋山さんは、先生の口調だけではなく、普段の服や車までよく見ていました。
理科の先生には似たようなポロシャツを着る傾向がある、真面目そうな先生でも駐車場に止めた車の中を見ると意外な一面が見える、といった細かなところまで気になっていたそうです。
教頭先生が選ぶ車のタイプまで観察していたことを、2025年のORICON NEWSのインタビューで明かしています。
ふざける秋山を隣で笑っていた幼なじみ・馬場裕之
馬場さんとは幼稚園から小学校、中学校、高校まで同じ学校に通いました。
ただし、当時から2人で人を笑わせていたわけではありません。
秋山さんによれば、馬場さんはお笑いをする側というより、秋山さんがふざけているのを横で見て笑っている側でした。
その関係は大人になっても残り、後に秋山さんがネタの案を馬場さんへ見せると、幼いころから見続けてきた感覚で「これはいい」と判断してくれる存在になっていきます。
芸人になる予定などなかった2人が、卒業後に一緒に東京へ向かうことになります。
高校時代に出会ったミャンマー人船長「ジュニア」との文通
港の近くで育った秋山さんには、高校時代にも土地柄を感じさせる出会いがありました。
コンテナ船の船長だったミャンマー人の男性、通称「ジュニア」と知り合い、自宅へ招いて一緒に食事をするまでになります。
船が北九州を離れたあとも2人は手紙を送り合い、文通が続きました。
ところが秋山さんが高校を卒業して上京すると交流は途切れ、その約30年前の写真と手紙を手掛かりに、2024年のNHK『大写真発掘』がミャンマーでジュニアを探すことになりました。
高校卒業後、父の言葉で北九州から東京へ
高校生活が終わりに近づいても、秋山さんの頭の中に「芸人」という明確な進路はありませんでした。
ここで大きく人生を動かしたのが父親です。
大学や就職ではなく「東京か海外へ」と背中を押した父
父親は以前から、学校の勉強だけを重視する考え方ではありませんでした。
「好きな道に進め、勉強なんかせんでいい」
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高校を卒業したら東京か海外へ行くように言われ、秋山さんは具体的に何をしたいのか決まっていない状態で東京へ向かいました。
「芸人になるための上京」ではなく、先に北九州を出たことが、結果として芸人への入口を作りました。
やりたい仕事が決まらないまま上京し、ビル清掃のアルバイト生活へ
東京へ出た秋山さんは、すぐ芸能事務所を訪ねたわけではありません。
生活のために始めたのは、ビルのダクト清掃などのアルバイトでした。
まだ芸人になる方法も知らず、アルバイトをしながら東京で暮らしていた時期です。
子どものころには南国の海の近くで働きたいと思ったことはあっても、卒業後に特定の職業へ進む計画があったわけではありませんでした。
大井町の書店で見つけた一冊のお笑い雑誌が進路を変える
そんな生活の途中、秋山さんは大井町の書店でお笑い雑誌を手に取りました。
雑誌の中には「お笑い養成所・生徒募集」という告知が掲載されていました。
今では芸人養成所の存在は広く知られていますが、当時の秋山さんは、そこで初めて芸人になるための入口が具体的に存在すると知ります。
何をするか決まらず東京へ出た青年が、書店で偶然見つけた募集広告をきっかけに、お笑いの世界へ進み始めました。
秋山竜次が芸人になったきっかけ|馬場裕之を東京へ呼びNSCへ
養成所へ応募することを考えた秋山さんには、一つ困ったことがありました。
東京には一緒にお笑いをする友人がいません。
地元にいた馬場へ声をかけ、同じアルバイトで入学資金を準備
養成所には一人で入り、そこで相方を探す人もいれば、最初から相方を連れてくる人もいると知った秋山さんは、北九州の友人たちを思い浮かべました。
その中で声をかけたのが、進学などをせず地元にいた馬場裕之さんです。
馬場さんを東京へ呼び、秋山さんがしていたアルバイトを一緒に始め、養成所へ進む準備をしました。
馬場さん自身も2022年の『徹子の部屋』で、秋山さんが先に上京したあと「東京に観光に来たら」と誘われたことから東京へ向かったと明かしています。
芸人志望だった2人が出会ったのではなく、幼稚園から一緒だった友人を、秋山さんが芸人になるタイミングで相方候補として呼んだという始まりでした。
1998年にNSC東京校4期へ入り、馬場の自己紹介まで秋山が考えた
2人はNSC東京校4期へ入りました。
吉本興業の公式プロフィールでも、秋山さん、馬場さん、山本博さんはいずれも1998年のNSC東京校4期生として掲載されています。
入学後には、一人ずつ面白い自己紹介をするよう求められる場面がありました。
もともと人前でギャグをするタイプではなかった馬場さんが「つまらない」と思われると自分まで不利になると考えた秋山さんは、馬場さんが話す内容まで作り、前日に渡しています。
本人によれば、その自己紹介は実際に受けました。
子どものころ秋山さんを横で見て笑っていた馬場さんは、NSCに入ってからも秋山さんが作った笑いを最初に受け取る相手になりました。
子どものころ好きだったコントから、最初の芸風も漫才ではなくコントへ
秋山さんが芸人として最初に作ったのは漫才ではなくコントでした。
子どものころに好きだった番組として本人が挙げているのが、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』です。
ヒゲやカツラを付け、普段とは違う人物へ変わっていくコントを見て笑っていました。
のちに何十人、何百人という架空人物へ扮することになりますが、芸人生活の最初から秋山さんが選んだのは、会話だけで進める漫才より人物や状況そのものを作るコントでした。
NSCで相方を探し、現在のロバートができるまで
NSCへ入った秋山さんと馬場さんは、そのまま現在のロバートになったわけではありません。
1年間の養成所生活では、現在のインパルス・板倉俊之さんや山本博さんとの関係が動き、現在の3人へ形が変わっていきました。
馬場との2人では成立せず、板倉俊之を加えた時期
当初、秋山さんと馬場さんは2人で組んでいました。
しかし秋山さんがボケ、馬場さんがツッコミという形では、思うようにネタが成立しません。
そこで同期だった板倉俊之さんが加わり、板倉さんが秋山さんへツッコミを入れる3人で活動する時期が生まれました。
秋山さんは後年、板倉さんが「1年間秋山をツッコんでくれていた」と当時を説明しています。
板倉がインパルス結成へ動き、ツッコミ役が突然いなくなる
ところがNSC卒業が近づくころ、板倉さんは自分もボケをやりたいと考えるようになります。
そして堤下敦さんとインパルスを結成しました。
吉本興業の公式プロフィールでは、インパルスも秋山さんたちと同じ東京NSC4期で、1998年12月結成とされています。
秋山さんと馬場さんからすると、1年間ツッコミを任せてきた板倉さんが卒業直前に抜ける形になりました。
しかも周囲では既に卒業後の組み合わせがほぼ固まっています。
何人もの相方候補と組んでいた山本博と一度ネタを試す
その時、まだ組み合わせが固まっていなかった一人が山本博さんでした。
山本さんはNSCにコンビで入ったものの、そのコンビは早い時期に解消し、その後はネタ見せのたびにいろいろな相手と組みながら相方を探していたそうです。
秋山さんから見ると「また違う人と組んでいる」と思うほど頻繁に相手が変わっていました。
板倉さんが抜けたあと、山本さんから声をかけられ、まずは一度だけ試す感覚で一緒にネタをすることになります。
1年間同じ養成所で過ごすうち、秋山さんは山本さんの話し方や趣味、感覚を面白いと感じるようになっていました。
秋山・馬場・山本の3人が固まり、1998年にロバート結成
山本さんと試した組み合わせがそのまま残り、秋山さん、馬場さん、山本さんの3人がロバートとなりました。
吉本興業の公式プロフィールでは、結成年は1998年とされています。
幼なじみ2人で始まり、板倉俊之さんを含む3人を経て、卒業間際に山本博さんが加わったことで現在のロバートが成立しました。
最初から秋山・馬場・山本の3人でNSCへ入ったわけではなく、養成所でのネタ見せと相方探しの途中で現在の形へたどり着いています。
ロバート結成直後の若手時代|アルバイト仲間と作った初単独ライブ
ロバートが結成されても、すぐに大きなテレビ番組へ出られたわけではありません。
劇場やライブでコントを作りながら、仕事のない時間にはアルバイトを続ける若手生活が始まりました。
結成2年目の2000年、資金も知名度もない中で初単独ライブへ
結成から2年ほどたった2000年、ロバートは初めての単独ライブを開催することになりました。
しかし当時は十分な資金も知名度もなく、ライブを宣伝するチラシも自分たちの周囲で準備する必要がありました。
現在ならSNSに写真や告知文を載せれば多くの人へ知らせられますが、若手だった3人にとって紙のチラシは大切な宣伝手段でした。
「パソコンが得意らしい」バイト先の先輩にチラシ制作を頼む
そこで秋山さんが頼ったのが、アルバイト先の先輩だったナリタさんです。
ナリタさんについて知っていたのは「パソコンが得意らしい」という噂程度でしたが、秋山さんたちは初単独ライブのチラシ作りを依頼しました。
そのチラシは長い年月の中で所在が分からなくなりましたが、2024年のNHK『大写真発掘』ではスタッフが当時のアルバイト関係者をたどり、ナリタさんとチラシを探しています。
テレビで人気者になる前には、アルバイト先の人間関係まで借りながら、自分たちのライブを形にしていた時期がありました。
秋山が考え、山本の反応を見ながら形にするロバートのネタ作り
ロバートのコント作りでは、秋山さんが考えた設定を細かな台本へ完成させてから3人へ渡す、という方法ばかりではありません。
秋山さんが思いついたものを実際に山本さんへぶつけ、山本さんがどう反応するかを見ながら広げていくことがあります。
山本さんの自然な反応そのものがコントの中へ入り、馬場さんは長年秋山さんを見てきた感覚からアイデアを判断する立場にもなっています。
学生時代から続く3人それぞれの性格が、そのままネタ作りの役割にも入り込んでいきました。
『はねるのトびら』で早くから知られたロバート
若手生活が長く続く前に、ロバートにはテレビで大きな機会が訪れます。
結成後に出演した『新しい波8』を経て、新しいコント番組のレギュラーへ選ばれました。
『新しい波8』から2001年『はねるのトびら』レギュラーへ
2001年に始まったフジテレビ系『はねるのトびら』には、ロバートのほかキングコング、ドランクドラゴン、北陽、インパルスら若手芸人が出演しました。
ロバートは結成からそれほど長い年月を経ずに、全国放送のコント番組で継続してネタを見せられる立場になります。
「早めに世間に知ってもらえました」
ORICON NEWS
秋山さん自身も、『新しい波8』から『はねるのトびら』へ進めた時期を大きな機会だったと振り返っています。
濃いキャラクターが知られ、秋山自身の「コントの軸」が固まる
『はねるのトびら』で秋山さんが演じたのは、一目で特徴が分かる濃い人物ばかりでした。
オタク風の人物や秋山森乃進など、設定と見た目を強く作り込んだキャラクターがテレビを通して知られていきます。
本人は後年、コント番組だったことで「コントキャラをやったら面白い人」と認識してもらえたことが大きく、自分の中の軸も決まった感覚があったと話しました。
ロバートにとって『はねるのトびら』は、後の賞レース優勝より前に世間へ名前とコントを広げた大きな転機でした。
テレビで人気になったキャラを劇場へ持ち込まなかった若手時代
テレビで人気キャラクターが生まれると、その人物を劇場へ持ち込めば客席が盛り上がることは秋山さんにも分かっていました。
それでも当時は、『はねるのトびら』で受けたキャラクターを自分たちの劇場コントへ積極的には入れていません。
テレビで見たキャラクターが登場したこと自体への歓声だけで終わるのではなく、ロバートが新しく作ったネタで笑ってほしいという気持ちがあったためです。
後年はテレビで披露したものも舞台で使うようになったと話していますが、若手から売れ始めたころにはテレビと劇場のコントを分けようとする時期がありました。
2011年キングオブコント優勝|すでに売れていたロバートが「コント王」に
『はねるのトびら』で知名度を上げたあとも、ロバートはコントを続けました。
その結果が大きく表れたのが、コント日本一を決めるキングオブコントです。
2008年の第1回大会で3位、再挑戦した2011年
吉本興業の公式プロフィールでは、ロバートは2008年の第1回キングオブコントで3位に入っています。
すでにテレビで知られたトリオでしたが、そこで大会との関係が終わったわけではありません。
3年後の2011年、再び決勝へ進出しました。
2本のネタが全体1位・2位の得点となり大会史上初の完全優勝
2011年大会では8組が2本ずつコントを披露しました。
TBSの公式記録によると、ロバートの2本のネタは全16ネタの中で得点1位と2位になりました。
2本とも大会最高水準の評価を受け、ロバートは大会史上初となる「完全優勝」で4代目キングオブコントに輝きました。
ただし、秋山さんたちが初めて世間に知られたのはこの時ではありません。
『はねるのトびら』で早くからテレビ人気を得たあと、長く続けてきたコントそのもので改めて大きな結果を残したのが2011年でした。
人物観察と扮装が「クリエイターズ・ファイル」へ
テレビで秋山さん個人のキャラクターが広く知られたあと、さらに違う形で「人になりきる」企画が始まります。
それが2015年にスタートした「クリエイターズ・ファイル」です。
子どものころから気になっていた「人の細かな癖」
クリエイターズ・ファイルで秋山さんが演じる人物には、単に奇抜な服を着ただけでは出てこない妙な現実感があります。
その材料の一つになっているのが、子どものころから続く人物観察です。
先生の口調や服装を見て、その職業の人にありがちな雰囲気を探し、さらに本人が見せようとしていない車の中などにも目を向けていました。
誰か一人をそのままモデルにするというより、これまで見てきたさまざまな人物の細部を集め、架空の人物として組み直していきます。
幼いころに先生や地元の人を細かく眺めていた時間が、職業や人物の「それっぽさ」を拾う現在の作り方と重なります。
フリーペーパーの数ページから始まった架空クリエイターへのなりきり
クリエイターズ・ファイルの始まりは、大きなテレビ番組でもYouTube専用企画でもありませんでした。
2015年4月、フリーマガジン『honto+』で、「数ページを自由に使って好きなことをやらないか」と声をかけられたことから始まります。
普段からコントで扮装していた秋山さんは、架空のクリエイターになりきり、本物の人物のように真面目なインタビューを受ける企画を考えました。
最初から「ロバート秋山が変装しています」と前面に出すのではなく、秋山さんの名前をほとんど見せず、その人物として誌面に登場しました。
初期にはジェネラルCGクリエイターの磯貝KENTA、旅館の女将・大垣節子などが登場し、連載は月ごとに続いていきます。
SNSで「秋山に似た人物」と気づかれ、企画そのものが広がる
現在の知名度からすると意外ですが、連載開始直後から一気に大反響になったわけではありません。
秋山さんは2025年の『木村拓哉 Flow』で、しばらくは自分だと気づかれず、続けていくうちにウェディング関係のキャラクターを見た人が「秋山に似ている」とSNSで反応したことから広がったと振り返っています。
紙の連載と並行してYouTubeにも映像を蓄積していたため、気づいた人が過去の動画までさかのぼれる状態になっていました。
売れる企画を先に計算して始めたのではなく、秋山さん自身が面白がって続けていたものを、後から多くの人が発見する形で広がっていきました。
10周年を越えて続くキャラクター作りと現在の秋山竜次
クリエイターズ・ファイルは2025年に10周年を迎えました。
秋山さんは10周年の取材でも、再生数から逆算して人気の出そうなキャラクターだけを選ぶのではなく、自分が面白いと思うものを優先してきたと話しています。
「マイペースでとにかく面白さ優先でやってきました」
ORICON NEWS
2026年8月時点の公式サイトにはNo.117までクリエイターが掲載され、10周年を記念した「胸やけ大博覧会」も各地で開催されています。
個人活動が増えた現在も、吉本興業の公式プロフィールでは秋山さん、馬場さん、山本さんの3人がロバートとして掲載されています。
2025年の『木村拓哉 Flow』では、ここ2年ほど3人で動く機会が少なくなっていることを話しながらも、秋山さんはロバートでのコントについてこう話していました。
「僕はやりたいですよ。僕はコントやったりとか、もうそれが一番やりたかったんで」
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」
個人で何人もの架空人物を演じるようになった現在も、秋山さんが芸人として最初に選んだ「コント」は変わらず本人の中に残っています。
北九州で周囲の人や景色を眺めていた少年時代を経て、高校卒業後に東京へ出た秋山さんは、大井町の書店で偶然見つけた募集広告から芸人の道へ入りました。
そこで幼なじみの馬場裕之さんを呼び、板倉俊之さんとの活動を経て山本博さんと出会い、ロバートのコントが始まりました。
人の癖を眺め、別の人物になってみる面白さは、『はねるのトびら』やキングオブコントを通り、現在のクリエイターズ・ファイルまで形を変えながら続いています。












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