人物プロフィール
『水曜日のダウンタウン』をはじめとするバラエティーで、ゆっくりした話し方と予想のつかない反応を見せるひょうろくさん。
近年はバラエティーだけでなく、ドラマや大河ドラマ、舞台にも出演し、俳優として目にする機会も増えています。
ところが昔をたどると、学校で目立って笑いを取る少年だったわけでも、幼いころから芸人を目指していたわけでもありません。
鹿児島で育ち、バレーボールを続けながら鹿児島工業高等専門学校へ進み、卒業後は建築関係の会社へ就職しています。
芸人という進路が現れたのは、会社員になって4年目、高専時代の同級生から「一緒にお笑いをやろう」と誘われたときでした。
ひょうろくの生い立ちと家族|鹿児島で静かな子どもとして育つ
ひょうろくさんは1987年7月7日生まれ、鹿児島県出身です。
家族には両親のほか、5歳上の姉と3歳上の兄がいて、きょうだいの中では末っ子として育ちました。
現在のテレビで見せる独特な存在感とは対照的に、子どものころは家でも学校でも口数の少ないタイプだったと本人が話しています。
5歳上の姉と3歳上の兄を追って小学1〜2年生からバレーボールへ
幼いころの生活で長く続いたものの一つが、バレーボールでした。
先に姉と兄がバレーボールをしており、その影響でひょうろくさんも小学1〜2年生ごろから始めています。
本人にとっては、自分から新しい世界へ飛び込んだというより、姉や兄についていくうちに自然と始まったスポーツだったようです。
その後も中学、高専と競技を続け、本人の話ではバレーボール歴は合計で約13年に及びました。
このバレーボールが、のちに鹿児島工業高専へ進む入口にもなります。
家でも学校でもあまり喋らず、教室では端にいる子だった
一方で、学校ではクラスの中心に立って盛り上げるような少年ではありませんでした。
「家でも外でも、あまり喋らない子でした。」
文春オンライン
本人は教室でも端のほうにいるような、おとなしい子だったと当時を振り返っています。
父親が会社員だったこともあり、子どものころは将来について「自分も大人になれば会社員になる」という感覚を持っていました。
テレビに出る仕事や芸人という職業が、自分の将来として現実的に見えていたわけではありませんでした。
中学から鹿児島工業高専へ|バレー推薦で進んだ学生時代
小学生から続けてきたバレーボールは、中学へ進んでも生活の中心にありました。
この時期には、後に芸人人生を一緒に始めることになる人物との出会いも近づいていきます。
中学ではセッター、高専へはバレーボール推薦で入学
中学時代のひょうろくさんは、バレーボール部でセッターを務めていました。
その経験を生かし、進学先には鹿児島工業高等専門学校を選び、バレーボールの推薦で入学しています。
高専では土木系の分野を学びましたが、勉強については本人自身が得意だったとは話しておらず、成績が下位になることもありました。
見た目や成績を友人からいじられることもあり、最初のころは言われたことをそのまま受け止めて傷ついていたそうです。
学生生活が続くにつれて少しずつ受け流せるようになり、周囲との距離の取り方も変わっていきました。
高専で橋口ひとしと出会い、同級生として過ごす
鹿児島工業高専で同級生になった一人が、後にジュウジマルの相方となる橋口ひとしさんでした。
この時点で2人がコンビを組んでいたわけではなく、卒業後もすぐ一緒に芸人を始めたわけではありません。
ひょうろくさん自身、お笑いは好きではあったものの、学生時代から「芸人になる」と強く決めていたわけではないと後年話しています。
芸人人生の相方とは高専ですでに出会っていたものの、当時はまだ普通の同級生同士でした。
大学へは進まず、卒業後は「遠くへ行きたい」と関東就職を選ぶ
高専卒業が近づくと、ひょうろくさんは大学進学ではなく就職を選びました。
地元に残るより一度遠くへ行ってみたいという気持ちがあり、就職先として選んだのは千葉県の建築関係の会社でした。
高校年代から続いていたバレーボール中心の生活もここで終わり、鹿児島を離れて初めて本格的な社会人生活へ入っていきます。
高専卒業後は建築会社へ|千葉の設計から福岡の営業へ
芸人になる前のひょうろくさんには、約4年間の会社員生活があります。
後にお笑いへ転身することを前提に働いていたわけではなく、入社した当時はそのまま会社員として生きていく感覚でした。
初めて親元を離れて社員寮へ入り、ホームシックも経験
千葉へ移ったひょうろくさんは、会社の社員寮で暮らし始めました。
鹿児島から一気に環境が変わり、親元を離れた当初はホームシックにもなっています。
本人は初めて関東へ出たころを振り返り、東京で見かける人がみんな芸能人のように見えたほど、都会の景色そのものが新鮮だったと話しています。
配属されたのは設計部門で、高専で学んだ分野ともつながりがある仕事でした。
設計で苦戦し、3年目には福岡の営業所へ異動
ところが設計の仕事では、ソフトが算出した数字の仕組みを理解することなどに苦戦しました。
説明を受けても十分に理解できないまま、分かったような顔をして席へ戻り、そのあと何をすればいいのか分からなくなることもあったといいます。
それでも本人の中には、すぐに会社を辞めるという発想はありませんでした。
2年ほど設計の仕事を経験したあと、営業部門の上司から声をかけられ、3年目には福岡の営業所へ移っています。
営業でも失敗は続き、請求金額を間違えて取引先から強く怒られたこともありました。
それでも謝った相手に別の仕事を積極的に回すなどして関係を作り直し、辞める直前には仕事を楽しいと感じられるところまで来ていました。
会社が嫌で逃げるように芸人へ転身したわけではなく、仕事に慣れ始めた時期に別の道が突然現れました。
仕事が楽しくなり始めた4年目、橋口からお笑いへ誘われる
会社員4年目、高専時代の同級生だった橋口ひとしさんから連絡が入りました。
橋口さんが持ちかけたのは、一緒にお笑いをやらないかという誘いでした。
ひょうろくさんは当時、芸人の世界や養成所について詳しかったわけでもなく、長年温めていた芸人志望を打ち明けられたわけでもありません。
それでも話を聞くと「楽しそうだ」という感覚が先に立ち、橋口さんの誘いを受けることにしました。
年収400万〜500万円ほどになっていた会社員生活を離れ、まったく別の芸人という道へ進む決断でした。
会社員を辞めて芸人へ|橋口ひとしとジュウジマルを結成
芸人になると決めたひょうろくさんは、長く迷い続けるのではなく会社を辞める方向へ動きました。
ここから、高専時代には想像していなかった橋口さんとのコンビ生活が始まります。
芸人志望ではなかったのに、その場で誘いを受けて退職へ
橋口さんからの誘いに気持ちが動くと、ひょうろくさんは退職の手続きを進めました。
お笑いの世界でどの程度稼げるのか、芸人として成功できるのかといった見通しがあったわけではありません。
それまで自分から大きな進路変更をしてこなかった人物が、同級生からの一本の誘いをきっかけに会社員生活を終えています。
ひょうろくさんが芸人になった直接のきっかけは、橋口ひとしさんから声をかけられたことでした。
家族へ芸人になると伝えると「なんであんたが」
鹿児島の家族に芸人になることを伝えたときも、すんなり「昔からの夢だったんだね」と受け止められる状況ではありませんでした。
もともと家でもあまり喋らず、会社員として働いていた息子から突然芸人になると聞かされ、両親は驚いたといいます。
本人が覚えている反応は、「なんであんたが」というものでした。
幼いころから家族の前で芸を披露していたという話ではなく、家族にとっても予想外の進路変更だったことが分かる場面です。
2012年にジュウジマル結成、浅井企画で活動を始める
橋口さんと組んだコンビは「ジュウジマル」と名乗りました。
M-1グランプリ公式サイトには、結成日が2012年7月11日、所属が浅井企画と記録されています。
養成所で相方を探して結成したのではなく、鹿児島の高専で知り合った同級生同士が、社会人生活を経たあとにコンビを組んだ形でした。
ひょうろくさんにとって、会社を辞めた時点から初めて芸人としての日常が始まりました。
「ルミ」ではなく鹿児島銘菓の兵六餅から「ひょうろく」に
現在では本名以上に知られている「ひょうろく」という芸名も、最初から本人が考えていた名前ではありません。
本人は当初、芸名として「ルミ」を希望していました。
ところが浅井企画で周囲から反対され、その場にいた放送作家が持っていた鹿児島銘菓「兵六餅」が目に入りました。
そこから「ひょうろく」という案が出て、現在まで続く芸名になっています。
芸人への転身だけでなく、現在の芸名まで、ジュウジマルを始めた時期に偶然が重なって決まっていきました。
ジュウジマル時代|「明るい芸人」を演じながら続いた若手生活
会社員を辞めれば、すぐ芸人として生活できるほどの収入が得られたわけではありません。
ジュウジマルとして活動を続ける一方で、ひょうろくさんの日常の大部分を支えていたのはアルバイトでした。
ネタ作りやライブ選びは相方に任せ、フリートークでは前へ出られなかった
ジュウジマルでは、橋口さんがネタを書き、どのライブへ出るかを考えることも多かったといいます。
ひょうろくさんは用意されたネタなら台本通りに話せても、ライブの最後に出演者が並んで行うフリートークになると、なかなか前へ出られませんでした。
一言も話さないまま終わることさえあり、その一方で本人の頭には「芸人なのだから明るくしなければ」という意識がありました。
そこで普段より大きな声を出したり、明るい人物に見えるようにしたりと、自分なりの「芸人らしさ」を作っていた時期があります。
テレビで知られるようになった後の姿とは、話し方も振る舞い方もかなり異なっていました。
会社員時代から収入が急減し、マッサージやカフェなどのアルバイト生活へ
会社員時代には年収400万〜500万円ほどあった一方、芸人へ転身すると収入は大きく変わりました。
本人の振り返りでは、芸人時代の月収が10万〜11万円ほど、年収にすると120万〜130万円ほどだった時期もあります。
生活費のほとんどをアルバイトでまかない、マッサージやカフェなど複数の仕事を経験しました。
夜になると、このまま何十年も売れなかったらどうなるのかと不安になる一方、翌日にはまた目の前の生活へ戻っていく日々が続きます。
安定した会社員生活から芸人へ移ったことで、収入も働き方も一度大きく変わりました。
長く続けるうちに「芸人らしく振る舞う」ことをやめ始める
コンビ活動が7年ほど続いたころ、ひょうろくさんは無理に明るく振る舞い続けることに疲れ始めます。
頑張って「芸人らしい自分」を見せても状況が大きく変わらない中で、服装や話し方を含め、少しずつ自分が楽な状態へ戻していきました。
「どうせ辞めるんだったら、好きなことやって辞めちゃえ」
スタジオパーソル
明るく見せようと力を入れていた時期から、現在知られているゆったりした話し方へ近づいていったのは、このころでした。
2019年M-1で3回戦へ進むも、コンビには別の転機が近づく
ジュウジマルは漫才コンビとしてM-1グランプリにも出場し、2019年大会では3回戦まで進みました。
会社員を辞めてから7年以上が過ぎてもコンビ活動は続いていましたが、そのころ橋口さんの生活には大きな変化がありました。
橋口さんはすでに結婚しており、妻は鹿児島、本人は東京という離れた生活を送っていました。
それまでひょうろくさんから解散を持ち出したことはなく、結成当初から、橋口さんが辞めたくなったときに言ってほしいという考えで活動していました。
ジュウジマル解散前夜|ひょうろくが「さらば青春の光」を頼った理由
2020年が近づくころ、ジュウジマルの活動は続けられるかどうか分からない状態になっていきました。
この時期にひょうろくさんが自分から動いて接点を作った相手が、さらば青春の光でした。
結婚していた相方から「地元に帰る」と告げられ、解散が現実味を帯びる
橋口さんから鹿児島へ戻る考えを聞き、ひょうろくさんにもコンビの終わりが現実的なものとして見えてきました。
ただ、その時点ですぐに「一人で芸人を続けよう」と考えていたわけではありません。
ジュウジマルではネタ作りを橋口さんに任せることが多かったため、一人になったあと何をすればいいのかという明確な計画も持っていませんでした。
そこで考えたのが、コンビで仕事を増やし、芸人としてもう少し稼げるようになれば、状況を変えられるかもしれないということでした。
解散後の自分を売り込むためではなく、最初はジュウジマルを続ける可能性を探して動いていました。
コンビを続ける方法を探し、面識のないザ・森東へネタを持ち込む
ひょうろくさんが目を向けたのは、さらば青春の光の個人事務所「ザ・森東」でした。
テレビでさらば青春の光を見ると自然と目で追っていたことから、自分たちとの違いを知りたいと考え、ネタを見てもらおうと事務所へ向かいました。
しかし、さらば青春の光とはほぼ面識がなく、事前の約束もない訪問でした。
スタッフからは突然事務所へ来るようなやり方を注意され、その日は森田哲矢さんや東ブクロさんにネタを見てもらうところまで進みませんでした。
「少しでも可能性を見つけたかったんだと思います。」
文春オンライン
さらばのYouTube企画を見つけ、アルバイトを抜けて事務所へ向かう
その数か月後、さらば青春の光側から思わぬ機会が生まれました。
2020年3月7日、森田さんがXで「17時までにザ・森東の事務所のインターホンを押せた芸人にギャラ1万円」というYouTube撮影の募集を告知しました。
告知に気づいたひょうろくさんは、そのとき入っていたアルバイト先へ連絡し、仕事を早く切り上げて事務所へ向かいました。
実際には締め切りから20分ほど遅れてしまいましたが、それでもインターホンを押しています。
一度はアポなし訪問で会えなかったさらば青春の光と、この行動によって直接つながることになりました。
このときの様子は、さらば青春の光の公式YouTubeチャンネルに「ひょうろく初登場」として残っています。
2020年にジュウジマル解散|フリーのひょうろくとして再出発
さらば青春の光との接点ができた2020年、ジュウジマルは結成から約8年で活動を終えました。
ひょうろくさんにとっては、会社員時代から人生を一緒に変えた相方との活動がここで一区切りになります。
8年間続いたコンビが解散し、浅井企画も離れる
ジュウジマル解散後、ひょうろくさんは浅井企画を離れ、フリーで活動するようになりました。
橋口さんと組んでいたころのようにネタを用意してくれる相方はおらず、自分一人で芸人として何をすればよいのかもはっきりしていませんでした。
さらば青春の光とのつながりはできていたものの、その時点でザ・森東に所属したわけでもありません。
コンビ解散によって、ひょうろくさんは初めて「一人で活動する」状態になりました。
解散前後には体調を崩して緊急入院も経験
コンビの状況が大きく変わっていたころには、原因がはっきりしない体調不良にも見舞われています。
本人の振り返りでは体が動かなくなるほど状態が悪化し、病院へ行くとそのまま緊急入院になりました。
肝臓に関する数値も大きく上がっていたといい、本人は傷口などから菌が入った可能性を聞いたと説明しています。
ジュウジマル解散という仕事上の変化だけでなく、生活そのものも落ち着かない時期でした。
さらばのYouTube出演が少しずつ新しい仕事へつながる
一方で、ザ・森東へ飛び込んだことから始まった関係は、コンビ解散後も続きました。
さらば青春の光のYouTubeへ少しずつ出演するようになり、チャンネルを見ている視聴者に「さらばの近くにいる独特な人物」として知られるようになっていきます。
森田さんからは早い段階で、スタジオで大人数とトークするよりも俳優のような仕事が向いているのではないかという話もされていました。
芸人として売り込むために計画していた形ではないまま、さらば青春の光との仕事が新しい入口になっていきました。
さらばYouTubeから水曜日のダウンタウンへ|仕事が変わり始める
さらば青春の光の周辺で少しずつ知られるようになったひょうろくさんに、テレビの大きな転機が訪れます。
それがTBS系のバラエティー『水曜日のダウンタウン』でした。
2022年3月23日に水ダウ初出演
ひょうろくさんが『水曜日のダウンタウン』へ初めて出演したと確認できるのは、2022年3月23日放送の「リアルに『へぇ』と言わせるの難しい説」です。
プレゼンターはさらば青春の光の森田さんで、ひょうろくさんは偽番組の楽屋へ呼び出されるターゲットになりました。
森田さんが嘘の話を次々と聞かせ、自然な「へぇ」を何回引き出せるかを試す企画で、まだひょうろくさん本人を主役にした企画ではありませんでした。
ここから『水曜日のダウンタウン』への出演が重なり、さらばのYouTubeを見ていなかった層にも顔が知られるようになります。
独特な反応と仕掛け人としての演技で出演機会が増える
その後は、替え玉役やドッキリの仕掛け人など、普通にトークするだけではない役回りで呼ばれる機会が増えました。
中でもひょうろくさんの特徴が出たのが、怪しい人物や不自然な状況を演じながら、相手を最後まで信じ込ませる企画でした。
仕掛け人として演技を続ける姿を見て、「普段のひょうろく」と「役を演じているひょうろく」の境目そのものが注目されるようになっていきます。
ジュウジマル時代にはライブのフリートークへ前に出ることさえ苦手だった人物が、台本や設定のある場面ではまったく違う顔を見せるようになりました。
水ダウでは「面白い芸人」としてだけでなく、「何を考えているのか読めない演者」としての存在感が強くなっていきました。
「裏の顔」企画などを経て、ひょうろく自身への注目が拡大
出演が増えるにつれ、「普段のおとなしい姿は本当なのか」という部分まで番組の企画になっていきました。
2024年9月には、普段見せているキャラクターとは異なる「裏の顔」があるのではないかを探る企画が放送されています。
さらに2025年2月の企画では家族との電話なども使われ、これまで謎の多かった私生活へ踏み込む内容になりました。
この放送では、ひょうろくさんの本名が白澤直樹(しらさわ・なおき)であることも明らかになっています。
もともとはさらば青春の光のYouTubeで知られていた人物が、番組側から人物像そのものを掘り下げられる存在へ変わっていました。
水ダウの先に俳優業|昔とは違う場所へ広がった現在
『水曜日のダウンタウン』で見せた演技は、バラエティーの中だけにとどまりませんでした。
ドラマのオファーが増え、会社員から漫才コンビへ転身したころには想像できなかった仕事へ活動範囲が広がっていきます。
ドラマ出演が増え、2025年には初主演と大河『べらぼう』へ
2025年3月には、BS日テレのドラマ『コンシェルジュの水戸倉さん』でテレビドラマ初主演を務めました。
それまで脇役やバラエティー内の演技で注目されてきたひょうろくさんにとって、作品の中心人物を演じる仕事でした。
さらに同年、NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』へ松前廣年役で出演し、大河ドラマにも初めて加わっています。
バラエティーで「どこまで演技なのか分からない」と注目された人物が、台本のあるドラマで役を演じる機会を増やしました。
若手時代に苦手だったフリートークとは別の場所で、演じる仕事が大きく広がっていきました。
2026年は舞台にも初挑戦し、「芸人」だけではない活動へ
2026年6月には、ヨーロッパ企画・上田誠さんの戯曲を上演した舞台『曲がれ!スプーン』へ神田役で出演しました。
東京公演は6月4日から14日、京都公演は6月17日から19日に行われ、ひょうろくさんにとって本格的な稽古を重ねて参加する舞台は初めての経験でした。
「お芝居の舞台でしっかりと練習してというのは初めての経験」
関西テレビ 舞台「曲がれ!スプーン」公式サイト
本人は普段、人前でライブをする機会自体が少ないとも話しており、テレビや映像作品とは違う舞台での演技にも取り組みました。
現在は漫才を中心に活動していたジュウジマル時代とは異なり、バラエティー、ドラマ、舞台をまたいで仕事をしています。
故郷・鹿児島市の仕事にも戻り、現在の活動が広がる
仕事が全国へ広がる一方で、故郷の鹿児島と関わる機会も生まれています。
鹿児島市はひょうろくさんを鹿児島市出身の人物として紹介し、2025年7月7日と8日には2日間限定で「鹿児島市ふるさと納税PR部長」を委嘱しました。
高専を卒業すると「遠くへ行ってみたい」と鹿児島を離れ、千葉と福岡で会社員を経験したあと、橋口さんの誘いから芸人になったひょうろくさん。
ジュウジマルの解散後も特定の芸能事務所へ所属せずフリーで活動しながら、ザ・森東のヤマネヒロマサさんらのサポートを受け、仕事の範囲を広げてきました。
鹿児島で静かに過ごしていた少年は、高専を卒業して会社員になり、同級生からの誘いで初めて芸人という道へ入りました。
ジュウジマルの解散が近づいたとき、自分からさらば青春の光のもとへ向かったことが、その後の『水曜日のダウンタウン』や演技の仕事へ続く新しい入口になりました。
現在は、漫才コンビだったころとは違う形で、バラエティー、ドラマ、舞台へ活動の場を広げています。












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