人物プロフィール
濃い関西弁と勢いのあるしゃべりで、細田祥平さんの理屈に次々と言葉を返していくひつじねいり・松村祥維さん。
ひつじねいりは2024年、2025年と2年続けてM-1グランプリ準決勝へ進み、ライブだけでなくテレビやラジオ、配信へも活動の場を広げています。
松村さんは大阪府東大阪市で育ち、立命館大学へ進みましたが、芸人への入口はNSCなどの養成所ではありませんでした。
大学生活の終盤まで就職活動をしていたところ、高校時代の同級生からお笑いへ誘われたことで進路が変わりました。
そこから静岡での生活、大阪での最初のネタ見せ、一人での上京、いくつものコンビ活動を経て、30歳を前に今度こそNSCへ入ろうとしていたところへ細田さんから声がかかります。
東大阪で笑いが身近だった子ども時代から、ひつじねいり結成までを順番にたどると、現在の漫才で聞こえてくる松村さんの言葉のテンポが、どこからやってきたのかも見えてきます。
ひつじねいり松村祥維の生い立ちと家族|東大阪でお笑いが身近だった子ども時代
松村祥維さんは1988年7月2日生まれ、大阪府東大阪市出身です。
現在の公式プロフィールには立命館大学中退と記載されていますが、そこへ進むまでの松村さんの日常には、すでに大阪らしい「笑いを中心にした会話」がありました。
土曜は新喜劇、月曜は「ごっつ」の話をするのが日常だった
子どものころの松村さんにとって、お笑いは特別な趣味として探しに行くものではなく、生活の中に自然に入ってくるものでした。
当時は土曜日にも午前中の授業があり、学校から帰ると昼ごはんを食べながら吉本新喜劇を見るのが定番だったと振り返っています。
週が明けた月曜日には、友人たちと新喜劇や『ダウンタウンのごっつええ感じ』について話すという日常がありました。
松村さんの感覚では、当時の大阪ではスポーツができる子や勉強のできる子以上に、「面白いやつ」がクラスの中心にいるような空気があったそうです。
テレビで見た笑いを翌日の学校へ持ち込み、友人同士の会話でまた笑うという環境の中で育っていました。
友人や先生にいじられ、小学生から「返し」を覚えた
学校では、自分から一方的に笑わせるというより、周囲から何かを言われたときに返す機会が多かったようです。
友人からいじられるだけでなく、先生からも言葉を投げかけられ、その場でどう返せば面白くなるのかを考えていました。
本人は後年、小学生時代について、ただいじられて終わるのではなく、うまく返そうとする感覚がすでにあったと話しています。
用意したネタを披露するのではなく、相手の言葉を受け取ってその場で返すという形だったことが、松村さんの子ども時代を具体的に伝えています。
家族について確認できること|母からもらった「祥維」という名前
松村さんは家族構成や両親の職業などを詳しくプロフィール化しているわけではありませんが、母親について本人の口から出ている印象的な話があります。
それが「祥維」という名前です。
後年、名前について話した際には、母親からもらった名前だと表現しており、この「祥」の一文字は、ずっと後に芸人人生の新しいコンビ名を考える場面でも登場することになります。
中学・高校時代|会話のツッコミで周囲を笑わせる学生へ
小学生のころに身につけていた「言われたことへ返す」というやり取りは、年齢が上がるにつれて少しずつ形を変えていきます。
一方で、学生時代の松村さんはお笑いだけに時間を使っていたわけではなく、スポーツにも力を入れていました。
学生時代はソフトテニスで大阪府選抜候補に
マセキ芸能社の公式プロフィールでは、松村さんの特技としてソフトテニスが挙げられ、学生時代には大阪府選抜候補になったことも記載されています。
現在もスポーツ全般を趣味としており、球技を得意分野に挙げています。
学生時代のすべてをお笑い一色で説明できる人物ではなく、学校生活の中ではスポーツにも本格的に取り組んでいました。
高校では女子との会話でもツッコミを入れて笑わせていた
高校生になると、小学生のころとは違う形で、会話の中から笑いを作るようになります。
松村さんは当時、女子との会話で相手の発言へ軽くツッコんだり、少しいじったりすると笑ってもらえることを覚えたと話しています。
人前で完成したネタを披露するより先に、日常会話のテンポで相手の言葉を拾って笑いへ変える経験を重ねていました。
後に漫才師となってからも松村さんが強く意識する「普通の会話として自然かどうか」という感覚は、高校時代のこうしたやり取りを思わせます。
高校名は公式プロフィールに記載なし|その後は立命館大学へ
松村さんの高校名は、マセキ芸能社の現在の公式プロフィールには掲載されていません。
一方、大学については立命館大学へ進学し、公式プロフィールでは中退とされています。
高校を終えてすぐ芸人の道へ進んだわけではなく、大学へ進み、サークルやアルバイト、友人との生活を経験したあとに進路が大きく変わります。
浪人を経て立命館大学へ|サークルとアルバイトに動き回った大学時代
大学時代の松村さんは、後の芸人生活から想像するような「お笑い一直線」の学生ではありませんでした。
いくつものコミュニティに入り、アルバイトもしながら、かなり活動量の多い学生生活を送っています。
大学受験前後は恋愛にも振り回された浪人生活
大学へ入る前には浪人生活も経験しています。
後年の学生向けインタビューでは、現役時代に付き合っていた相手との別れや、浪人中に予備校で気になる人ができたことなども話しており、本人自身、勉強だけに集中していた一年ではなかったと振り返っています。
その後、立命館大学へ進みました。
フットサル・バレー・イベント系サークルを掛け持ち
大学ではフットサル、バレーボール、イベント系サークルなど、複数の集まりを掛け持ちしていました。
本人の表現では「死ぬほどバイト」もしながら、多くの友人と遊び、かなりの体力で動き回っていた時期です。
大学のお笑いサークルからプロへ進んだ細田祥平さんとは対照的に、松村さんは学生お笑いの大会やサークルを経由して芸人になったわけではありません。
この時点では、友人と過ごし、サークルへ行き、アルバイトをする大学生としての生活が中心でした。
就活を進め、当初はサラリーマンになる予定だった
大学生活が終盤へ入っても、松村さんは「芸人になる」と決めていたわけではありません。
実際に就職活動をしており、本人はサラリーマンになるつもりだったと後に明かしています。
子どものころからお笑いが身近で、人を笑わせる感覚もありましたが、それを職業にする勇気までは持てずにいました。
その進路を突然動かしたのが、高校時代から知る一人の友人でした。
芸人になったきっかけ|高校同級生の「お笑いやらんの?」で進路が変わる
松村さんの芸人人生は、養成所の願書を書いたことから始まったわけでも、オーディションへ応募したことから始まったわけでもありません。
大学生活の終盤、すでに社会人になっていた高校時代の同級生から突然かけられた一言が入口でした。
大学生活の終盤、高校同級生から突然誘われる
当時の松村さんは就職活動を進め、普通に会社へ勤めるつもりでいました。
そんな時期、高校の同級生からお笑いをやらないかと声をかけられます。
「お笑いやらんの?」
テレビ朝日 logirl
以前からお笑いが自分に向いているかもしれないという感覚はありましたが、仕事にする決断まではできていなかった松村さんにとって、この誘いが実際に動き出すきっかけになりました。
就職へ向かっていた大学生活の終盤で、芸人という別の進路が現れました。
親には「勤務地が東京」と伝え、まず静岡の社宅へ
ただし、誘ってきた同級生はすでに社会人で、静岡で働いていました。
松村さんは当時留年しており、家族へそのまま「芸人をやる」と伝えて出発したのではありません。
親には就職したように見せ、「勤務地が東京になった」という形で実家を出たと本人が明かしています。
実際に向かった先は東京ではなく、まずは静岡にある相方の会社の社宅でした。
会社員として働く友人の生活拠点に身を置きながら、二人でお笑いへ踏み出すという少し変わったスタートでした。
大阪の新人コンクールでウケず、帰りの車内に重い空気
二人が最初に挑戦したのは、大阪で開かれた新人コンクールの予選でした。
観客を入れた本番の舞台というより審査のためのネタ見せでしたが、周囲には大阪で本気で活動している若手芸人が集まっていました。
そこで松村さんたちは、ほとんど笑いを取れませんでした。
初めて外の世界へネタを持ち込んだことで、自分たちと本気で芸人をしている人たちとの差を一度に見せられます。
予選を終えたあと、二人は車で静岡へ戻りましたが、帰り道は重い空気になったと松村さんは振り返っています。
その経験を境に、相方の気持ちは少しずつお笑いから離れていきました。
2カ月後に一人で東京へ向かい、フリーライブの世界へ
それでも松村さんの気持ちは終わりませんでした。
静岡で生活を始めてから約2カ月後、相方へ気持ちを伝え、社宅を出ます。
「俺、本気でやるわ」
テレビ朝日 logirl
ここから松村さんは一人で東京へ向かいました。
大阪へ戻らなかったのには理由があり、当時26歳になる年だった松村さんは、NSCへ一年通うよりも、すぐに舞台経験を増やしたいと考えました。
大阪で芸人を始めるなら吉本興業やNSCというルートが強く見えた一方、東京には事務所へ所属していなくても参加できるフリーライブが数多くありました。
養成所へ入るより先に、とにかく客前へ出る回数を増やすことを選びました。
東京のフリーライブで続いた試行錯誤|ウェンディからいい塩梅まで
一人で東京へ出たからといって、すぐに現在へつながる相方が見つかったわけではありません。
養成所にも所属事務所にも頼らず、アルバイトとライブを繰り返しながら、自分で芸人仲間との接点を作る時期が始まります。
友人宅に居候し、アルバイトをしながら相方を探した
上京した松村さんは、まず友人の家へ居候しました。
生活費を作るためにアルバイトをしながら、東京のお笑いライブへ足を運び、出演者を見ては一緒にできる相手を探していました。
NSCのように同じ教室へ同期が集まる環境ではないため、自然に相方候補が周囲へ並んでいるわけではありません。
本人も後に、養成所にも事務所にも入っていなかったため「同期」と呼べる存在がいなかったという趣旨の話をしています。
20代の多くを、決まったレールのない状態で東京のライブシーンに入り込むことへ使いました。
高田馬場で高校同級生と再会し、初期コンビで活動
相方を探していた時期、思いがけない場所で知人と再会します。
高田馬場の食堂に入ったところ、高校時代の同級生が偶然そこにおり、その友人も東京へ出てお笑いを始めていました。
二人はコンビを組み、松村さんは東京のライブへ出演する生活を続けます。
公的な記録で確認できる初期コンビの一つが「ウェンディ」で、M-1グランプリ公式には松村祥維さんと花房剛さんのコンビとして、2013年12月18日結成、当時はフリーと記録されています。
松村さんが本人インタビューで振り返っているこの時期のコンビは2年余り続きましたが、相方が結婚を機に芸人を辞めることになり、再び別の相手を探すことになりました。
コンビ解散後も複数の相方・ユニットで舞台を続けた
一度コンビが終わっても、松村さんは芸人をやめませんでした。
その後はさまざまな相手と組んでみながら、自分に合う形を探していきます。
最初から「この相方と長く続ける」という状態ではなく、組む、舞台へ出る、解散する、また相手を探すという時間を繰り返していました。
そうした中で2017年、新たに久保田星希さんと「いい塩梅」を結成します。
いい塩梅でM-1準々決勝へ進み、SMA所属につながる
M-1グランプリ公式では、いい塩梅の結成日は2017年6月1日と記録されています。
結成したその年のM-1で1回戦、2回戦、3回戦を通過し、準々決勝まで進出しました。
翌2018年も再び準々決勝へ進んでおり、コンビとして一定の結果が出始めます。
いい塩梅でM-1準々決勝まで進んだことでライブへの出演機会が増え、松村さんを知る東京の芸人も増えていきました。
いい塩梅はSMAに所属し、松村さんにとって初期のフリー活動から一段進んだ時期になります。
ただ、本人によれば二人は性格的に合わない部分もあり、コンビは長く続きませんでした。
2019年の解散後、30歳を前にNSC入学を決意する
2019年2月1日、いい塩梅は解散しました。
松村さんは芸人活動を続けることを選びましたが、このとき年齢は30歳を迎える時期に差しかかっていました。
これまで一度も養成所へ入らず活動してきた松村さんは、ここで初めて「今ならまだNSCへ行ける」と考えます。
吉本興業への憧れもあり、NSCへの入学準備を進め、残っていたのは学費を振り込む段階というところまで来ていました。
ところが、その直前に一人の芸人から連絡が入ります。
細田祥平との出会いとひつじねいり結成|朝6時の珈琲西武で決めた新コンビ
その人物が、現在の相方である細田祥平さんです。
二人はいい塩梅が解散してから初めて知り合ったわけではなく、それぞれ別のコンビで活動していたころから東京のライブで顔を合わせていました。
K-PROのライブで知り合い、濃い関西弁が細田の印象に残った
本人たちの記憶では、二人が接点を持ったのはK-PROなどのライブでした。
細田さんはいい塩梅の漫才を見ており、松村さんの前コンビを面白いと思っていました。
もう一つ印象に残ったのが、細田さんが当時暮らしていた家へ松村さんが遊びに来たときのことです。
松村さんは同居人へ濃い関西弁で「コバはん」と呼びかけ、その東京では目立つほどコテコテのしゃべり方が細田さんの記憶に残りました。
細田さんは、二人で並んだときに見た目も対照的になると考えていました。
いい塩梅解散直後、細田からコンビ結成を誘われる
いい塩梅が解散すると、細田さんは早い段階で松村さんへ声をかけました。
2020年のインタビューでは、細田さんが「僕が誘いました」と話し、解散から4日ほどで「組む」という話になったと明かしています。
松村さん側にも、次の相方について一つ明確な希望がありました。
以前のコンビでは自分でネタを書く経験もしていましたが、ゼロから発想を生み出すことには苦労しており、次はネタを書ける相手と組みたいと考えていました。
細田さんはネタのアイデアを次々と出せるタイプで、この条件にも合っていました。
NSC入学寸前から方向転換し、2019年2月14日に結成
二人がコンビについて話し合った場所は、新宿にあった珈琲西武でした。
時間は朝6時で、しかも二人とも朝8時からそれぞれアルバイトを控えていました。
NSCの入学金を振り込む直前だった松村さんは、養成所へ行くのではなく細田さんとコンビを組む道を選びました。
M-1グランプリ公式に記録されているひつじねいりの結成日は、2019年2月14日です。
細田さんも同日、自身のnoteで元いい塩梅の松村さんと新しいコンビを組んだことを報告しました。
「お笑いコンビを組みました。」
細田祥平 note「結成報告」
静岡から一人で東京へ出て何度も相方を探した松村さんが、30歳を迎える年に現在の相方と組むことになりました。
二人に共通する「祥」から生まれた「ひつじねいり」
コンビ名にも、二人が組んだことそのものが反映されています。
細田祥平さんと松村祥維さんは、名前に同じ「祥」という漢字を持っています。
コンビ名を考えていたとき、その共通する一文字に気づき、「祥」の中にある「羊」と「ネ」へ目を向けました。
羊から睡眠、睡眠から「たぬき寝入り」を連想し、最終的に「羊」「ネ」「入り」から「ひつじねいり」となりました。
松村さんはこの由来を話した際、母からもらった自分の名前を大事に使っているという趣旨の冗談も口にしています。
初舞台はK-PRO、現在の漫才スタイル完成までは時間がかかった
二人の記憶では、ひつじねいりとして最初に出たのはK-PROのライブだったとされています。
それぞれ前のコンビですでに東京のライブへ出ていたため、観客の中には松村さんと細田さんを知っている人もいました。
ただし、新コンビになった瞬間から現在の形で大きく受けたわけではありません。
松村さん自身、自分たちのスタイルを見つけるまでには時間がかかったと振り返っています。
ひつじねいりの若手・下積み時代|東西の違いを漫才に変えていく
ひつじねいりは、埼玉県出身で慶應義塾大学のお笑いサークルを経験した細田さんと、大阪府東大阪市出身で養成所を通らず現場へ入った松村さんという、かなり違う経歴の二人です。
その違いは、結成後にネタを作る過程でもはっきり表れるようになりました。
細田がネタを書き、松村が会話のテンポを整える役割へ
ネタの出発点を作るのは主に細田さんです。
発想や台本を細田さんが持ってきたあと、二人で話し合い、松村さんが実際の会話として言いやすい形へ整えていきます。
細田さんは一つの面白いことを長めの文章で伝えようとすることがあり、松村さんは「普通の会話ならそんなに長く言わない」と感じた部分を短くしていきます。
細田さんが発想を作り、松村さんが関西の会話にあるテンポや音を加えるという分担ができていきました。
細田さんはこの役割を「音感担当」と表現したこともあります。
最初のころは細田さんの台本を比較的そのまま演じていましたが、M-1で上へ行くにはそれだけでは足りないと考え、松村さん側からも言葉や流れへ手を加えるようになりました。
緊張しない松村と、何度も練習したい細田の対照的な関係
ネタ作りだけでなく、本番への向き合い方も二人はかなり違います。
細田さんは自身を緊張しやすいタイプとし、M-1の会場選びでもさまざまな可能性を考えて迷う一方、松村さんはあまり動じません。
「度胸っすかね?」
ワラパー
細田さんは松村さんについて、ネタ中にも緊張している姿をあまり見たことがないと話しています。
その一方で、練習量については細田さんのほうが多くやりたがり、松村さんは「大丈夫やろ」という感覚で構えることがあるため、ネタ合わせでも性格の違いが出ます。
一人は細部まで不安になり、もう一人は構えすぎないという組み合わせで漫才を作ってきました。
ライブを重ねながら徐々に知られるコンビになった
ひつじねいりは結成後、ライブを中心に舞台数を重ねました。
2022年のインタビュー時点では、月に30本ほどのお笑いライブへ出演していた時期があったとされています。
それでも当時の松村さんは、メディアの仕事が急激に増えたという感覚はなく、少しずつ知ってくれる人が増えてきた程度の手応えだと話していました。
結成直後にテレビへ一気に進んだのではなく、ライブで漫才を続けながら数年かけて名前を広げていきました。
2023年、おもしろ荘・ツギクル準優勝・お笑い有楽城優勝で露出が広がる
仕事の幅が目に見えて広がっていくのが2023年です。
『ぐるナイ おもしろ荘』への出演をはじめ、フジテレビ系『ツギクル芸人グランプリ』では準優勝しました。
さらにニッポン放送の若手芸人コンテスト「決戦!お笑い有楽城」では優勝しています。
それまでライブを軸に活動していたコンビが、賞レースやテレビ、ラジオで続けて名前を見せる一年になりました。
翌2024年もツギクル芸人グランプリ決勝へ進み、漫才師としての活動はさらに次の段階へ向かいます。
M-1準決勝へ|2024年・2025年の転機と松村祥維の現在
ひつじねいり結成時から、二人が強く意識してきた舞台の一つがM-1グランプリでした。
前のコンビ時代からM-1へ挑んでいた二人は、ひつじねいりとしても毎年舞台を重ね、2024年に大きく前進します。
2024年に初めてM-1準決勝へ進出
2024年、ひつじねいりはM-1グランプリ準決勝へ進出しました。
結成から約5年、細田さんが作る発想と松村さんの会話のリズムを組み合わせながらライブを続け、初めて準決勝まで進んだ年です。
M-1準決勝進出は、長く東京のライブで活動してきた二人が全国規模の大会で最終盤まで残った大きな節目になりました。
ただ、本人たちはそこで「到達した」という受け止め方をしていたわけではなく、翌年も決勝を目指して漫才を続けます。
2025年も準決勝へ進み、漫才師として存在感を高める
2025年もひつじねいりはM-1準決勝へ進出し、2年連続の準決勝となりました。
マセキ芸能社の公式プロフィールにも、2024年と2025年のM-1準決勝進出が主な実績として記載されています。
2025年の敗者復活戦後、松村さんのSNSには同じ舞台で戦った芸人を応援する言葉も残り、M-1が現在もコンビにとって大きな舞台であることが伝わります。
2026年はキングオブコントでも松村が準決勝へ
漫才以外でも、松村さん個人の活動は広がっています。
マセキ芸能社の公式プロフィールには、松村さんのキングオブコント準決勝進出が2024年、2025年、2026年と記載されています。
2026年大会についても、9月時点で確認できる実績は準決勝進出までで、漫才を中心にしながらコントの大会でも結果を残しています。
一つの芸風だけに活動を閉じず、テレビや配信などにも出演するようになりましたが、松村さんが長く続けている中心には舞台があります。
テレビや配信へ広がっても、現在まで漫才とライブが活動の軸
現在のひつじねいりは、テレビ、ラジオ、Podcast、配信などにも出演しています。
それでも松村さんが以前から口にしてきた将来像は、テレビタレントになることだけではありません。
「舞台で漫才してるおっちゃんでありたい」
ワラパー
2026年に入ってからも、松村さんの公式Xにはライブ予定や新ネタライブの告知が継続して並んでいます。
養成所より先に舞台へ出る回数を求めて一人で東京へ来た松村さんは、現在もライブで漫才をする時間を活動の中心に置いています。
東大阪で新喜劇を見ながら育ち、学校ではいじられた言葉へ返し、高校では会話のツッコミで周囲を笑わせていた松村祥維さん。
就職へ進むはずだった大学生活の終盤に友人から誘われ、静岡を経て一人で東京へ向かい、何度もコンビを組み直した末に細田祥平さんと出会いました。
ひつじねいりとなった現在も、その活動の中心には、二人で言葉を交わして作る漫才と舞台があります。












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