所ジョージの生い立ちと若い頃|大学の単位不足から宇崎竜童との出会い、歌手デビューまで

人物プロフィール

本名
芳賀隆之
生年月日
1955年1月26日
身長
172cm
血液型
O型
出身地
埼玉県 所沢市
所属事務所
ティヴィクラブ
芸人活動開始年
1977年

所ジョージさんといえば、長年テレビ番組の司会を務め、車やバイク、模型、音楽などを楽しむ「世田谷ベース」の姿でも知られています。

ところが、その芸能生活の出発点はテレビの司会でもお笑いの養成所でもなく、自分で作った歌を抱えてレコード会社を回った青年時代でした。

さらに時間を戻すと、高校時代には中古のオートバイで通学し、修理代がないため使えそうな部品を自分で探すような生活を送っています。

大学で単位が足りず2年生へ進めない状況になったことから、父親への説明を考えるうちに「芸能界へ入る」という選択肢が浮かびました。

そこから曲作り、レコード会社巡りを経て、宇崎竜童さんとの出会いによって所ジョージという名前と芸能界への道が形になっていきます。

所ジョージの生い立ちと家族|所沢で育った少年時代

所ジョージさんは1955年1月26日に生まれ、埼玉県所沢市で育ちました。

本名は芳賀隆之として知られ、出生時は角田姓でしたが、少年時代の家庭をたどると、厳格な父親と芸能好きな母親という対照的な存在が見えてきます。

厳格な父と芸能好きの母のもとで育つ

父・光男さんは、散財家だった自身の父を反面教師にして育った人物で、戦時中は航空機の整備兵を務め、中国での抑留も経験しました。

戦後は警察予備隊に入りましたが、結婚を認めてもらうために猛勉強して銀行員へ転職したことが、2021年放送のNHK『ファミリーヒストリー』で紹介されています。

家庭では厳格な父親だった一方、母・智江さんは芸能が好きで、後に息子が歌手を目指した際には背中を押す側に回りました。

芸能界へ進もうとした息子を、母親は反対するのではなく応援しました。

「何度も見たい」

WEBザテレビジョン

これは『ファミリーヒストリー』で初めて知る家族の歩みを見た所さんが口にした言葉でした。

母方の祖父は歌や踊りを交えてあめを売っていた

母方の家系には、現在の所さんの仕事を思わせるような人物もいました。

母方の祖父は、ただ商品を並べるのではなく、歌や踊りを披露しながらあめを売っていたことが家族調査で判明しています。

その姿を記録した映像も残っており、芸能好きだった母親はそうした家庭で育ちました。

所さん自身が芸能界へ進むのはずっと後ですが、家庭の中に歌や芸能を遠いものとして扱わない空気があったことは、少年期を知るうえで興味深いところです。

模型やものづくりに夢中になった少年時代

所沢で過ごした少年時代には、プラモデル作りにも熱中していました。

『ファミリーヒストリー』で紹介された親族の証言では、いとことプラモデルの出来栄えを競っていた時期もあり、勉強とは別のところで自分の好きな世界へ入り込んでいた少年だったことが伝えられています。

完成品をそのまま眺めるだけではなく、手を動かして形にする遊びは、後のバイクや車、模型、世田谷ベースでのものづくりへと長く残っていきました。

所ジョージの若い頃|学校生活からバイクに熱中した高校時代へ

小中学校時代を地元の所沢で過ごした所さんは、10代になると模型だけでなく、音楽や乗り物にも興味を広げていきます。

中でも高校時代のバイク生活には、現在の所さんにもそのまま通じるような具体的なエピソードが残っています。

所沢で過ごした小中学校時代

少年時代の所さんは、所沢の生活圏の中で学校へ通いながら、プラモデルなど自分で手を動かす遊びに時間を使っていました。

父親は仕事に打ち込み、息子の将来を心配する厳しい面を持っていましたが、所さんは次第に学校の勉強とは別の方向へ興味を広げていきます。

その一つが音楽であり、もう一つが、やがて生活の大きな部分を占めるようになるオートバイでした。

錦城高校へ進学し、16歳からバイク通学

中学校卒業後は東京都小平市の錦城高等学校へ進み、同校の公式サイトでも卒業生として所ジョージさんの名前が掲載されています。

高校時代に手に入れたのが、中古のオフロードバイクカワサキ・バイソン250でした。

「16歳の時から高校にオートバイ通学してたよ」

週プレNEWS

16歳の高校生が趣味として週末だけ乗っていたのではなく、バイクを日々の通学に使うほど生活の一部にしていました。

捨てられたタイヤを探していた高校時代のバイク生活

中古車だったバイソンは故障することもありましたが、高校生の所さんには十分な修理代がありませんでした。

地元には捨てられたタイヤが集まる場所があり、学校帰りにそこへ寄って、まだ使えそうなものを探して実際に装着してみたこともあったといいます。

オートバイ用に限らず使えそうなものを試し、ハンドルにも自分で手を入れていました。

「壊れたら高い部品を買って直す」のではなく、「手元にあるものから使える方法を探す」という遊び方を、すでに高校時代にしていたのです。

本人は当時を、「毎日、宝探しみたいだった」と表現しています。

大学で進級できない状況から芸能界を目指す

高校を卒業すると大学へ進学し、若い頃の所さんの時間は学校生活から次の進路を考える時期へ移ります。

ところが、ここで予定通りに進まなかったことが、結果として芸能界へ足を向ける直接のきっかけになりました。

高校卒業後に大学へ進学

高校卒業後は拓殖大学商学部へ進学した経歴で知られています。

ただ、後年に本人が詳しく語っているのは大学名や学生生活そのものより、進級を迎える段階で直面した問題でした。

必要な単位が足りず、2年生へ進むことができない状況になっていたのです。

単位不足を父にどう説明するか考え、芸能界という選択肢が浮かぶ

厳格だった父親に進級できないことを知られれば怒られると考えた所さんは、そこで意外な方向へ発想を飛ばしました。

「芸能界入っちゃおうと」

スポニチ Sponichi Annex

子どものころから芸能界だけを目標にして一直線に準備してきたのではなく、大学で進級できなくなった現実を前にしたところから、芸能界が具体的な進路として現れました。

しかも、思いついただけで終わらず、すぐに自分が持っていたものを使って動き始めます。

40~50曲を作り、レコード会社を回るも断られる

所さんが利用したのは、それまでに触れていたギターでした。

ギターのコードは知っていたため、それなら曲を作ってレコード会社へ持っていけばいいと考えます。

「40、50曲作って持って行ったんですよ」

スポニチ Sponichi Annex

数曲のデモを作って様子を見るのではなく、一気に数十曲を作って持ち込みましたが、レコード会社からは「社風に合わない」などと言われ、すぐにデビューが決まったわけではありません。

断られながらレコード会社を回り続けた先で、宇崎竜童さんと出会います。

宇崎竜童との出会い|ライブ前座から「所ジョージ」誕生へ

現在の所ジョージという名前も、テレビへ進む入口も、この時期に出会った宇崎竜童さんとの関係から生まれました。

当時の所さんはまだアマチュアで、いくつものオーディションを受けても合格できずにいました。

オーディションに落ちていた頃、宇崎竜童と出会う

レコード会社を回る中で東芝側から声がかかり、そのつながりから宇崎さんと会うことになります。

宇崎さんは後年、当時の所さんについて、デビューしたいと話していたものの、さまざまなオーディションにことごとく落ちていたようだったと振り返っています。

そこで所さんが取った行動は、歌を長々と説明することでも自分を売り込む演説をすることでもありませんでした。

タバコ1カートンを渡し、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの前座へ

宇崎さんと向かい合っていた所さんは、テーブルの下からタバコを1カートン差し出しました。

「賄賂です」

J-WAVE NEWS

宇崎さんはこのやり取りを受け、毎月渋谷で行っていたダウン・タウン・ブギウギ・バンドのライブで前座をやるよう声をかけました。

本人の別の回想では、渋谷の小劇場ジァン・ジァンへ呼ばれ、月に2日ほど出演するようになったと語っています。

オーディションでは結果が出なかった青年が、宇崎さんとの一度の出会いから実際のステージへ立つようになりました。

宇崎竜童が「所ジョージ」と命名

前座へ出るようになった頃、所さんは宇崎さんに芸名を付けてほしいと頼みます。

宇崎さん自身の説明では、所さんが埼玉県所沢市の出身だったことから「所」を取り、アメリカ人のような響きも意識して「所ジョージ」と名付けました。

現在では本名以上に広く知られている名前ですが、誕生したのは芸能活動を始める直前のこの時期です。

宇崎竜童さんは「僕が名付け親なんです」と明言しています。

前座を見たテレビ関係者から声がかかり、1977年に歌手デビュー

ライブではリーゼントにサングラス、つなぎ姿でステージへ出ていました。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを待っていた観客の前へ出るという立場でしたが、その前座を見ていたテレビ局のプロデューサーが所さんに目を留めたと、宇崎さんは語っています。

そして1977年、所さんはシンガーソングライターとしてレコードデビューしました。

お笑いコンビを結成したわけでも、養成所を卒業したわけでもなく、自作曲とギター、ライブでの独特な振る舞いが芸能生活の入口でした。

歌手デビュー直後にラジオへ|若手・所ジョージの仕事が広がる

1977年にレコードを出した所さんは、歌手活動だけを続けたわけではありません。

デビューしたその年からラジオの生放送を任され、さらに数年のうちにテレビの司会へ進んでいきます。

『ギャンブル狂騒曲』でシンガーソングライターとしてデビュー

デビュー曲は『ギャンブル狂騒曲』で、現在の配信記録では1977年7月29日リリースとなっています。

テレビで長く活躍してから音楽を始めたのではなく、芸能界で最初に世へ出したものが自分で作った歌でした。

当初から普通のフォーク歌手と同じ見せ方をしていたわけではなく、コミカルな自作曲としゃべりが混ざり合うスタイルが所さんの持ち味になっていきます。

1977年『オールナイトニッポン』に抜擢

レコードデビューから間もない1977年10月には、ニッポン放送の『所ジョージのオールナイトニッポン』が始まりました。

最初の担当期間は1977年10月から1980年3月までで、その後1981年4月から1982年3月にもパーソナリティを務めています。

本人によると、まだ無名だった頃に突然抜擢され、初回放送の日も深夜1時の生放送を前に、午前0時半ごろまで近所でスタッフと麻雀をしていました。

しかも、この頃から台本なしでも2時間話せたと振り返っています。

「『オールナイトニッポン』時代はえらい楽しかった!」

ニッポン放送 NEWS ONLINE

歌手としてデビューした直後に、生放送で長時間しゃべる仕事を経験したことが、テレビで知られる所ジョージへ進む大きな変化になりました。

坂崎幸之助と過ごした若手時代と音楽仲間との交流

若手時代から近くにいた音楽仲間の一人が、後にTHE ALFEEとして活動する坂崎幸之助さんです。

BSフジ『所さんの世田谷ベース』では、二人は互いにデビューする前から知る長い付き合いだと紹介されており、売れる前から音楽を通じて遊んでいた関係でした。

所さんが先に担当していた『オールナイトニッポン』のスタジオへ坂崎さんを連れていったこともあり、その後1980年には坂崎さんも同番組の火曜2部を担当することになります。

坂崎さん自身も、所さんにスタジオへ連れていってもらったことがきっかけだったと後年語っています。

二人の関係は若手時代だけで終わらず、数十年後も一緒にギターを手にする音楽仲間として続いています。

1979年『ドバドバ大爆弾』でテレビ司会へ

ラジオでしゃべる仕事を始めてから約2年後の1979年には、東京12チャンネル、現在のテレビ東京で始まった『ドバドバ大爆弾』の司会を任されました。

一般参加者が一芸やゲームに挑戦する生放送番組で、当時の所さんはまだ新人に近い立場でした。

それでも毎週の生放送を任され、ラジオだけでなくテレビでも、歌う人からその場を回してしゃべる人へ仕事の幅が広がっていきます。

大学の進級問題から芸能界へ飛び込んで数年のうちに、所さんは歌手、深夜ラジオのパーソナリティ、テレビ司会者という三つの顔を持つようになりました。

テレビで仕事が増え始めた時期に起きた家族の変化

仕事の場がテレビへ広がり始めた頃、家庭では大きな出来事が続きました。

少年時代に厳しく接していた父との別れを経験し、その翌年には所さん自身が結婚して家庭を持ちます。

1980年、53歳だった父との別れ

1980年、父・光男さんが53歳で亡くなりました。

所さんがレコードデビューしてからまだ数年で、ラジオからテレビへ仕事を広げていた時期でした。

少年時代には厳しい存在だった父ですが、後年『ファミリーヒストリー』で、戦争、抑留、警察予備隊、銀行員への転職を経て家族を持った父の人生を初めて詳しく知ることになります。

若い所さんが芸能界へ入ろうと考えたとき、最初に頭にあったのも「進級できないことを父親にどう説明するか」という問題でした。

結婚して自分の家庭を持つ

父との別れの翌年となる1981年、所さんは結婚しました。

結婚当時、妻は飲食店を経営しており、所さん自身が後に著書で記したところでは、自分の月収が7万円ほどだった一方、妻は100万円以上の収入があった時期だったといいます。

仕事が増えた後も家で妻の料理を食べることを大事にし、妻を題材にした曲も作るようになりました。

「全く価値観が違うからですね」

スポニチ Sponichi Annex

長く続く夫婦関係について尋ねられた際の答えで、さらに所さんは「違う人が面白いんだもん」とも話しています。

若くして家庭を持った後も、家での時間と芸能活動を切り離さず、自分の歌の題材にまでしてきました。

テレビの所ジョージになっても、音楽と「遊び」は続いた

テレビの司会やバラエティーの仕事が増えるにつれ、世間から見た所ジョージさんの肩書きは「歌手」だけでは収まらなくなっていきました。

それでも、芸能界へ入る入口になった音楽と、高校時代から夢中だった乗り物やものづくりは消えませんでした。

歌とトークから司会・バラエティーへ活動が拡大

レコードを出した青年がラジオで話し、テレビで司会をするようになると、所さんの仕事はジャンルの境目を越えて広がっていきます。

一方で、テレビの仕事が中心になってからも曲作りをやめたわけではなく、日常で気になったことを歌にしてきました。

2023年の『所さんの世田谷ベース』でも、自身の音楽について、フォークやロックといったジャンルへ収めるより、日常の中で感じることを歌にしたいという考えを語っています。

「日常の中にメッセージを入れたい」

BSフジ『所さんの世田谷ベース』

大学時代に数十曲を作ってレコード会社へ持ち込んだ頃から、テレビで長く知られるようになった後まで、曲を作る行為自体は続いています。

高校時代のバイク熱が「世田谷ベース」へ続く

現在の所さんを象徴する活動の一つが、車やバイク、模型、道具などに囲まれた「世田谷ベース」です。

ただし、こうした遊びは芸能界で成功してから突然始めたものではありません。

高校時代には修理代がなくてもバイクに乗り続け、学校帰りに使えそうなタイヤを拾い、自分で試していました。

十代の頃に「手元にあるものを工夫して遊ぶ」ことをしていた青年が、そのまま年齢を重ねていったような連続性があります。

公式サイト「97チャンネル」でも、音楽だけでなく、所さんの日々の遊びや創作が継続して発信されています。

16歳で乗ったバイソンを数十年後に再び手に入れる

そのつながりが特に分かりやすいのが、高校時代の愛車だったカワサキ・バイソンです。

2021年、公式YouTube「所さんの97チャンネル」では、バイソンを手に入れ、レストアとカスタムを進める様子が公開されました。

動画の説明でも、バイソンは所さん自身が初めて手に入れた単車として紹介されています。

16歳で通学に使っていた車種が、数十年を経て再び所さんの遊びの対象になりました。

昔の思い出として飾るのではなく、もう一度手を入れて乗れる形にしていくところまで含めて、高校時代のバイク生活と現在の活動が一本につながっています。

2024年に日本レコード大賞作曲賞、現在も曲を作り続ける

テレビで長く司会を続ける一方、音楽でも大きな出来事がありました。

2024年の第66回日本レコード大賞では、新浜レオンさんが歌った『全てあげよう』で、所ジョージさんが作曲賞を受賞しています。

日本作曲家協会の公式記録にも、作曲賞として所ジョージ、曲名『全てあげよう』、歌唱・新浜レオンと記録されています。

1977年に自作曲でレコードデビューしてから47年後にも、作曲家として賞を受けるところまで音楽活動が続きました。

テレビ司会者として知られる期間が長くなっても、その前にいたのは、大学で進級できなくなり、ギターを手に40~50曲を作ってレコード会社へ持ち込んだ青年でした。

高校時代に夢中だったバイクは現在の世田谷ベースへ続き、大学時代に選んだ音楽は長いテレビ生活の間も途切れず残りました。

所沢で好きなものをいじっていた少年から、宇崎竜童さんとの出会いを経て所ジョージとなり、今も歌と遊びを作り続けています。

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