人物プロフィール
鬼越トマホークの良ちゃんといえば、金ちゃんと並ぶ強面の見た目と、相手の痛いところへ踏み込む「喧嘩芸」で知られています。
しかし現在の姿からさかのぼると、長野県千曲市で育った少年時代には家庭や学校に居場所を感じにくく、高校を卒業してからもしばらく明確な進路を決められずにいました。
高校卒業後に選んだ最初の仕事は、知り合いと会わないための夜勤のコンビニ。
その後も地元でアルバイトをしながら過ごしていましたが、松本人志さんの著書『遺書』との出会いによって、それまで遠かったお笑いの世界が現実の進路へ変わっていきます。
23歳で東京NSCへ入り、そこで金ちゃんと出会ったことから、鬼越トマホークの芸人人生が始まりました。
良ちゃんの生い立ちと家族|千曲市の温泉の家で育った少年時代
良ちゃんは1985年12月27日、長野県千曲市出身で、現在も吉本興業の公式プロフィールに千曲市出身と記載されています。
生まれ育ったのは戸倉上山田温泉で知られる地域で、坂井家には温泉と深い関わりがありました。
曾祖父が温泉を掘り当てた戸倉の家で育つ
良ちゃんは後年、曾祖父が温泉を掘り当てた家系であることをテレビなどでたびたび明かしています。
曾祖父の坂井直治郎さんは戸倉で温泉を掘り当てた人物として知られ、良ちゃんの家族は戸倉観世温泉とつながりがあります。
「実家が温泉」という話は単なる芸人トークではなく、良ちゃんが実際に温泉地の家で育ったことから出てきたエピソードです。
経済的に困窮した家庭だったわけではありませんが、本人が後年に語る子ども時代は、温泉のある家という印象だけでは分からないものでした。
父を怖い存在と感じていた4人兄弟の家庭
良ちゃんは4人兄弟の家庭で育ち、父親との関係については大人になってからかなり率直に話しています。
本人によれば、家が極端に貧しかったわけではなく、つらかったのは家の中で感じていた精神的な居心地の悪さでした。
「貧乏ではなかったけど、精神的に嫌だったんですよね。」
QJWeb
同じインタビューでは、当時は家にも学校にもあまりいたくなかったと振り返っています。
父親を苦手に感じていたのは良ちゃん一人だけではなかったという話もあり、家庭内では父親の存在が大きかったことがうかがえるエピソードが残っています。
父に隠れるようにダウンタウンやナイナイを見る
そんな家庭の中でも、良ちゃんはテレビのお笑いに興味を持っていました。
父親は志村けんさんのような昔から親しんできた笑いを好む一方、良ちゃんが見たかったダウンタウンやナインティナインなど当時の新しい世代のお笑いには否定的だったと、良ちゃんは後年語っています。
父親がいるところで好きな番組を自由に見るというより、父親の目を避けながらお笑い番組に触れることもあった少年時代でした。
家では居心地の悪さを感じながら、そのテレビの向こうには、自分とはまったく違う世界が広がっていました。
高校時代|戸倉から長野へ通い柔道部で過ごす
中学を終えると、良ちゃんは地元の戸倉から長野市方面の高校へ通い、高校生活では柔道部に所属しました。
後年の強面キャラクターにもつながりそうな経歴ですが、本人が振り返る柔道部時代は、勇ましい武勇伝とは少し違います。
柔道部で黒帯になるも、本人が語る「卑怯な戦い方」
高校時代には黒帯を取得するまで柔道を続けていましたが、2019年に昔の写真を受け取った良ちゃんは、当時の自分の戦い方を自虐的に振り返りました。
相手から技を仕掛けてくるのを待って返し技を狙ったり、帯がほどけやすいようにして休む時間を作ったり、黒帯を取ったあとも白帯を締めて練習したりしていたと明かしています。
柔道部では黒帯まで進みながら、本人の記憶に残っているのは「強かった自分」より、勝つために細かく工夫していた自分でした。
卒業が近づいても大学や就職という進路を選ばなかった
高校卒業が近づくと、周囲の同級生は大学へ進むか、そのまま就職する時期を迎えます。
ところが良ちゃんには、大学へ行きたいという目標も、すぐ働きたい仕事もありませんでした。
本人は後年、高校卒業後について「就職しなかった」というより、当時はうまく社会へ出ていくことができなかったという感覚で振り返っています。
芸人になるという考えも、この時点ではまだ具体的な進路になっていませんでした。
高校卒業後|夜勤をしながら地元で過ごした約5年間
高校を卒業した18歳ごろから、23歳でNSCへ入るまでの時間は、良ちゃんの昔を知るうえで欠かせません。
実家に住みながら複数のアルバイトを経験しましたが、働く時間にも本人なりの事情がありました。
知り合いに会いたくなくて22時〜朝6時のコンビニへ
高校卒業後、最初の社会経験として選んだのはコンビニの夜勤でした。
勤務時間は夜10時から朝6時ごろで、昼間ではなく深夜に働いた理由について本人ははっきり話しています。
「知り合いと会いたくなかったんです。」
マイナビバイトTIMES
同級生たちが大学や仕事へ進んでいく中、自分には決まった進路がなく、昔の知り合いと顔を合わせることに気まずさを感じていたためでした。
昼間は実家で目立たないように過ごし、人と会う可能性の低い夜に働く生活が始まりました。
ファミレス夜勤を続け、カラオケとビデオ店は1日で辞める
コンビニのあとにはファミリーレストランの夜勤へ移り、こちらは約1年半続けています。
その一方で、カラオケ店やビデオ店のアルバイトに挑戦しても、それぞれ1日で辞めたことがあったと本人は明かしています。
実家では自分の部屋にいる時間が長く、ゲームをしたり、お笑いや格闘技のDVDを見たりして過ごしていました。
後年テレビで強い言葉を次々と繰り出す姿とは対照的に、このころは地元の人間関係からできるだけ距離を取りながら暮らしていました。
ゲームとDVDで過ごす中、古本店で松本人志の『遺書』と出会う
そんな生活の中で手にした一冊が、松本人志さんの著書『遺書』でした。
良ちゃんは地元・千曲市の古本店で『遺書』を買い、松本さん自身の父親との関係について書かれた部分にも強く引かれたと後に語っています。
子どものころからテレビの向こうにいた芸人でしたが、本を読んだことで「松本人志という人に会ってみたい」という気持ちが生まれ、その先に芸人という進路が見え始めました。
何の目標もないまま地元で過ごしていた時期に、『遺書』が東京へ向かう理由の一つになりました。
良ちゃんは後年、夢もなくぶらぶらしていた当時の自分を振り返りながら、そこからテレビの仕事へたどり着いたことを公式Xでもつづっています。
22〜23歳で芸人を目指す|母に打ち明け東京NSCへ
『遺書』を読んだからといって、翌日すぐ東京へ向かったわけではありません。
地元で過ごしていた良ちゃんが実際に動き出すまでには、家族へ自分の考えを伝える場面がありました。
地元のかっぱ寿司で母に「NSCへ入りたい」と告白
22歳ごろ、良ちゃんは母親と地元のかっぱ寿司へ行き、自分がお笑いの養成所へ入りたいことを初めて打ち明けました。
それまで定職へ就かず地元でアルバイトをしていた息子から突然お笑いの話を聞き、母親は食べていた手が止まるほど驚いたといいます。
それでも話をしたことで、頭の中にあった芸人という選択肢が、NSCへ応募するという具体的な行動へ変わっていきました。
地元で何年も進路を決められなかった良ちゃんが、初めて家族へ「お笑いをやる」と伝えた場面でした。
23歳で「ラストチャンス」と考えて上京
良ちゃんが入ったのはNSC東京校15期で、現在の吉本興業公式プロフィールにも15期生であることが記載されています。
入学したのは23歳のころで、10代後半や20歳前後の同期もいる養成所では、決して早いスタートではありませんでした。
本人にとっては、地元に戻って別の人生を選ぶ前に挑戦する「ラストチャンス」という感覚もありました。
高校卒業から約5年を経て、良ちゃんは長野を離れ、23歳で初めて芸人になるための場所へ入りました。
NSC東京15期で最初の1カ月はほとんど誰とも話せなかった
現在の良ちゃんは初対面の相手にも強烈な言葉を投げる芸風ですが、NSCへ入った当初は正反対でした。
2013年のよしもと公式インタビューでは、本人が当時の様子を次のように話しています。
「僕は金ちゃんと出会うまで1カ月、誰ともしゃべらなかったんで。」
よしもとニュースセンター
上京してお笑いの養成所へ入っても、いきなり周囲の中心に立ったわけではなく、人見知りが強い状態からのスタートでした。
金ちゃんとの出会いから鬼越トマホーク結成へ
誰ともほとんど話さなかった良ちゃんのNSC生活を変えたのが、同じ東京15期にいた金ちゃんでした。
吉本興業の公式プロフィールでは、鬼越トマホークの結成は2010年5月とされています。
NSCのネタ見せで金ちゃんを見つけ、良ちゃんから声をかける
二人の出会いについて、良ちゃんと金ちゃんの証言で共通しているのは、良ちゃん側から金ちゃんへ近づいたことです。
良ちゃんは金ちゃんを見たとき、自分と同じような雰囲気を持つ人物がいると感じ、ネタ見せなどで顔を合わせる中で声をかけました。
どんな言葉で最初に誘ったのかについては二人の記憶に違いがありますが、金ちゃん自身も「スカウトされる形だった」と当時を振り返っています。
上京後しばらく誰とも話せなかった良ちゃんが、自分から声をかけた相手が現在まで続く相方になりました。
『あらびき団』を意識した良ちゃんとM-1を見ていた金ちゃん
二人は同じお笑いを目指してNSCへ入ったものの、最初から理想の芸人像まで同じだったわけではありません。
金ちゃんはM-1グランプリなどを見て漫才への意識を持っていた一方、良ちゃんは当時の『あらびき団』に登場するような独特な芸人に引かれていました。
良ちゃん自身は、自分がやりたかったものを「あらびき芸」と表現しており、現在の毒舌を軸にした鬼越トマホークとは違うところからコンビ活動が始まっています。
路線図で見た「鬼越」からコンビ名が生まれる
コンビ名の「鬼越」は、良ちゃんが上京後に千葉方面で暮らしていたころ、路線図で目にした「鬼越」という地名が頭に残っていたことから候補になりました。
そこへ力強い響きの「トマホーク」を合わせ、現在の鬼越トマホークという名前になっています。
結成したころには、のちに代名詞となる喧嘩芸はまだ存在していませんでした。
NSC卒業後の挫折|解散して別々に活動する
NSCの中では、鬼越トマホークは比較的早い段階から評価を受けていました。
ところが養成所を出ると、その評価がそのまま仕事につながったわけではありませんでした。
NSCでは評価された二人が、卒業後は劇場で苦戦
良ちゃんは後年、NSC時代には自分たちでも驚くほど周囲から褒められていた一方、卒業後は「まったくダメ」だった時期があったと話しています。
養成所の中で手応えを得ていた分、外へ出て結果が出ない時間が続くと、二人の間にもストレスがたまっていきました。
仕事が少ないまま日常では一緒に過ごす時間が長く、コンビの距離の近さそのものが負担になっていきます。
関係悪化から解散し、それぞれ別の相手とコンビを組む
やがて金ちゃん側から解散を切り出し、鬼越トマホークは一度別々に活動することになりました。
解散後は良ちゃんも金ちゃんもそれぞれ別の相手とコンビを組みましたが、どちらも思うようには続きませんでした。
離れて活動したことで、二人とも改めて鬼越トマホークとして組んでいたころとの違いを感じることになります。
結成して一度うまくいかなかった二人は、別の相手と活動する時期を挟んで再び同じコンビへ戻りました。
「田舎に帰る」をきっかけに再び鬼越トマホークへ
再結成を持ちかけたのは良ちゃん側でした。
金ちゃんは最初からすぐ受け入れたわけではなく何度か断っていましたが、良ちゃんが地元へ帰ることまで考え、これが最後の機会だという思いを伝えたことで状況が変わりました。
一度解散したあと、「もう一度やる」ことを選んだ二人が、現在まで続く鬼越トマホークを作り直しました。
資料によって解散から再結成までの年の表し方には差がありますが、当時の本人たちのインタビューからは、別々のコンビを経験したのちに再び組んだ流れが確認できます。
若手・下積み時代|アルバイトを続けながら舞台に立つ
再び鬼越トマホークとして活動を始めても、すぐに芸人の収入だけで生活できたわけではありません。
良ちゃんは先輩芸人からアルバイトを紹介してもらうこともあり、舞台やテレビの仕事と別の仕事を行き来していました。
キャバクラのボーイやダクト清掃など複数の仕事を経験
芸人になってから経験した仕事には、キャバクラのボーイ、ビルのダクト清掃、アイドルイベントのスタッフなどがありました。
アイドルイベントでは、握手などの時間を終えたファンを移動させる、いわゆる「剥がし」の仕事を金ちゃんと一緒にしていた時期もあります。
キャバクラのボーイとして接した客や店内で起きたことは、そのまま芸人として話せる材料にもなっていきました。
良ちゃんは金ちゃんとアルバイト先への不満や出来事を共有し、そこから漫才やコントへ持ち込むこともあったと語っています。
芸人の仕事だけでは暮らせなかった時期のアルバイトも、二人にとってはネタを作る材料が集まる場所になっていました。
2013年『おもしろ荘』出演後も、決定的なブレイクには届かない
テレビへの入り口の一つになったのが、2013年の『ぐるぐるナインティナイン おもしろ荘』への出演でした。
若手芸人にとって注目を集める機会の大きい企画でしたが、この出演だけで鬼越トマホークの生活が一変したわけではありません。
テレビへ出る機会は少しずつ生まれていても、芸人だけで十分に生活できる状態ではなく、アルバイトと芸人活動を並行する時間が続きました。
劇場へ立ち、テレビへ少しずつ出るようになったころには、金ちゃんの公式Xに良ちゃんの母親が登場するなど、家族が芸人として活動する姿を見る場面も生まれていました。
2014年の大喧嘩から「喧嘩芸」が生まれる
鬼越トマホークの仕事を大きく変えたのは、用意したネタでも賞レースの優勝でもありませんでした。
2014年、吉本興業の本社で起きた二人の本気の喧嘩が、思いがけない形でテレビ企画へ発展します。
単独ライブ直前、出囃子をめぐり吉本本社で本気の喧嘩
単独ライブを控えていた二人は、舞台で使う出囃子の候補をそれぞれ複数持ち寄ることになっていました。
ところが金ちゃんが持ってきた候補は3曲ともJUJUさんの曲で、それをきっかけに良ちゃんとの言い争いが激しくなりました。
口論では収まらず、吉本本社で実際の喧嘩へ発展し、周囲の先輩芸人たちが止めに入る事態になります。
のちに定番となる喧嘩芸は、最初から作られたフォーマットではなく、本当に二人が揉めた現場から始まりました。
仲裁した先輩への一言を千原ジュニアが面白がる
先輩芸人が二人の間へ入り喧嘩を止めたとき、良ちゃんは仲裁に来た相手に対しても遠慮なく強い言葉を返しました。
普通ならただのトラブルで終わる場面でしたが、その話を聞いた千原ジュニアさんが面白さを見つけます。
「鬼越トマホークは千原ジュニアがいなかったら存在してない」
日刊スポーツ
良ちゃん自身がそこまで言うのは、ジュニアさんが二人の喧嘩を単なる揉め事として処理せず、番組で使える形へ変えた人物だったためです。
『ざっくりハイタッチ』で喧嘩が初めて「芸」になる
2014年、『ざっくりハイタッチ』で「鬼越トマホークの喧嘩を止めよう」という企画が放送されます。
二人が喧嘩を始め、止めに入った芸能人へ良ちゃんが強烈な言葉をぶつけ、最後に金ちゃんがフォローするという形がテレビの中で作られていきました。
本気の喧嘩から生まれたやり取りが、鬼越トマホークにしかできない「喧嘩芸」へ変わった瞬間でした。
NSC時代に良ちゃんが思い描いていた「あらびき芸」とも、結成当初の漫才とも違う形でしたが、この企画を境に鬼越トマホークという名前と二人のキャラクターが広く知られるようになります。
鬼越トマホークの場合、賞レースの優勝ではなく、このテレビ企画が仕事の方向を変えた大きな転機になりました。
喧嘩芸の先へ|YouTubeと故郷・千曲市へ戻った現在
喧嘩芸で名前が知られるようになったあとも、二人の活動はその一つだけにとどまりませんでした。
長いトークや芸人同士の会話を見せる場所が増え、良ちゃん自身の昔について語られる機会も多くなっています。
テレビだけでなくYouTubeへトークの活動場所を広げる
鬼越トマホークは2020年に「鬼越トマホーク喧嘩チャンネル」を開設し、YouTubeでも活動を広げました。
チャンネルでは芸人を招いたトークだけでなく、NSC時代、若手時代、芸人を始めたきっかけなど、テレビの短い出演時間では語り切れない過去も取り上げています。
松本人志さんの『遺書』がお笑いを始めるきっかけになった話も、鬼越トマホーク自身の公式YouTubeで改めて語られています。
喧嘩芸で知られた二人が、長く話すことそのものをコンテンツにする活動へも広がっていきました。
2024年に坂井良多から「良ちゃん」へ改名
2024年10月1日には、長く使ってきた「坂井良多」から「良ちゃん」へ正式に改名しました。
改名は同年9月の単独ライブ企画をきっかけに検討され、いくつかの候補の中から、普段から呼ばれていた名前に近い「良ちゃん」を選びました。
金ちゃんと並べたときにも「金ちゃん・良ちゃん」と覚えやすく、現在は吉本興業のプロフィールも良ちゃん表記に統一されています。
芸名は変わっても、長野で過ごした坂井良多としての昔まで切り離されたわけではなく、その過去が再び前に出る出来事が2026年に訪れます。
2026年、かつて嫌っていた千曲市で初の凱旋ライブ
鬼越トマホークは2023年に千曲市PR大使へ就任し、地元との仕事が少しずつ増えていきました。
そして2026年8月8日、良ちゃんの故郷・千曲市にある信州の幸あんずホールで、鬼越トマホークとして初の凱旋ライブ「鬼笑祭」を開催します。
ニューヨーク、オズワルド、コットン、コロコロチキチキペッパーズ、デニスなど、東京で出会ってきた芸人仲間たちも長野へ集まり、昼夜公演が行われました。
高校卒業後には地元の知り合いと会いたくなくて夜勤を選び、その後東京へ出た良ちゃんにとって、故郷で自分の名前を冠したお笑いライブを開くのは初めてのことでした。
「良い思い出がなく、長野が大嫌いでした。」
FANY Magazine
ライブを終えた良ちゃんは、温かく迎えられたことで長野への感情が以前より変化したことも話しています。
地元を離れて18年ほどが経ち、良ちゃんは芸人仲間を連れて千曲市へ戻りました。
高校卒業後に地元の古本店で手にした『遺書』から始まった道は、2026年の千曲市でのお笑いライブまで続いています。
戸倉で家や学校に居場所を感じにくかった少年は、高校卒業後の夜勤生活を経て23歳で東京へ向かいました。
NSCで金ちゃんと出会い、一度の解散や長いアルバイト生活を経たあと、本気の喧嘩から二人だけの芸が生まれました。
そして現在の良ちゃんは、かつて離れた千曲市にも、お笑い芸人として再び足を運んでいます。












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