人物プロフィール
Aマッソのネタ作りを担い、エッセイや小説、脚本、ライブ制作にも活動を広げてきた加納さん。
現在の「書く」「作る」という仕事だけを見ると、子どものころから表現の道へ一直線に進んできたようにも見えますが、実際にはその途中に読書、映画、大学のサークル活動、幼なじみとのインディーズライブといういくつもの時間がありました。
相方のむらきゃみさんと出会ったのは芸人になってからではなく、小学5年生のときに転校した学校でした。
芸人を強く意識したのは同志社大学に進んだあとで、映画サークルでコントのような映像を作ったことがお笑いへ向かう大きなきっかけになっています。
そこからなぜ小学生時代からの友人を相方に選び、Aマッソを結成し、上京後の長いライブ中心の時期を過ごすことになったのでしょうか。
加納さんの幼少期から現在までを、人生の時間に沿ってたどります。
Aマッソ加納の生い立ちと家族|本と大人の会話が身近にあった家
加納さんは1989年に大阪で生まれました。
子どものころの家には家族だけでなく、両親の友人まで頻繁に出入りしていたといい、静かな家庭というより、いつも誰かの声が聞こえてくるような環境で育っています。
父・母・2歳上の兄、向かいに祖母が暮らすにぎやかな家庭
家族は父親、母親、2歳上の兄、加納さんの4人で、家の向かいには祖母が住んでいました。
祖母の家とは日常的に行き来しており、それに加えて父母の中学・高校時代からの友人や、飲み屋で知り合った人、父親が以前活動していたバンド関係の知人なども家を訪れていたそうです。
加納さんには自分だけの部屋がなく、テレビも家族が集まる部屋に1台だけでした。
テレビを見ようとしても父親の友人たちの声が大きく、音が聞こえなくて腹を立てることまであったといいます。
「常に誰かがなんかしゃべってる感じで、うるさかったです」
kodomoe
母親も仕事をしており、家族全員で頻繁に出かける家庭ではなく、子どもには「友達と遊ぶ」という距離感だったと加納さんは振り返っています。
兄とも常に一緒に遊んでいたわけではなく、それぞれ自分の友人と過ごしていました。
コピーライターの父と、ゲームより本が身近だった子ども時代
父親はコピーライターとして働いており、家にはたくさんの本が置かれていました。
幼いころには父親が絵本を読んでくれたこともあり、加納さん自身も自然と本を読むようになります。
本人によれば、ゲームなどを簡単に買ってもらえる家ではなかった一方、本であれば買ってもらえたそうです。
中学では部活動が忙しく読書量が減った時期もありましたが、部活を引退すると再び本を読むようになり、高校時代には伊坂幸太郎さんの作品や、家にあった司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』などにも触れていました。
家に本があり、親から読むことを強制されるのではなく、手を伸ばせばいつでも読める環境だったことは、後の執筆活動まで長く続く加納さんの読書習慣につながっています。
吉本新喜劇やテレビのお笑いを家族で見ていた
本と同じくらい身近だったのがお笑いでした。
関西で育った加納さんは、幼いころから家族で吉本新喜劇を見ており、読売テレビで放送されていた漫才番組『ZAIMAN』も好きだったと語っています。
小学生のころには「吉本新喜劇に入りたい」と思ったこともありました。
ただし、この時点ですでにプロの芸人を目指して準備していたわけではありません。
「私自身は率先して人を笑かしてたということはなかった」
kodomoe
テレビのお笑いも、学校で面白いことをする同級生も、ごく普通に周囲にいるものとして育っていました。
小学生時代にむらきゃみと出会い、中学では一緒にバスケ部へ
後にAマッソとして長く活動することになる2人が出会ったのは、養成所でもライブ会場でもありません。
まだ将来の仕事など想像していなかった小学生のころでした。
小学5年生で転校し、むらきゃみと出会う
加納さんは小学5年生のときに引っ越し、転入先の小学校でむらきゃみさんと出会いました。
家が近かったため一緒に下校するようになり、公園で遊んだり、駄菓子を賭けて大富豪をしたりして仲を深めていきます。
むらきゃみさんは口数が多く、自分の意見を強く主張するタイプではなかったものの、加納さんにはどこか少し変わったところが面白く映ったようです。
小学生のころ、クラスの男子も交えて数人で漫才のようなことをした経験もありましたが、加納さん自身は後年、文化祭のような感覚だったと話しています。
このころの2人は「学校のお笑いコンビ」だったわけではなく、近所に住む仲のいい友人同士でした。
中学では同じバスケ部へ入り、M-1と笑い飯に夢中になる
中学校へ進むと、加納さんとむらきゃみさんは同じバスケットボール部に入ります。
2人だけでいつも行動していたわけではなく、もう1人の友人を含めて遊ぶこともありましたが、周囲の友人関係が変わっても、むらきゃみさんとの付き合いは続いていました。
同じころ、加納さんにとって大きな存在になっていったのがM-1グランプリです。
特に印象に残ったのが笑い飯で、ダブルボケだけでなく言葉の選び方そのものに衝撃を受けたと語っています。
「『笑い飯』は言葉の選び方などすべてが衝撃でしたね」
kodomoe
それでも、中学生の加納さんは漫才を分析して将来の仕事として見ていたわけではなく、テレビの前で純粋に笑っている側でした。
高校時代|周囲の面白い人を見ながら映画への興味が強くなる
高校へ進むと、むらきゃみさんとは別々の学校になりました。
それでも実家が近かったこともあり、2人の交流が途切れることはありませんでした。
女子生徒の多い環境で過ごした高校時代
加納さんは商業高校へ進学し、本人は後年、高校時代を「女子校」のような環境だったと振り返っています。
異性の目を強く気にする必要がなく、友人同士で自由にふざけられる雰囲気だったようです。
先生からクラス内の人間関係について相談されることもあり、三者面談では本来の進路の話とは別に、クラスメートについて先生と長く話し込むこともあったといいます。
人前で目立つことだけを考えていたわけではなく、ひとりでいる同級生がどんなことなら笑うのか気になるような高校生でした。
高校で映画に興味を持ち、大学の映画サークルを意識する
高校時代になると、加納さんの関心はお笑いだけでなく映画へ向かいます。
将来は映画に関係する仕事も面白そうだと考え、映画サークルや学園祭が楽しそうな大学として同志社大学や立命館大学を意識するようになりました。
一方、父親は学費の安い大阪市立大学への進学を勧めていました。
進路を決める三者面談には父親も出席し、同志社大学へ行きたい加納さんと、学費を理由に市立大学を勧める父親が先生の前で長時間やり取りしたそうです。
商業高校から推薦で同志社大学商学部へ進学し、ここから映画とお笑いが急速に近づき始めます。
同志社大学の映画サークルで、お笑いという進路が見えてくる
高校を卒業した加納さんは大阪の実家を離れ、京都で初めての一人暮らしを始めました。
この大学時代が、Aマッソ加納という芸人が生まれる直前の時期になります。
京都・伏見の家賃3万5000円の部屋で初めて一人暮らし
住んだのは京都・伏見にある1Kのアパートで、家賃は3万5000円でした。
大学では商学部に在籍していましたが、加納さんが多くの時間を使っていたのは授業よりも映画制作でした。
学費を稼ぐためのアルバイトもしながら、映画サークルの活動へ参加していました。
映画サークルで脚本を書き、コント映像に手応えを感じる
映画サークルでは自分で脚本を書き、実際に映像を撮るところまで経験します。
当初は将来、映画の脚本を書く仕事にも興味を持っていました。
転機になったのは、サークルでコントのような映像を制作したときです。
映画サークルの周囲には映像監督を目指す人や役者、お笑いに取り組む学生もおり、加納さんにとって「映画」と「お笑い」は完全に別世界ではありませんでした。
コント映像を作ったときに「しっくりきた」感覚があり、大学2年生になると自分でお笑いライブへ出る方向へ動き始めます。
「たまたまコント映像みたいなのを撮ったときに、すごいしっくりきて」
kodomoe
大学2年ごろ、むらきゃみを誘ってインディーズライブへ
お笑いを実際にやってみようと思った加納さんが声をかけたのが、小学5年生から付き合いが続いていたむらきゃみさんでした。
むらきゃみさんは当時、自分から芸人を目指していたわけではありません。
加納さんが大学を休んで時間ができた時期に誘い、2人で大阪のインディーズお笑いライブへ出始めました。
小学校時代に出会ってから何年も友人として付き合ってきた相手が、ここで初めて「相方」に変わります。
養成所で相方を探したのではなく、芸人になる前から長く知っていた幼なじみを加納さん自身が誘ったことが、Aマッソの始まりでした。
映画・お笑い・アルバイトが重なり、同志社大学を中退
大学では映画制作、お笑いライブ、学費のためのアルバイトに時間を使うようになり、授業へほとんど出られなくなっていきました。
本人によれば、1年間で取得した単位が2単位ほどだった時期もあり、卒業が難しい状態になっていきます。
推薦で進学していたため高校への申し訳なさも感じていたそうですが、最終的に同志社大学を中退しました。
ただし、大学を辞めた日に「芸人一本で生きる」と明確に覚悟を決めたわけではありません。
「この瞬間に腹を括ったみたいな感じはなかった」
kodomoe
映画監督や脚本家、芸人など、ものを作る仕事のどれかへ進めればという感覚を持ちながら、目の前のお笑いライブへ出続けていました。
むらきゃみとAマッソ結成|養成所より先にインディーズで活動
Aマッソは養成所で出会った2人が卒業後に作ったコンビではありません。
すでに幼なじみ同士でライブへ出てから、芸能事務所との接点が生まれています。
最初のネタ作りから加納が中心になっていく
インディーズライブへ出始めたころは、最初から加納さんだけがすべてのネタを書くと決めていたわけではありませんでした。
初期には2人でネタ案を考え、それぞれ案を持ち寄ったこともありました。
活動を続けるうちに、次第に加納さんがネタ作りを担う形が定着していきます。
友人だったころの関係も変化し、遊びの約束をする相手から、同じ舞台へ立つため予定を共有する相手になりました。
約2年間ライブへ出た後、松竹芸能から声がかかる
2人は大学2年ごろから、事務所へ所属せずにインディーズライブへの出演を続けました。
その期間はおよそ2年に及びます。
大学4年生になるころ、ライブで活動していた2人に松竹芸能から声がかかりました。
加納さんは松竹芸能タレントスクールへ特待生として入ることになり、むらきゃみさんと本格的に芸人の世界へ入っていきます。
当時の養成所では一般的な授業を多く受けるというより、放送作家らの前でネタを見せ、意見を受けながら直す時間が中心だったそうです。
同じ時期にはヒコロヒーさんもおり、加納さんは後年、同期として名前を挙げています。
2010年4月にAマッソを結成し、プロの舞台へ
M-1グランプリ公式記録では、Aマッソの結成年は2010年4月1日となっています。
養成所での期間は約10か月で、その後は大阪に長くとどまらず東京へ向かう話が進みました。
松竹芸能の養成所は本来より長い期間を想定していましたが、東京で新宿角座が始まる時期と重なり、舞台へ出る機会があるのではないかと勧められたためです。
幼なじみとして始まった2人は、インディーズライブを経て2010年にAマッソとなり、翌年には活動拠点を東京へ移します。
2011年に上京|同居とアルバイトを続けながらネタを書く日々
Aマッソは2011年に大阪から東京へ移りました。
現在の活動だけを見ていると見えにくい時期ですが、ここからしばらくはテレビより舞台とアルバイトが生活の中心でした。
むらきゃみと御嶽山で共同生活を始める
東京で2人が暮らしたのは、東急池上線の御嶽山駅周辺でした。
幼なじみだった2人は、東京では仕事だけでなく住まいまで一緒になります。
近くにあった廃校施設では、広い教室を使ってコントの稽古をしていた時期もありました。
新宿角座の舞台へ出演しながら、まだ芸人だけの収入で暮らせる状態ではなく、それぞれアルバイトを続けていました。
喫茶店やファミレスでネタを書き、舞台へ持っていく
加納さんにとって、若手時代の日常にはいつもネタを書く場所がありました。
自宅だけでなく喫茶店やファミリーレストランへ行き、そこでネタを作ってはライブへ持っていく生活を続けます。
後に文章を書く仕事を始めたあとも、まとまった時間を確保して喫茶店やファミレスで執筆していると話しており、場所を変えながら一人で書く仕事をする習慣は長く続いています。
現在の文筆活動よりずっと前から、加納さんにとって「一人で考えて書き、それを人前へ持っていく」という時間は若手芸人の日常でした。
2013年に松竹芸能を離れ、ワタナベへ
東京へ出てからも、そのまま松竹芸能で活動を続けたわけではありません。
加納さんは2011年に上京し、2013年には松竹芸能を離れています。
一時は事務所に所属せず、できることが限られる中でライブへ出続ける時期を過ごしました。
その後、同じライブに出演していた芸人とのつながりをきっかけに、現在のワタナベエンターテインメントへ移ります。
全国的な知名度が高まる前から、とにかく舞台へ出てネタを見せる時間が続いていました。
2015年「笑けずり」でライブの景色が変わる
東京での活動が数年続いた2015年、Aマッソに一つの変化が訪れます。
NHK BSプレミアムの『爆笑ファクトリーハウス 笑けずり』への出演です。
笑い飯・西田から評価され、番組では準優勝
『笑けずり』は若手芸人たちが合宿形式でネタを磨いていく番組で、Aマッソは準優勝となりました。
最終オーディションの段階で、講師を務めた笑い飯・西田幸治さんからネタを高く評価されています。
「単独ライブ行きたいぐらい面白い」
withnews
番組への出演を境に、ライブへ呼ばれる機会や観客が増えていきました。
加納さんがネタ作りに使う時間も増え、その分、むらきゃみさんがアルバイトを多く担当する時期もあったと2人は話しています。
ライブ客が増えても、テレビのブレイクはまだ先だった
『笑けずり』はAマッソにとって大きな出来事でしたが、この番組を境にすぐテレビの人気芸人になったわけではありません。
加納さん自身も、認知度が上がり、ライブをやりやすくなったという変化は感じながら、「これで売れる」という感覚ではなかったと語っています。
「笑けずり」はテレビブレイクそのものではなく、ライブ活動の環境が大きく変わった最初の転機でした。
2016年のM-1グランプリでは準決勝まで進み、敗者復活戦にも出場しました。
翌2017年もM-1準決勝へ進出しており、このころから漫才師として名前を見る機会が少しずつ増えていきます。
20代後半から30代へ|賞レースと執筆で仕事の幅が広がる
舞台を中心に活動してきたAマッソは、20代後半からテレビ、ラジオ、ネット番組などへ少しずつ活動を広げていきます。
同じ時期、加納さん個人には「文章を書く」という新しい仕事も加わりました。
30歳前後でテレビ仕事が増え、アルバイトを辞める
30歳になったころも、Aマッソの活動の中心はまだライブでした。
一方で、M-1の準決勝や敗者復活戦などを重ねたころからテレビの仕事が増え始めます。
加納さんは後年、30歳前後にアルバイトを辞めたと話しています。
「30歳のころはテレビのお仕事ももらえるようになってきたころで、バイトを辞めたのもこの時期」
Hanako Web
大学2年ごろにインディーズライブへ出始めてから約10年がたち、ようやく芸人の仕事だけで生活する段階へ入っていきました。
ネタを書く仕事からエッセイ・小説へ
テレビの仕事と並行して、加納さんには出版社から文章の仕事が届くようになります。
もともとAマッソで長くネタを書いていた実績もあり、2020年には初のエッセイ集『イルカも泳ぐわい。』を刊行しました。
2022年には短編小説集『これはちゃうか』、2023年にはエッセイ集『行儀は悪いが天気は良い』を発表しています。
子どものころに父親の本棚から本を取り、大学では映画の脚本を書き、芸人になると漫才やコントのネタを書くようになった加納さんに、今度は小説やエッセイという仕事が加わりました。
本人は執筆について、両親の影響で家に本が多かったことが大きいと話しています。
2020年からTHE Wで3年連続決勝へ
Aマッソのネタにも新しい動きが出てきます。
2020年の女芸人No.1決定戦 THE Wでは、スクリーン映像と漫才を組み合わせた「映像漫才」を披露しました。
Aマッソは2020年から2022年まで3年連続でTHE W決勝へ進み、2021年には準優勝しています。
大学時代に映画サークルで脚本を書き、映像を撮っていた加納さんが、その後お笑いの舞台でも映像を使った表現に取り組むようになったことは、経歴を時系列で見ると興味深い重なりです。
漫才だけに形を固定せず、コントや映像を組み合わせる活動は、Aマッソの単独ライブでも続いていきました。
現在の加納|ネタ・文章・脚本・ライブ制作へ
現在も加納さんの活動の軸にあるのはAマッソですが、仕事の範囲はコンビのネタだけには収まっていません。
若いころから続けてきた「書くこと」と、大学時代に経験した「人と何かを作ること」が、別々の仕事へ広がっています。
Aマッソを続けながら個人の執筆・脚本活動も増える
ワタナベエンターテインメントの公式プロフィールでも、現在の加納さんはAマッソでの活動に加え、著書や個人活動を持つ芸人として紹介されています。
エッセイや小説だけでなく、ドラマ脚本や企画など、文章を使う仕事はさらに広がりました。
2025年には加納さん個人の単独ライブ『H15』を開催。
Aマッソの単独ライブとは別に、芸人、文筆、脚本など自身が取り組んできたものを一つの舞台へ持ち込む公演となりました。
大学時代の映画制作から続く「作る仕事」
加納さんは大学の映画サークルで、自分で脚本を書き、仲間と映像を撮る経験をしていました。
そこでコント映像を作ったことがお笑いへ進む入口となり、その後はAマッソのネタ作り、単独ライブ、映像を使ったお笑い、YouTube、文章、脚本へ活動が伸びています。
映画をやるか、お笑いをやるかと迷っていた大学時代の経験は、どちらかを完全に捨てる形ではなく、その後の仕事の中で何度も形を変えて現れています。
ライブの書き手・プロデューサーとしても活動を広げる
2026年には落語家の桂二葉さんとのライブ『にに』を開催し、加納さんがプロデュースに加えて新作落語を書き下ろすなど、芸人として舞台へ立つ以外の仕事にも取り組みました。
同年にはコント公演で演出を担当するなど、作り手として関わる仕事も増えています。
小学生のころは、むらきゃみさんと公園で遊んでいた近所の友人同士でした。
同志社大学で映画を作るうちにお笑いへ興味が移り、その幼なじみを誘ってライブへ出たことからAマッソが始まりました。
インディーズ、養成所、上京後のアルバイトとライブを経て、現在は漫才やコントだけでなく、文章、脚本、映像、演出までを行き来しながら活動を続けています。












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