人物プロフィール
NON STYLEのボケとネタ作りを担い、2008年にはM-1グランプリ王者となった石田明さん。
現在は漫才を続けながら、舞台の脚本・演出やNSC講師、YouTubeで若手芸人のネタを語る仕事にも活動を広げています。
これだけお笑いを「作る側」で生きてきた人ですが、子どものころの家にはテレビがなく、中学生になるまで漫才やコントを身近に見る生活ではありませんでした。
しかも高校卒業後に選んだ仕事は芸人ではなく、父親と同じ料理の世界で、約2年間の板前修業を経てからお笑いの道へ進んでいます。
その途中にいたのが、中学・高校時代から知っていた同級生の井上裕介さんでした。
石田さんはどんな家庭で育ち、なぜ一度は料理人になり、そこから井上さんとNON STYLEを結成することになったのでしょうか。
石田明の生い立ちと家族|テレビのない市営住宅で育った幼少期
石田さんは1980年2月20日、大阪府大阪市で生まれました。
現在の吉本興業公式プロフィールには大阪府大阪市出身と記載されていますが、本人が幼少期を振り返った話には、プロフィール欄だけでは分からない当時の暮らしが数多く残っています。
4人きょうだいの末っ子として市営住宅で育つ
子どものころに暮らしていたのは、4畳半3間の市営住宅でした。
父親は料理人、母親はパートや内職をしながら家計を支え、石田さんは4人きょうだいの末っ子として育っています。
本人の公式ブログでは、当時の家について15歳までテレビがなかったことも明かしており、13歳から15歳ごろまでは粗大ごみとして拾ってきた映らないテレビが居間に置かれていたと書いています。
「小さい頃、僕の家にはテレビがなかった。それも15歳まで。」
NON STYLE 石田明オフィシャルブログ
小学校高学年から中学2年生ごろには、家賃を分担するため、父親が連れてきた別の3人家族と同じ住宅で暮らした時期もありました。
人数が増えて寝る場所も足りなくなり、石田さんは一時期、トイレと風呂の間のスペースで寝ていたと本人が語っています。
食卓にも当時の生活は表れていて、「すき焼き」だと思って食べていた料理にはほとんど肉が入らず、調味料が足りないときには団地の近所へ借りに行っていました。
母親の内職も、子どもだった石田さんには遊びのように見えていたことがあります。
母親から「プラモデル」のように渡された部品を組み立てていたところ、実際には靴下用ハンガーを作る内職だったというエピソードを本人は後年紹介しています。
料理人の父親を怖がりながらも、認められたい気持ちが残った
父親は昔気質の料理人で、石田さんによれば家にいないことが多く、帰ってくると子どもたちは緊張していたそうです。
きょうだい4人が父親と話すときには敬語を使っていたほどで、親子で一緒に過ごした記憶についても、石田さんは後年「キャッチボールを1回したくらい」と振り返っています。
それでも、その父親に「認めてもらいたい」という思いは10代の進路に強く残りました。
小学生で始めた野球も、父親が野球をしていたことが背景にあり、上の兄たちが途中でやめても石田さんは高校まで続けました。
野球の次に石田さんが父親を追いかけるように選んだのが、料理人という仕事でした。
テレビもおもちゃも少ない中、自分で人物と物語を作って遊んだ
家におもちゃがほとんどないなかで、幼い石田さんがよく使っていたのはチラシの裏と棒切れでした。
チラシの裏に人物を描き、はさみで切って棒へ貼り付け、たくさんのキャラクターを作っていたそうです。
洋服ダンスの引き出しの一つが石田さん専用の場所で、そこからキャラクターを取り出しては、頭の中で自分だけの物語を動かしていました。
2025年のインタビューでは、この遊びについて、後に漫才や舞台の脚本・演出をする自分との関係にも触れています。
誰かに見せるためではなく、一人で登場人物や展開を考えていた時間が、何十年も後になって別の形で続くことになります。
石田明の学生時代|野球を続け、中学で初めてお笑いに出会う
小学生のころから高校まで続いた野球とは別に、中学生になった石田さんの前へ新しく現れたのがお笑いでした。
芸人になる決断はまだ先ですが、ここから「見る側」としてお笑いへ深く入り込んでいきます。
父親の影響で小中高と野球を続けた
石田さんが野球を始めたのは小学3年生のころです。
本人の公式ブログでは、電器店のテレビに映っていた阪神対巨人戦を見て選手に憧れ、地域の野球チームへ入ったことを振り返っています。
グローブを新しく買う余裕はなく、家にあった古いものをきょうだいで取り合うような状態でしたが、野球はその後も続けました。
高校卒業後のインタビューで石田さんは、父親がしていた野球を続け、兄たちが途中でやめても自分だけは続けたことを、父親から認められようとしていた10代の行動の一つとして語っています。
中学で井上裕介と出会うも、まだコンビを組む関係ではなかった
後に25年以上を一緒に過ごすことになる井上裕介さんとも、中学生のころにはすでに出会っていました。
2人は中学・高校時代の同級生ですが、この時点で芸人コンビを作ろうとしていたわけではありません。
高校卒業後には石田さんが料理の世界へ進み、井上さんは大学へ進学してバンド活動をすることになり、いったん別々の方向へ進んでいます。
そのため、NON STYLEの始まりを学生時代の「同級生コンビ」という一言だけで見ると、その間にあったそれぞれの進路が抜け落ちてしまいます。
姉の代わりに行ったお笑いライブで、生の漫才に衝撃を受ける
お笑いとの最初の大きな出会いは中学生のころでした。
姉は当時、心斎橋筋2丁目劇場へ通うほどお笑いが好きで、特にシェイクダウンというコンビを追いかけていました。
ある日、姉と一緒にライブへ行く予定だった友人が急に行けなくなり、空いた一席へ石田さんが行くことになります。
テレビのない家で育っていた石田さんにとって、そこで見る漫才やコントは、それまでほとんど触れたことのない世界でした。
「こんなにおもしろいものが世の中にあるのか。」
NON STYLE 石田明オフィシャルブログ
ライブを見終わると、覚えていることを書き出すほど夢中になり、その後は自分でお金を作って劇場へ通うようになりました。
新聞配達でライブ代を貯めても、自分が芸人になるとは思っていなかった
ライブへ行くために始めたことの一つが新聞配達のアルバイトでした。
稼いだお金を使って劇場へ足を運び、お笑いを見る生活が始まります。
ただ、このころの石田さんは「お笑いが好き」と「自分がお笑い芸人になる」を同じものとは考えていませんでした。
「自分の性格的に『無理やろ』と諦めていたんです。」
まいにちdoda
人前で話すのが得意ではなく、一人で遊ぶことが多かった少年にとって、舞台の上にいる芸人は「好きな存在」ではあっても、自分がなれる職業としてはまだ遠かったのです。
高校卒業後は板前へ|父親に認めてもらうため料理の世界に入る
高校卒業が近づいても、石田さんはお笑いの養成所へ進んではいません。
選んだのは、父親や兄たちが先に入っていた料理の世界でした。
大学ではなく、父親や兄たちと同じ料理の仕事を選んだ
父親は料理人で、上の兄たちも料理関係の仕事へ進んでいました。
石田さんは兄たちよりさらに本格的な場所で修業しようと、懐石料理の世界へ入ります。
そこには、単に料理が好きだったというだけではなく、幼いころからあまり接点を持てなかった父親に認めてもらいたい気持ちがありました。
中学時代からお笑いへ通っていても、高校卒業時に選んだのは芸人ではなく料理人でした。
ここで一度、石田さんの人生はお笑いから離れた方向へ進みます。
朝の市場から洗い物・仕込みまで続いた約2年間の板前修業
料理人として働いた期間は、お店を移りながら約2年間でした。
朝は親方と市場へ行き、早い時間から店へ入り、掃除や洗い物、仕込み、賄い作りなどを担当しています。
ホタルイカの目を取ったり、水槽のアユを焼き場へ渡す準備をしたりと、若手の仕事は細かな下準備が中心でした。
帰宅も遅くなる生活でしたが、石田さんは尊敬できる料理人がおり、父親に認めてもらえそうな店で働いていることもうれしかったと話しています。
後に芸人になってからも、飲食店では料理人だけでなくホールやパートを含めて一つのチームとして働いていた経験が、組織の中で仕事をする感覚として残りました。
洗い場へ出たとき、客席に父親がいた
板前時代には、石田さんが働いていた店へ父親が食べに来たことがあります。
そのことを知らないまま洗い場から表へ出ると、カウンター席に父親が座っていました。
普段は父親と過ごした思い出が少なかったからこそ、「来てくれた」と感じたその一場面は、後年のインタビューにも残っています。
ところが、このまま料理人として進んでいくはずだった時期に、高校時代の友人から別の誘いが届きました。
石田明が芸人になったきっかけ|高校の友人からの誘いで初舞台へ
中学時代からお笑いライブへ通っていた石田さんが、実際に舞台へ上がるきっかけを作ったのは高校時代の友人でした。
ここで初めて、客席から見ていたお笑いが自分の仕事として動き始めます。
高校の同級生2人から誘われ、週末だけ吉本のオーディションを受ける
板前として働いていたころ、高校時代の同級生2人から「一緒にお笑いをやらないか」と誘われました。
石田さん自身は、自分が面白いことを言った経験もほとんどないと考えていましたが、誘われたことがうれしく、3人で動き始めます。
平日は料理の仕事を続けながら、週末に吉本のオーディションを受ける生活になりました。
中学時代からライブを見続けていた石田さんは、このころにはネタを書く側にも回っています。
初舞台では笑いを取れなくても、舞台に立った感覚が忘れられなかった
最初の舞台は、本人が後に「めちゃくちゃスベった」と話す結果でした。
それでも、劇場を出たあとの感覚だけは、それまで経験したものとは違っていました。
父親がしていた野球を続け、父親と同じ料理人になってきた石田さんにとって、お笑いは初めて自分自身が純粋に好きだと思えた道でした。
「自分の人生、ちゃんと生きられてるなという感じがしたんです。」
たまひよ
舞台で成功したから芸人を選んだのではなく、うまくいかなかった舞台のあとにも残った感覚が、次の行動を変えました。
友人2人が辞めたあとも一人で残り、板前を辞める
一緒に始めた友人2人は、オーディションを続けるなかでお笑いの道から離れていきました。
石田さんだけが一人で残ります。
そのころには舞台へ立った感覚が忘れられなくなっており、料理の仕事を辞め、芸人一本で進むことを決めました。
養成所へ入ったわけではなく、一人でネタを書き、まずは路上でお笑いを始めようと考えます。
その計画を知った同級生が、再び石田さんの人生へ入ってきました。
井上裕介とのNON STYLE結成|同級生2人が路上漫才を始めるまで
その同級生が井上裕介さんです。
中学・高校を一緒に過ごしてから別々の進路へ進んだ2人は、20歳になるころ、今度は漫才で同じ場所へ立つことになります。
一人で路上へ出ようとした石田に井上裕介が声をかける
石田さんが一人で路上ライブをしようとしていることを知った井上さんは、当時大学へ進み、バンド活動をしていました。
そのバンドが解散した時期に、井上さん側から石田さんへ一緒に漫才をやろうと声をかけます。
NON STYLE結成の直接の誘いをしたのは井上さんでした。
一方で、漫才のネタを書くのは石田さんです。
後年の対談でも石田さんは、高校卒業後に別の友人と漫才を始めたころからネタを書いており、その後、大学へ進んだ井上さんから誘われたと明かしています。
2000年5月14日にNON STYLEを結成
2人がNON STYLEを結成したのは2000年5月14日です。
結成直後から現在とまったく同じ形だったわけではなく、音楽活動をしたい井上さんの意向もあり、石田さんがベースを練習していた時期もありました。
それでも活動の中心は次第に漫才へ絞られていきます。
石田さんは20周年を迎えた2020年5月14日の公式ブログで、芸人として過ごした20年間を振り返りながら、井上さんについても触れています。
中学で知り合った同級生2人は、20歳で漫才コンビとして改めて同じ道を歩き始めました。
神戸・三宮のストリート漫才に人が集まるようになる
NON STYLEが最初に漫才を磨いた場所の一つが、神戸・三宮の路上でした。
劇場のように開演から終演まで客が座って見てくれる場所ではなく、通行人が途中で立ち止まり、途中で去っていく環境です。
そのため石田さんが作った初期のネタには、一つ前の流れを知らなくても、その場だけで笑える短いボケが多くなりました。
ストリート時代から使い続けたネタもあり、本人は後年、路上のネタを「最初から見られる前提ではない」と説明しています。
人前で話すことに自信がなかった石田さんが、目の前で足を止めるかどうかも分からない人たちを相手に何度もネタを試す生活へ入ったのです。
やがて路上には多いときで200〜300人ほどが集まるようになったと2人は振り返っています。
7回目のbaseよしもとオーディションで劇場へ
路上で漫才を続けながら、2人は吉本の劇場へ出るためのオーディションにも挑戦しました。
そして7回目の挑戦でbaseよしもとのオーディションを突破します。
石田さんは自身の公式ブログで、NON STYLEはNSCには通っておらず、2000年5月に結成して路上漫才を始め、2001年1月にオーディションライブを勝ち残って吉本所属になったと説明しています。
「ぼくたちは吉本の養成所NSCに通っていなかったので明確な同期はいない。」
NON STYLE 石田明オフィシャルブログ
石田さん本人は、活動時期の近さから大阪NSC22期・東京NSC5期と同期と自己申告しているとも書いています。
つまり「石田明はNSC何期か」という疑問への答えは、石田さん自身はNSC出身ではないとなります。
若手時代のNON STYLE|毎週新ネタを書き、漫才の形を作っていく
路上から劇場へ入ると、求められるものも変わりました。
石田さんは若手時代、驚くほどの量の漫才を書きながらNON STYLEの形を探していきます。
baseよしもとの入れ替え環境で新ネタを書き続ける
石田さんは18歳ごろからネタを書き始め、19歳から22、23歳ごろまでは、調子がいい時期には1週間に5分ほどのネタを10本書けるほどだったと対談で明かしています。
毎回すべてが完成形になるわけではありませんでしたが、舞台へ出し、客の反応を見て直すことを繰り返しました。
井上さんはネタを書く担当ではなく、石田さんが持ってきたものを実際に演じながら面白いかどうかを判断する関係ができていきます。
路上で大量に試し、劇場でもまた大量に作るという時間が、NON STYLEの漫才を作っていきました。
笑い飯や千鳥が台頭する大阪で、自分たちの漫才を模索する
当時の大阪では、笑い飯や千鳥など、それまでとは違うスタイルの漫才をする若手が存在感を強めていました。
石田さんも自分たちの漫才を変えるべきか悩みますが、簡単には変えられませんでした。
ところが周囲が新しい方向へ動くなかで、NON STYLEが従来のスタイルを残したことが、かえって他のコンビとの違いをはっきりさせていきます。
流行へそのまま合わせるのではなく、自分たちが実際に舞台で笑いを取れる形を残しながら、細部を変えていきました。
井上のキャラクターを生かした「イキリ漫才」が形になる
その後、NON STYLEの代表的なスタイルの一つとなったのが「イキリ漫才」です。
井上さんが格好をつける言動をし、それを石田さんが面白がる形ですが、最初から計算して作られたキャラクターではありませんでした。
先輩のテンダラー・浜本広晃さんが舞台上で井上さんの格好つける部分をいじっている様子を見た石田さんが、その姿をネタへ取り込んでいきます。
中学生のころから井上さんを知っていた石田さんにとっては見慣れた部分でも、客席から見ると新鮮な笑いになることに気づきました。
ただし、この「イキリ漫才」も後にM-1へ挑むなかで大きく変えることになります。
劇場漫才とテレビの間で悩んだ20代前半
漫才で評価され始める一方、石田さんは22歳ごろにうつ病を発症したことを公表しています。
当時は家を出ること自体が難しく、電車に乗っても一駅で降りたくなる状態だったと2025年のインタビューで明かしました。
背景には、テレビやトークの場で前へ出られず、自分の能力への自信を失っていたことがあったと本人は説明しています。
石田さんが子どものころに憧れたのは、テレビタレントではなく劇場で見る漫才師でした。
ところが漫才で認められるほどテレビの仕事も増え、自分が想像していなかった場所で結果を求められるようになります。
その時期、ブラックマヨネーズの吉田敬さんから突然連絡をもらい、2人で食事をしたこともありました。
吉田さん自身も多忙な時期にプレッシャーを抱えており、お互いの状態を話したことで、石田さんは自分だけの問題ではないと感じられたと語っています。
心療内科へ通い、医師とのやり取りを続けるなかでも、少しずつ人前で話すこととの距離を取り直していきました。
M-1へ近づいたNON STYLE|2007年の敗退が石田明を変えた
NON STYLEは劇場で経験を積みながら、賞レースでも結果を残すようになります。
ただ、石田さん本人の中でM-1への向き合い方が大きく変わったのは、優勝した2008年ではなく、その前年でした。
新人賞や『爆笑オンエアバトル』で結果を残し始める
劇場で人気を広げたNON STYLEは、関西の若手向け賞レースなどで結果を残すようになりました。
2007年にはNHK『爆笑オンエアバトル』の第9回チャンピオン大会で優勝しています。
吉本興業の公式プロフィールにも、この優勝と翌年のM-1グランプリ優勝が受賞歴として記載されています。
すでに若手漫才師として評価されていましたが、M-1ではまだ決勝へ届いていませんでした。
2007年M-1敗者復活で初めて涙を流した
2007年のNON STYLEは、当時形になっていたイキリ漫才でM-1準決勝まで進みます。
準決勝でも大きな笑いを取ったものの決勝進出を逃し、敗者復活戦へ回りました。
敗者復活から決勝へ進んだのはサンドウィッチマンで、その後そのまま優勝しています。
石田さんにとって重要だったのは、その結果を見たときの自分自身の反応でした。
「初めて涙がこぼれました。」
Number Web
それまでにもM-1で負けた経験はありましたが、このとき初めて本気で悔しがれたと石田さんは振り返っています。
2007年の敗退が、翌年のM-1へ向けて漫才そのものを作り直す出発点になりました。
M-1のために従来の形を変えた2008年
石田さんは、前年まで使っていたイキリ漫才について、すでに行き着くところまで行ったと考えていました。
井上さんはよく笑いが取れているネタを捨てることに納得しませんでしたが、石田さんは2008年に勝負するなら新しい漫才を探す必要があると押し通します。
最初からすぐ答えが出たわけではなく、M-1本番の数か月前になっても完成形は見えていませんでした。
試行錯誤するなかで、井上さんがツッコんだあと、石田さん自身がさらに自分へツッコミを入れる動きをアドリブで試したところ、井上さんが本気で笑います。
そこから、テンポの速い流れの中へボケを重ねる新しい形が固まっていきました。
前年までウケていた漫才を残すのではなく、M-1で勝つために一度手放したことが2008年の大きな変化でした。
4,489組の頂点に立ち、2008年M-1王者へ
2008年12月21日、M-1グランプリ決勝が行われました。
この年の参加組数は4,489組で、NON STYLEはファーストラウンドを644点で突破し、ナイツ、敗者復活から上がったオードリーと最終決戦へ進みます。
最終決戦の結果、NON STYLEがM-1グランプリ2008で優勝しました。
M-1公式サイトにも、2008年大会の優勝者としてNON STYLE、参加組数4,489組と記録されています。
路上で途中から足を止める客へ向けて短い笑いを積み重ね、baseよしもとで大量の新ネタを書き、M-1のためにそれまでの型を捨てるところまで来た2人が、全国大会の頂点へ立ちました。
ただしM-1優勝はゴールではなく、石田さんにとって新しい仕事との距離を考える時期の始まりでもありました。
M-1王者になった後も、石田明は「作る側」へ活動を広げていく
M-1優勝後はテレビ出演も増えましたが、石田さんが長く続けている仕事の中心には、今も「作ること」があります。
幼少期の一人遊び、板前修業、路上漫才、若手時代の大量のネタ作りが、それぞれ違う形で現在の仕事に残っています。
テレビの仕事が増えても、石田が求め続けたのは劇場の漫才
石田さん自身が何度も語っているのは、もともと目指していたのが「テレビで有名になる人」ではなく漫才師だったということです。
子どものころは家にテレビがなく、中学で初めて見たお笑いも生の舞台でした。
ところが漫才が評価されるほど、テレビやトークなど、漫才以外の仕事も増えていきます。
2023年のインタビューでは、その状況を「劇場でやる漫才が好きで漫才師になりたかったのに、漫才が認められるほどテレビ出演が増えた」というジレンマとして説明しています。
一方で、漫才から離れたわけではありません。
公式ブログにも、仕事が立て込んで漫才をする機会が減った時期に、夜に新ネタを書いていたという記録が残っています。
漫才のネタ作りから脚本・舞台演出へ
石田さんは漫才だけでなく、舞台作品の脚本や演出、子ども向け作品の制作にも仕事を広げています。
ここで本人が思い出しているのが、幼少期にチラシへ絵を描き、自分でキャラクターと物語を作っていた時間です。
洋服ダンスの引き出しを舞台のように使っていた少年が、成人後には実際の舞台で登場人物を動かす側になりました。
本人自身が、子どものころの一人遊びを漫才や脚本・演出の仕事と重ねて語っています。
現在手がける子ども向け舞台でも、観客をただ座って見る存在にせず、会場全体を遊び場のようにする方法を考えていると話しています。
NSC講師となり、自分のネタ作りを若手へ伝える
自分自身はNSCへ通わなかった石田さんですが、現在はNSC吉本総合芸能学院の講師として後輩へお笑いを教えています。
2026年度のNSC公式講師一覧にも、NON STYLE石田明さんの名前が掲載されています。
ネタ作りの方法をそこまで教えていいのかと言われることもあるそうですが、石田さんは料理人時代の経験を理由の一つに挙げています。
板前だったころ、料理長から包丁の研ぎ方からレシピまで教わったため、自分も後輩へ渡せるものは渡すという考えです。
「ぼくが教えられるものは全部、後輩たちに教えます。」
まいにちdoda
板前時代に「教えてもらった側」だった経験が、現在の「教える側」の仕事にも残っています。
「よい〜んチャンネル」とNON STYLEのライブで、今も漫才を作り続ける
石田さんのYouTube「NON STYLE石田明のよい〜んチャンネル」では、若手芸人を招いてコンビ結成やネタ、M-1について語る動画が数多く公開されています。
自分が若手だったころに大量のネタを書き、路上や劇場で一つずつ客の反応を見てきた人が、現在は別の漫才師のネタを細かく見て言葉にしています。
そしてNON STYLE自体も、M-1優勝を過去の肩書だけにしているわけではありません。
2026年9月17日にはルミネtheよしもとで「NON STYLE ネタ収録 LIVE」が予定され、さらに2026年秋から冬にかけては全国8都市を回る「NON STYLE LIVE 2026~リバーシ~」が公式に発表されています。
全国ツアーには大阪、山口、滋賀、熊本、北海道、石川、香川、東京が組まれ、今も活動の中心に漫才があります。
中学で客席から初めて漫才を見た石田さんは、路上で漫才を始め、M-1を制した後もネタを書くことを続けています。
テレビのない市営住宅で自分だけの物語を作って遊んでいた少年は、一度は父親を追って料理人になり、友人に誘われた舞台で初めて自分の好きな道へ足を踏み入れました。
そこへ井上裕介さんが加わったことでNON STYLEが生まれ、三宮の路上から劇場、そしてM-1グランプリへと舞台が変わっていきました。
現在も石田さんは漫才を書き、舞台を作り、若手へ伝えながら、20歳のころに井上さんと始めたNON STYLEで客席の前に立ち続けています。












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