人物プロフィール
モグライダーの芝大輔さんといえば、ともしげさんの予測しにくい言葉や動きを素早く拾い、漫才を前へ進めていくツッコミが印象的です。
2021年と2023年にはM-1グランプリ決勝へ進み、現在は漫才だけでなくテレビやPodcast、俳優の仕事などにも活動の幅を広げています。
ところが、その出発点をたどると、芝さんが育ったのは愛媛県北宇和郡松野町の山あいで、中学進学と同時に親元を離れて寮生活を始めるという少年時代を送っていました。
高校時代には自宅でM-1を見られず、峠の向こうに住む友人から録画を借りて見ていました。
その後、東京でNSCに入りながら一度はお笑いから離れ、自分で初めて相方を探した先で出会ったのが、現在の相方・ともしげさんです。
芝大輔の生い立ちと家族|愛媛・松野町で育った少年時代
芝さんは1983年7月25日生まれで、マセキ芸能社の公式プロフィールでは愛媛県北宇和郡松野町出身とされています。
現在のテレビで見せる姿からは想像しにくいほど自然の多い土地で、子どものころは同学年がわずか数人という小さな環境で育ちました。
山間の集落で育ち、両親から「外の環境へ」と言われていた
芝さんの実家がある地域は山深く、本人は後年、最寄りのコンビニへ行くにもいくつもの峠を越えるような場所だったと昔を振り返っています。
小学校も小規模で、同じ学年の児童は6人ほどだったといい、年上の学年には姉も通っていました。
町を歩けば何でもそろう環境ではなく、テレビは外の世界を知る数少ない入口の一つでした。
一方、両親は芝さんをずっと地元へとどめようとはしていませんでした。
「都会に行きなさい」
テレ朝POST
芝さんによれば、子どものころから両親には環境を広げるため外へ出るよう言われていたそうです。
父親は松野町役場で働いていた人物で、後に松野町長となる坂本浩さんは、自身が役場へ入った当時の直属の上司が芝さんの父親だったと町の公式サイトで明かしています。
父親は観光分野を担当し、「森の国」として松野町を広く知ってもらう仕事にも携わっていました。
町に関わる仕事をしていた父親と、その町から外の世界へ出ることを勧められていた息子という家族の姿が、芝さんの幼少期にはありました。
中学進学で親元を離れ、峠の向こうの学校で寮生活へ
生活が大きく変わったのは中学校への進学でした。
集落から中学校へ通うには峠を越えなければならなかったため、芝さんは中学入学と同時に親元を離れ、寮で暮らし始めます。
まだ中学生だった芝さんにとって、進学はそのまま家族と離れて暮らし始めるタイミングでもありました。
多感な時期に両親と一緒に過ごす時間が急に減り、実家へ帰ったときには何を話せばいいのか分からなくなることもあったといいます。
その一方で、両親は大人になった芝さんやきょうだいを現在も気にかけ続けており、芝さん自身も後年、両親はまだ「子離れ」していないのではないかと話しています。
中学生のころには地元の静けさを強く意識するようになり、長時間外にいても車がほとんど通らなかった経験から、都会へ出たいという気持ちを強めていきました。
まだこの時点で「芸人になる」と決めていたわけではありませんが、幼いころから聞いていた「外へ行く」という言葉が、少しずつ現実的な進路へ変わり始めていました。
帝京第五高校時代|姉との二人暮らしとお笑いへの憧れ
中学を終えた芝さんは帝京第五高等学校へ進みます。
マセキ芸能社の公式プロフィールにも帝京第五高等学校卒業と記載されており、高校生活でも実家から学校へ通うのではなく、家族と離れた暮らしが続きました。
学校近くのアパートで姉と暮らし、担任が食事を気にかけた
実家から高校までは距離があったため、芝さんは学校の近くにあるアパートで姉と二人暮らしを始めました。
ところが、姉弟とも料理をする習慣がなく、朝食を取らないまま学校へ向かう生活が続きます。
在学中に芝さんが次第に痩せていく様子を、担任教師が見逃しませんでした。
「お前、飯食ってないだろ」
テレ朝POST
先生は芝さんを職員室へ呼び、周囲には内緒で朝から出前を取って食べさせるようになりました。
芝さんが遠慮してざるそばを頼むと、先生からもっとしっかりしたものを食べるよう言われたこともあったそうです。
姉との二人暮らしで食事を抜いていた高校生を、担任教師が職員室で朝食を食べさせながら支えていました。
バレー部では得点より「ボールを拾う」役割だった
高校ではバレーボールにも取り組み、現在もマセキ芸能社の公式プロフィールで特技として挙げられています。
本人によると、チームでは自分がどんどん点を取りにいくより、相手から来たボールを拾う役目を担うことが多かったそうです。
後年、このポジションについて話した芝さんは、ともしげさんが出したものを自分が拾っていく現在の漫才との似た感覚にも触れています。
当時はまだ相方の存在すら知らない高校生でしたが、前へ飛び出す人を後ろから支えるような動きは、部活動のころから身近なものでした。
自宅では映らないM-1を友人に録画してもらい、芸人への憧れが芽生える
高校3年生だった2001年、芝さんの進路を考えるうえで欠かせない番組が始まります。
第1回M-1グランプリです。
ところが、芝さんの実家がある地域では当時M-1をそのまま見ることができませんでした。
そこで芝さんは、峠の向こう側に住む友人へ録画を頼み、その映像を借りて見るようになります。
テレビの向こう側にいた漫才師たちを録画で追いかけるうちに、お笑い芸人という仕事が芝さん自身の進路として近づいていきました。
「芸人への憧れが芽生えた」
TV LIFE web
M-1は、地元を出たいと思っていた芝さんに「芸人になる」という具体的な行き先を見せた番組でした。
高校卒業後にNSC東京校9期へ|最初はボケとして芸人人生を始める
高校を出た芝さんは愛媛を離れ、東京でお笑いの世界へ入っていきます。
ここからは、現在のモグライダーへ一直線に進んだわけではなく、相方を替えながら舞台へ立つ時期が続きました。
高校の同級生とNSCへ入り、東京で芸人生活を始める
芝さんが入ったのはNSC東京校9期で、2003年ごろから芸人としての活動を始めています。
NSCへは高校時代の同級生と一緒に入り、上京後は東京・三鷹で暮らしていた時期がありました。
地方から出てきたばかりで人見知りもあり、通学にも時間がかかったことから、次第に授業へ足が向かなくなった時期もあったと同期との対談で話しています。
出席が足りなくなりそうになった際には、出席日数を確保するためダンスの授業へ顔を出すなどし、最終的にはNSCを卒業しました。
「俺は一応NSCを卒業はしているのよ」
文化放送
ネット上ではNSC中退と紹介されることもありますが、芝さん本人は卒業したと明言しています。
大学については特定の大学名を挙げる情報もありますが、現在のマセキ芸能社公式プロフィールで確認できる学歴は帝京第五高等学校卒業までで、本人の公式プロフィールから大学名を確定できる状態ではありません。
NSC卒業後は「会議室」のネタ見せへ通った
NSCを卒業したからといって、そのままテレビや大きな劇場へ出られるわけではありませんでした。
芝さんは卒業後も吉本の若手として残り、神保町で行われていた通称「会議室」と呼ばれるネタ見せに参加していました。
若手が短いネタを披露し、作家から段階的な評価を受け、その結果をルミネの廊下まで確認しに行くような仕組みだったと本人が話しています。
なかなか上の評価へ進めず、いつしかそのネタ見せにも足が向かなくなりました。
複数のコンビでボケを続けるも結果が出ない日々
現在はツッコミのイメージが強い芝さんですが、若手時代はずっとボケ側でした。
NSCで一緒だった同級生が別の道へ進んだ後も、同期などから誘われて相方を替えながら活動を続けます。
本人が後年挙げた過去のコンビには、「ものぐさ太郎 次郎」「さきがけお洒落将軍」「一戸モーターショー」「弁天小僧」などがありました。
一つのコンビが終わると別の芸人から声をかけられ、また組むという時期が続き、芝さん自身が「この人と組みたい」と一から相方を探した経験はまだありませんでした。
23歳で一度お笑いから離れ、26歳ごろ再び相方を探し始める
NSC卒業後も思うような結果が出ないまま時間が過ぎ、芝さんは20代半ばでいったん芸人生活を止めます。
ただし、ここでお笑いとの関係が完全に切れたわけではありませんでした。
23歳で「潮時」と考え、芸人活動から離れる
芝さんは23歳ごろ、思うように上へ進めない状況から、一度お笑いを離れました。
芸人ではない仕事をしながら生活する時期に入りましたが、具体的な職種について本人が明確に公表している資料は限られているため、会社員などと決めつけることはできません。
その間も芸人仲間との関係は残っており、先輩から飲み会などに呼ばれることがありました。
舞台に立たなくなっても、お笑いの世界だけがきれいに生活から消えることはなかったのです。
芸人を辞めたまま別の生活へ進むのではなく、数年後にもう一度自分からお笑いへ戻ることになります。
「今ならウケるかもしれない」と、もう一度舞台へ戻る
お笑いから離れて数年が過ぎた26歳前後、芝さんの中に再び舞台への気持ちが生まれます。
「今ならウケるんじゃないか?」
文化放送
一度辞めた後で「もう一度やる」と決めたことが、モグライダー結成へ向かう二度目の出発になりました。
家族からは以前から、25歳ごろまでには今後を考えるよう言われていたこともあり、芝さん自身も次のコンビを何となく組むつもりはありませんでした。
ボケからツッコミへ回り、初めて自分から相方を探す
再挑戦にあたり、芝さんはそれまでやってこなかったことを試そうと考えました。
一つは、これまで続けてきたボケではなくツッコミ側へ回ることです。
もう一つは、解散後に誰かから誘われるのを待つのではなく、自分の目で相方を探すことでした。
芝さんが探していたのは、ただネタでボケられる人ではなく、そこにいるだけで何か言いたくなるような「ツッコミ代」がある人物でした。
「自分がツッコミとして面白くできそうな人」を探すという条件の先にいたのが、ともしげさんでした。
ともしげとの出会いとモグライダー結成|ライブ客席から始まった相方探し
現在の相方・ともしげさんとの出会いは、養成所の同期でも学校の同級生でもありません。
芝さんが自分の足でライブへ出向き、「この人なら」と目をつけたところから始まりました。
中野のライブでともしげを見つけ、飲み会で行動を観察する
2008年ごろ、相方を探していた芝さんは中野で行われていたお笑いライブを見に行きました。
そこで別のコンビのボケとして舞台に立っていたのが、ともしげさんでした。
客席から大きな笑いを取っているわけではないのに、舞台袖にいる芸人たちはともしげさんの動きを見て笑っており、芝さんの目に留まります。
後日ライブへ行くと、そのコンビはすでに解散していました。
ライブ後の飲み会で初めてまともに話す機会ができると、芝さんはともしげさんの食事の仕方や手元の動きまで見ていました。
普通に食事をしているだけでも周囲からツッコミが生まれる姿を見て、自分が探していた相手に近いと感じます。
ただし、その場ですぐモグライダーを結成したわけではなく、芝さんは一度、先輩から紹介された別の芸人ともコンビを試しています。
そのコンビが短期間で終わった後、改めてともしげさんと二人で会いました。
「2人でやりましょうか」
双葉社 THE CHANGE
2008年末、芝さんが自分で探した相方・ともしげさんと組むことが決まりました。
2009年の初舞台で約30組中2位、当初は芝がボケだった
二人が初めてコンビとして舞台に立ったのは、翌2009年1月ごろです。
会場はなかのZEROの視聴覚ホールで、初めて合わせたネタながら約30組の中で2位に入りました。
相方探しからやり直した芝さんにとって、新コンビの最初の舞台から目に見える結果が出ました。
ただし、このころのモグライダーは現在と役割が逆でした。
芝さんがボケ、ともしげさんがツッコミで、さまぁ~ずのようなネタを意識したこともあったと二人は振り返っています。
ともしげさんの予測できない言動を芝さんが制御していく現在のモグライダーは、結成した瞬間から完成していたわけではありませんでした。
なかのZEROで裏方もしながら舞台に立ち、約2年のフリー活動を続ける
結成後の二人は、なかのZEROで開かれるライブなどへ毎月のように出演しました。
舞台へ出るだけでなく、芝さんが照明、ともしげさんが音響を担当するなど、ライブを裏側から支える仕事もしていました。
ともしげさんが暗い音響席でスイッチを見つけられず、本来流すはずだった音を自分の声で歌ってしまったこともあったそうです。
客前で漫才をする時間と、他の芸人の舞台を裏から見続ける時間が同じライブの中にありました。
コンビ名の「モグライダー」は、芝さんが「モグラ」のような3文字の言葉を候補に出し、ともしげさんがヒーローらしい「ライダー」を加えたことから決まりました。
三四郎の紹介で2011年にマセキ芸能社へ
モグライダーは結成直後から事務所へ所属していたわけではなく、約2年間はフリーで活動しました。
そのころから交流があったのが、現在も同じマセキ芸能社に所属する三四郎です。
三四郎から紹介を受けたことをきっかけに、モグライダーは2011年にマセキ芸能社へ所属しました。
芝さんがNSCへ入ってからすでに数年が過ぎており、養成所、複数コンビ、一度の離脱、相方探し、フリー活動を経て、ようやく現在まで続く所属先へたどり着きました。
地下ライブから2014年THE MANZAIへ|芝がネタを主導する形が固まる
マセキ芸能社へ入っても、すぐに現在のような仕事量になったわけではありません。
ライブとオーディションを重ねる中で、モグライダーはネタの作り方そのものを少しずつ変えていきます。
ともしげの予測できない動きを芝が拾う現在の形へ
若手時代には短いネタを見せるテレビ番組のオーディションにも挑戦しましたが、予定どおりに進まないともしげさんの動きに苦戦することがありました。
やがて、ともしげさんがネタの進行へ細かく口を挟む形を減らし、芝さんが全体を主導するスタイルへ変わっていきます。
ともしげさんが予定外の方向へ動けば芝さんが拾い、その場で起きたことまで笑いへ変えていく形です。
結成当初とは役割もネタの進め方も変わり、現在知られるモグライダーの漫才へ近づいていきました。
芝さんがネタの主導権を強く持つようになったことが、コンビの最初の大きな変化でした。
2014年にTHE MANZAI認定漫才師となり、一度仕事が増える
その変化が結果へ表れ始めたのが2014年でした。
モグライダーはTHE MANZAI 2014の認定漫才師50組に選ばれ、テレビで見かける機会も増えていきます。
結成から約5年を経て、モグライダーが地下ライブの外でも知られ始める最初の波が来ました。
このころは漫才だけでなく芝さん自身の見た目にも注目が集まり、「かっこいい」「イケメン」と紹介される機会も出てきました。
現在も「芝大輔 若い頃」「モグライダー 芝 昔」といった形で昔の姿が注目されていますが、2014年前後は芸人人生の中でも一度露出が増えた時期にあたります。
M-1準々決勝止まりが続き、周囲の芸人が先に売れていく
ただし、2014年の勢いがそのまま大きなブレイクへ続いたわけではありませんでした。
一度増えた仕事は再び落ち着き、M-1グランプリでも長く準々決勝付近で敗退する時期が続きます。
その間、普段から付き合いのあったカミナリ、メイプル超合金、トム・ブラウン、ぺこぱなどが、賞レースやテレビをきっかけに先に知られるようになっていきました。
モグライダーは解散せずライブへ出続けましたが、結成から10年以上が経ってもM-1決勝には届いていませんでした。
コロナ禍で仕事が止まり、M-1 2021がモグライダーの仕事を変える
長い下積みの末に迎えた2020年前後、今度は舞台そのものへ立てない状況が訪れます。
ライブを中心に活動していたモグライダーにとって、コロナ禍はコンビの今後を現実的に考える時期になりました。
ライブも仕事もなくなり、二人で今後を考えた時期
ライブが中止になり、芸人としての仕事も減る中、ともしげさんが続けていたカラオケ店の仕事にも影響が出ました。
芝さんにも子どもが生まれており、芸人を続けるだけで生活を成り立たせられるのかという問題が以前より現実的になります。
二人はお金を使わず話せる場所として、昼間の公園で今後について話し合うこともありました。
同じころ、芝さんにはかもめんたる・槙尾ユウスケさんから、カレー店の新店舗で店長をしないかという話も来ていました。
子どもがいる生活を考えれば現実的な選択肢で、芝さん自身、一度は真剣に迷ったと明かしています。
「今年だけは頑張りたいので、かんべんしてください」
双葉社 THE CHANGE
別の仕事へ進む選択肢が目の前に現れた時期に、芝さんはもう一年お笑いを続ける方を選びました。
M-1開催を想定してネタを作り、2021年に初の決勝進出
コロナ禍では芸人がYouTubeや配信へ活動を広げる流れもありましたが、モグライダーは自分たちの方向を漫才のネタへ絞ります。
「そういうのはやめよう」
双葉社 THE CHANGE
M-1が予定どおり行われるか分からない時期からネタを作り、長めだった漫才を大会に合わせた時間へ収めるなど、形も調整していきました。
そして2021年、結成から10年以上を経たモグライダーはついにM-1グランプリ決勝へ進出します。
高校時代に峠の向こうの友人からM-1の録画を借りていた芝さんが、40歳を前にその決勝の舞台へ立ちました。
決勝8位からテレビ出演が急増し、2023年にもM-1決勝へ
2021年のM-1では、モグライダーはファーストラウンドで637点・8位となりました。
優勝したのは錦鯉でしたが、モグライダーにとっては優勝の有無とは別の変化が起きます。
初のM-1決勝進出を境にテレビ出演が大きく増え、芝さんとともしげさんの名前が全国へ広がりました。
それまで何年も準々決勝で止まっていたコンビが、一度の決勝をきっかけにバラエティ番組へ呼ばれる機会を増やしていきました。
さらに2023年には再びM-1決勝へ進出し、公式記録では632点・7位となっています。
2021年と2023年の結果は、M-1グランプリ公式サイトでも確認できます。
モグライダーにとってM-1は「優勝して売れた大会」ではなく、初決勝進出によって仕事の景色が変わった大会でした。
漫才を続けながら地元・松野町とも再びつながる現在
M-1以降はテレビ出演が増えたほか、芝さん個人でもPodcast、映画やドラマなど、若手時代にはなかった種類の仕事へ活動が広がりました。
一方、モグライダーとしての漫才やライブも続いており、現在のマセキ芸能社公式プロフィールにも舞台出演が並んでいます。
2024年9月には、ともしげさんとともに松野町初の応援大使に就任しました。
かつて父親が町役場で観光を担当していた松野町へ、今度は息子の芝さんが芸人として町の名前を伝える立場で戻ってきたことになります。
中学生になると同時に親元を離れ、「都会へ」と送り出された芝さんは、芸人になった後に松野町と新しい形で関わるようになりました。
愛媛の山あいで育ち、峠の向こうから借りたM-1の録画を見ていた高校生は、東京でNSCに入り、一度お笑いを離れた後に自分の手で相方を探しました。
そこで出会ったともしげさんと長いライブ時代を過ごし、結成から10年以上を経て、憧れていたM-1の決勝へたどり着きました。
現在も芝さんの活動の中心には、あの相方探しから始まったモグライダーの漫才があります。












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