人物プロフィール
2025年のM-1グランプリで、敗者復活戦を勝ち上がって決勝へ進んだカナメストーン。
ボケを担当する山口誠さんは、長くライブシーンで活動してきた芸人ですが、お笑いの世界へ入るまでの道のりは、最初から芸人一筋だったわけではありません。
山口さんは大学卒業時までサッカーでプロを目指し、実際にプロテストを受けていました。
しかも当時はM-1をほとんど知らないほどお笑いに詳しくなく、芸人になることを早くから思い描いていたのは、中学時代からの友人で現在の相方でもある零士さんのほうでした。
鹿嶋でサッカーに打ち込んでいた少年が、なぜプロへの道から方向を変え、零士さんとコンビを組むことになったのかを、幼少期から順番にたどります。
山口誠の生い立ちと家族|鹿嶋でサッカーに打ち込んだ少年時代
山口さんは1986年6月24日、茨城県鹿嶋市に生まれました。
鹿島アントラーズの本拠地としても知られる土地で育ち、山口さん自身も幼いころからサッカーのある生活を送っています。
サッカー選手だった父のもとで育ち、厳しい練習を続ける
山口さんがサッカーへ打ち込むようになった背景には、父親の存在がありました。
本人は父親について住友金属でサッカーをしていたと明かしており、カナメストーンの公式YouTubeでも「元プロサッカー選手」と紹介されています。
家でのサッカー指導はかなり厳しく、山口さんは後年、父親との関係を振り返る中で、子どものころは簡単に反抗できる雰囲気ではなかったと話しています。
「俺は親父に制圧されてたから、反抗はできなかったですね。」
松屋フーズ公式note
一方で、家庭では父親だけが厳しさを担っていたわけではなく、山口さんは父と母の役割を「アメとムチ」のようだったと振り返っています。
サッカーに関しては父親から厳しく教わりながら、家では母親を含めた家族と過ごす時間を好んでいた少年でした。
家の夕食を楽しみにしていた少年時代と母親との関係
山口さんの家庭で印象的なのが、食事にまつわる話です。
中学生になるとサッカー部の仲間たちとファミリーレストランへ寄ることもありましたが、山口さんと零士さんは家で夕食を食べるため、そこで満腹にならないようサラダ程度しか注文しないことがあったといいます。
友人たちと外にいても「家に帰って夕飯を食べる」ことを優先するほど、家庭の食事が日常の楽しみになっていました。
山口さんは母親へ多少反抗することはあったものの、それが父親へ伝わると厳しく叱られるため、家の中では父親の存在感が特に大きかったそうです。
小学生からサッカーを続け、別の少年団にいた零士の存在を知る
後に相方となる零士さんとは、小学生のころから同じ学校だったわけではありません。
2人は別々の小学校に通い、それぞれ鹿嶋市内でサッカーをしていたため、直接親しくなる前から互いの存在は知っていました。
山口さんにとって、この時期の中心にあったのはお笑いではなくサッカーです。
その関係が大きく変わるのは、2人が同じ中学校へ進んでからでした。
中学のサッカー部で零士と出会い、嫌い同士から親友へ
山口さんと零士さんが本格的に顔を合わせるようになったのは、鹿嶋市立鹿島中学校のサッカー部でした。
現在の2人からは想像しにくいものの、最初から気が合ったわけではありません。
鹿島中学校で再会するも、最初は互いを嫌っていた
零士さんは中学入学後の山口さんについて、学校の中でも特に嫌いな相手だったと自身のnoteで振り返っています。
あまりに気になったため母親へ相談したこともあったそうですが、後になって山口さん側も零士さんを嫌っていたことが分かりました。
同じサッカー部にいながら、2人は中学入学から約2年間、ほとんど会話をしないまま過ごします。
それでも部活動や学校生活の中で互いの姿は見えており、中学2年の冬になると、思いがけないところから距離が縮まりました。
中2の冬、「粉吹いてんのかよ!」を境に急接近
きっかけの一つは、当時人気だった音楽デュオ19(ジューク)でした。
2人とも19が好きだと分かり、山口さんが歌詞について零士さんへ話しかけたところから、それまでほとんどなかった会話が始まります。
一度話し始めると距離が縮まるのは早く、昼食時にスプーンを貸したり、靴へサインを書いたり、肌荒れについて言い合ったりと、細かなやり取りが一気に増えていきました。
ある冬の日、乾燥して白くなっていた山口さんの顔を見た零士さんが「粉吹いてんじゃん」と遠慮なくツッコみます。
「オレに遠慮しないでガンガン来るとこが良い」
零士公式note「山口とのコト」
それまで嫌い合っていた2人は、中学2年の冬を境に一気に親しくなりました。
後に2026年の全国ライブ名にも使われる「粉吹いてんのかよ」という言葉は、現在のカナメストーンよりずっと前、中学生だった2人の間から生まれています。
中3の文化祭で「14」を結成し、全校生徒の前でショートコント
中学3年になると、山口さんと零士さんはサッカー部のもう1人の友人を加え、文化祭でショートコントを披露します。
3人が付けた名前は「14(ジューシ)」で、当時14歳だったことと、2人が好きだった19を意識した名前でした。
舞台では山口さんが「バームクーヘン」を「バームクエヘン」と言い換え、零士さんが「じゃあ食うなよ」と返すような短い掛け合いも披露しています。
全校生徒の前で演じたコントには笑いが起こり、零士さんはこの文化祭以降、山口さんと一緒にお笑いをやりたいと強く考えるようになりました。
ただし、同じ経験をした山口さんがそのまま芸人志望になったわけではありません。
高校・大学でもサッカーを続け、プロへの道を目指す
中学校を卒業すると、2人の進路は少しずつ分かれていきます。
零士さんの中にはお笑いという将来像が残りましたが、山口さんは引き続きサッカーへ力を注ぎました。
零士がお笑いを意識する一方、山口はサッカーを選ぶ
零士さんは学生時代からM-1グランプリを見ており、タカアンドトシや笑い飯などのお笑いにも興味を持っていました。
一方の山口さんは、文化祭で人前に立った経験はあっても、その後すぐにネタ作りやお笑い活動へ進んだわけではありません。
山口さんが選び続けたのは、幼少期から続けていたサッカーでした。
中学時代には2人で「将来は何か一緒にやろう」と話し、スタイリストのアシスタントになる案まで出ていたものの、職業としてのお笑いはまだ山口さんにとって具体的なものではありませんでした。
静岡産業大学へ進学し、零士が約2週間に1度会いに来る生活
高校卒業後、山口さんは静岡産業大学経営学部スポーツ経営学科へ進学しました。
大学でもサッカーを続け、卒業時には中学校・高校の保健体育教員免許も取得しています。
零士さんは東京の大学へ進んだため生活拠点は離れましたが、2人の関係はここでも途切れませんでした。
零士さんは山口さんをお笑いへ誘い続けながら、約2週間に1回という頻度で静岡まで会いに行っていたと話しています。
山口さんによれば、零士さんはインフルエンザにかかった状態で静岡まで来たことさえあり、その際は山口さんが世話をしながら一緒に過ごしました。
大学4年間、離れて暮らしながらも「2人で遊ぶ時間」が途切れなかったことが、卒業後の進路を決める直前まで続きました。
大学卒業を前にサッカーのプロテストへ挑戦
大学卒業が近づいても、山口さんが最初に目指していたのは芸人ではありませんでした。
長年続けてきたサッカーでプロテストを受け、競技者として先へ進む可能性に挑んでいます。
零士さんは中学時代から山口さんとお笑いをやりたかったため、本人を応援しながらも、山口さんがサッカー選手になれば一緒に芸人を始められないという状況にいました。
結果は不合格でした。
ここで、それまで別々に進んでいた「山口さんのサッカー」と「零士さんのお笑い」が初めて一つの進路へつながります。
プロテスト不合格後、零士の誘いで芸人の道へ
山口さんのプロテストが終わると、何年も誘い続けていた零士さんが再び動きました。
大学卒業後の進路を決める時期に、2人の中学時代からの関係がそのまま芸人人生へ形を変えていきます。
何年も山口を待っていた零士が改めて「お笑いやろう」と誘う
零士さんは、山口さんがプロテストに落ちたことを知ると、改めてお笑いへ誘いました。
「お前もうやることないだろ、やろう」
WLUCK PARK
零士さんにとっては中学3年の文化祭以来、何年も待っていたタイミングでした。
一方、山口さんの側にも、大学時代に約2週間ごとに一緒に遊んできたことで「零士と過ごす時間は楽しい」という感覚が積み重なっていました。
サッカーのプロテスト不合格後、零士さんの誘いを受けて芸人になることを決めます。
お笑いをほとんど知らなかった山口が芸人になると決める
芸人になると決めた時点でも、山口さんは零士さんほどお笑いに詳しくありませんでした。
2026年の「ほぼ日」のインタビューでは、山口さんが大学時代までお笑いをほとんど見ておらず、M-1についても十分知らなかったことが2人の口から明かされています。
それでも芸人になることが決まると、山口さんはサンドウィッチマンの著書を購入し、コンビのあり方を学ぼうとしました。
サンドウィッチマンがコンビ内で決めていたルールを読み、自分たちの共同生活にも取り入れたといいます。
「なんでもよかったんだよ、零士とできれば。」
ほぼ日刊イトイ新聞
山口さんの場合、「昔から芸人になりたかった」というより、零士さんと何かを一緒にやることが先にあり、その選択肢がお笑いになりました。
2009年に上京し、零士との同居とNSC生活が同時に始まる
2009年、山口さんは静岡から東京へ移り、零士さんと一緒にNSC東京校15期へ入ります。
上京前から零士さんは、山口さんが東京へ来ることを見越して「少し広い部屋を探しておく」と伝えていました。
こうして芸人としてのスタートと同時に、2人の共同生活も始まります。
中学生のころに親しくなり、大学時代は離れた地域から会い続けた2人が、今度は同じ家から養成所へ通うことになりました。
NSC東京15期からカナメストーン結成へ
NSCへ入ったからといって、山口さんがすぐに舞台で結果を出したわけではありません。
授業の中心にあったネタ見せでは同期の前に立ち、作家から評価を受けながら、2人は少しずつ芸人としての時間を積み重ねていきました。
40万円の学費を3年払いにし、古着姿でネタ見せへ
零士さんの記録によると、当時のNSC東京校には約700人が入り、授業では生徒同士が見ている前でネタを披露する機会が多くありました。
NSCの学費は40万円で、零士さんは2年払い、山口さんは36回の3年払いを選んでいます。
養成所自体は1年間だったため、山口さんはNSCを卒業した後も約2年間、学費を払い続ける形になりました。
当時の2人は古着を着てネタ見せへ通い、限られたお金の中で舞台へ出る準備をしていました。
芸人生活のスタート時点から、山口さんは養成所の学費を払いながら舞台へ立つ生活を続けていたことになります。
2人で髪を刈って挑んだ勝負のネタ見せと苦い舞台
NSCでは、東京校と大阪校の選抜メンバーがネタを競う機会があり、その出演者を決める「勝負のネタ見せ」が行われました。
その前夜、山口さんと零士さんは美容室代を浮かせるため、バリカンで互いの髪を切っています。
山口さんはかなり短く刈ってもらい、翌日のネタ見せでは自分たちの出番が終わると前列に座って、これから演じる同期たちを見つめていました。
「ガンつけてネタ飛ばさせるわ」
零士公式note
結果として2人は東京対大阪の舞台へ選ばれましたが、本番ではほとんど笑いを取れずに終わりました。
NSC時代には、ネタ見せをきっかけに笹塚の劇場で行われた外部ライブにも出演していますが、若手のころは舞台で思うような反応を得られない時期が長く続きます。
「なんなら5年間ぐらい1回もウケてない(笑)。」
logirl
これは零士さんが後年、当時の長い不振を笑い交じりに振り返った言葉ですが、2人が最初から順調だったわけではなかったことが伝わります。
2010年にカナメストーン結成、「要石」からコンビ名を決める
2人は2010年にカナメストーンを結成します。
コンビ名のもとになったのは、地元・鹿嶋にある鹿島神宮の「要石(かなめいし)」でした。
零士さんの母親から「要石」という案が出たものの、山口さんが音楽グループのケツメイシに近いと感じたため、「石」の部分を英語のStoneへ変えます。
中学時代を過ごした鹿嶋にある「要石」が、2人のコンビ名「カナメストーン」になりました。
吉本退所からマセキへ|若手時代に味わった大きな挫折
カナメストーンはNSC卒業後、吉本興業で芸人活動を続けます。
しかし、舞台で少しずつ手応えを感じ始めたころ、2人の考えを変えるライブがありました。
ライブ「バスク」で街裏ぴんくの直後に立ち、一つもウケなかった
芸歴4〜5年ほどのころ、カナメストーンはライブ「バスク」へ呼ばれました。
当時の2人は以前より舞台で笑いを取れるようになり、自分たちでも少し手応えを持ち始めていた時期でした。
ところが、その日の直前に出演した街裏ぴんくさんが会場を大きく沸かせたあと、カナメストーンが舞台へ上がると、ほとんど笑いが起きませんでした。
自分たちがいた環境の外には、まだこれほど強い芸人がいることを目の前で知ります。
2人はこの経験から、吉本の中だけで活動していてはいけないと考え、退所を決めました。
吉本を辞め、マセキのオーディションに約2年間挑み続ける
吉本を離れた2人が次に目指したのが、マセキ芸能社でした。
当時、三四郎やモグライダーがTHE MANZAIなどで注目されており、2人はその環境へ入りたいと考えます。
吉本を辞めた翌月からマセキのオーディションへ参加しましたが、すぐに所属できたわけではありません。
オーディションを受け続けた期間は約2年に及び、2017年にマセキ芸能社へ所属しました。
養成所を出てそのまま一つの事務所で売れたのではなく、吉本を出たあとにも所属先を得るまでの時間がありました。
狩野英孝との出会いをきっかけに、周囲の芸人との関係が変化
若手時代の山口さんは、同期やほかの芸人と積極的に交流するタイプではありませんでした。
NSC時代から「零士と楽しいことをやっていたい」という気持ちが強く、2人ともライブ後の打ち上げなどへあまり参加せず、コンビだけで過ごすことが多かったといいます。
その空気が少し変わった時期に出会った一人が、狩野英孝さんでした。
零士さんによれば、狩野さんは当時の山口さんの尖った部分や人と距離を置くところまで面白がって接してくれたそうです。
山口さん自身も、周囲が自分たちを拒んでいたのではなく、自分から距離を置いていただけだったと気づき、少しずつほかの芸人との交流が増えていきました。
2人だけで完結していた若手時代から、ライブ仲間や先輩芸人との関係が広がっていく時期に入ります。
2020年、PodcastとM-1をきっかけに知る人が増えていく
マセキ所属後も、テレビ出演だけで一気に知名度が上がったわけではありません。
カナメストーンにとって一つの変化が生まれたのが、結成10年を迎えた2020年でした。
「カナメちゃん村」を始め、2人自身のキャラクターが知られる
2020年5月、2人はPodcast「カナメストーンのカナメちゃん村」を始めます。
漫才だけでは見えにくかった普段の会話や2人の関係性が音声で伝わるようになり、リスナーが山口さんと零士さんそれぞれのキャラクターを知る機会が増えました。
「それまでは本当に『誰も知らない』くらいの感じで。」
マイナビニュース
零士さんがこう振り返るほど、それ以前と2020年以降では周囲からの見られ方に差がありました。
M-1準々決勝敗退と零士の涙が新たな注目につながる
同じ2020年、カナメストーンはM-1グランプリ準々決勝へ進みます。
そこで敗退したあと、Podcastで大会を振り返る中、零士さんは自分のミスへの悔しさから涙を見せました。
その音声をきっかけに2人へ関心を持つ人も増え、SNSで名前を見かける機会がそれまでより増えていったと本人たちが話しています。
2020年は、Podcastで2人の人柄が知られ始めた時期と、M-1で漫才そのものが注目された時期が重なりました。
ライブ・ラジオ・YouTubeを通じて支持を広げる
その後は漫才ライブに加え、PodcastやYouTube「しゃれこめカナメストーン」など、自分たちの会話や企画を届ける場所も活動の一部になっていきました。
中学生のころから2人だけで遊んできた関係性が、そのままトークコンテンツとして見えるようになった形です。
賞レースでも2023年、2024年とM-1準決勝へ進み、2020年の準々決勝から数年をかけて、決勝が見える位置まで進んでいきました。
山口さんの独特な言葉や行動を零士さんが受け止めて返す現在の関係は、中学時代に山口さんが「遠慮せず来るところが良い」と感じたころから長く続いています。
長い芸歴の先で迎えたM-1ラストイヤー
2020年以降、少しずつ名前を知られるようになったカナメストーンは、結成15年となる2025年にM-1のラストイヤーを迎えます。
その前年には、山口さん自身の活動を一時止める出来事もありました。
2024年、唾液腺の摘出手術で5日間入院
2024年4月、山口さんは唾液腺の摘出手術を受けるため入院しました。
本人のXでも手術前日の入院について投稿しており、零士さんが病院まで付き添っていたことが分かります。
公式Podcastの退院回では、5日間入院していたことが説明されています。
公表されている公式説明で確認できるのは唾液腺の摘出手術と入院についてで、病名をそれ以上特定する内容ではありません。
2025年、敗者復活からM-1決勝へ進み7位
2025年、カナメストーンはM-1グランプリのラストイヤーに挑みました。
しかしストレートで決勝へ進んだわけではなく、敗者復活戦へ回ります。
21組が出場した敗者復活戦を勝ち抜き、最後の挑戦で初めてM-1決勝の舞台へ進出しました。
決勝では830点を獲得して7位となっています。
中学3年の文化祭で初めて一緒にコントをした2人が、そこから20年以上を経てM-1決勝へ立つことになりました。
M-1後には仕事の環境も変わり、決勝翌日には零士さんが初めてコンビに担当マネージャーが付いたことをXで報告しています。
2026年のインタビューでも、以前より仕事が増えて家で一緒に過ごせる時間が減ったことを2人が話しており、決勝進出後の変化は日常にも及んでいます。
17年続く零士との共同生活と、2026年の現在
2009年に山口さんが上京して始まった零士さんとの同居は、2026年時点で17年に達しています。
2人はこれまで一度も本格的に同居をやめようと考えたことがないと話しており、仕事場だけでなく生活の場も長く共有してきました。
2026年には全国ライブ「粉吹いてんのかよ」を開催し、東京、大阪、福岡、札幌、仙台などを回り、9月以降も公演が予定されています。
そのタイトルになった言葉は、まだ芸人でもなかった中学2年の冬、零士さんが山口さんへ放った最初期のツッコミの一つでした。
サッカーのプロを目指していた山口さんが芸人になった直接の転機は、プロテストの不合格と、何年も待っていた零士さんからの誘いでした。
鹿嶋でサッカーに打ち込んでいた少年時代を経て、中学で親しくなった零士さんと東京へ出た山口さんは、舞台で笑いが取れない時期や事務所移籍を経験しながら漫才を続けてきました。
そして現在も、芸人になる前から続いていた2人の関係のまま、カナメストーンとして舞台に立っています。












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