人物プロフィール
2025年の「M-1グランプリ」で初めて決勝へ進み、漫才コンビ「めぞん」の名前を全国へ広げた原一刻さん。
舞台では大きな声で吉野おいなり君さんの世界観を受け止めていますが、芸人になる前は日野自動車でトラックの衝突試験に携わっていました。
しかも高校卒業後に東京で働こうと考えた理由の一つは、休日にお笑いライブへ足を運びやすい場所で暮らしたかったからでした。
その背景には、宮崎で家族とお笑いDVDを見たり、東京への家族旅行でルミネtheよしもとへ通ったりしていた子ども時代があります。
宮崎でお笑いを楽しんでいた少年が、会社員生活を経てNSCへ入り、吉野さんと出会って「めぞん」になるまでを順番にたどります。
原一刻の生い立ちと家族|宮崎市で3兄弟として育つ
原一刻さんは1994年7月22日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは宮崎県宮崎市出身とされています。
18歳まで宮崎市で暮らした原さんの子ども時代には、家族でお笑いを楽しむ時間が日常の中にありました。
小学6年生で両親が離婚、母が3兄弟を育てる
原さんが小学6年生のころに両親が離婚し、その後は母親が3兄弟を育てました。
この家族構成は、2026年に原さんの地元・宮崎を訪れたABCテレビ「相席食堂」でも紹介されています。
成人して芸人の道へ進むことを決めたときも、家族から強く止められたわけではなく、原さん自身によれば20歳を過ぎていたこともあり、本人が選んだ道として受け止めてもらえたそうです。
家族みんながお笑い好き、車内では兄弟でDVD
原家では、原さん一人だけがお笑いに夢中だったわけではなく、家族みんながお笑い好きでした。
車で遠出するときには、兄弟3人で車内のお笑いDVDを見て過ごしていたと原さんが後年のインタビューで明かしています。
テレビでネタを見るだけではなく、家族で劇場へ出かけるほどお笑いが身近な家庭だったことが、原さんの幼少期を知るうえで印象的な部分です。
家族旅行で通ったルミネtheよしもと
原家では年に一度ほど東京へ家族旅行をすることがあり、その際にはルミネtheよしもとでお笑いを見る日を確保していました。
九州から東京まで来て、トータルテンボスやチュートリアルなど、M-1でも活躍していた芸人たちの漫才を客席から見ていたと原さんは振り返っています。
当時の原さんにとってルミネは、自分が出演する劇場ではなく、家族旅行で楽しみにしていた「お笑いを見る場所」でした。
小中学校から佐土原高校時代|M-1に憧れ、5つの部活を経験
家族と一緒にお笑いを楽しんでいた原さんは、小学校高学年になるころには好きな芸人もはっきりしていきます。
一方で、学生生活では一つのことだけに打ち込むタイプではなく、興味の向く先を何度も変えていました。
小6〜中1でトータルテンボスに憧れる
原さんがお笑いを強く意識するようになったのは、小学6年生から中学1年生ごろでした。
当時から「M-1グランプリ」をよく見ており、その中でも特に好きだったのがトータルテンボスです。
ネタのおもしろさだけでなく、芸人としての姿を「かっこいい」と感じていたことを、2026年のインタビューで語っています。
ただし、この時点で「自分も芸人になる」と進路まで決めていたわけではありませんでした。
お笑いへの憧れはありながら、自分が実際に芸人になれるとは考えていなかったという距離感のまま中学・高校時代へ進んでいきます。
ラグビー、野球、空手、ロボコン、演劇と部活を転々
原さんの学生時代で目を引くのが、中学・高校の6年間で5つの部活動を経験したことです。
中学ではまずラグビーを始めたものの半年ほどで辞め、その後は野球へ移りました。
高校に入ると空手を始めますが約1年で辞め、続いてロボコン部へ入り、こちらも半年ほどで離れたあと演劇部へ進んでいます。
「学生のころも中高の6年間で部活を5個やってるんです」
QJWeb
後年、長く熱中したものについて尋ねられた原さん自身が、この5つの部活を例に挙げています。
ラグビーや野球などの運動部から、ロボコン、さらに演劇まで経験しており、学生時代にはかなり幅広い場所を行き来していました。
佐土原高校では文化祭でネタも披露
高校は宮崎県立佐土原高等学校へ進みました。
勉強については本人が「好きではなかった」と話しており、高校3年間は友人と遊んだり、部活動をしたりして過ごしていました。
一方で、お笑いは見るだけではなくなっており、高校の文化祭では人前でネタを披露しています。
家族が後に原さんの芸人転身を聞いても大きく驚かなかった理由として、本人もこの文化祭での経験を挙げています。
大学進学ではなく東京での就職を選ぶ
高校3年生になり進路を決める時期が来ても、原さんの中にはお笑いへの憧れが残っていました。
しかし、ここで芸人や養成所を選んだわけではなく、大学進学でもなく就職を選びます。
そこで考えたのが、地元を離れ、お笑いライブへ行きやすい東京で仕事を見つけることでした。
こうして高校卒業後、原さんは宮崎から東京へ移り、日野自動車で働き始めます。
高校卒業後は日野自動車へ|お笑いを見るため東京で働いた会社員時代
東京へ出た原さんが最初に過ごしたのは、芸能界でも養成所でもなく自動車メーカーの職場でした。
しかも担当したのは、一般的な事務や営業ではなく、完成したトラックを実際にぶつけて安全性を調べる仕事でした。
トラックの衝突試験を担当した3年弱
日野自動車で配属されたのは、トラックの衝突試験を行う部署でした。
原さんは特別な自動車好きだったわけではありませんが、最初のころは実際に車両を衝突させる試験そのものに新鮮さを感じていたそうです。
テレビ番組の大がかりな実験を見るような感覚もあり、入社当初は仕事をおもしろく感じていました。
ところが1年ほど経つと作業にも慣れ、さらに2年ほど過ぎたころから「このままでいいのか」という感覚が出てきます。
高校卒業後から3年弱、芸人とはまったく違うトラックの衝突試験に携わっていたことになります。
休日はお笑いライブと音楽ライブへ
平日は会社員として働いていましたが、休日になると原さんはお笑いライブや音楽ライブへ足を運んでいました。
そもそも東京で就職した理由の一つがライブへ行きやすい環境だったため、高校時代から持っていたお笑いへの興味が就職によって消えたわけではありませんでした。
宮崎では家族旅行のときにしか行けなかった東京の劇場が、会社員になったことで休日に自分で足を運べる場所へ変わっていました。
仕事そのものに慣れていく一方で、休みの日には自分が好きだったライブを見に行く生活が続いていきます。
21歳ごろ「後悔しないように」と会社を辞めNSCへ
会社員生活が2年を超えたころ、原さんは仕事を続けることに違和感を覚えるようになります。
そのまま働き続ける道もありましたが、21歳ごろ、自分が一度は憧れたお笑いに挑戦することを選びました。
失敗する可能性があっても後悔しないようにと日野自動車を退職し、東京NSCへ入学します。
家族はこの決断に強く反対せず、高校時代から人前でネタをしていたことや、家族全員がお笑い好きだったこともあり、大きな驚きもなかったといいます。
子どものころから見ていたお笑いが、この時点で初めて「見るもの」から自分の仕事の候補へ変わりました。
東京NSC22期へ|別の相方を経て吉野おいなり君と出会う
会社を辞めて原さんが入ったのは東京NSC22期で、そこで同じ22期生だった吉野おいなり君さんと知り合います。
ただし、入学してすぐに現在の2人がコンビを組んだわけではありませんでした。
最初はそれぞれ別のコンビで活動
NSC在学中、原さんにも吉野さんにも、それぞれ別の相方がいました。
その後、両者のコンビが解散して相方のいない状態になり、ピンで授業を受ける時期が訪れます。
当時の2人はNSC内の選抜クラスで常に目立っていた存在ではなく、後年も自分たちを「優等生ではなかった」と振り返っています。
現在のように吉野さんがネタを書き、原さんが横で受ける形が最初から完成していたわけではありませんでした。
「組むなら吉野がいい」と言った翌日に別コンビを結成
NSCには、相方のいない生徒同士が交流する「相方探しの会」がありました。
原さんと吉野さんを含む5〜6人ほどで食事をした帰り、方向が同じだった2人は一緒に歩くことになります。
その道中で原さんは、吉野さんをおもしろいと思っていることや、コンビを組むなら吉野さんがいいという気持ちを伝えました。
ところが翌日、吉野さんがNSCへ行くと、原さんは別の生徒とコンビを組んでいました。
原さんによれば、その日に連絡先を交換した一人から積極的に連絡が来たため、流されるような形で一度組んでみることになったそうです。
そのコンビも長くは続かず、再び相方のいない時期を迎えました。
2人とも即興ピンネタで大スベり、「1人は怖い」から現在のコンビへ
現在のコンビへ動くきっかけになったのは、NSCのネタ見せの授業でした。
原さんも吉野さんもその日のネタを用意しておらず、自分たちまで順番が回ってこないことを期待して列の最後へ並びました。
ところが、その日に限ってネタ見せが順調に進み、2人にも出番が回ってきます。
それぞれ即興でピンネタを披露したものの、2人とも強烈にスベり、一人で舞台へ立つ怖さを味わいました。
「滑るならせめて誰かと一緒に」
マイナビニュース
「一人でスベるのは怖い」という経験が、原さんと吉野さんが一緒に活動する方向へ進むきっかけになりました。
最初から互いを唯一の相方として選んだのではなく、別コンビと解散、相方探し、ネタ見せでの失敗を経て現在の2人になったという結成までの流れがあります。
めぞん結成|コンビ名と「原一刻」という芸名が決まるまで
ようやく2人で活動を始めることになったものの、次に必要だったのがコンビ名でした。
現在では定着している「めぞん」と「原一刻」という名前も、かなり偶然の要素が重なって決まっています。
「ドリルマスター」から漫画『めぞん一刻』を見て「めぞん」へ
コンビ名を考える段階で、原さんから吉野さんへ送られてきた候補の一つが「ドリルマスター」でした。
吉野さんは別案を考えようとし、そのとき自宅の本棚に置かれていた高橋留美子さんの漫画『めぞん一刻』に目を留めます。
そこから作品名の前半を取って、コンビ名は「めぞん」になりました。
M-1グランプリ公式では2016年6月9日結成と記録されていますが、吉本興業公式プロフィールには「2017年4月1日」と別の日付も掲載されています。
少なくとも2人が東京NSC22期の在学中から一緒に活動を始めていたことは、本人たちのインタビューでも確認できます。
ダーツに負けて「一刻」を名乗ることに
「めぞん」というコンビ名が決まったあとも、原さんの芸名はまだ現在の形ではありませんでした。
NSC卒業のころ、2人は「どちらか負けたほうが『一刻』を名乗る」という罰ゲームのような勝負をすることになります。
競技はダーツでしたが、吉野さんはダーツ経験者だったのに対し、原さんはほとんど経験がない状態でした。
それでも勝負を受けた原さんが敗れ、「一刻」を付けて原一刻を名乗ることになりました。
「当然負けて、一刻を名乗ることになりました」
ENCOUNT
漫画『めぞん一刻』から付いたコンビ名の後半が、ダーツ勝負を経て原さんの芸名になったという順番です。
吉野がネタを書き、原が受け止める現在の関係へ
めぞんでは、現在吉野さんが主にネタを書き、コンビの方向性も決める形になっています。
原さんは吉野さんが考えた形を舞台で成立させる側に回ることが多く、本人たちもコンビの決定権が大きく吉野さん側にあることをたびたび話しています。
以前「普段ネタを書かない側がネタを書く」というライブ企画で原さんが台本を担当した際には、本番2週間前になっても「ミルクと言いながら揺れる」というアイデアしか形になっていなかったこともありました。
最終的には吉野さんや同期にも手伝ってもらって完成したものの、本番では思うような結果にならず、その経験以降、原さんは吉野さんが出す案をまず舞台で試す姿勢がより強くなったと話しています。
吉野さんが次々にアイデアを出し、原さんがその世界へ付き合っていくという現在のめぞんの関係は、若手時代の試行錯誤の中で固まっていきました。
若手・下積み時代|月2〜3本の舞台とアルバイト生活
コンビを組んだからといって、すぐに劇場の中心メンバーになったわけではありません。
NSC卒業後もしばらくは、ライブよりアルバイトに使う時間のほうが長い時期が続きました。
選抜ではなく、劇場でも下の位置からスタート
原さんは後年、自分たちについてNSC時代から優等生ではなかったと話しています。
養成所の選抜クラスへ常に入っていたわけではなく、その後の劇場のピラミッド型の仕組みでも下の位置にいる時期がありました。
それでも原さんは、芸人を辞めようと考えたことは「ないかもしれない」と話しており、結果が出ない時期にも同期たちと過ごしながら芸人生活を続けていました。
当時のめぞんは、後のM-1ファイナリストという立場からはかなり離れた場所で舞台経験を重ねています。
ラーメン店で働きながら舞台へ
仕事が少なかった時期の原さんを支えていたのがラーメン店のアルバイトでした。
本人のnoteでは「ラーメン屋で6年バイトしてた」と振り返っており、かなり長い期間、芸人活動と飲食店の仕事を並行していたことが分かります。
めぞんとして吉本のライブへ出られるのは月に2〜3本ほどで、それ以外の時間はほぼアルバイトという時期もありました。
日野自動車を辞めてお笑いの世界へ入ったあとも、すぐに芸人の収入だけで生活できたわけではありませんでした。
板橋ハウスのヒットで月20本ほどまでライブが増加
仕事量が変化し始める一つのきっかけになったのが、吉野さんが参加する「板橋ハウス」でした。
吉野さん、ピュートの竹内智也さん、軟水のつるまるさんによるルームシェアから生まれた活動で、2020年末からTikTokなどへ動画を投稿するようになります。
動画が広がり始めると吉野さんの知名度が上がり、その流れの中でめぞんにも劇場から声がかかる機会が増えていきました。
原さんも無関係だったわけではなく、コロナ禍に給付金で購入したパソコンを使って独学で動画編集を覚え、板橋ハウスの動画編集を担当するようになります。
月2〜3本ほどだった吉本のライブは、板橋ハウスが注目されたあとには月20本ほどへ増えていきました。
アルバイト中心だった生活の中に、舞台へ立つ時間が一気に増えていった時期です。
2023年に手応え、2024年M-1は2回戦敗退
舞台数が増える中、吉野さんは2023年ごろから漫才がおもしろくなっているという手応えを感じていました。
2023年のM-1では3回戦まで進み、周囲の芸人からも翌年はさらに進めるのではないかと言われるようになります。
ところが2024年のM-1は2回戦敗退でした。
自分たちが感じていた漫才の手応えと大会結果が合わず、吉野さんにとっては厳しい結果になりました。
ただ、その2024年はM-1だけで終わった年ではなく、秋になると別の舞台で結果が出始めます。
ラフターナイトからM-1へ|結果が変わり始めた2024〜2025年
M-1で2回戦敗退を経験した2024年後半、めぞんはTBSラジオの若手芸人発掘番組で結果を残します。
ここから約1年の間に、それまで越えられなかった賞レースの壁を続けて突破していきました。
2024年ラフターナイトで「今週の1番」、マイナビ賞へ
2024年10月11日放送のTBSラジオ「マイナビ Laughter Night」で、めぞんはリスナー投票や審査を経て「今週の1番」に選ばれました。
その結果、11月の第10回チャンピオンLIVEへ進出します。
年間王者はかが屋でしたが、めぞんは特別賞のマイナビ賞を受賞し、サイコロで決まった賞金20万円も獲得しました。
M-1で2回戦敗退した同じ年に、別の大会では決勝の舞台と受賞を経験したことになります。
2025年ツギクル芸人グランプリ決勝進出
2025年に入ると、めぞんはさらに「ツギクル芸人グランプリ2025」決勝へ進みます。
6月28日に行われた決勝大会には15組が出場し、めぞんはBグループでネタを披露しました。
ファイナルステージ進出は逃しましたが、前年まで大きな賞レースの決勝経験がほとんどなかった2人にとって、ラフターナイトに続いて全国規模の大会で決勝へ進んだ時期でした。
その一方で、2人は2025年のM-1に向けて一本の漫才を細かく作り直していきます。
吉野さんは同じネタについて50人ほどの芸人へ意見を聞いたと明かしており、言葉や動きを少しずつ調整しながら予選へ臨みました。
前年2回戦敗退からM-1初決勝へ
2025年のM-1では、それまで一度も越えたことがなかった準々決勝を突破し、さらに準決勝も通過しました。
前年は2回戦敗退だったため、原さん自身も当初は「まず2回戦を越えて準々決勝へ」という感覚だったと話しています。
「決勝まで来られるとは思っていなかった」
M-1グランプリ公式サイト
2025年、めぞんは結成以来初めてM-1グランプリ決勝進出を決めました。
決勝ファーストラウンドでは820点で10位となり、最終決戦進出には届きませんでしたが、原さんが子どものころから見ていたM-1の決勝に自分たちが出場するところまで進みました。
原さんは公式インタビューで、それまで同世代と比べても決して順調ではなく、この決勝進出が自分たちにとって最初の大きな「万歳」かもしれないという趣旨の話もしています。
NSCの選抜や劇場ランキングで上位を歩いてきたわけではない2人が、結成約9年で初めてM-1決勝へ届いた瞬間でした。
M-1後の原一刻|宮崎への凱旋と憧れのルミネ単独
M-1決勝を境に、原さんの日々の仕事にも目に見える変化が出ました。
同時に、宮崎で過ごした学生時代や家族、子どものころ客席から見ていた劇場と、現在の活動が再び交わる出来事が続きます。
仕事が夕方中心から「朝から晩まで」に変化
M-1以前の平日は、早い仕事でも夕方のライブからということが多く、朝の仕事は主に土日でした。
決勝進出後は平日の午前中から、それまで経験していなかった種類の仕事が入るようになりました。
「最近は朝から晩までお仕事を入れていただいています」
ワラパー
M-1後には大きな会場で漫才をする機会も増え、原さん自身も2000人規模の会場でネタをする経験について話すようになりました。
一方で、めぞんの漫才は2人とも大きな声を出す場面が多く、会場が大きくなっても力を抜かずに演じるスタイルを続けています。
宮崎へ戻り、母校と実家を訪れる
2026年には「相席食堂」のロケで、めぞんとして原さんの地元・宮崎を訪れました。
学生時代に利用していた店を訪ねたほか、母校の宮崎県立佐土原高等学校にも戻っています。
その後は実家を訪れ、母親が原さんの好物だったコロッケを含む料理を用意して迎えました。
M-1決勝の漫才をどう見たか聞かれた母親の答えは、非常に短いものでした。
「面白かった!」
ABCマガジン
小学6年生のころから母親と兄弟で生活し、家族でお笑いDVDを見ていた原さんが、M-1ファイナリストになったあとに芸人として宮崎へ戻ることになりました。
子どものころ家族で通ったルミネで初単独ライブ
2026年5月24日、めぞんはルミネtheよしもとで単独ライブ「吉野原ペアvs地獄の三人衆」を開催しました。
458席の劇場チケットは完売し、2人にとってそれまでで最大規模の単独ライブとなりました。
原さんにとってルミネは、芸人になってから初めて知った劇場ではありません。
宮崎で暮らしていたころ、年に一度ほどの家族旅行で東京へ来ると、家族そろって客席から芸人たちを見ていた場所です。
子どものころ家族旅行で客席に座っていたルミネtheよしもとで、2026年には自分たちの単独ライブを開催するところまで時間が進みました。
宮崎からお笑いを見に来ていた場所が、原一刻さん自身が漫才をする舞台になりました。
その後の2026年7月には、以前から声が思うように出ない日が続いていたとして、原さんが声帯結節の手術を受けることも公表しています。
8月3日から約1か月仕事を休む予定を明かし、理由については漫才を万全な状態で続けるためだと説明しました。
「万全の状態で漫才がしたい」
ENCOUNT
宮崎で家族とお笑いを見ていた少年時代から、東京でトラックの衝突試験をしていた会社員時代を経て、原さんは21歳ごろに自分も舞台へ立つ道を選びました。
NSCで吉野おいなり君さんと出会い、月に数本のライブとアルバイトを続けた時期の先に、2025年のM-1決勝がありました。
そして現在の歩みの中には、子どものころ家族で客席から見ていたルミネtheよしもとへ、めぞんとして戻ってきた時間も重なっています。












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